展覧会名|稲木秀臣展
会期|2011年11月12日(土)~18日(金)
会場|Gallery SHIMIZU
稲木秀臣(いなき・ひでお)は1932年京都生まれ、高校修了時から行動美術展出品、京都教育大学特修美術科を四年で中退し、1956年、京都アンデパンダン展設立に参加、初代運営委員となる。1957年、岡本太郎の招きで二科展に出品するが、二度程出展した後、フリーとなる。1958年、東京に上京。1960年、横浜に引っ越した後、活動の拠点を横浜に定める。古くは横浜市民ギャラリー、近年は横浜アンデパンダンの立ち上げ、その他市内や東京都内で数多くのグループ展を組織し、自らも出品する。横浜で稲木のことを知らない作家はいないといっても過言ではない。
稲木は1962年から63年にかけて集団αに参加した。第1回集団α展 (市村司、稲木秀臣、末松正樹、高森茂夫、飛永頼節、中井勝郎、早川昌、村上善男、吉仲太造・新宿第一画廊)、第2回集団α展(馬場彬が加わる/新宿第一画廊)、集団第3回α展(椿近代画廊、京都石画廊)という短い活動ではあるのだが、当時グループを組んで主張するのは貴重な発想であると私は捉えている。ここに様々なグループを組織する稲木の原点が在るかもしれない。読売アンデパンダンは1964年開催前に突如中止、日本アンデパンダンは上層部が62年に「ソ連における現代日本美術展」を勝手に開催し、若手が離れた。今後の課題としたい。
常にアクティヴな稲木は、個展も旺盛に開催している。私が見たのはGalerie Paris(2007年9月3日(月)~8日(土))以来だが、齢80を超えて、四年でここまで変化することに驚愕した。その際の「人体が踊る様にも新鮮な果実が揺れるようにも見えて新鮮」(動作からの出発 http://art-v.jp/tenpyo/webtenpyo/miyata/miyata5.html)であるという若々しさよりも、今回は、モチーフが互いに重なり合いながらも躍動し、この最悪な時代を謳歌しているように見えた。時代が暗くなるほどに、稲木の作品は益々生命力を発揮する。当然のことながら、岡本太郎のことを思い出す。
fig.2 稲木秀臣《生長》2(アクリル、カンバス、80号)
稲木は、いけばな和泉会新春講演会(2013年1月11日、新潟ホテルイタリア軒)で岡本太郎についての講演を行った。稲木はここで太郎の敗戦後における郡を抜く精力的な活動の起爆剤が「戦争という不条理の殺戮に向けた怒りの爆発」であったと指摘する。「敗戦後すぐの絵画から《太陽の塔》に至る時間空間こそ、岡本太郎が嘱望した照り輝く永遠の平和ではなかったのではなだろうか」と問いかける。稲木がこのような岡本太郎の精神を引き継いでいることは、言うまでもないことであろう。稲城はイラク戦争に対して、即座にノーウォー横浜美術家の集いを呼びかけた。戦争を憎み平和を愛する姿勢に右も左もない。
fig.3 稲木秀臣《生長》3(アクリル、カンバス、80号)
確かに岡本太郎は1956年のアンフォルメル導入で早くも「古い」とされ、1970年のいわゆる大阪万博に参加して「体制側へ寝返った」と非難された。その後は主にモニュメントと書のような絵画作品を発表し、テレビ出演が多く、画家というよりもコマーシャルで奇矯な存在として知られてしまった。2011年の震災時には東京国立近代美術館で回顧展が為されたが、美術研究の分野では本格的な太郎の作品分析がなされていないことが現状であろう。そのような中で太郎の精神を引き継ぎ、今日の動向に対して闘争を繰り広げている画家が、稲木だけではないことに目を向けなければならない。ファシズムの時代は始まっているのだ。
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