展覧会名|渡辺皓司展
会期|2011年10月9日(日)~15日(土)
会場|ゆう画廊
渡辺皓司は1932年生まれ、青年の頃から日本美術会に所属し、1962年の「ソ連における現代日本美術展」に反対する「日本美術会62年総会への提案」署名者29人の中に朝倉摂、桂川寛、池田龍雄らと共に名前を連ねていることを考慮に入れると、若手の頃から相当の実力と共に、深い信念を持っていることが理解できる。そしてそれは、今日の作品を見ることによって証明される。
fig.2 2011年渡辺皓司展 展示風景
渡辺は地球温暖化が騒がれた時期、自宅の庭で飼育している鶏の餌の昆虫が全く取れなくなったことに気が付いた。地球規模の問題が身近であることに呆然としたのだ。この後テーマを「いのち」とし、人間の勝手に因って自然が変形させられる姿を、異様な形の鳥や魚などの生き物を描くことによって表し続けている。およそ二年に一度、個展を開催している様子である。
fig.3 2011年渡辺皓司展 展示風景
渡辺はゆう画廊の6階のスペースに大型作品を、5階のスペースに小品を展示した。小品も丁寧に描いているが、やはり大型の画面に目が行く。画面に描かれている歪な生き物よりも、それらが漂う空間性に圧倒される。それは様々なイメージがコラージュされることなく連動し、一つの意志が継続されていることを示している。物語に陥らず、一枚の絵画として立脚している。
fig.4 2011年渡辺皓司展 展示風景
グロテスクな様相からシュルレアリスムを連想させるのかも知れないが、渡辺は無意識を掘り出そうとしているのではなく現実を掘り起こそうとしているので、それに当て嵌まらない。かといって桂川寛や山下菊二の様に体制に対して直接的な否を叩き付けるのではなく、中村宏のようにイマージュを解体して現実に突き付けるのでもない。渡辺は、飽くまで「現実に忠実」でいようとする。
fig.5 2011年渡辺皓司展 展示風景
渡辺の作品は、日本敗戦後美術の正統派である。その理由は、大東亜戦争、原爆、敗戦、朝鮮戦争、公害病、環境破壊、スリーマイル、東海村、チェルノブイリ危機、ソ連崩壊、日本経済破綻、福島原発事故と、人間が犯した過ちによる肉体と精神の崩壊を「現実に忠実」に、そして冷静に見て、その上でその都度、「いま、ここ」に作品制作を続けているからである。
渡辺は政治が自分にとって遠い近いという距離の問題ではなく、政治が現実であることを知っている。だからこそ、現実に対して画家の目から忠実に目撃し、冷静に作品として昇華させていく。この作業に、その都度新たな気持ちを注いでいる。1950年代であろうと今日であろうと、現代美術にとってはその瞬間を切り取る行為として等価なのだ。渡辺は「日本戦後美術」としてもっと評価されるべきである。
渡辺は、個展は二年に一度であっても、日本アンデパンダン展には毎年、大型の作品を出品している。日本美術会には、渡辺のような実力者が多く存在する。莫大な作品数に呆然とするが、無鑑査だからこそレベルの高い作品と出会える。その作家たちがもっと個展を開催し、その力を示すことが、売り絵ばかりが立ち並ぶ今日の画廊に必要なことであると、私は強く思うのである。
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