▶イマジン

市川裕司|「イマジン」発起人・主宰、美術制作家 2012年5月1日

制作において私の場合「日本画」を媒体に思考することで、作品が転位するようになりました。そうしたこともあり他者の中にある「日本画」の認識にも興味が湧き、これを多くのケースとともにこれから「日本画」に関わる作家たちと考えてみたいと思うに至りました。
この機会を制作行為という創造に対し、まだ実在していないことを思い浮かべる「想像」から「imagine」=「イマジン」と名付け活動を開始していきます。

「イマジン」の活動として、まず、作家表現の発表や展覧会という視点から考えてみました。展覧会の形式を考えるのであれば、まず実作品をいかに提示するか、また特定の企画を表すためにいかにマッチした作品を選定するかが骨格となるでしょう。しかし、新作だけではなく旧作の展示を含むものや、複数作家による発表などに見られますが、それぞれの作品の性質が異なることがままあります。したがって、それを部分的に括ることは、作品に特別な価値を設けるという側面もある一方で、作家の意図や作品性を大きく離れ、望ましく思えないこともあるでしょう。第一、実作品で展覧会を行うという行為は、現実にさんざん行われていることでもあり、あえて今回の活動で「想像」すべきことからは外したいと思います。
ならばと、あまのじゃく的に実作ではない作家表現を考えると、言葉があります。作品には往々にしてタイトルがつけられ、作品についてのテキストが付随することもあるでしょう。それは具体的であることもあれば抽象的であることもあり、作家本人ではなく、第三者によって寄せられることもあります。言葉がきわめて重要な役割をはたし、言葉とセットになることによって、作品として成立する場合もあるでしょう。とはいえ、言葉だけが自立し、作家の発表・展覧会の対象となることは稀です。論文や詩などであれば話は別ですが、それは誰もが該当する訳ではなく、美術作家の専門外へ嵌ってゆく可能性がありますし、苦し紛れに独り歩きした言語・活字化にも抵抗があります。
そこで、実作と言葉の中間的な存在、表現と思考の間にある“整理されていないカタチ”に注視してみるのはどうでしょうか。例えるならスケッチブックに描かれた端的なコトバや、形になっていないドローイングのようなもの。制作ノート的なものにそれぞれの作家が作り上げるカタチのエッセンスがあり、その提示は興味深い対象になり得るのではないでしょうか。そして敢えてトピックスは「日本画」とすることで、作家の内にあると思われる「日本画」を、表現と思考の間にある混沌とした状態のまま提示し、作品に準ずる扱いをすることはできないでしょうか。そして「日本画」を普遍的な捉え方ではなく、よりパーソナルな観点から認識することで、表現の深度や多様性に繋げていくことはできないでしょうか。
こうした“整理されてないカタチ”である制作ノートを多くの作家に提示していただき、お題となった「日本画」をアーカイヴとして蓄積してゆきたいと思います。この制作ノートを、作家の内側や「日本画」の引き出し、また手軽に閲覧する意味合いから「drawer」(引き出し)と呼びます。


小金沢 智|「イマジン」主宰、日本近現代美術史 2012年5月1日

市川裕司の言う〈「日本画」を媒体に思考する〉とはどういうことでしょうか?
よくわからないとしたら、それは市川の作品が彫刻的な外観をし、インスタレーションの要素を多分に備えていることが理由の一つでしょうが、そもそもの発生の段階から「日本画」が明確な姿形をしていないということも大きいのではないでしょうか。「日本」という国名を冠しつつもなんだかぼんやりとしたその言葉は、今や美術の一ジャンルとしてすっかり市民権を得ている(ように思える)にもかかわらず、定義することの困難さとともにあります。すなわち、それははたして技法の問題なのか、日本絵画のコンテクストの問題なのか、教育の問題なのか、精神の問題なのか、ということです。

「もういいだろう、「日本画」についてそんなこと考えなくても。その問題提起は終わった問題をぶり返しているだけだ。」

きっとそうなのでしょう。賢明な人たちはそうやって、既に十分に検討されたと思われるその問題を、「終わったこと」と見なして先に進みます。

けれども私たちはまだそれにこだわります。なぜならそれは「彼ら」にとって検討された問題であっても、自分たちにとってはまだ考えるべき余地があるように思えるからです。
それは「日本画」を定義づけたいということではなく、あくまでニュートラルに「日本画」の多様性を見たいということです。「日本画」という言葉が、ただある一つの意味を担う狭量なものではなく、また、それを「超える」とかそれが「死んだ」とかそういう漠然としたレトリックではなくして、個々の作家にとって大なり小なりその差はあるにせよ、表現が実に多様化しているこの現代において、具体的な創作の根本においてどう作用しているか(あるいはしていないのか)、それを検討したいのです。

「日本画」について思考することが、作家であれば制作にあたり、また受け手にとっては鑑賞するにあたりポジティブに作用するなら、それは少なくとも死んではいない、今なおアクチュアルな意義があることであると考えます。「日本画」に関係する作家の思考の一端を、制作ノート=「drawer」(引き出し)という形をとり、ここにアーカイヴしたいと考える所以です。


                             
[往復書簡]
2012年5月
往復書簡:「イマジン」のはじまりとこれから(前編) 

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