2015年12月5日土曜日

レビュー|吉田卓史展

展覧会名|吉田卓史展
会期|2012年 12月10日(月)~ 2月19日(水)
会場|ギャラリーSHIMIZU


執筆者|宮田 徹也




fig.1 2012年吉田卓史展展示風景 提供:ギャラリーSHIMIZU

久々に力のある作品に巡り会った。吉田 卓史(ヨシダ タカシ)は1979年和歌山生まれ、東洋美術学校絵画科卒業。東京・神楽坂等で個展活動しながら、2006年にプラハ、2008年、2012年にはマドリードへ。いずれもデッサンの勉強で渡欧であると、ギャラリーSHIMIZUの方から教わった。

fig.2 2012年吉田卓史展展示風景 提供:ギャラリーSHIMIZU

吉田はこの展覧会に大小15点を出展したが、圧巻なのは1510×1680mmの大型作品群である。強大な画面に顔だけが描かれている。それぞれディフォルメされるのでもリアリズムを突き詰めるのでもなく、独自の様相を呈している。その筆跡が速い速度を物語る。ニューペインティングからマルレーヌ・デュマス、果てはストリート絵画を想起するが、何れにも当て嵌まらない。


fig.3 2012年吉田卓史展展示風景 提供:ギャラリーSHIMIZU

当て嵌まらないのは速い速度の筆跡だけではない。独特な色彩感覚に満ち溢れている。この色彩により、作品は更なる特殊性が強調される。色彩が強い作品とはモノクロームにすると濃淡が明確になり、作家が構築しようとする世界の意図を垣間見ることができる。しかし吉田にこの方法は通用しない。この色でなければならないのに、この色でなくともよい性質を持つ。

私は色を入れ替えても作品が通用することを知らせたいのではなく、それ程描かれる色彩そのものが見たことの無い光を放っている点に注目している。それを単純にスペインの輝きであると還元することはできない。スペイン在住の多くの作家に共通する発想を、吉田は携えていないからだ。吉田はスペインと日本を往復して、自己の色彩に辿り着いたのであろう。

fig.4 2012年吉田卓史展展示風景 提供:ギャラリーSHIMIZU

吉田はデッサンの勉強のため、スペインに渡っている。会場にはデッサンが入ったファイルが幾つも置かれてあった。その一つ一つのデッサンにも、それぞれの魅力が沸き立っていた。しかし吉田は繰り返すデッサンをそのまま大作に反映させていない。描くためのデッサンではなく、人間の存在を確認するためのデッサンであることは、一目瞭然なのである。

それならなぜ吉田はデッサンをし、大作を描くのか。すると吉田の作品群が、従来の日本の美術の定義に沿わなくなる。それが吉田の魅力である。日本の根底に流れている暗黙の了解である美術作品の定義など、何の根拠も存在しない。それは翻れば他国には通用しないのだ。

吉田はあらゆる派閥や団体に属さず、自らの力で自らの方法を探っている。このような当たり前の行動こそが、現代美術なのではないだろうか。不思議なことに、吉田が描く顔に吉田の自画像は含まれていない。あくまで、個人のパーソナルが描かれている。それは、吉田がイコンを描こうとしていない点にあるのかも知れない。

普遍的なイコンでも、個人的な肖像画でもない、絵画の有り様。吉田はこのサイズで描き続ける必要がある。それが吉田の特質といなっているからである。この作品群が何百も並ぶその先に、自画像ではない吉田の本質が立ち昇っていく筈だ。無論、これは私の発想であり、吉田は自分がやりたいようにすればいい。私の文章を読んだ者達も、好きに発言すればいいのだ。

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