2014年4月29日火曜日

レビュー|西森禎子展 ZEROの誕生 No.17 ~ブラックホールからの招待~

展覧会名|西森禎子展 ZEROの誕生 No.17 ~ブラックホールからの招待~
会期|20111010日(月)~15日(土)
会場|ギャルリーパリ


執筆者|宮田 徹也




fig.1 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

西森禎子は1941年札幌市生まれ、64年に北海道教育大学美術科を卒業後、67年にヨーロッパ美術研修、翌年フランスで画家オンドレ・キュフェロスに師事し、ポルトガルで児童画を指導し、ギリシャ、アフリカ、中近東史跡探訪を経て72に帰国、横浜に拠点を定め現在に至る。その間にもハンガリー、メキシコ、ポルトガル、サンディエゴ、パリで活躍する。1993年に画集『ZEROの誕生』を刊行する。

画集に寄稿した政治家の高秀秀信は「市民ギャラリーにおけるメキシコやハンガリーの子供たちの作品展示、上海市での日中合作児童壁画や横浜博覧会での大壁画制作指導など枚挙にいとまがないほど、本市の姉妹都市間の児童画交流や国際美術交流に対して、多大なご尽力をいただきましたことに改めて感謝申しあげます」と記している。西森が児童画、壁画を通じて国際的に活動していることが伺える。

同じく画集に寄稿した美術評論家の匠秀夫は「ギリシャの海で、透明な水底深く、大(ママ)古から現世へと息づく壷の世界を発見する(中略・引用者)メキシコの叢林にひっそりと息ず(ママ)く巨石が彼女をとらえる」などと、西森が単なる児童画を描いているのではなく、近代以前の、古代文明からインスピレーションを受けていることを指摘する。西森が単に古代遺跡からモチーフを探り出しているのではなく、古代遺跡が西森を「とらえている」ことが重要な観点となる。

詩人の松永伍一は「彼女は、しかし画壇というものを信じていない(中略・引用者)。一個の表現者として自立し、みずから主題を自分の内面に投げかけ、誰からも知恵を借りずに答えを出そうとしている。(中略・引用者)生命の始源(ママ)に向かって魂の旅をしている。ZEROの発見のために遊行しているのだ。そこで母性が匂い、宇宙の吐息が詩となって匂い、「永遠なる主題こそ祝福されるものだ」という天の声が匂い立つ」と論じる。西森が孤高に、自ら答えを求める姿が茫洋と浮かび上がってくる。

画集刊行から18年を経たこの展覧会が17度目を数えるならば、西森はほぼ毎年個展を開催してきたことになる。私は今回、初めて西森の作品に触れた。高秀の言うように、児童画に貢献してきた通り、近代的な天才趣向は存在せず、純粋な色と形が画面を支配する。匠が考察したように、近代では見出すことのできない有機体がここにある。松永が記した如く、根源的な生命体が描かれている。西森は真にぶれがなく、自らのイメージを追い続けている証左でもある。

fig.2 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

それでも今回のDMで西森は「岩山の細い道を四輪駆動車で15時間登っていくと、その先にラバが待っていた。片道5時間、ラバの背に乗り渓谷を登り下りし、幾つもの岩山砂漠を超える。生死の狭間、ラバと時間を共有する。その瞬間、ブラックホールへ吸い込まれていく。そこで1万年前の輝く洞窟壁画との遭遇(後略・引用者)」。西森の「生命の始源に向かって魂の旅」は、過去に遡るのではなく、時空を超えてブラックホールに巡り合う。

fig.3 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景
それはドンファンを伴わない、C・カスタネダの時空を超える旅を想起させる。カスタネダの一連の著作は文明批判とヒッピー思想の指南が強調されるが、私はもっと根源的な問題を提起しているように思えてならない。人間が存在すること、そこに神は存在しないことを説いているのではないか。あらゆる権威を捨て去り、究極的な自画像を描き出そうとする第一次世界大戦下に発見された現代美術の思想とカスタネダは通じるところがあるのだ。

fig.4 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

すると西森が発見した「洞窟壁画」をモチーフとした作品群が、カスタネダのいう「宇宙の根源の襞」と同様に思えてならない。我々が視覚を中心とした諸感覚で世界の真理を掴み取ろうとするのではなく、感覚を無化した、剥き出しの人間存在そのままの姿で直観的に事象のありようと向き合うこと。その機運は、素材というボディを無視した現代美術の優れた発想を持つ作品や、肉体というマテリアルを消滅させることに徹底した暗黒舞踏に、ほんのたまに見かけることが可能である。

fig.5 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

そのような観点から考察すると、西森の作品とは近代的な絵画であることよりも壁画であること、壁画を我々は近代的な視線で追っているのではないかということ、壁画や児童画の本質は絵画を捨てることなのではないかというような、様々なイメージが派生していく。現代美術とは答えなき問いを発し続けることに特徴がある。その問いを感じ取る者が答えではなく新たな問いとして更に発し続けることに、現代美術の存在意義が発生する。そのような意味で、西森の作品は真の現代美術であるということができる。

0 件のコメント: