2014年5月7日水曜日

レビュー|宇佐美圭司 | 制動(ブレーキ)・大洪水展 

展覧会名|宇佐美圭司 | 制動(ブレーキ)・大洪水展 
会期|2012311日(日)~2012612日(木)

会場|大岡信ことば館


執筆者|宮田 徹也




fig.1 宇佐美圭司  制動(ブレーキ)・大洪水展展示風景 提供:大岡信ことば館

宇佐美圭司が20121019日、食道癌でこの世を去った。この展覧会が最後となった。しかしそれは問題ではない。展覧会は成立し、作品は残っている。この展覧会に、既に死の予感はあった。これから絵を描く人間が描く絵ではなかった。宇佐美は死を覚悟したのであろう。しかしそれは問題ではない。展覧会は成立し、作品は残っている。

fig.2 宇佐美圭司  制動(ブレーキ)・大洪水展展示風景 提供:大岡信ことば館

この展覧会は、二つの要素で構成されている。一つは3mを越す大洪水を主題とした新作を含む作品群とドローイング、もう一つは1958年から大洪水シリーズに至る作品群である。宇佐美の死を前提としていなかったにもかかわらず、宇佐美の画業を辿る回顧展であった。この流れを見ると、宇佐美は大洪水シリーズの後にもやるべきことが幾つもあったことが確認できた。

fig.3 宇佐美圭司  制動(ブレーキ)・大洪水展展示風景 提供:大岡信ことば館

大岡信ことば館二階の広大な展示室3に、大洪水を主題とした巨大な六枚の作品が、天井から斜めに吊り下げられている。一枚は階段を向いているが、五枚は中心にある登れる椅子を取り囲むように展示されている。館長の岩本圭司は展示に際して「渦」をキーワードとし、「並べられたそれらの作品が全体としてもひとつの渦として成立するように構成したい」(カタログ)とする。

fig.4 宇佐美圭司  制動(ブレーキ)・大洪水展展示風景 提供:大岡信ことば館
 
その目論見は見事に嵌った。中央の階段を上る事によって、作品が全く異なるように見える。見る者の全身が取り囲まれるので、視点が定まらなくなる。宇佐美は「線遠近法に対抗して画家になった」(カタログ)と自ら語っているが、図らずともこの構成によって、宇佐美が生み出した遠近法が強調されたと私の瞳には映った。

fig.5 宇佐美圭司  制動(ブレーキ)・大洪水展展示風景 提供:大岡信ことば館
 
それは宇佐美の「制動=ブレーキ」についても当て嵌まる。宇佐美は「制動を加えるということは、私の生涯を貫いた表現活動の主題であった」(同前)と言う。「隠された運動を出現さす。(中略・引用者)絵画は「制動」という運動を直接表現できない。私はそれをグラデーションという手法に変換して表現してきた」(同前)。

制動は隠された運動ではなく、運動の限りなき変動だと私は解釈する。宇佐美は不可視な現象を可視化しようとしたのだが、画面に表れる結果は、隠された運動とは多様な可能性であることが示されている。本質は一つではない。真理とは可変するすべての総体を受け入れることであるということが、私は宇佐美の作品に囲まれることによって、初めて理解できた。

それは、宇佐美の活動開始時から今日に至る作品群にも伺える。宇佐美は誰も模倣していない。そのため、時代を背負っていない。1960年の《ヴィリジャン、群れをなして》には、既に渦が書き込まれている。1970年生まれの私は、幼少の頃から様々な装丁に使用された宇佐美の切り取った人型を見て、アポロに乗ったレオナルドの人物像と重ねて、人類の発生と未来を想起していた。

美術を知っていくと共に、宇佐美が70年の大阪万国博覧会にレーザー光線の作品を出品したことに疑問を持った。この展覧会のカタログに、三浦雅士がその答えを容易に語っている。「現実を創り「その中に入りこむ」ためである」。三浦は宇佐美の作品から「言語の誕生の瞬間」、「社会の基盤そのもの」、「人間の無の力」を見出す。

私は自分が生まれた年の展覧会を体験することはなかったが、今回、「その中に入り込む」ことができた。三浦は宇佐美の作品に古代の壁画との類似を指摘し、人類の発生の地点に到達していることを論じているが、私はそれに対して半分同意し、半分異なる意見を持つ。

宇佐美は現代美術であり続けた。そのため、人類の発生の場所に立ち会うことは必然となっていたと思う。しかし私から見ると宇佐美は、レオナルド・ダ・ヴィンチが到達しようとした、つまり近代以前の者が人類の起源に立ち会おうとした姿勢を貫こうとしたのではないかと憶測するのだ。それが正しいか間違っているかという問題ではない。


繰り返すが、今回は回顧展を想定していなかった。そのため、宇佐美の新作とこれまでの作品が展示されたが、特にこれまでの作品群についての論及が成されていない。宇佐美の画業を研究することは、一人の作家の有り様を知ると同時に、日本の敗戦後の美術の特質をも浮き彫りになることを可能とするのであろう。

2014年5月5日月曜日

レビュー|脇谷徹「頭部」展 

展覧会名|脇谷徹「頭部」展 
会期|20111118日(金)~1211日(日)

会場|キッドアイラック・アートギャラリー


執筆者|宮田 徹也




fig.1 脇谷徹「頭部」展展覧会風景

脇谷徹は1950年生まれ、武蔵野美術大学大学院造形研究科油絵専攻修了、1990-1991年、武蔵野美術大学国際芸術都市田中記念アトリエ派遣研究員としてパリに滞在、1991年から同大学の選任教員となる。個展は198086902011年キッドアイラック・アートギャラリー、1986年信天画廊、1987年曽根画廊、1992年喜楽屋ギャラリー、1998年ヨコハマ・ポートサイド・ギャラリー、2001年麻布霞町画廊などである。

fig.2 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
キッドアイラック・アートギャラリー主宰の窪島誠一郎が展覧会の「ごあいさつ」を書いているので引用する。「この作家との付き合いは旧い。また作家が二〇代半ばだった頃、銅版画をおもわせるような精緻な人物デッサンと、堅牢なストイシズムの奥に独特の詩情をただよわせた立体の魅力に惹かれたのが最初の出会いだった。(中略・引用者)いわゆる「肖像」でも「胸像」でもなく、ほとんど無防備というしかない「頭部」から人間の相貌を捉えようとする試みは、作家が本来もとめていた人間表現の当然の帰結であるともいえようか」。

fig.3 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
この窪島の評を凌駕することは困難を極める。短い中に、脇谷の総てのエッセンスが盛り込まれてしまっている。それでも、評を書かなければなるまい。展覧会は版画とブロンズ像で構成されている。版画がデッサンに見えるのだが、どの彫塑を描いているのかが定かにならない。つまり、版画は版画として立脚していることになる。すると、版画とブロンズ像を別々に論考しなければならなくなる。しかし、よく見ると脇谷は版画とブロンズ像という素材の使い分けをしているどころか、版画、ブロンズ像個々、全てが異なる意識を携えているように見えてくる。

fig.4 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
ならば版画、ブロンズ像として論考することが不可能となり、個々の作品を詳細に見るよりも、展覧会の総体として考察することは不可欠である。そのためには版画を平面として、ブロンズ像を彫刻としてみるのではなく、脇谷の視点を追う必要が生じてくる。いずれの作品も、表情を認めることができない。表情がないのは死体であると発想するのは短絡的であり、では芸術における表情とは何かと熟考すれば、それは装飾であるということができる。脇谷は装飾を一切、排除している。

fig.5 脇谷徹「頭部」展展覧会風景
装飾を排除して何を表そうとするのか。脇谷は人の形を徹底的に捉えてはいるが、人類の骨格を見せたいわけではあるまい。客観的な人間の存在感を表現しているのでもない。作品のタイトルはモデルの個人名であるにもかかわらず、モデルの個人性どころか、人類のこれまで歩んだ歴史性すらも排除されている。ブロンズという素材の特質を出しているのでもない。版画に表れる形がそれを証明している。人体を突き放して冷徹に眺めているのでもない。むしろ深い愛情が作品を取り巻いている。

だからこそ見る者は感動するのだ。技法的には特別なことを行わず、先端的解釈から見れば古い様式に属するのかも知れない。それはつまり無駄が一切ない、対象と向き合い、できることを最小限に行っていることを示しているのではないだろうか。窪島のいう「無防備」とは作品が無防備ではなく、脇谷が無防備なのではないかと感じてくる。無防備であることは最大に難しい。どうしても余計はことをしたくなるものだ。余計なことをしなければ、作品の存在価値と作家の有り様の意味が失われる不安に襲われるのだろう。


しかし脇谷の作品は、そのようなものは必要ないことを教えてくれる。最小限のことを可能にするのは、やはり底なしのテクニックの追求でもあろう。テクニックのためのテクニックの追求ではなく、最小限のことをするテクニックの追求を行うことも至難の業である。それを可能にしているのが、脇谷の一連の仕事であることがここに理解される。脇谷は膨大な人類の歴史と瞬時の「いま、ここ」を全く抱えずに背負っているのではないだろうか。この事項が背理すると感じるのは、実は見る者が背理しているのではないだろうか。現実は一つしかないのである。

2014年5月3日土曜日

レビュー|稲木秀臣展

展覧会名|稲木秀臣展 
会期|20111112日(土)~18日(金)

会場|Gallery SHIMIZU


執筆者|宮田 徹也




fig.1 稲木秀臣《生長》1(アクリル、カンバス、80号)

稲木秀臣(いなき・ひでお)は1932年京都生まれ、高校修了時から行動美術展出品、京都教育大学特修美術科を四年で中退し、1956年、京都アンデパンダン展設立に参加、初代運営委員となる。1957年、岡本太郎の招きで二科展に出品するが、二度程出展した後、フリーとなる。1958年、東京に上京。1960年、横浜に引っ越した後、活動の拠点を横浜に定める。古くは横浜市民ギャラリー、近年は横浜アンデパンダンの立ち上げ、その他市内や東京都内で数多くのグループ展を組織し、自らも出品する。横浜で稲木のことを知らない作家はいないといっても過言ではない。

稲木は1962年から63年にかけて集団αに参加した。第1回集団α展 (市村司、稲木秀臣、末松正樹、高森茂夫、飛永頼節、中井勝郎、早川昌、村上善男、吉仲太造・新宿第一画廊)、第2回集団α展(馬場彬が加わる/新宿第一画廊)、集団第3回α展(椿近代画廊、京都石画廊)という短い活動ではあるのだが、当時グループを組んで主張するのは貴重な発想であると私は捉えている。ここに様々なグループを組織する稲木の原点が在るかもしれない。読売アンデパンダンは1964年開催前に突如中止、日本アンデパンダンは上層部が62年に「ソ連における現代日本美術展」を勝手に開催し、若手が離れた。今後の課題としたい。

常にアクティヴな稲木は、個展も旺盛に開催している。私が見たのはGalerie Paris2007年9月3日(月)~8日(土))以来だが、齢80を超えて、四年でここまで変化することに驚愕した。その際の「人体が踊る様にも新鮮な果実が揺れるようにも見えて新鮮」(動作からの出発 http://art-v.jp/tenpyo/webtenpyo/miyata/miyata5.html)であるという若々しさよりも、今回は、モチーフが互いに重なり合いながらも躍動し、この最悪な時代を謳歌しているように見えた。時代が暗くなるほどに、稲木の作品は益々生命力を発揮する。当然のことながら、岡本太郎のことを思い出す。

fig.2 稲木秀臣《生長》2(アクリル、カンバス、80号)
稲木は、いけばな和泉会新春講演会(2013111日、新潟ホテルイタリア軒)で岡本太郎についての講演を行った。稲木はここで太郎の敗戦後における郡を抜く精力的な活動の起爆剤が「戦争という不条理の殺戮に向けた怒りの爆発」であったと指摘する。「敗戦後すぐの絵画から《太陽の塔》に至る時間空間こそ、岡本太郎が嘱望した照り輝く永遠の平和ではなかったのではなだろうか」と問いかける。稲木がこのような岡本太郎の精神を引き継いでいることは、言うまでもないことであろう。稲城はイラク戦争に対して、即座にノーウォー横浜美術家の集いを呼びかけた。戦争を憎み平和を愛する姿勢に右も左もない。

fig.3 稲木秀臣《生長》3(アクリル、カンバス、80号)

確かに岡本太郎は1956年のアンフォルメル導入で早くも「古い」とされ、1970年のいわゆる大阪万博に参加して「体制側へ寝返った」と非難された。その後は主にモニュメントと書のような絵画作品を発表し、テレビ出演が多く、画家というよりもコマーシャルで奇矯な存在として知られてしまった。2011年の震災時には東京国立近代美術館で回顧展が為されたが、美術研究の分野では本格的な太郎の作品分析がなされていないことが現状であろう。そのような中で太郎の精神を引き継ぎ、今日の動向に対して闘争を繰り広げている画家が、稲木だけではないことに目を向けなければならない。ファシズムの時代は始まっているのだ。

2014年5月1日木曜日

レビュー|内田あぐり展 絵画 素描 人体をつかむ 

展覧会名|内田あぐり展 絵画 素描 人体をつかむ 
期間|20111022日(土)~1123日(水)

会場|信濃デッサン館別館/槐多庵


執筆者|宮田 徹也




fig.1 内田あぐり展展示風景

私が内田あぐりを知るのは、2002年に開催された「第1回東山魁夷記念 日経日本画大賞」展で大賞を受賞した作品を見た時である。振幅する画面に目眩がしたことを覚えている。20119月の平塚市美術館は一部屋であっても実質三人展であったし、まとまった作品群を集中してみたいと考えていたため、内田の個展を求めて信濃へ向かった。

fig.2 内田あぐり展展示風景
 
槐多庵は吹き抜けになっていて、一階と二階の空間性が美しい。二階に1974年から2011年にかけて描かれた中型のdrawingが凡そ30点、一階には大型の《私の前にいる、踊っている、目を閉じている》(パネル7/2007年)が弧を描くように、そして《continue #052-62》(パネル9/2005-6年)が狭く畳まれまるで蛇のように有機的に、それぞれ展示されている。共に、立脚していた。

fig.3 内田あぐり展展示風景
 
一階にも《drawing》(2000年)、《drawing》(制作年不詳)、《untitled》(2011年)が展示されていた。上下の空間を何度も行き来し、上から下を見、下から上を見てふと立ち止まっては座り込み、考えては再び行き来する。この作業を繰り返すしかなかった。それほどまでにドローイングと大型作品は、互いに同じでありながら異なる。私は、双方に描かれていない何かを探したのかも知れない。

fig.4 内田あぐり展展示風景
 
この展覧会の特徴は、下から上が見える、上から下が見えるという会場の特質を生かした空間性だけではなく、作家が制作してきた40年弱の時間が漂っていることだ。ドローイングが中心でも、新作の大型作品が目玉でもない。都心から離れた場所で、他の邪念がなく作品が背負う時間と対峙することができる。非常に考え尽くされた構成になっている。

fig.5 内田あぐり展展示風景
 
克明に描かれているドローイング群は、正確な描写よりも対象が持つ佇まいを的確に捉え、事象を抜きにした事物そのものの存在を明らかにする。大型作品には対象が携える佇まいは既に昇華され、むしろ縫い目や具体的なコンセントが事物を強調しているように見えても、それらの実体は失われ、留まっているのに動き続ける事象が無限連続されているのだ。

この矛盾した二つの現実に、私が見つけ出したものは歩き回っている私の存在であった。それは私だけではなく、妻であったり、まだ見ぬ未来の我が子であったり、内田であったり、9月に舞った大竹でも、内田の弟子でも、大竹の弟子でも、私の友人たちでもある。それらの個としての存在に目覚めるのではなく、人間は生きていた、生きている、これから誕生してくることが明らかとなっていくのだ。


そのような思いを抱きながら再び内田の作品の前に佇むと、内田の作品には動いているものではなく生きているものが描かれている、という、単純な、当たり前の声が自身の中から聴こえてきた。2002年にはじめて内田の作品を見た時にそのような感覚は、全く存在しなかった。いや、あったのかも知れない。それを自身で認めたくなかったのかも知れない。自覚出来なかったのかも知れない。