2015年12月11日金曜日

レビュー|【北村さゆり展】―陽に“タチドマル”―

展覧会名|【北村さゆり展】―陽に“タチドマル”―
会期|2013年1月27日(日)~2月9日(土)
会場|シルクランド画廊


執筆者|宮田 徹也


fig.1 【北村さゆり展】—陽に“タチドマル”—展示風景  提供:北村さゆり

北村さゆりは1960年、静岡県生まれ。86年、多摩美術大学絵画科日本画専攻加山又造&米谷清和クラス卒業、88年同大学大学院美術研究科修了。2001年、平成13年度文化庁芸術インターンシップ(文化庁)。莫大な数の小説の挿絵と表紙を描いているが、静岡県立美術館、山種美術館、平野美術館が所蔵し、練馬区立美術館に寄託されている通り、絵画としても高く評価されている。数多くのグループ展に参加するが、東京での個展が少ないのが勿体無い。

fig.2 【北村さゆり展】—陽に“タチドマル”—展示風景  提供:北村さゆり

「現代『日本画』の展望展―内と外のあいだで―」(和歌山県立近代美術館/2006年)において出品した大型の作品を、私はよく覚えている。この展覧会は北村の近作をまとめて見る機会に恵まれた。出品した作品は小品中心であっても50点を数えた。北村は日本画のテクニックを充分に備えているので、小さな作品の中に、広大な世界観が犇き合っている。遠くへ誘う奥行き、画面が窓に見える空間性、瞬時を捉えつつも普遍化する力を携えている。

fig.3 【北村さゆり展】—陽に“タチドマル”—展示風景  提供:北村さゆり

また、具体的な形を持つ作品もあれば、絶対抽象のようにもみえるほどの作品もある。様々なイメージを明確に描いていることが伺える。それは描くことの確実にも結びつく。つまり北村の抽象性には必然が伴っている。同時に北村にとって、具象性と抽象性という概念は余り意味がないのかも知れない。しかしそれは、琳派と近代デザインを安易に結びつける発想とは区別される。北村の作品はあくまでも現代に対して呼吸を行っている。伝統と確信と言う概念すらも持ち得ない。

fig.4 【北村さゆり展】—陽に“タチドマル”—展示風景  提供:北村さゆり

北村の作品で何よりも目を引くのは、影が描かれていることにある。日本画に影が描かれなくなったのは何時からだろうか。古代からか、中世の大和絵からか、近代の再編からか。一連の日本画の中で、強力な描線がそのまま影になっている作品もある。日本画における影は西洋的な二元論ではなく東洋的な一元論なのかも知れない。いずれにせよ日本画に「影を描いてはいけない」という禁忌は存在しない。その為、北村が影をえがくことは間違いではない。

fig.5 【北村さゆり展】—陽に“タチドマル”—展示作品  提供:北村さゆり

北村が影を描くことによって、北村の作品に描かれている対象の光が強調される。それでも影は裏方の役割を果たすのではなく、光を強調しながらも影の存在感を示していく。薄明かりが障子によって家屋の影と溶解するような日本画の印象に比べて北村の影と光は、油彩画の在り方に近いのかも知れない。このように考察すると、はじめに論じたように、北村には日本画と油彩画の区別など必要ではないのかも知れない。

西洋画と日本画の中間であると定義することは可能であろう。春草と大観が記した日本画の未来、即ち日本画と油彩画の相克が実現されていると論考することにも無理はない。しかし相克が問題になると、区分が前提となる。そのどちらか、どちらでないかという振り分けは権威主義へ通じてしまう。人間主義に陥る必要性もない。北村の影は、北村が今、ここに生きるために描かれる必然性が伴っている。北村の作品にある、現代美術と日本画という区分すらも超克する意義は我々が見つけなければならない。

0 件のコメント: