2015年12月3日木曜日

レビュー|絹に描く 斉藤典彦展

展覧会名|絹に描く 斉藤典彦展
会期|2012年 3月17日(土)~ 4月1日(日)
会場|数寄和


執筆者|宮田 徹也




fig.1 齋藤典彦展展示風景 提供:数奇和

斉藤典彦(1957-)と言えば、美術館からデパートの美術画廊までもこなし、国内外で活躍する日本画の作家であることは良く知られている。古典的技法と視線を携えながらも、抽象/具象と言う外来の定義に当て嵌まらない、独自の作品を描き続けてきている。斉藤は臆することなく、自らの作品を日本画であると定義する。その活動は近年、更に活発になっているのではないだろうか。そのような斉藤の展覧会の中で、特に忘れられないのがこの数奇和での個展である。

斉藤は次の作品を出品した。(作品名/号数/形状/画寸(縦×横mm))。《蒼山》(30/額装604×907)、《春山》(100/パネル/2100×900)、《夏山》(100/パネル/2100×900)、《雨山》(100/パネル/2100×900)、《冬山》(100/パネル/2100×900)、《庭-フクシア》(50/パネル/1500×600)、《夜の庭》(0/額装/179×139)、《百合》(0/額装/179×139)、《月夜》(0/額装/179×139)、《松山》(SM/額装/227×158)《雪山》(SM/額装/227×158)、《昏山》(4/額装/242×333)。

fig.2 齋藤典彦展展示風景 左から《雨山》《夏山》《冬山》提供:数奇和

fig.3 齋藤典彦展展示風景 《春山》 提供:数奇和

私が驚愕したのは縦長四枚の《春山》、《夏山》、《雨山》、《冬山》であった。それぞれ画面中央よりも僅かに下からなだらかに分断され、天と地のような異なる世界が描かれているようにも、地続きになっているようにも見える。圧巻なのはそのサイズで、作品の前に立つとすっぽりと体が包み込まれ、作品の中へ吸い込まれているような気がしたとしても境界線である縁がそれを許さない。日本画を語る際によく言われる「生活の美」とは、このように実現されることが可能であることを教えてくれる。

そのため、この作品はこれ以上大きくも小さくもなることができない。作品の前で体感する最適度の大きさであり内容だったのである。最も美しい秋がなく、雨が降り頻る梅雨の季節を描く発想も美しい。生暖かい雨に打たれると、陽気な春から厳しい夏を迎える覚悟を我々は無意識に行っているのではないだろうか。四季の美しさが日本の特徴ではなく、四季に意味を見出すことに意義が誕生してくる。狭い国土と言えども場所が変われば感覚も異なる。しかし共通した四季を斉藤は見事に描いたのであった。

fig.4 齋藤典彦展展示風景 提供:数奇和

今回、斉藤が絹本を使用したことにも、作品の変化に大きな意味があったのではないだろうか。絹本を使用すると、大概の場合、肌理細やかで豪奢な印象を与える。斉藤の場合はそれがない。その代わりに、斉藤が持ち得る日本画の思想が充分に発揮され、和紙という繊維ではなく布という織物の隅々にまで絵具が乗り、侵食し、一体化する作品となったのである。その作品は大胆で質素な側面を強調しつつも、日本画が持つ本来の繊細さと柔らかさを保持するのである。

fig.5 齋藤典彦展展示風景 提供:数奇和

私が訪れたのは、初春の冷たい雨の日だったことをよく記憶している。斉藤の作品を大きな窓がある数奇和で、自然光で見たいと望んでいた。しかし、降り頻る雨の中にも自然光は良く届き、斉藤の作品は内部から光を放っていた。電灯も高速移動も何もない時代の寺院に佇んでいる気がした。現代美術の「いま、ここ」の連続は、斉藤の作品の中にも込められている。日本画とは何かという議論以前の、日本画であるという斉藤の主張は、どの国の人間も、その固定観念を取り除けば理解できるはずなのである。

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