2014年7月19日土曜日

drawer|古田和子 FURUTA Kazuko



素材:シナベニア、岩絵の具、水干、膠、銀箔、ニス
サイズ:29.7×42.0cm
制作年月:2014年7月

drawerについて:
 今居る場所で、この時に必然性のあるものをつくりたい。それは、体感でしか生まれない事柄。
 私は、自然を題材に作品を描く。これは、多くの作家たちが取り組んできた題材である。今さら、と考える人もいるかもしれないが、今だから向き合う必要がある。先に起きた震災はもちろん、近所を散歩していたら天然記念物のカモシカにここ1ヶ月で3回も出会ってしまった。そういったことに直面したとき、描かなくては、という想いに駆られる。詰まる所、芸術は、そういった衝動から生まれるものだと思う。
 日本画は、定まった様式も思想も存在しない。というか、その時代に合わせて変容するものではないかと思う。だから私は、おそらく日本画家である。

Artist|古田和子 FURUTA Kazuko

1985 東京都生まれ
2013 東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コース卒業
2014 東北芸術工科大学大学院芸術工学研究科修士課程芸術文化専攻日本画領域2年在籍

【個展】
2014 フリュウ・ギャラリー(東京)

【グループ展】
2011 「pianissimo」月光荘(東京)
2012 「きんぎょ展」フリュウ・ギャラリー(東京)
   「第12回 佐藤太清賞公募美術展」福知山市厚生会館(京都)
2013 「第2回 悠々貫々展」ギャラリー専(仙台)
   「碧い石見の芸術祭2013全国美術大学奨学日本画展」浜田市立石正美術館ギャラリー(島根)
   「sss展」フリュウ・ギャラリー(東京)
   「GEIDAIART×ROMANIANART」ホテル椿山荘東京(東京)
2014 「dadacha」銀座スルガ台画廊(東京)

Works

古田和子《杜 カモシカ-》シナベニア・岩絵の具・水干・膠・銀箔、180×270cm2014

古田和子《杜 -》シナベニア・岩絵の具・水干・膠・銀箔、F120号、2014

2014年7月4日金曜日

往復書簡:31才のリアリティ[サイトウケイスケ×小金沢智](後編)

第7信|小金沢智→サイトウケイスケ
私たちがいる場所のこと、そして、そこでどう生きるかということ
2014/07/04 08:34

おはようございます。小金沢智です。
思いがけず、前編を終えてからひと月以上の時間が経ってしまいました。その間何をしていたかというと、サイトウさんからの超長文の熱にあてられて寝こんでいた…というのは冗談で(でも半分本当で)、仕事をしながら、今後の自分の状況について考えていました。まさしく「31才のリアル」に直面しているこの頃で、後編はそのあたりのこともお話ししながら、当初の予定では既に終わっているはずの往復書簡「31才のリアリティ」、続きの対話を進めていきたいと思います。

本来ではまず、前編のことを受けて、まとめた上で話を進めていくべきなのでしょうが、今回はそういうことはしません。前編は主に現在のサイトウさんの作品についてのお話で、最近のモチーフになっているギャルが、どういう意味合いで出現し、また描かれているのかということについて対話を重ねたもので、それはやはり全文を読んでいただくしかないと思うからです。まだ解決していない問いかけもいくつもありますし、これを突き詰めるのもひとつの現代文化論としてとても面白いのですが、今回の主旨とは少し外れていってしまう。つまり、「31才のリアリティ」ですから、私たちのリアリティはどこにあるのか?」ということを、この往復書簡では話さなければならない。作品だけではなくて、別の観点からも話していきましょう、ということです。最終的には、それこそこの対話の中のあらゆるものをとりこんで一冊の本にするということができたら面白いなと思いますが、往復書簡はあくまで思考の種まきというか、それぞれの現状を確認しあうということが大事なのかなと考えています

さて、前編が終わってから、サイトウさんと話していて出た、後編の主なキーワードは以下の三つでした。

(1)身体・パフォーマンス・場作り・企画
(2)東京、山形という土地のこと
(3)震災のこと それ以降

サイトウさんからのメールそのままですが、これらのことはつまり、「自分がいる場所」のことを考える、ということですよね。最小単位としての自分の身体がまずあり、それを起点にして、住んでいる土地、あるいは働いている場所、より大きな共同体の問題があります。そしてその中で、自分の場所を作っていくということがある。サイトウさんは第6信で、「東京に来なければ、ここまでギャルを描いていなかった」と書いていますし(ただしこの発言は、誰もにとって東京=ギャルであることをもちろん意味しないということに注意しなければなりません。ある土地とその場所に特徴的なモチーフを必要以上に結びつけることは危険ではないか、とも僕は考えています)、前編全体を通して「自分がいる場所」の話がなかったわけではありませんが、それは基本的に「作品」を軸にした上で派生的に出てくるものでした。後編はそれを派生的にではなくて、メインのものとして考えてみたい。ですから、僕からサイトウさんへの後編最初の問いかけは、「2013年の春、なぜ東京に出てきたのか?」ということです。

なぜなら、サイトウさんは、2012年8月に自身のブログ「声にも・絵にも・エモ!」( http://keisukesaito.blogspot.jp/ )で「改めて山形で続ける決意」というタイトルで、「山形在住で作家活動を続けることを完全に決めた」と書いているんですよね。僕はこれを読んだときのことをよく覚えていて、ああ、サイトウさんはそう決めたんだなと思いました。しかし、それからわずか半年で東京に出て来て、現在も東京中心に活動しているということは、一体どういう心境の変化があったのか? ということを最初に教えてください。

改めて山形で続ける決意
http://keisukesaito.blogspot.jp/2012/08/blog-post_17.html

その中で、山形からは出たけれども折々に帰っていること、そして、第6信で書かれているように、山形でのイベント(たとえば、「寺フェス」)にも積極的に関わっているということも話題として出てくると思います。それが「場作り」ということですよね。
そしてこの「場作り」ということを考えるとき、山形では今秋、サイトウさんの出身大学である東北芸術工科大学主催で、「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2014」が開催されます。これについても思うところがあれば話を聞きたいです。

みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2014
http://biennale.tuad.ac.jp/

それから、サイトウさんは第2信で、「正直震災以降、ぼくは「言葉」を失っていると思います」と書いています。そのあたりの真意についても、しっかり聞きたい。このことは、この往復書簡のきっかけとなった居酒屋での対話でも随分したことで、その内容が僕は非常に大事だなと思い、サイトウさんに往復書簡を持ちかけたというところがあるんですね

このように後編は、なぜ山形から東京に出てきたのかということ、その中での東京・山形での場作りについて、そして震災以降のことなどを、サイトウさんからうかがいたいと思っています。その中で、僕も自分の状況についてお話ししていくことになるでしょう。

(1)~(3)のキーワードを通して、僕は、自分たちがいる場所のこと、そして、そこでどう生きるかということに触れたいんですね。その中で、自分が生きる上で何を切実に必要としているのか、ということが、しっかりかたちをもって浮かび上がってくるんじゃないか。

ですからこれは美術にかぎった話ではありません。美術の歴史や文脈を、自分が居る場所=土地や地域と結びつけたいわけではない。今の自分にとっての生きることの「リアル」と「リアリティ」はどこにあるのか、ということを美術にこだわらずに考えたいんです。これは、あくまで僕は、というところで、サイトウさんがどう考えるかはもちろんまた別の問題なのですが。

後編も、どうぞよろしくお願いいたします。


小金沢智



第8信|サイトウケイスケ→小金沢智
絵と音は似ているようで、物質としての存在自体がやはり違うのですね。だから、僕は今までのやり方を変えたい。ネット中心ではなく、直接人と会いたい。だから、人が多い場所へ来た
2014/07/14 14:52

こんにちは。サイトウです。
前半は長い長い文章を読んでいただきありがとうございます。webへの書き込みって、「お墓」だと思っている節があります。だからこそ、今回必要以上に書いてしまいました。しかしながら、ちょっと反省しています。シンプルに書きたいものですが、後半一発目からトピックが3つくらい出ましたね。。。書いていきましょう!
それにしても、31才~32才になる年齢ですが、お互い岐路に立っていますね。。

前編を終えて、改めて現在の作品の大事な部分をステイトメントとしてまとめてみました。

ーーー

世界は最悪であると同時に最良でもある。

私はその二面性にこそ興味がある。

その「間」に潜むグラデーションは
人と人の「間」とも似ている。

私はそれを、エレキギターをかき鳴らす様に描きたい。

2014年7月

ーーー

やはり僕は、人と人の「間」に興味があるのだと認識できました。
今まで隠されていた「女性への(多元的な)憧れ」が、東京に来てタガが外れたと言って良いと思います。
ギャル(女の子)への興味は、自分の中の1トピックでしかありませんし、きっと、女性像も、よく登場する「こども」も、背景も、変容していくでしょう。




さて、「私たちのリアリティはどこにあるのか?」ということで、「場所」をとっかかりにして語っていきましょう。そして、果たして、自身の(作家の)制作活動に、「場所」は関係しているのか?
ですので、まずは「何故山形の出たのか?」を今回中心に話していきます。これが今回の書簡でもっとも、重要なことだと思います。そして、上記のステイトメントに、「山形」は関わっているのか、と。

そもそも、何故山形で表現することにこだわったかというと、前半でもお話した、札幌での音楽活動を貫くTHA BLUE HERBの影響が強いです。
http://www.tbhr.co.jp/

「東京にでて音楽なんて古いんだ 地元も仕切れずになに歌う気だ?」
(天下二分の計(COAST2 COAST3)/THA BLUE HERB 2002年)

と、ラップしていて、20代は直球でそれに影響を受けました。

「Ame nimo makezu」 1999年 CORE TOKYOでのライブ映像「演舞」より
http://www.dailymotion.com/video/x20m4m_tha-blue-herb-ame-nimo-makezu_music

(18歳で直撃したこの「おまえのバスの三連音が〜」の言葉が、宮沢賢治の詩「告別」だと知るのはずっと後のことでした。)

また、全国各地のインディーズバンドのムーブメントもあり、地元から発信する、ということに憧れややりがいを感じていました。インターネットの普及も大きく、当時はmixiやmy spaceで情報発信をしていました。ぼくが山形生まれ・在住でラッキーだったのは、「東北で最も小さい街」だったことです。正直、インターネットが発達していない時期は、情報も物質・商品もない。だからこそ、「空腹」「喉の渇き」は激しかったのです。自分たちで何かを始めなければ、面白いことはなかったのです。

そして、地元で続ける、ということを当たり前だと思って約10年間(大学卒業後)動いてきました。しかしながら、東北芸術工科大学美術科担当副手の任期が終わる年に、進路をどうしようか、と考えるわけです。そのタイミングで2012年に山形県白鷹町で大きく個展をさせてもらい、blogで書いた通り、「山形で続ける」と完全に決断するわけです。むしろ、そのblogはそれを宣言するために作っていました。それ以降投稿がストップしています。

山形で続けることを決めたのですが、果たして、僕が就ける職があるのか、、?という問題も出て来ました。そして、時間だけが過ぎていくと、パチンコ屋、塾講師の求人ばかりが目立っていきました。仕事がない。焦っていました。営業職を紹介してもらえそうでしたが、どうしても、納得が出来なかった。もう気持ち的には、この曲のような感じです。



神門「さて、どう生きようか」 

「山形で続ける=人が集まれる場所をつくる」という夢もありました。
山形には、貸ギャラリーはあるものの、展覧会を企画、ディレクションし、作家をブッキングして応援してくれる場所は、ほぼないと思っています。それを一挙にひきうけているのが大学だとも言えます。なので、そういう意味で若いコたちが文化的な面白いものに触れる場所は、限られています。だから、山形市で最も人が集まる場所は「イオンモール」であり、駅前のスターバックスがおばあちゃんと高校生のたまり場と化すのです。(僕はスタバが別に好きではないので、行ってないのですが、この話はよく聞きます。)一体、山形の高校生はどこで遊んでいるのだろう??
大学が出来て20年。全国各地で「ギャラリー」「オルタナティヴスペース」「アーティストランスペース」が乱立する中、山形市にはそれが、ない。いや、あるかもしれないけれど、自分にはそれが届かない。または広報されていない。山形で何かをやる人は、全国に発信すべきです。ぼくはそういう状況に疑問を持っています。なぜそういうスペースがないか、答えは簡単です。「僕(自分)がやってないから」です。
誰もやってないから、ない。それだけのことだと思います。


※1つの可能性として、山形駅西口の近くに「R.A.F REC」という中古レコードショップ&カフェスペースが1年前に出来ました。小さなイベントや展示もできます。ここに「たまり場」としての可能性を感じています。


http://rankandfilerec.com/
山形に必要な場所は、人と人をつなぐ、様々なジャンルがミックスされた総合的なコミュニティスペースなのです。

山形で続けるということは、こういう場所作り問題も関連していました。同時に自分は経営者タイプではない。一体どうしたら良いのか。

そのように悩んでいる夏の終わりくらいに、ふと東京で活躍している作家の友達に「山形で続ける」と伝えたところ、「なんで山形なの?」と問いただされるんですよね。そうしたら、うまく答えられなかった。その時に「東京に出よう」という気持ちが芽生えました。何か悔しかったのもあるんでしょうね。
そこから、また改めて「何故山形なのか?」ということを考え始めました。一度決断したからこそ、それを疑い、検証し始めたのです。本心はどう思っているのだ、と。
そこからまた、色んな人に「山形から出るかどうか考えている」という話をどんどんするようになっていました。「山形でもできるよ!」「出た方が良い!」色んな意見をもらいました。これは、今思えば、自分の東京に出てみたいという欲求を検証、理由探しみたいな感覚で、自分を納得させる言葉を探す、アリバイ作りのような行為だなあと思います。

結論として、「一度山形を離れてみた上で、山形への想いを検証・認識したい」ということです。自分にとって故郷の山形とは何なのか。山形最高だ!と、他の土地に住んでから言ってみたい。山形以外の土地では何が起きているのか知りたい。

また、予想が出来ない方、危険な方、に進もうと思いました。僕はもっと、揉まれないと駄目だと思ったんです。
山形にいれば、30年生活しているので、ここに行けば、こういう町並みで、うまい店があって、良い景色があって、、、ときりがないくらい、想像がつく。知らない事はまだまだたくさんあると思いますが、基本的に慣れている。山形弁で「どうも〜っす。〜〜だべーっす」といえば、山形人同士だ、と距離感が縮まる。友達も家族もいる。大学もある。とても動きやすい状況です。学生の友達も多いので、すぐ「頼って」しまうでしょう。今の自分は、大学という機関に頼らないで、自立しなくてはならないということです。

そして、自分から「山形」を削いだ場合、何が残るのか??という探究心が生まれてきました。東京に行くときも、「山形から来ました」と言うと「遠くから来た!」みたいな印象で歓迎してもらえる。結局、それをウリにしてきた部分があって、それは、僕自身ではない。

そういう事を知りたいのもあって、僕は一度出ることに方向転換しました。逆に、「東京でる!」と先に決めていたら、逆転した可能性もあります。

自分で決めたことに束縛されるのは、理由にならないと思ったのです。
箭内道彦さんが「博報堂一生辞めません宣言」をしたすぐ後に、独立したというエピソードに出会ったりして、ちょっと救われた気持ちもあります。
その後、相変わらず仕事も決まらないし、まだまだ悩みまくっていましたが、最後の引き金を引いたのは民俗学者の赤坂憲雄先生ですね。

会津・漆の芸術祭のクロージングパーティで、数年ぶりに再会し「30年山形から出たことがない」と話したら、「絶対出た方が良い」と言われてしまいました。さらに帰り際に、熱い抱擁を交わした後に真顔で「外へ出ろ。武者修行して来い!!!」と言われるんですよね。もう、こりゃ出るしかない。迷ってる場合じゃないと。これで完全に気持ちが固まった感じです。
(先日、三瀬夏之介さんの個展トークでお会いした時に、東京に出てきたことを伝えた時、「そんなこと言ったっけ?(笑)」と真顔で言われるオチもありますが。。)

とにかく、今出ないと、多分一生出ないだろうと切実に思いました。

先ほど紹介した神戸のラッパー「神門」の楽曲は数年後、「なら、こう生きよう」に変容します。



神門「なら、こう生きよう」 

やはり、そっちに進んでみなければ、そっちの景色は見られないんですよね。
山形の寺フェスにも出演されたフォークシンガーの友部正人さんの歌詞を借りれば、
「ぼくが100パーセントここにいるってことは 100パーセントそこにはいないってことだ」なのです。

ふと、「いつみても波瀾万丈」という番組を良く見ていたのですが、その中で、誰だかわかりませんが、「30歳で上京」というエピソードがあったんです。それだけはなんとなく覚えていて、その腹の底にあった記憶が、この時期になってグツグツの煮え立って来た印象です。本当は、行ってみたかったんだなって。本当に行ってみたかったから、本当に来たんだなって、思います。

数年間、東京で動くための下地作りをしていた気もしますし、結局は地方(山形)から東京に向けて発信していた。結局、東京からツアーに来てくれたミュージシャンに絵を渡したりしていた。だったら一度、その渦の中に入ってしまおうと。

BLUE HERBのMCであるBOSSさんへの憧れと尊敬を含め、「地元でやる」ことにこだわってきましたが、30歳になり、改めて「自分の意見はどうなんだ?」というところに立ったのだと思います。
TOTALというアルバムでの楽曲「MY LOVE TOWNS」では「この町から出て行かなくては わかんねえものが 世の中にはたくさんあるよな」と言われていて、これは札幌を出て行ってしまった人に言っている言葉だと思うのですが、自分に大きく響いてしまったのです。僕は山形以外の価値観を、体験してみたい。
「今度こそ自分自身で決めるんだ」とSTAND ON THE WORLDという曲で、歌っています。結局、BOSSさんのやり方の後を追っていただけで、そこに自分はなかったのではないか。自分のやり方を、自分自身で決めなくてはならない。だからこそ、一度、「逆」を見てみなくてはならない。箭内道彦さんの言葉を借りれば「両岸を旅せよ」です。反対側に行って、初めてわかることがある、という言葉。

都築響一さんの著書『ヒップホップの詩人たち~ROADSIDE POETS』では、全国各地で活動するラッパーにロングインタビューを行っていて、非常に面白いです。


新潮社「ヒップホップの詩人たち」ウェブページ
http://www.shinchosha.co.jp/hiphop/


まえがきに、「いちばん刺激的なファッションは、田舎の不良が生み出している。いちばん刺激的な音楽もまた、東京ではなく地方からやってくる。」と書いてあり、嬉しかった反面、僕は現在その逆で「地方」を出てみるのだな、ということを自覚をしました。「東京に相手にされないのではなく、東京を相手にしないこと。東京にしか目を向けていない既存のメディアには、それが見えていない。見えていないから、遅れる。遅れるから、リアリティを失う。リアリティを失ったメディアに、なにが残されているだろう。」
と、まえがきは続いており、この文章はあらゆるジャンルの核心を突いています。

各地に根を張って活動をしているラッパーが登場する中で、『新潮』連載時の最後を飾るラッパーの「レイト」くんは、「土地性」を持っていないんですよね。自分が住む土地に対して特には愛着がない。そして東京へ出て来た。その感覚も、ぼくは面白いと思った。そもそも大ファンですし、再び書簡に登場すると思うので紹介します。



レイト「鼓動」
東京にいつまでいるか、というのは決めていません。2年周期でアパートの契約もあるので、その周期で考えていきますね。ただし、ずっと東京にいようとは思っていません。果たして、山形に帰るのか。寄り道するのか。あまり、規定しないで生きていこうと思ってます。まあ、やはり帰るとは思います。すごく良い場所で楽しいですもの。

山形にいたら、場所作りをしなきゃと奮闘していたかもしれない。だから、東京に来るという決断は、自分の作品のことを考えて実践して行きたいがためです。

そして、あの岩手に根を張って生きていた宮沢賢治にも、僅かながら、東京にいた期間があるという真実。
BOSSさんは、札幌にこだわりながら、世界各地を旅したりもしている。居住空間を変えたり、離れるという行為は、やはり何か作品に影響があるのではないだろうか。


前回の書簡を書いた後に考えたのですが、やはり自分は「音楽界隈のひと」なのだと強く思いました。グラフィックデザインの世界も、美術の世界も、たまたま足を突っ込んだだけで、根本には「音楽への崇拝」がある。ぼやけた「リアリティ」の解像度をあげてくれるものが音楽だと思っています。「聴く」は「効く」なのです。

都築さんの本で紹介したように、Hiphopには独自の「土地性」が宿っており、土地を担うことが最大の原動力にも成り得てます。しかし、果たしてそれを「絵」に置き換えた時はどうなのか。絵(原画)は、インターネットで送れないし、再生ボタンで再生もできない。絵と音は似ているようで、物質としての存在自体がやはり違うのですね。だから、僕は今までのやり方を変えたい。ネット中心ではなく、直接人と会いたい。だから、人が多い場所へ来た。

最近は、「美術じゃない、アートじゃない、芸術じゃない」と言われても全然OKだと思っています。そもそもぼくは「美術界隈のひと」じゃないなと、開き直ってきました。かといって、ストリートにも入り込めてはいない。もっとも居心地が良いのはライブハウスですもの。もう、ぼくは、何でもない。ただの音楽好きな絵描きです。

気がつけば、「美術史/歴史に残る」のが「目的」にすり替わって、まさに「美術のために美術」を目指さなくてはならない、みたいな。それが、ARTのルールだと言われればそれまでですが。まさに「痩せる」ことよりも、「ダイエット」することが目的になっている状態に似ています。絵を気に入ってもらえたら、それで嬉しかったはずなのに。偉い人に酷評されても、若いキッズや高校生たちに「これヤベー」って言われる一言で救われますもの。誰かに「アートじゃない」と言われても結構です。それは、先日ストリートカルチャーの生証人のような松岡亮さんに出会って、尚更に感じました。僕は描きたいし、音を鳴らしたい。絵を描くことでバンド活動をやりたい。それ以上でも以下でもない。
確かに結果を生むために戦略は必要ですが、僕は今、高校生のようなフレッシュな気持ちで改めて制作活動に望んでいます。

さて、寺フェスや山形ビエンナーレの話もでましたが、
時系列的にも、まずは震災の話の振り返ってみたいと思います。

「震災以降言葉を失う」というのは、やはり、何も言えなくなった、というところです。何を言っても正しいような、間違っているような。自分にとって震災はショックが大きすぎて、受け止められていない。人にかける言葉すらない。あの時期から、髪の毛を触ったり、むしったりする癖が出てきましたもの。皆もそうでしょうけど、かなりのストレスだったのだと思います。

実際問題、僕が山形(東北)を出たのも、その重圧に耐えきれなかった側面があるのではないかと思います。距離を置かないと、何か保てないものがあったのかもしれない。そこは意識はしていなかったけれど、深層心理であったかもしれない。

「そんなの弱い」「それじゃあ甘い」という声が出てももう開き直るしかない。自分は強くない。そして、この一連の言葉を直接言われてもいないのに、言われている(攻撃されている)気がして気が滅入るという現象。

港千尋さんが、『ふくしまで語るFUKUSHIMA』(会津・漆の芸術祭2011 シンポジウム)で語った、震災の後に「他者」があらわれる(「他者性」だったかもしれません)と話されていたこと。これは、現在東京都現代美術館で開催中のMOTコレクション特別企画第1弾「クロニクル 1995-」(2014年6月7日〜8月31日)の解説文とも繋がりました=私たちの生を突然終わらせる、「不確定で不気味な『他者』の存在」を阪神淡路大震災とオウム真理教による事件によって、誰もが想定したこと。


まさしく、ぼくの目の前に現れた「他者」とは、この「顔のない顔」「声のない声」みたいなものです。もっと言えば、twitterによる爆発的に絡み合う正論・意見・暴言・中傷の数々でしょうか。これによって、僕は身動きがとれなくなり、話すことにも恐怖を伴うようになるのです。

だから、ずっと「自己救済」ということを考えていました。とりあえず、自分を立て直さないといけないということでした。あらゆる人にもそれは言えるのだと思います。誰かの「自己救済」をサポートできたら、という気持ち。

言葉を失った僕が何をしたかと言うと、日本語Hophopのラッパーに言葉を託すんですね。そう、「31歳のリアル」の福島出身のラッパー狐火さんです。ここでも僕は音楽にすがります。狐火さんは、震災直後から曲をつくって、youtubeにアップするということを行っていました。会津・漆の芸術祭2011で「東北画は可能か?」で展覧会を行う歳に、クロージングライブのイベントを企画しました。いわきで活動していたフォークシンガーの方や、東北芸工大の学生にも出演してもらいました。福島出身のラッパーが、福島の喜多方で「表現としての言葉」を発するという機会をつくりたかった。それに立ち会いたかった。表現者の覚悟を目の当たりにする事。



「東北画は可能か?」2011年 喜多方 クロージング・ライブ 

その翌年、狐火さんが漆の芸術祭のシンポジウムに呼ばれて、ヤノベケンジさんと同じ席に座っていたりとか、さらに翌年、いわきでワンマンライブが企画されたりとか、つながりを生むきっかけを作れたことは、嬉しいし、僕自身救われました。何より、2011年に狐火さんのライブや楽曲に反応してくれた福島県立博物館の川延さんに感謝しています。これは、僕が19歳でTHA BLUE HERBを知って感じた「日本語HipHopは表現なのだ」=絵画や彫刻で表現することと根本は同じだ、という「発見」を、同じ様に汲み取ってくれたことに他ならないのです。

震災の時、小金沢さんはちょうど仙台の美術館にいたんですよね。それで翌日くらいに、僕のアパートに泊まってもらい、そこから新潟行きの車に乗るという流れで東京へ帰られたんですよね。

震災以降、小金沢さんにとって、「言葉」や「文章」というのは何か受け取り方は変わりましたか?書く事をためらったりとか。
震災直後、周辺では、絵描きの僕は「青い色の絵具」を使うことにすら罪悪感や恐怖を感じていました。誰か(他者)を傷つけるのではないか、と。

だから、この時には血のような赤い色や、明るい黄色がメインにあります。ある種、現実逃避的に制作に没頭して作っていました。




さて、またまたトピックが増えてきましたが、話を深めながら、進めていきましょう。
震災について、色々思い出しながら、話を現在につなげていきましょう。悲しみも怒りも幸せも数値化なんてできないですから、ここに書いてみましょう。
日本語HipHopに救われて来た身ですから、ここで言葉を使わないでいつ使うんだ、と思います。
なんというか、もう出し惜しみせずに、恐れずに、ぼくも書いて行こうと思います。
宜しくお願い致します。


サイトウケイスケ




第9信|小金沢智→サイトウケイスケ
今・ここに自分の体はありますが、学ぶことによって、あるいは想像力によって、今ではない・ここではない場所へ、自分の体を連れていくことができるかもしれない
2014/07/20 22:13

こちらこそお返事ありがとうございます。
なんだか今日は雷雨がすごくて、夏らしくなってきましたね。暑いのは心から苦手なのですが、こういう季節感はいいなと思います。

さて、「お墓」だから必要以上に書いてしまったとのこと、面白いですね。哲学者のテオドール.W・アドルノは美術館を墓場と形容しましたが、何かを残す、弔うという行為は、かつてあったものへの憧憬という要素も少なからずあるでしょう。だとするならば、文章を書くということ、そして書かれたもの自体も、存在したものに対する墓碑であり墓地のようにも思えてきます。願わくば、墓地が死者だけではなく生者に意味があるものであることを願いつつ、ここでの言葉も進めていきましょう。

サイトウさんが出身地の山形についてお話ししてくださったので、僕も生まれた土地について書いてみたいと思います。

僕は大学に入学した2002年の春に上京し、それまで群馬県に住んでいました。前編で申し上げたように、僕は父の仕事の都合で県内各地を転々としています。館林市、吾妻郡長野原町、勢多郡大胡町(現・前橋市樋越町)と県内の東から西へ移動しているのですが、そのときに、サイトウさんが悩んでいたような、自分が住む場所と表現との関係というのは考えたことがありませんでした。

そもそも、漫画を書いてみたいと思ったときも、それならどこでもできる/どこにでも行ける、ということが大きかったと思うんですね。漫画雑誌は書店やコンビニへ行けば手に入り、そして常に投稿を募集しているし、大きな賞もある。僕が描きたかったのはファンタジー的な、物語要素の強いものだったので、現実の世界に必ずしも取材する必要がなかった。いや、現実に取材するのが嫌で、離れたくて、そういうものを求めていたのかもしれません。ここではない場所に対する憧れ。だから漫画や小説に入りこんだ。それらは、固有の場所を超えたところに存在するものでした。

サイトウさんにとって、東北芸術工科大学が自分の住む近くにあったというのは、とても大きかったのではないでしょうか? 僕は、高校生のときそれほど将来のことを考えていたわけではなかったので、なおさら、行きたいと思う大学が県内になかった。これもお話ししましたが、僕は最初から美術系の大学を志望していたわけではありません。「群馬県内でこれからも暮らしていくなら、ここに行くといいだろう」という大学もあったのですが、僕は高校時代びっくりするほど勉強していなかったので、とても入れませんでした。あるいは、もし近くに芸工大のような大学があったら、行きたいと思ったかもしれない。京都精華大学芸術学部マンガ学科というのが2000年にできるのですが、当時そのことを知って、いいなぁと思ったりしていたので(でも、やっぱり、美大に行くというのはリアルな選択肢にはなかったですね)。

だから、僕にとって地元は、家族、親戚、友人たちが住んでいる、とても大事な土地ではあるのですが、そこでなにかを表現しようとか、面白いことを自分でやろうという気持ちはないのです。県庁所在地であり、僕の実家のある前橋市は、最近こそアーツ前橋ができて、市として美術を盛り上げようというのがありますが、アーツ前橋があるあたりはわりとシャッター商店街で、市内にも関わらず本当に人気がありません。「自分たちで何かを始めなければ、面白いことはなかったのです」とサイトウさんは書いていますが、面白いものが生まれそうな土壌はあったのではないでしょうか? 大学の影響がどれだけあるのかわかりませんが、美大が近所にあるというのは、環境として僕はとても特殊なもののように思えます。

僕はそもそも、漫画とか小説とかテレビゲームにはまる少年で、むしろそっちに関わりたいと思っていたので、現実の場で実際になにかはじめなくてもよかった。本の中、テレビの中、パソコンの中に広がる、無限の世界。だから、高校生くらいから、インターネットで絵を描いたり(「お絵描き掲示板」が流行っていました)、大学に入ってからは自分のサイトを作ったり、見知らぬ人と交流なんてこともしていました。今は、FBをはじめとしてネットの世界にも現実の人間関係が持ちこまれがちですけど、2000年前後って、ネットはネットの中だからこそ、匿名性が強い、まさしく「仮想空間」だったと思うんです。

こうして書いていて、サイトウさんが言う「地元にこだわる」という気持ちが、僕にはほとんどないことに気がつきました。今住んでいるのは神奈川県で、職場は東京都ですが、それも、なにか特別なこだわりがあるわけではありません。面白そうだなと思ってなんとなく入った大学が東京で、お、美術面白いとなって、大学を出た後はなんとか美術の仕事を継続して得ることができた。東京には美術館、ギャラリー、そのほか文化施設が多くありますから、自分の仕事や研究のことを考えたら、これほどよい場所はありません。しかし、現在の仕事は今年度いっぱいで契約が終わりで、来年度以降、長い時間軸でこれから先のことを考えたとき、5年先、10年先、正直自分がどこにいるのか見えない。

少し別の角度から話を展開させましょう。今、全国各地で芸術祭が行われていますよね。山形でも今秋、ビエンナーレが予定されています。僕は、昨年の秋、中之条ビエンナーレにイマジンというグループで参加させていただきながら、長い間、そういった地域の芸術祭に否定的な気持ちを持っていました。理由は大きく二つあります。ひとつは、このタイプの芸術祭ではしばしば、作家が現地に滞在、土地を取材して作品を作るということが行われていますが、わずかな滞在でその土地を知り、質の高い作品ができるのだろうかという疑問。もうひとつは、作品によって土地を顕彰することが目的化されるのではないか、そして、それはその土地に馴染みのないものを排除する可能性を持つのではないか、という疑問。ある権力の表象としての美術の役割は、長い歴史を考えたらむしろその方がスタンダードと言えるのかもしれません。だから芸術祭は美術の役割の先祖帰りとも考えられ、それは必ずしも悪いことではないと思いますが、しかし、その流れが最近強すぎるとも感じている。

芸術祭による地域の活性化は、コミュニケーションの活性化とも言えるでしょうか。共同や恊働、共生に対する意識の高まりが、東日本震災以降は特にあるように感じます。参加型作品や、みんなで何かを作りましょうというプログラムをよく見かけます。意義はわかりますし、実際に自分が参加してみると楽しい。でも、そういうものに参加できないというひともいるわけです。みんなでわいわいが苦手である。どちらかというと僕はそういうタイプなのですが、だから、みんながある方向に向こうとしている(向こうとさせられている)のを見ると、怖いと思ってしまう。これは、震災のとき強く思ったことですが、「わたしたちはこれから、こうでなければならない」というような強い言葉が、さまざまな人から発せられました。それこそ、良しも悪しきも。「芸術に何ができるか?」という問いも発せられる中で、「芸術に関わるわたしたちも、こうでなければならない」、といったような。それはときに、とても正しい、正義の立場に立ったその言葉だと思う一方で、みんながそれですぐ、その意思にそって動けるわけではない。人間という種の保存のことを考えたら、みんなが同じ行動をすることはまったくいいわけではないのですが、でもそのまっとうに見える正義のようなものに反することで、「非国民」であるかのようなレッテルを貼られてしまう。あのときは、そういう状況があって、それは今でも続いているようにも思います。

なんだか話が逸れてきてしまっているように見えるかもしれませんが、つまり、土地に愛着を持ち、帰属するということは、その中でのルールから外れた人間を排除するということにも繋がるおそろしさがあるんじゃないか。サイトウさんがステイトメントで書いていた「世界は最悪であると同時に最良でもある。私はその二面性にこそ興味がある」という一文ですが、たとえば愛を考えるとき、その裏側には憎悪がある。愛が憎悪に反転することがある。そうやって物事の二面性を考えなければならない。ですから、サイトウさんが東京に出て、愛着のある山形を客観視する環境にいるというのは、とても大事なことだろうと思うんです。俯瞰したような、偉そうな言い方になってしまって申し訳ないのですが、ある土地や共同体に対する感情は、愛国心にも繋がっていく。愛国が悪いのではありません。怖いのは、それこそが正しく、そうでなければ正しくないとする思考があるということなのだと思うのです。

ご質問いただいた、震災以降の言葉や文章についての受け取り方、書くことのためらいといったものは、僕は基本的にないですね。仙台で震災にあったので、震災や原発のことは考えますが、それと美術を結びつけて考えようという気持ちはありません。美術は社会と密接に関わっていると思いますが、その関わり方は一様ではない。たとえば、美術批評家の椹木野衣さんは、東日本大震災後、震災や原発への言及、問題提起を批評を通じて非常に多くされていますが、それは椹木さんの関心の出力の仕方であって、僕が同じことをする必要もないわけです。同じになるわけもないですし、発言しないから無関心だ、というのはナンセンスですよね。

震災後、ある作家の言葉が僕は非常に強く残っていて、それは、自分は画家だから絵を描くのが仕事だと。個展も迫っているし、描かなければならない。つまり、それが自分の役割であるということです。「震災後、芸術に何ができるか?」という言葉が本当に多く言われましたが、元々社会的なテーマを取り扱っていたならばいざ知らず、できることなんてないですよね。でも、そのなにもできることがないということによって、苦しんでいるという状況があった。だから、僕はその作家の言葉を聞いて、非常に救われたところがあるんです。今の自分の目の前にある仕事をすることが、結果的に社会にも意味があることに繋がるのかもしれない。そのときは、美術館の仕事に加えて、ある画集の制作に携わっていたということもあって、今思い出しても大変で、被災地を見に行くとか、ボランティアに行くということは考えられませんでした。でもそれでよかったと思っています。僕にできることはそれしかないですから。

元巨人軍監督の長嶋茂雄さんは、バッティングの指導で、「来た球を打て」という風に言うらしいのですが、作品について書くということは、基本的に「来た球を打つ」ようなものです。つまり、作品をしっかり見る、そしてその打ち所を見極めるということ。アクションではなくて、リアクションなんですね。だから僕の仕事で求められているのは、その時々のいる場所で、なにが打つべきものなのかをしっかり見据えて、がっちり打つということなんだと思います。東京だと打てるけど、京都だと打てない、みたいなことではよくない。したがって、僕は本当はどこにいても仕事ができるようにならないといけないんです。そのためには、固有の土地に愛着を持ちすぎるわけにもいかないのだと思います。面白い場所が、「誰もやってないから、ない」、だから、「自分でやらなければならないんじゃないか?」と思うサイトウさんとは、考え方が大きく違うのだと思います。これはサイトウさんを否定しているのではもちろんありません。しかし僕は、面白い場所がないなら、別の場所にそれを探しに行けばいい、と思ってしまう。土地に対する愛着が希薄だからです。でも人は信じている。そして、自分はあくまで観察者であるという意識があるからです。

今・ここ、が大事ではある。でも、今・ここ、だけがすべてではない。今・ここに自分の体はありますが、学ぶことによって、あるいは想像力によって、今ではない・ここではない場所へ、自分の体を連れていくことができるかもしれない。美術はそういう力があり、言葉もそういう力があります。

土地のことを語りましょうと言いながら、土地から離れようとする話になってしまいました。
こんなお返事になってしまいましたが、サイトウさんの言葉からどんな言葉が返ってくるのか、楽しみにしています。


小金沢智


第10信|サイトウケイスケ→小金沢智
答え(現実)は一つ、でも解釈(リアリティ/現実感)は無限にあるから、一生かけて一つくらい学べるかも
2014/08/05 23:55

こんにちは。すっかり夏になりましたね。僕は個展の準備に追われていましたが、昨日より大久保のART SPACE BAR BUENAでの展示が始まりました。ちょっと落ち着いて、ようやく書簡の返信ができるタイミングです。オープニングのライブイベントも、とても刺激的なものとなりました。



サイトウケイスケ個展BADTENDERオープニングライブ 2014年8月3日
Haruhisa Tanaka(ノイズ)× YUMELIGHT(ライティング)×うえだななこ(ダンス)

さて、震災のことを色々振り返ったのですが、小金沢さんは文章などを発信することに対して、変わらないと言われて、それはやはり強さだと思います。僕はやはり弱いので、その弱さを受け止めて、そこからまた始めなければならないと思っています。

今、とある公共機関でアルバイトもしているのですが、ちょうど今日地震を想定した避難訓練があり、泣きそうになる自分がいました。相当根深い問題だなと思います。

もう少し、震災のことをここに書き残したいと思います。

あの時、僕も3月30日からの「キャラクターパーティー feat.ネオ・コス展」に出展が決まっていて、震災が起きて「もう、無理だろ。。」と思ったんです。企画している方は東京。会場は大阪。この距離感。東北は恐ろしい被災をしたけれど、遠くでは日常が続いている。だから、通常通り開催されますし、出品しなくてはならない。食料品すら入ってこない状況ですから、運送会社もしばらく運送できない。なので、この時の僕は全てデジタルで作品を制作して、印刷会社にWEB入稿し、現地に送ってもらうということをしました。インターネットが繋がっているから出来た技です。その一週間ほどは、大学の卒業制作の時期並みの集中力で作品のことだけに集中していました。今考えると、やはりそれによって自分は安定していたと思います。

東北芸術工科大学(以下 TUAD)では「福興会議」が発足され、復興について、たくさんの人が話し、議論し、実践していました。山形大学とTUADの「スマイルエンジン」は日帰りのボランティアバスで、現地の泥をかき出したり、たくさんの人を助けてきました。「福興ライブ」も企画され、七尾旅人さん、DEDEMOUSEさんが大学でライブをしてくれました。
残念ながら、僕はボランティアに参加していません。ボランティア活動は、参加しないと、わからないことがたくさんあると思います。当時、よく「絶対、被災地を見た方が良い」という言葉をよく言われました。「野次馬でも良いから行った方が良い」なんてことも聞きました。僕は結局行きませんでした。現地に行っていないだけでも気持ち的に追いつめられているような人間ですから、心身が持たない自信がありました。いま、そのことに後悔はありません。ぼくはそれを選んだのです。

そんな自分が救われた言葉は、石巻出身のTUADの学生に、そのような話をした時に、「みんなに被災した状態を見てほしいわけじゃない。震災以前の石巻のイメージのまま、また元気な石巻に遊びに来て欲しい。」と言われことです。石巻に僕が行ったのはかなり時間が経った後で、町は本当にきれいになっていました。泥をかいて、がれきを片付けた、日本全国から集まったボランティアの皆さんを、本当に尊敬します。

僕が最も印象的な作品や出来事は、「キュンチョメ」の個展「ここではないどこか」(2013年11月20日~11月24日 at ナオナカムラ)に展示されていた作品「遠い世界を呼んでいるようだ」が今の日本に住む僕らの心境の表し、正に的を射ていたことです。福島の避難区域らしき場所に入り、狼の遠吠えを行うという行為を記録した作品で、まさに、「いま、ここ」ではないどこかの「(顔も見えない)誰か=どこかにいるはずの狼の群れ」に向かって通信を試みるような作品です。この作品を見た時に、僕はラッパー狐火さんが震災直後にyoutubeに楽曲をひたすらアップしていく行為と似ている感覚を覚えました。タイムカプセルを埋めるような感じです。僕は展示会場で涙ぐみながら映像を見ていました。色々な、「どうしようもなさ」を感じつつ。

キュンチョメ
http://kyunchome.main.jp

そして、面白くもそれに呼応した様な作品と出会います。日本からはるか遠くのバンクーバーでそれは行われました。国分寺のmograg garageで行われていたJustin Gradinの展示と合わせて行われた、高円寺AMP Cafeでのパフォーマンスでそれが再現されました。バンクーバーの海岸に、日本の瓦礫が大量に流れ着いたことから始まっていて、悲劇的な瓦礫をどうにかポジティブなものに変換できないかということをJustinたちは試みるのです。それが、自作の楽器で瓦礫を使って演奏するという行為でした。それが、バンクーバーの海岸から日本向けて演奏されていたのです。それはレコードとしても記録されています。
ぼくはキュンチョメとJustinの行為が呼応しているように思えてなりませんでした。


Justinたちによるバンクーバーでのパフォーマンス

前回紹介した、友部正人さんの歌詞には実は続きや前置きがあります。

「日本に地震があったのに
ぼくは100パーセントここにいる
日本には息子がいるけれど
ぼくは100パーセントここにいる
ぼくが100パーセントここにいるってことは
100パーセントここにはいないってことだ
だけどぼくは抜け穴を見つけるよ
二つの100パーセントに一つずつ」
(日本に地震があったのに/友部正人)

肉体は、物理的に移動しないと「そこ」には行けません。
しかしやはり、イメージの世界や、言葉は、肉体が滅びても時代をも超えて、「抜け穴」を通るように「今ではない・ここではない場所」まで運ばれるかもしれない。

いつも、色々関連付けて考えていることを紹介しますが、僕は「偶然」=「必然」だと思う節があります。だから、椹木野衣さんの評論はとても刺激的で好きです。現在、『美術手帖』で連載中の「後美術論」でも、様々な事象が縦横無尽に語られ、結び付けられて行きます。例えばPerfumeの「だいじょばない」という楽曲・歌詞が今の日本を的確に表しているという部分や、その出身が広島であることすら「必然」として検証して行くのは、とても刺激的です。

日本の状態は、今メチャメチャになってますよね。ある種、僕らは恐怖や不安を「麻痺」させて生きていると思うんです。原発の事故が起きてから、常に放射能の外部・内部被曝が恐ろしい。しかし、放射能は人間の危険感知の五感をスルーする最悪の厄災なので、無視できてしまう。健康被害も、因果関係が認められないという恐ろしい状況です。

実際のところ、ファイナルファンタジーの「死を宣告」をくらっている状態なんです。敵がその呪いをかけると頭の上に数字が見えて、どんどんカウントが減っていく。0になると戦闘不能となる攻撃です。明らかに僕らの寿命のカウントは減らされていっています。

実は、原発や放射能の問題は、実は2006年頃からラッパーのShing02氏を通じて知りました。「STOP ROKKASHO」(六ヶ所村の再処理工場に反対する運動・プロジェクト)によってです。
http://stop-rokkasho.org/

また、Shing02氏の「僕と核」というレポートも読んでいて、放射能の最悪さをなんとなくわかっていたつもりでした。「微量を長期間が最も身体に悪い」という情報だけは、頭にありました。

こちらは、2008年「わかめの会-三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会」の「STOP!再処理本格稼働」集会のために制作したロゴです。


この時、初めてデモに参加して仙台の町を歩きました。鎌中ひとみ監督の「六ヶ所村ラプソディ」の上映もその時期に見て、しかも石巻の体育館まで見に行った覚えがあります。


だから、原発事故が起きて、本当に最悪なことが起きたということに実感がありました。あの時、東京の高円寺で「原発やめろデモ!!!!!」があり、原発に反対の画像を作成して送ったりしていました。僕は僕で、それで気を紛らわせていた。確か4月だったと思うのですが、あのデモは本当に怒りや悲しみ、沢山の人々の感情が爆発した出来事だったと思います。やりきれない気持ちをぶつける場所だったとも言えます。

しかし、そんな中、PIKA☆ちゃん(元あふりらんぽ)がその怒りに満ちたデモの様子に対して、「怒りだけじゃあかんねん」ということをtwitterでつぶやいていて、怒りやヘイトが噴出している状況に対して、傷つけ合うようなことはやめようよ、ということを発信していたのです。当初僕は、「ULTRA HATE!(超嫌悪)」というメッセージを込めて、ポスターを作っていたのですが、PIKAちゃんの想いを知ってからは「KNOW MORE」というメッセージに修正しました。


あちらでもこちらでもない、究極に中立した、グレーゾーンの想い。一歩間違えると無関心ともなり得る。けれど、この白と黒の間(グラデーション)に何か奥行きがあるのではないか。それこそ、賛成と反対という、繋がらないはずの両極・両岸を結びつける「抜け穴」となりうると思うのです。PIKA☆ちゃんの出した答えは、TAIYO 33 OSAKA「太陽大感謝祭」を大阪で仲間たちと行うことでした。原発に関しては中立的な立場で、エネルギー問題を考える前に、「エネルギーはここにある!」ということ、生きている、ということを実感して感謝するという「祭り」が企画されたのです。


‪2013.3.3太陽大感謝祭 1000人太陽ドラム 万博ドンドンドン! ダイジェスト

「今、都会には『祭』が必要です。」と表明文にあるように、本当にその通りだと思います。僕も実際に大阪の万博記念公園に初めて行ってきました。太陽の塔も初めて見ました。そして、太陽の下でヨガをしたり、一緒にお祭りを楽しんで、撤収を手伝って、大阪の実行委員の皆さんと過ごして、凄く前向きなエネルギーをもらいました。その日撤収が終わり、打ち上げ会場についたのも0時を過ぎていて、そこから打ち上げが始まり、翌朝の6時くらいから会場の清掃・撤収をするという強烈なスケジュールでした(笑)。そこで、僕が嬉しかったのが、常に「笑い」があったことです。大阪(関西)の強さは。やはり笑い・ユーモアの力だと、実感しました。

皆で太陽に感謝して、太鼓をたたく。それは、一見、具体的な解決策ではないし、合理的ではない。しかしながら、合理主義、資本主義社会、経済の在り方など、ガチガチなシステムで構築された日本の社会が、大地震によって、一度破壊された今、僕らが置き去りにしてきた「根源」や「根本的」な大事なことは、そこにあると思うんです。それはアートのマーケットでもない、決してお金でも買えない、文脈作りや歴史に介入するためでない、芸術の、人間としての根源的なエネルギーが、そこにあったのです。

僕自身、震災に対して、具体的なアクションは出来ていません。けれど、書いていて思うことは、このTAIYO 33 を少しでも手伝えたこと、そこで得た「種」のようなものは持ち帰れたと思うんです。

僕は「バタフライ・エフェクト」という考えが非常に好きです。風が吹けば桶屋が儲かるのごとく、1人の行動が思いもよらない出来事へと繋がる。

shing02氏の「ひとつになるとき」のリリックを再び紹介します。


「文部省推薦的な考え方でなくても、人一人の行動はいつでも社会に影響を与えている訳で
全てがつながっているから
それはこの曲のバースとコーラスのように、関係がないようであるわけ
ここで問題、あなたは真っ暗な映画館に途中で入りました
さて映画の内容はいったいなんでしょう
答えは一つ、でも解釈は無限にあるから
一生かけて一つくらい学べるかも
やりたいこと全てやる時間はないけど
やりたいこと見つける時間くらいはあるかも」
ーーー


僕が被災地に行かなかったことは、とりかえせない。しかし、学生の言葉で救われたように、行かなかったからこそ、行けなかったからこそ出来ることがあると思う。
答え(現実)は一つ、でも解釈(リアリティ/現実感)は無限にあるから、一生かけて一つくらい学べるかも。

「何も出来なかったな」という無力感や「弱さ」を内包して生きている人は、たくさんいるはずです。何か大きなアクションは出来なくても、小さく些細なサポートがいつか出来る様にと思っています。僕が今、東京に住んでいることも、きっと何か意味や縁があるのだと信じています。

さて、TAIYO 33では「都会には祭りが必要」とありましたが、そうです、「地方にも祭りが必要」です。

山形ビエンナーレはまさに、ボランティアに行かれてきた皆さんの活動があってこそで、それが「お祭り」に繋がっているのです。
書いていて気がつきましたが、それこそが従来の「地域活性化」「観光」が目的に組み込まれた芸術祭とは異なるところだと思います。目に見えないレイヤーのように、積み重ねて来た層や奥行きがある。PIKA☆ちゃんはよく、「山形は日本のヘソやと思う」と言っています。TUADが仙台ではなく、山形にあること。そして、山形芸術工科大学ではなく、「東北」を冠にしていること。今、このタイミングで東北の山形で芸術祭が開催されることは非常に大きいことだと思います。


僕自身、今この文章を書くまでは、ビエンナーレに対して、悔しさのような感情を強く持っていました。だって、すごい人たちが山形に集まるんですもの。山形を面白くしたい、という気持ちを持っている自分は、そこに関わっていないですもの。特に、音楽部門はワクワクする豪華な方々です。七尾旅人さん、大友良英さんも出演される(なんと、お二人ともTAIYO 33に出演されている)。そして、ダンスカンパニーBABY-Qの東野祥子さん、何度も山形のクラブSANDINISTAでDJもされているBing(カジワラトシオ)さん、驚愕のVJ・ロカペニスさん。きりがないので、控えておきますが、激アツな方々が来山してくれます。羨ましい限りなのです。

僕が気になることは、外から大きなゲストが来た場合、山形で生活し、活動している作家・ミュージシャンは、どうアンサー・呼応するのか?です。

実はその時期に山形市周辺の温泉施設を使わせていただいてグループ展を行うんです。しかし、それはあくまでビエンナーレの関連企画ではないし、スピンオフでもありません。温泉施設という市民の日常の場に「スッ」と介入する試みです。僕個人の意見としては、完全なる盲点だった「場所」を開きたい、というだけです。山形で人が集まる場所は、「イオンモールとラーメン屋と温泉」、その3つです。その空気や水のような日常の場所に「作品」を挿入するのです。今回に関しては「美術業界」にアピールする気が僕にはありません。「話題づくりのため」ではなく、単純に温泉に来る皆さんにアピールしたいのです。山形にも、こうやって何かを表現している若い連中がいるよっていう想いです。僕が大好きな「山辺温泉」は完全なるホームです。身体的にボロボロになると絶対行くし、ボロボロにならないように身体をケアする大切な場所です。自然と人が集まる場所なので、これを機に、たくさんの若い作家が、温泉施設で発表をしたいなと思ってもらえたら嬉しいです。


そして、ぼくにとって、今後やらねばならないこととしては、ビエンナーレとは全くベクトルの違う動きです。それは音楽フェスDOITとも似ていますし、その系譜とも言える考えですが、DOITのアート版を行うことです。いや、音楽フェスと展覧会が融合したような企画です。これは、いつできるかわからないですが、自分にとっては義務感に似た感情があります。山形でライブをしたい、行ってみたいというバンド・ミュージシャンがたくさんいるように、山形で展示や発表をしたいというアーティストもたくさんいるはずです。小さくても良いから、TAIYO33のような手作りのイベントがやりたい。結局、僕が見たいのは、「大人が煙たがる」表現が一堂に会する感じです。山形に呼びたい人、たくさんいますもの。だから、それが出来る様に、東京、山形の限らず、たくさんの人と出会って、企画をしてみるしかないですね。だから、この際、こういう考えに賛同してくれる人がいたら、是非コンタクトをとりたいです。


doit2008スライドショー


いよいよ、次回で最後の書簡となりますね。山形には奇跡的にTUADがあり、音楽シーンも面白い。面白いことが生まれる土壌はあったのだと思います。それでは、最後のターン、お待ちしております!



サイトウケイスケ



第11信|小金沢智→サイトウケイスケ
これからも「じたばた」しながら、「自分の固有の経験や生活実感の深み」=リアリティを大事にしていきたい

2014/08/06 12:11

こんにちは。本当、すっかり夏ですね。春(2014年4月14日)からはじめたこの往復書簡「31才のリアリティ」も、いつの間にか3ヶ月が経って、季節が移りました。結局、当初の目標だった1ヶ月で各6通延べ12通のメールを交わす、ということは失敗に終わり、僕はサイトウさんの長文メールに時折クラクラしながら(笑)、しかし不思議と、こういうメールでないと言えないことや語れないことも沢山ありました。この間にも何度か会っていますが、その場での対話と、ここでの対話はまた違うものでした。これからもこうして話を続けていきたいですが、この「31才のリアリティ」では、これが僕から最後の返信です。

最後なので、これまでのメールを読み返しました。前編では、サイトウさんの生い立ち、そして作品についてのこと、とりわけ東京に出てから描き始めたギャルの話が中心でしたね。後半では場所についてのこと、これは東京に出てくるまで住んでいた山形についての話が主で、2011年の東日本大震災に自分がどう向き合ったかということもまじえて、率直にお話ししてくださっています。先ほど長文メールにクラクラしましたなんて書きましたが、しかしサイトウさんの言葉はすっと胸に入ってくる読みやすさがありました。いずれの回でも、サイトウさんが共感する音楽について触れられていることがとても印象的で、僕の知らない回路を開いてくれていると感じました。同じ「1982年生まれの31才」といっても、当たり前ですが、一様ではないということを改めて実感して、「わかるわかる!」みたいなことにならなかったのがよかったなと思っています。

最初の第1信で僕は、「昨日対話を重ねながら、これは文章にしておく必要があるんじゃないかと思ったからです。少なくとも僕にとってはとても切実なものを感じて、それはもしかしたらもっと多くの人とも共有できることなのかもしれないと思った」と書きました。「もっと多くの人とも共有できることなのかもしれない」というところ、自分で書きながら、今読み返すと少し、違和感があります。それがこの往復書簡の動機だったことは間違いないのですが、「僕はなにを共有したいんだろう?」と思ったんですね。

最近、twitterの個人アカウントを退会しました。約5年間はやっていたのかなと思うのですが、ここ1〜2年程はわけあって非公開にしていて、それはやむを得ないことだったのですが、その状況が面白くないなと思っていたんですね。最初は知らない人とのコミュニケーションが面白かったのに、それができなくなってしまったこと。そして、かぎられた範囲にしか見られていないという状況の中で、それこそ「垂れ流される」ような自分の軽い言葉。twitter中毒のようになっていて、暇があればスマホをいじっているという感じでした。マズい、と思って、思い切って退会しました。

後編の話題である場所のこと、サイトウさんの話ともずれてきてしまっていますが、少しこのこと話させてください。twitterというよりもFacebookの方がその傾向が強いですが、これらSNSは「共感」のメディアですよね。「いいね!」ボタンはあるけれども、「だめだね!」ボタンはない。twitterの方がなにか問題のあることを言った場合晒されやすく、「炎上」しやすいという点では、twitterとFacebookの性質は同じではないですが、どちらも個人が自分の考えを発信して、それに対してリアクションがあることを少なからず求めている。facebookでは「シェア」、twitterでは「リツィート」ですが、それらはそういった共有して欲しいという思いに対する、他者からのリアクションです。LINEの「既読」は、その「共有して欲しい」以前のアクション(それを読むこと)すら可視化されているという点で、さらに先をいっているなと思います。

それで、この「共有の感覚」に対して、僕は次第に怖いなと思うようになってきた。前回、芸術祭についていささか否定的なことを書いて、ご意見もいただいたのですが、それは芸術祭がこの感覚に少なからず基づいたものだからかなと思うからです。多くの人々ともに、なにかひとつのことをやりとげるということは、「共有の感覚」なしには成功しにくい。それはもちろんいい方向に物事をもたらすこともあるでしょう。しかし悪い方向に物事をもたらすこともあるかもしれない。それの最たる終着点が、美術の領域で言うところの戦争画なんじゃないかと思うんですね。こういうことを言うと怒られるかもしれませんが、戦争画は、そういった人々の共有したい/せざるをえないという感覚に基づいた作品で、一方の極にそういうものがあるとうことは忘れてはいけないと思うんです。これはサイトウさんの考えを否定したいわけではないのですが、「お祭り」というのはそれこそ、ある共同体の中で作用する「共有の感覚」に基づいたものではないでしょうか。これはあくまで可能性でしかないですが、そういう悪い方向に進んでしまう可能性はとても小さいかもしれないけれど、それでもその可能性の話をすることはとても大事なことなんじゃないかと思う。原発が「よいもの」であると「共有」されていた時代があったわけですし、いや、今でもそう思っている人が多くいるわけですから。

孤独をおそれる人が、誰かと何かを共有したいという気持ち。これは否定できるものではないですし、僕も孤独でいたいわけではありません。自分の考えをこうして文章で書いて発信するのは、共有して欲しい、という気持ちがあります。でも一方で、自分のこの「共有して欲しい」という感覚は怖いぞ、という気持ちを持ち続けたい。自分が「共有して欲しい」と思ったことに対して、否定的なことを言われたとしても、それで誰かを「ブロック」するようなことは、基本的にはしたくない。自分の身を守るための「ブロック」はありですけどね。

「共有」のことを考えるとき、サイトウさんの言葉の使い方を僕は考えます。「偶然」=「必然」と書いていましたが、サイトウさんは積極的に、偶然を必然にしてしまおう、という強い意思を感じるんですね。それはこういったメールの文章だけではなくて、twitterで、すっとつぶやかれることにも感じる。たとえば、「キッチュなキャッシュのキッシュとキッズ。」(2014年7月25日)、「日暮里でニッコリ^_^」(2014年7月18日)、「激ねむのエミネム。」(2014年7月18日)など、「ダジャレじゃん」と思いもしますが、こうやって異なるもの同士を繋げることにサイトウさんは長けているんだろうと思います。本来「共有」されていないものを、異なるコードのままつなげてしまう、これはきわめて批評的な行為です。そういった精神が、サイトウさんという人物の中に、大きな幹としてあるのかなと思います。これは、今回往復書簡を行いながら、僕にとってとても大きな発見でした。

それは言うならば、サイトウケイスケという人が、「ハブ」として機能するということかもしれません。それは個展やグループ展でミュージシャンやパフォーマーを呼ぶということにも端的にあらわれていますし、コラージュを用いた作品自体にも、異なるもの同士の接続という要素はあらわれているでしょう。温泉で発表を行うということも、サイトウさんにとっての「日常」や「社会」と「作品」をつなげるという行為に見える。ですから、もしかしたら、サイトウさんは特定の場所にこだわりすぎる必要はないのかもしれない。サイトウさんの考えとは違うかもしれないし、矛盾していることを言っているように思いますが、そう思いもするんですね。発表のことを考えたらもちろん場所は必要なのですが、サイトウさんは、そうやって、人/もの/こと、をコラージュすることができる人だと思うんです。そういう、批評家的、編集者的、キュレーター的な特質が備わっている。褒めすぎているような気もしますが、これは、場所があれば誰にでもできるということではありません。

今、サイトウさんと同じく東北芸術工科大学の多田さやかさん(大学院日本画領域専攻に在籍中)と、「星の船」という絵と小説の往復書簡のようなことをやっています。

星の船
http://hoshinofune.tumblr.com/

もともとは、僕が市川裕司さんという作家と一緒にやっているイマジンという日本画出身作家のグループで「中之条ビエンナーレ」(2013年)に参加したとき、ある天文民俗学者の文章をもとに作家は絵を描き、その絵に対して僕が小説(ショート・ショート)を書く、ということをやったんですね(企画「中之条の町に星の家を作る」)。多田さんもそのとき参加してくれていて、「星の船」は、そのさらに続きをやってみようということではじめました。「中之条の町に星の家を作る」の全体は公開していないのですが、多田さんと僕とのやりとりは、このTumblrから読むことができますので、ぜひご覧いただけると嬉しいです。

この「星の船」が、当初そういうつもりで書き始めたのではなかったのですが、自分にとっての震災以後の世界をあらわすようなものになっていった。それは、正しいことと正しくないこと、その線引きは誰もに共有されていると思っていたけれども、そういうものは本当は存在しない(あるいは虚構だった)ということに気づかされたあとの世界です。そういう世界のことを、架空の物語を通してどう考えることができるのかということを、多田さんの絵に触発されながら、毎月書いています。

あと、三瀬夏之介さんと多田さやかさんが声をかけてくれ、「星の船」とは別に、でも近いコンセプト(震災以後の世界をあらわすもの)で、僕が描いた架空の物語(神話のようなもの)をベースにして、二人が作品を作ってくださることになりました。これは、気仙沼のリアス・アーク美術館で9月17日から11月3日まで開催される「開館20周年記念展 震災と表現 <BOX ART>~共有するためのメタファー~展」に出品予定です。僕は美術批評的に震災について書いたことはほぼありませんが、そうではない、創作の物語に託してメタ的に震災を取り扱う、ということをこうして行っています。

サイトウさんは、「あちらでもこちらでもない、究極に中立した、グレーゾーンの想い。一歩間違えると無関心ともなり得る。けれど、この白と黒の間(グラデーション)に何か奥行きがあるのではないか」と書いてくれました。そういう中間地点にいるということは、本当に、人によっては「無関心」だと罵られることがありますよね。でもその「グレーゾーン」に、強い意思をもっていたいと思う。「星の船」や、リアス・アーク美術館出品作品のために書いた文章は、僕のそういう意思が、最初は知らず知らずのうちに、次第に意識的に震災に対して、反映されたものとなりました。

この冒頭でも書きましたが、往復書簡を進めながら、僕とサイトウさんは同じ「1982年生まれの31才」、もっと言えば「日本国籍を持つ男性」だけれども、当たり前のように見ているもの、聞いているもの、感じていること、考えていることが違う。お互いの生い立ちや人生の「物語」をまじえて、そういう当たり前のことを示せたということが、僕はよかったなと思っているんですね。

総括のようになって来てしまいましたが、最後に、ひとつの文章を紹介して終わりにしたいと思います。僕は思想家の内田樹先生がとても好きで、著作をよく読んでいるのですが、そのご著書の中に、『日本辺境論』(新潮新書、2009年)という本があります。日本人の特質を、「辺境」をキーワードにして書かれたものです。サイトウさんにもぜひ読んでいただきたい1冊です。

その中に、「虎の威を借る狐の意見」という一節があります。下に引用させてもらいました。

「今、国政にかかわる問いはほとんどの場合、「イエスか、ノーか」という政策上の二者択一でしか示されません。「このままでは日本は滅びる」というファナティックな(そしてうんざりするほど定型的な)言説の後に、「私の提案にイエスかノーか」を突きつける。これは国家、国民について深く考えることを放棄する思考停止に他なりません。私たちの国では、国家の機軸、国民生活の根幹にかかわるような決定についてさえ、「これでいいのだ」と言い放つか、「これではダメだ」と言い放つか、どちらかであって、情理を尽くしてその当否を論じるということがほとんどありません。
 たとえば、私たちのほとんどは、外国の人から、「日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきだと思いますか?」と訊かれても即答することができない。「ロシアとの北方領土問題の『おとしどころ』はどのあたりがいいと思いますか?」と訊かれても答えられない。尖閣列島問題にしても、「自分の意見」を訊かれても答えられない。もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていることや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけれど、自分の意見は言えない。なぜなら、「そういうこと」を自分自身の問題としては考えたこともないから。少なくとも、「そんなこと」について自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べるように準備しておくことが自分の義務であるとは考えていない。「そういうむずかしいこと」は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。
 そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲みだした意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。
 人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
 自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は「ほんとうに自分が思っていること」を言おうとじたばたしている人の特徴です。すらすら立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません」(内田樹『日本辺境論』新潮新書、2009年、118-120頁)

このことは、決して「政治的意見」だけにかぎらないことではないかと僕は思うんですね。僕はこの往復書簡が、二人が随分「じたばた」しながら進められたことを(それが読んでくださる方々にどれだけ可視化されていたのかはわかりませんが)、とても嬉しく思っています。これからも「じたばた」しながら、「自分の固有の経験や生活実感の深み」=リアリティを大事にしていきたい。これが春から3ヶ月、サイトウさんとの対話によって育まれた、なんだか、答えになっているのかどうなのかわからない、今の僕の結論です。そもそも、なにか答えを求めて始めた往復書簡でもありませんでしたね。

今回は本当にありがとうございました。サイトウさんからの次のターンで、この往復書簡は終了。そしてなんと8月9日(土)21時頃からは、サイトウさんの個展会場ART SPACE BAR BUENAで、二人で対談「31才のリアリティ〜往復書簡後日談〜」を行います。それが言葉どおり「後日談」になるためにも、あまり時間がないですが、サイトウさんからのお返事をお待ちしています!


小金沢智

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[対談「31才のリアリティ〜往復書簡後日談〜」のお知らせ]
8月9日(土)、絵描きのサイトウケイスケさんの個展「BADTENDER」クロージングイベントで、サイトウさんと対談「31才のリアリティ〜往復書簡後日談〜」を行います。21時頃からの予定です。ぜひ足をお運びください。サイトウさんと梅津庸一さんとの対談「同窓生対談~山形の高校で隣のクラスだったのに一言も会話しなかった2人が14年ぶりに出会ったら~」、小畑亮吾さんのヴァイオリン演奏もあります。全員1982年生まれという間柄です。

展覧会概要
展覧会名:サイトウケイスケ個展「BADTENDER」
会期:2014年 8月3日(日)〜8月9日(土)※8月4日(月)定休日
時間:19:00〜24:00
会場:ART SPACE BAR BUENA
住所:東京都新宿区百人町1-24-8 新宿タウンプラザビル2F-D
料金:無料(1drinkオーダーお願いします)
作家HP:http://keisukesaitoillustra.wix.com/keisukesaito

関連イベント
▶︎オープニングライブ
日程:2014年8月3日(日)
時間:open 19:00~start 19:30
料金:1000円+1drink(別)
出演
○サイトウケイスケ(エレキギター) x ミクロダ(ダンス)x ヘンミモリ(歌)
○Haruhisa Tanaka(ノイズ)x YUMELIGHT(ライティング)x うえだななこ(ダンス)
○線描(mc/笛・ディジュリドゥ)
○レイト(ラッパー)× Humangas(VJ)
▶︎ポエトリーリーディングナイト
日程:2014年8月8日(金)
※通常のBAR営業ですが、20時~21時頃まで、各自持ち寄った詩・言葉を交代で読んでいきます。
お気軽にご参加ください。
▶︎クロージングイベント
日程:2014年8月9日(土)
時間:open 19:00~start 20:00~
料金:500円+1drink(別)
※お酒を飲みながらの交流会ですので、お気軽にお越し下さい。
▷トークイベント
「同窓生対談~山形の高校で隣のクラスだったのに一言も会話しなかった2人が14年ぶりに出会ったら~
○梅津庸一(美術家)x サイトウケイスケ
「31才のリアリティ~往復書簡後日談~」
○小金沢智(美術評論家)x サイトウケイスケ
演奏
○小畑亮吾 from グーミ(ヴァイオリン・歌)

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第12信|サイトウケイスケ→小金沢智
ぼくは自分自身の小さなリアリティから出発しているかもしれない。しかし、その「フラジリティ(弱さ・脆さ)」を大切にしたい。声のでかい人ばかりが目立つ世の中で、かすかでも良いから届けたい人に声を届けたい。それがぼくだから、嘘なくありたい
2014/08/08 17:43

小金沢智様

お疲れさまです。早速のご返信をありがとうございます!すっかり夏ですね。最近は「甘酒」を好んで飲んでいます。夏バテ予防の「飲む点滴」と言われる程みたいです。
そんな話は良いとして、とにかく長期に渡るやり取りをありがとうございます。ぼく自身、こんなに長くなるとは思っていませんでしたが、書き出すと書きたいことが山ほどありました。読み返してみると、それは様々な事象、楽曲、ミュージシャンを知らせたい/リコメンドしたい欲求だったように見えます。つまり、ぼくにとってのリアリティ(現実を実感させるもの)とは、「音楽」そのものなのではないかと思いました。(31才のリアリティという言葉も同じ歳のラッパー狐火さんのアルバムタイトルに由来しましたね。いつか3人で会いましょう!)

この書き込みは「墓」になりうる、そんな気持ちで過剰に書いてきました。けれど僕はまだまだ書ききれなかったことを色んな手法で表出させていこうと思います。この文章量が、もっと絵と直結できたら良いなあと思いました。
そう言えば、会期の終わりを聞いて、山形から衝動的に見に行った松本竣介展(2012年 世田谷美術館)が思い出されます。竣介氏が亡くなったのは1948年(36歳)。2014年、これから、地震も原発も戦争も、何が起こるかわからない。
ぼくも30歳過ぎですが、まだまだ捨て身でやっていこうと思います。

不慮の事故で亡くなってしまった不可思議/wonderboyくんのリリックを借りれば、「自分の居場所を誰かに聞くことはできない」し、「今思えば何の心配もなかった」というくらい、皆に良い未来がくれば良いと願ってます。そして、「吹き続ける風が 岩の形を変えることがあるなら なんて思えば まだやれそう」です。



「‪いつか来るその日のために‬」不可思議/wonderboy


さて、HUBと言われるのは嬉しいです。そして、それこそ僕の活動の核心にあることですね。また核心を突かれました。ぼく自身や絵を通して、誰かと誰かが繋がってくれたら、それが最も嬉しい。ぼくにとっての絵とは「出会いの装置」だとも言えるのです。
おそらく、雑誌的感覚が近いです。批評はできませんが、編集して広報する感覚ですかね。
思い返せば、昔は最高に不器用でした。ただ生きていることや世界のつまらなさを爆音で絶叫したいような18歳が、奇しくも「(グラフィック)デザイン」と出会ってしまう。それによって、人に伝えることや、ホスピタリティ、自分を素材として俯瞰的に見て、全体を構築していくということが少しずつ出来る様になっていったと思います。デザインの分野からは、「思いやり」を学びました。これにつきます。ファッショナブルなものではなく、生きるための豊かさを考えること。芸術の中にもデザイン性があり、デザインの中にも芸術性がある。もともとは一緒だったはずです。前にも話しましたが、「国語」「数学」「社会」ジャンル分けしていくから、おかしくなるのですよね。

現代は、血抜きされたような社会に思えます。60年代のイラストレーションの「血なまぐささ」は異常なものがあります。社会が発展してくるにつれ、イラストレーションは「ヘタうま」を通過し、都会的で、おしゃれで、気持ちのよい絵柄が増えました。これが、現代の気分です。ライトノベルなどに登場するような「イラスト」との境界線もなくなり、むしろそちらの方が現代の味がでているかもしれません。例えばいとうのいぢさんの絵は、とても好きです。昔は、そういう気持ちを隠していたかも。

いとうのいぢ
http://www.fujitsubo-machine.jp/~benja/


イラストレーションと言えば、多田さやかさんとの小説「星の船」のような豊かさがとても心地よいです。小金沢さんの違う回路が垣間みれますし、絵画がイラストレーション的に機能していて想像力を膨らませます。あくまで、絵画であることが大事だと思います。なんとリアスアーク美術館では三瀬夏之介さんも絵を描かれるとのことで、すごく楽しみです。


最近は、電車の広告を見れば、いかに便利さが豊かさを捨ててきたかがわかります。「早い!安い!うまい!NO.1!お得!」昔の広告は、こうではなかったはずです。なんでもショートカットし過ぎなんです。



今のメディアは、汚いものは隠され、危ないものは映さない。はるか昔のJ-POP的(明るくキレイで健全でハッピー)なものだけが主流と思われることへの嫌悪感がふつふつと蘇ってきています。
毛は永久に脱毛され、汗はデオドラントで否定される。人間が人間でなくなってきている。民俗学研究者の岸本誠司先生が「火が家庭から消えることは、危険なことやねん!」と言われてたことが印象的です。人間の長い歴史の中で、「火」が消えた文明は存在しないらしいです。オール電化推奨社会。火という「野生」をも鎮火する社会。(ただし、火災のリスクが減るのも事実ですね。)そして、とうとうプリクラからもデジタル画像のみで「紙/実物」が消えるタイプが登場したようです。電気に頼り過ぎな世界です。
僕らが毎日食べてる食物・加工食品がどうやって生成されているのか。僕ら人間はたくさんの動物を殺して生きている。非常に罪深い。そういうことをもう一度自覚したい。制御できない放射能を垂れ流して、生態系を二度ともどらないくらい破壊した。SUPER JUNKY MONKEYのアルバムタイトルは「地球寄生人」。僕らは、地球に寄生しているだけです。



「Power of Idea - Same, But Different」

「同じ言葉を使っていても 一人ずつ違う育ちや環境」。
自分から友達に、色々なことを伝えるために、やはり僕ら人間は対話していかなければならないのだと思います。僕は食べ物に感謝して、残さないで、自分に身体に取り込んで、いただく、ということだけは心がけています。

小金沢さんがtwitterを退会して、羨ましいなと思いました。作家の謝花翔陽さんがtwitter、facebookを辞めるとアナウンスした時も、正しいなと思いました。
http://shoyojahana.com/home.html

震災の時から、僕はtwitter中毒になりました。RTしまくり、フォローしまくり、常に脳がギンギンになっている状態でしたね。
今はSNSや「2ちゃんねる」の方が、暴力的に真実を晒したり、特定したり、「リアル」を暴露させてしまうのかもしれない。テレビよりも真実味がありますが、それは、修正や編集もされないだけに苛烈な程にエグすぎます。
佐世保の事件でも、瞬く間に加害少女の(顔が映った)画像が流れてくるという状況。(さらにテレビで2ちゃんねるで実況していたという誤報まで。)人間の本能の中に「いじめ」という機能はインプットされている気がしてなりません。かと言って、許せるものではありません。幼稚園児の時点で、すでに社会が形成され、差別も生まれている。「〜くん臭い」などと子供達が特定の子をいじめてるのを見て、恐怖と同時に納得もしました。「いじめ ダメ、絶対」と大人が言うくせに、テレビを付ければ、ワイドショーではちょっと罪を犯した人を根掘り葉掘り調べ上げ、晒す。逃げ場をなくし、自殺してしまうまで追い込む。抑止力の域を超えています。バラエティでも基本に「いじ(め)る」ことで「笑い」を生む。「愛と平和」をずっと教えられて来たのに、世界は基本的に闘争と中傷に溢れている。インターネットの進化と連動して、LINEなどに見るいじめの形式も陰惨に進化している。
しかし、だからこそ、人間の最悪さを理解した上で、それでも生きていることは楽しいのだ、ということを絶叫したい。絵でも音でも。もう、善・悪、ダメ、OKだけでは片付けられないことが多い気がする。
そう思うと、尚更にあいまいでグレーな意見=あそびが必要かもしれません。YES/NO 100%の二極だけでは、51対49の気持ちのせめぎ合いは表現できないですもの。人間て、とても曖昧なんですね。
「虎の威を借る狐の意見」を最後に知れてよかったです。この往復書簡もジタバタと、検証しながら、語れてきたこと、嬉しいです。自分自身、長い文章だし、曖昧だなあと思っていた矢先だったので、少し救われました。

愛国という言葉がでてきましたが、僕は日本を愛するという感覚が希薄かもしれない。しかしながら、これまた面白いことに、僕は一度も国外に出たことがない。情報でしかない日本の外にリアリティをもてていないかもしれない。



‪SHING02 - 憂国 [Yukoku]‬
「分け合うことさえできれば 訳も無く支えて栄えて行けるのに」

では一体、「山形人」「東京人」=「日本人」って一体何なんだろうと思います。住んでいたり、出身というだけで、性格や個性が決まるのだろうか?東北の中にも明るくて元気な誰とでも仲良くなる人もいますし、関西の中にも人見知りで、人と接するのが苦手な人もいる。結局は言葉のレッテルでしかないのではないか。だからこそ、前回紹介したラッパーのレイトくんの「土地性のなさ」も重要だと思うのです。出身地はたまたまであって、そこから先の自己形成は自分で舵を取る必要性があると、この年齢にして実感しています。レペゼン山形と言いつつも、それに頼り過ぎず、疑いすら持って動きたい。

ぼくらは10年後、どうしているでしょう。41才のリアリティですね。僕はなんとなく外国にいるんじゃないか、と思っています。明確な計画性はぼくにはないですが。だからこそ、予期せぬものに出会えるかなと。セレンディピティ(何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能)を信じたい。だからぼくは、「化学反応」が好きと言って、様々な人/もの/ことをコラージュするように出会わせる。結果的にそれは必然として、定着する。

ぼくがNIRVANAのカートコバーンを崇拝してきたことにも影響があります。なぜなら、彼はウィリアム・S・バロウズのカットアップされた詩から影響を受けているから。単なる言葉遊びを超えて、信じられない意味のぶつかり合いが生じる。また、TUADでのイラストレーションの授業で「以外な組み合わせ」という課題が出て、その時が初めて教授に褒められた。(その時はワインのビンと、空中ブランコを組み合わせた絵を描きました。)何かをコラージュして、編集することが、宿命的に肌にあっているのかもしれないですね。あり得ない出会いに、たまらない快感を覚えますもの。

今は様々な場所で、コミュニティが形成されていきますが、ぼくはやはり、コミュニティに入っていけない人の味方でありたい。お洒落でもリア充でもない、強くない人に栄光を掴んでほしい。様々な場所で「正」で「明るい」側面を引き受けるのなら、僕は「負」で「暗い」側面を引き受けたい。全ての人に心をオープンするのは、難しいことですが、僕の絵や表現は、マイノリティと見なされてしまう皆に届けたい。例えば、引きこもり、いじめられっこ、オタク、ヤンキー、キャバ譲、不良、などなど、明るく健全な昼間の社会から弾かれてしまう人たちに共感してもらいたい。

だからこそ、そのような彼らが主役な物語を歌うラッパーのレイトくんと個展会場でコラボレーションできたことは大きいです。

個展「BADTENDER」オープニングライブ
サイトウケイスケ  x レイト x humangus(VJ)

そして、この曲を会場で歌ってもらえたことは感慨深いのです。



‪レイト - 君を愛す‬


何より書簡を始めた3ヶ月前には描けなかった絵が描けたことが大きいです。東京に出て来て、ようやく「描けた」と思いました。今まで軽くドローイングとしてしか描いていなかった女性像を、ちゃんと作品の中にちりばめることが出来ました。この3ヶ月、色々な言葉を探し、調べ、とても勉強になりました。

「許されぬフルーツ」
2014年  65.2 x 53cm  紙・アクリル・ペン・鉛筆・パネル・ワニス

結局、ぼくの絵の中には、「性」の問題や興味がかなり含まれている。梅津庸一くんは「性/別」の問題を、田中武さんは「性/欲」の問題を取り込んでいると思う。
http://takeshi-tanaka.net/

ぼくは人間の「性(サガ)」を取り込んで絵に刻みたい。

東京に出て来て、色々なことがありましたし、色んな「山形とは違う」ことを知りました。電車の中で女の子ばかり見てしまう自分にも出会った。面白いことに、山形に住んでいて他人と肌が触れ合うということはまずありえませんでした。しかし、混んでいる電車にの乗れば、人と触れ合う。狭いだけかもしれませんが、冷たいと思っていた街で、人と距離が近い面白さ。東京の人の無表情は、山形で車を運転する人の無表情と同列。「東京の人は冷たい」というのは、コミュニケーションをとる機会を得られずに地元へ戻った人の印象でしかない。だから、地方在住の皆は、先輩や大人が言うそれにだまされてはいけない。大事なのは、自分から話しかける努力をすることです。東京の町は「何かになろうとしている人」で溢れている。僕はそれが嬉しいし、それを肌で感じられて楽しい。秋に国分寺のmograg garageで個展があるので、そこに向かって、さらに今まで描けなかった絵を刻みたいと思います。きっとここがぼくの勝負所だと思います。(12月には京都momuragに巡回予定)
http://mograg.com/



最後の最後に、解散してしまったアイドル「BiS」のとあるシーンを紹介します。東京に来て面白い側面は、アイドルたちに会える機会が多いことでした。これがぼくに何か化学反応を与えるか。
この解散直前の演説の3番目に話す、小柄で可愛いテンテンコちゃんの絶叫を聞いて、僕は号泣するんですよね。そして、テンコちゃんは戸川純さんが大好きで、サブカルチャーに精通しており、反骨精神を持った女性なのです。



‪BiS / フリーライブ&演説 「最後のお願い」@新宿ステーションスクエア‬


「BiS皆でつくるこの空間が、とても、とても、面白くて馬鹿馬鹿しくて、でも、絶対に、今、日本に必要なものだと思うのです!」

「このつまらない日常に、少しでも衝撃を与えたいです!」

これはまさに僕が考えていることと合致していて、合致しすぎた絶叫を聞いて、涙がとまりませんでした。これを言ってくれるアイドル(ひと)なんて存在しなかった。だからこそ、BiSには、世間からしたらマイノリティなハードコア・パンク界隈の皆が集まったのです。最悪な日常や世界に対抗する手段、または自分自身を守る手段が、僕にとっての絵なのだと実感しました。

そして、このBiSという事象を「芸術」や「表現」に代入するのです。一見無駄かもしれない、芸術や表現が今の日本には必要だと。小学生の図画工作の授業に革命が必要なんです。世界はこんなにも面白い!ということを教えるべきです。

ぼくは自分自身の小さなリアリティから出発しているかもしれない。しかし、その「フラジリティ(弱さ・脆さ)」を大切にしたい。声のでかい人ばかりが目立つ世の中で、かすかでも良いから届けたい人に声を届けたい。それがぼくだから、嘘なくありたい。

これからも僕は、無駄で、わかがわからなくて、馬鹿馬鹿しいことを続けていきます。

長期間、本当にありがとうございます!何度も核心を突かれて、動揺する自分がいました。お互い、ここまでさらけ出すというのも貴重な機会ですね。これを機にblogや日記も復活しようかな、なんて思います。

まずは、これで個展のクロージングでは、後日談ができますね!笑!

これからも、どうぞ、宜しくお願い致します。
心より感謝申し上げます!

個展「BADTENDER」at BAR BUENA 詳細ページ
http://bar-buena.com/news/4035

サイトウケイスケ website
http://keisukesaitoillustra.wix.com/keisukesaito


2014年8月8日
サイトウケイスケ