展覧会名|内田あぐり展 絵画 素描 人体をつかむ
期間|2011年10月22日(土)~11月23日(水)
会場|信濃デッサン館別館/槐多庵
私が内田あぐりを知るのは、2002年に開催された「第1回東山魁夷記念 日経日本画大賞」展で大賞を受賞した作品を見た時である。振幅する画面に目眩がしたことを覚えている。2011年9月の平塚市美術館は一部屋であっても実質三人展であったし、まとまった作品群を集中してみたいと考えていたため、内田の個展を求めて信濃へ向かった。
fig.2 内田あぐり展展示風景
槐多庵は吹き抜けになっていて、一階と二階の空間性が美しい。二階に1974年から2011年にかけて描かれた中型のdrawingが凡そ30点、一階には大型の《私の前にいる、踊っている、目を閉じている》(パネル7枚/2007年)が弧を描くように、そして《continue #052-62》(パネル9枚/2005-6年)が狭く畳まれまるで蛇のように有機的に、それぞれ展示されている。共に、立脚していた。
fig.3 内田あぐり展展示風景
一階にも《drawing》(2000年)、《drawing》(制作年不詳)、《untitled》(2011年)が展示されていた。上下の空間を何度も行き来し、上から下を見、下から上を見てふと立ち止まっては座り込み、考えては再び行き来する。この作業を繰り返すしかなかった。それほどまでにドローイングと大型作品は、互いに同じでありながら異なる。私は、双方に描かれていない何かを探したのかも知れない。
fig.4 内田あぐり展展示風景
この展覧会の特徴は、下から上が見える、上から下が見えるという会場の特質を生かした空間性だけではなく、作家が制作してきた40年弱の時間が漂っていることだ。ドローイングが中心でも、新作の大型作品が目玉でもない。都心から離れた場所で、他の邪念がなく作品が背負う時間と対峙することができる。非常に考え尽くされた構成になっている。
fig.5 内田あぐり展展示風景
克明に描かれているドローイング群は、正確な描写よりも対象が持つ佇まいを的確に捉え、事象を抜きにした事物そのものの存在を明らかにする。大型作品には対象が携える佇まいは既に昇華され、むしろ縫い目や具体的なコンセントが事物を強調しているように見えても、それらの実体は失われ、留まっているのに動き続ける事象が無限連続されているのだ。
この矛盾した二つの現実に、私が見つけ出したものは歩き回っている私の存在であった。それは私だけではなく、妻であったり、まだ見ぬ未来の我が子であったり、内田であったり、9月に舞った大竹でも、内田の弟子でも、大竹の弟子でも、私の友人たちでもある。それらの個としての存在に目覚めるのではなく、人間は生きていた、生きている、これから誕生してくることが明らかとなっていくのだ。
そのような思いを抱きながら再び内田の作品の前に佇むと、内田の作品には動いているものではなく生きているものが描かれている、という、単純な、当たり前の声が自身の中から聴こえてきた。2002年にはじめて内田の作品を見た時にそのような感覚は、全く存在しなかった。いや、あったのかも知れない。それを自身で認めたくなかったのかも知れない。自覚出来なかったのかも知れない。
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