展覧会名|脇谷徹「頭部」展
会期|2011年11月18日(金)~12月11日(日)
会場|キッドアイラック・アートギャラリー
脇谷徹は1950年生まれ、武蔵野美術大学大学院造形研究科油絵専攻修了、1990-1991年、武蔵野美術大学国際芸術都市田中記念アトリエ派遣研究員としてパリに滞在、1991年から同大学の選任教員となる。個展は1980、86、90、2011年キッドアイラック・アートギャラリー、1986年信天画廊、1987年曽根画廊、1992年喜楽屋ギャラリー、1998年ヨコハマ・ポートサイド・ギャラリー、2001年麻布霞町画廊などである。
fig.2 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
キッドアイラック・アートギャラリー主宰の窪島誠一郎が展覧会の「ごあいさつ」を書いているので引用する。「この作家との付き合いは旧い。また作家が二〇代半ばだった頃、銅版画をおもわせるような精緻な人物デッサンと、堅牢なストイシズムの奥に独特の詩情をただよわせた立体の魅力に惹かれたのが最初の出会いだった。(中略・引用者)いわゆる「肖像」でも「胸像」でもなく、ほとんど無防備というしかない「頭部」から人間の相貌を捉えようとする試みは、作家が本来もとめていた人間表現の当然の帰結であるともいえようか」。
fig.3 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
この窪島の評を凌駕することは困難を極める。短い中に、脇谷の総てのエッセンスが盛り込まれてしまっている。それでも、評を書かなければなるまい。展覧会は版画とブロンズ像で構成されている。版画がデッサンに見えるのだが、どの彫塑を描いているのかが定かにならない。つまり、版画は版画として立脚していることになる。すると、版画とブロンズ像を別々に論考しなければならなくなる。しかし、よく見ると脇谷は版画とブロンズ像という素材の使い分けをしているどころか、版画、ブロンズ像個々、全てが異なる意識を携えているように見えてくる。
fig.4 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
ならば版画、ブロンズ像として論考することが不可能となり、個々の作品を詳細に見るよりも、展覧会の総体として考察することは不可欠である。そのためには版画を平面として、ブロンズ像を彫刻としてみるのではなく、脇谷の視点を追う必要が生じてくる。いずれの作品も、表情を認めることができない。表情がないのは死体であると発想するのは短絡的であり、では芸術における表情とは何かと熟考すれば、それは装飾であるということができる。脇谷は装飾を一切、排除している。
fig.5 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
装飾を排除して何を表そうとするのか。脇谷は人の形を徹底的に捉えてはいるが、人類の骨格を見せたいわけではあるまい。客観的な人間の存在感を表現しているのでもない。作品のタイトルはモデルの個人名であるにもかかわらず、モデルの個人性どころか、人類のこれまで歩んだ歴史性すらも排除されている。ブロンズという素材の特質を出しているのでもない。版画に表れる形がそれを証明している。人体を突き放して冷徹に眺めているのでもない。むしろ深い愛情が作品を取り巻いている。
だからこそ見る者は感動するのだ。技法的には特別なことを行わず、先端的解釈から見れば古い様式に属するのかも知れない。それはつまり無駄が一切ない、対象と向き合い、できることを最小限に行っていることを示しているのではないだろうか。窪島のいう「無防備」とは作品が無防備ではなく、脇谷が無防備なのではないかと感じてくる。無防備であることは最大に難しい。どうしても余計はことをしたくなるものだ。余計なことをしなければ、作品の存在価値と作家の有り様の意味が失われる不安に襲われるのだろう。
しかし脇谷の作品は、そのようなものは必要ないことを教えてくれる。最小限のことを可能にするのは、やはり底なしのテクニックの追求でもあろう。テクニックのためのテクニックの追求ではなく、最小限のことをするテクニックの追求を行うことも至難の業である。それを可能にしているのが、脇谷の一連の仕事であることがここに理解される。脇谷は膨大な人類の歴史と瞬時の「いま、ここ」を全く抱えずに背負っているのではないだろうか。この事項が背理すると感じるのは、実は見る者が背理しているのではないだろうか。現実は一つしかないのである。
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