2015年12月7日月曜日

レビュー|Liquid Pop: pop and abstraction フランシス真悟・Jimi Gleason・Joe Goode

展覧会名|Liquid Pop: pop and abstraction フランシス真悟・Jimi Gleason・Joe Goode
会期|2013年 1月11日(金)~ 2月16日(土)
会場|KOKI ARTS


執筆者|宮田 徹也



fig.1 ジョー・グード展示風景 提供:KOKI ARTS

会場であるKOKI ARTSは国内外の優れた作品を独自の企画で展覧している。「Liquid Pop: pop and abstraction」もその一つで、カルフォルニアの世代の異なる三者による時間軸の曲線を描いた。それは特にジョー・グードである。フランシス真悟・Jimi Gleasonの作品も当然優れていたのだが、ここでは展覧会の意図とは別に、ジョー・グードの作品を考えてみたい。

KOKI ARTSのwebによると、ジョー・グード「1960年代初頭にロサンゼルスでアートの世界の先駆者となった一人である」(http://www.kokiarts.com/exhibitions/2013/liquid-pop/)。60年代のロサンゼルスといえば「ロサンゼルス・ルック」と呼ばれる工業素材を用いた立体作品が美術史で知られているが、ポップアートも盛んであったという意見もある。

fig.2 ジョー・グード出展作品 提供:KOKI ARTS

ここに並ぶジョーの作品に目を投じると、2010年に制作したサインを確認することができる。発展史観に陥りがちな美術からの見解から逃れれば、現代美術の本質「いま、ここ」が連続していることが窺える。それは躍起になって「新しい作品」を生み出そうとする」作家にも当て嵌まる。自己のテーマを果てしなく追求することの意義を見詰めなおすべきである。

fig.3 ジョー・グード出展作品 提供:KOKI ARTS

それだけではない。ジョーはポップアートを深化しているのだ。まず注目すべきは描かれている牛乳瓶であろう。A・ウォーホルを模倣するのではなくパロディーにするのでもなく、ポップアートが主題とした本質である「日頃目にするモノ」の主題を続けることに、翻ってこの牛乳瓶が背負う時代と時間が永続するのだ。

次に目に映ってくるのは、牛乳瓶を覆う、または彩る色彩である。牛乳瓶の存在を際立たせているのか、隠しているのか。そのどちらかが問題なのではない。重要なのは、存在とは単一で有ることは不可能であり、何かしらの関連性に従属する点を教えてくれる。それは日本の蒔絵の技法すらも参照にしているのであろう。アメリカ抽象表現主義にも見られない発想であろう。

そして私が特筆したいのは、作品のサイズの小ささである。この小さな画面の中に、日常があり、日常とは連続することよって歴史にならず、常に過去か未来に進んでいることが理解される。それは徹底的に日常のみに回帰している。この特定の場所が地域、アメリカ、世界と広がってしまうのであれば、その本質は歪められ、制作の意図が変化してしまう。

ジョーは工業素材、巨大化、複製化というポップアートのお約束を突き破り、ポップアートという名の美術の根底に辿り着こうとしているのだ。このほどの優れた作品が、日本で全く紹介されていない動向に疑問を呈するべきであろう。海外の流行をミーハーに追い続け、消費してしまう姿は自国の現代美術に対する態度に直結する。現代美術は商品ではない。思想なのだ。

ジョーの作品と触れ合うことにより、ポップアートの意義と真髄に対して考察する機会に恵まれる。同時に、我はこのような機運を逃してはならないことも教えてくれる。著名なアーティストばかりに目を向けていると、作品の本質に何時になっても到達しない。目の前にいる優れた作品から学ぶことは沢山ある。「いま、ここ」の今とは目の前の世界であり、ここであることを忘れてはならない。

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