2014年4月25日金曜日

レビュー|日影眩展 フログズ・アイの大展開、大転回、そして大天界

展覧会名|日影眩展 フログズ・アイの大展開、大転回、そして大天界 
会期|2011630日(木)~1011日(火) 

会場|池田20世紀美術館


執筆者|宮田 徹也




fig.1 日影眩展展示風景 提供:日影眩

池田20世紀美術館は現代美術の作家の個展をよく開催するので、今回の展覧会も、日影が1936年生まれで30年のキャリアを持っていようと決して回顧展には陥らず、1982年以来の代表作と新作も含めた37点が展示された。日影はグラフィックデザイナーとして活動を開始、1960年には日本宣伝美術会の作品公募に入選、イラストレーターとして活動するが、1980年代にアーティストに転身、1994年からニューヨークに活動の拠点を構える。画面における見上げる構図が盗撮の元祖とも言われている。

fig.2 日影眩展展示風景 提供:日影眩

会場を巡ると、日影の変遷が明らかになっていく。確かにニューペインティング調のイラスト的絵画から、電子機具や日用品が人物と一体化した作品を経て、ニューヨークの日常をリアリズム絵画的に描いていく感触をつかむことはできる。デザインから美術への転換と、時代の推移と共に場所の移動が日影の制作を変容させていると言うこともできるのであろう。しかし日影は現代美術を描いていると私は考えているため、そのような発展史観を求めることはできない。

fig.3 日影眩展展示風景 提供:日影眩

その所以は、カタログに記される日影の言葉(「フログズ・アイの大展開、大転回、そして大天界」)にある。「最近になって仲間の一人は「あなたがマンガを初めてアートにした」と言い、批評家の一人は「若者が皆、日影さんの後を追った」と評してくれた。確かに今はジャパニーズ・ポップとされる表現の影響で若者が漫画スタイルを取る場合が多くなった。けれどそれらはポップ式に漫画スタイルを引用しているのであって、漫画のアート化を目指していない。私が40年前に始めたことを実際はまだ誰1人始めてもいない。つまり通俗画をアートの高みへという道である」。

fig.4 日影眩展展示風景 提供:日影眩

興味深い内容である。サブカルチャーからアートへの引き上げは「引用」であり、通俗画「そのもの」がアートになるべきである。確かに近年、サブカルチャーどころか生人形や日用品さえも「アート」として括っている傾向がある。その裏を返せばローカルチャーをハイカルチャーとしてあげるぞという、上から目線が深く介在している感がある。そして、あらゆるものを「アート」という権威が呑み込み、膨張している印象も受ける。これはファシズムという語彙以外に、当て嵌まる言語は存在しない。

fig.5 日影眩展展示風景 提供:日影眩

日影が「アートの高み」と書いたとしても、それは皮肉に他ならない。日影は「アート」を権力の座から引き落とし、文化本来の民主的な姿を取り戻そうとしているように、私には思えてならない。日影は同カタログでリアリズムについても触れている。「現代の人々は写真こそが究極のリアルだと信じ込んでいる。(中略・引用者)実際は、それは機械の生み出す個別的な写像で、象徴化されていない。言葉を支えているのもそれだが人間にとって大切なのは象徴化作用である」。

日影はリアル=リアリズムとは象徴化であるとする。日影は下から見上げる形は「記憶に基づく絵」(同カタログ)であるというが、自らの視線の介在を象徴化することこそ、リアリズムであると私は再定義する。そう、日影の作品は、すべてリアリズム絵画であるのだ。1850年代のG・クールベと同様なのである。クールベは自由を欲し、勲章を拒絶した。日影はクールベ、セザンヌ、クレーに続く写実主義の系譜に位置し、それ以上に「象徴化」を重要視している。現代を描くには、フログズ・アイ=蛙目が不可欠と判断したのだ。 

蛙目とは批評の瀬木慎一が日影の作品群について、早くから名付けた定義である。蛙が下から上を見上げる視線は、鳥が上から下を見る鳥瞰と対比するだけではない。瀬木は同展カタログ(「作家論に代えて」)で以下のように記す。「ほとんど全面的な「フログズ・アイ」、上方に広がる晴天とそれを感じさせる室内、昼夜に問わず、そこに流れるcleanな空気。そのアングルがどんなに急角度だとしても不純なものは一切なく、悪意の生じる暴露性が皆無であること、これは全く異例のことと思います」。

「暴露性が皆無であること」は、日影の作品に盗撮的要素がないことを示し、日影の正当性を擁護している。大切なのは「不純なもの」が一切無いという指摘である。瀬木は日影の正当性を問うことよりもむしろ、日影のリアリズムを強調していたのではないかと文脈から読み取ることが出来る。リアリズムとは神からの視点では不可能であり、常に描く者の主観が付いてまわる。しかしその主観を可能な限りクリアになる努力をすればするほど、物事の本質に近づくのではないだろうか。


そして日影は色彩について同カタログで言及する。「色は時を表す。(中略・引用者)時は一切を滅ぼす」。仏教的な「滅法」を引き合いに出すよりも、ここではWベンヤミンのいう「いま、ここ」を思い起こすことが相応しい。何気ない日常を描き続ける日影の作品は、作品が時代を背負っているのではなく、時代が作品を背負っている。その時代の「いま、ここ」が連続しているに過ぎない。我々は作品に目を向けるのではなく、我々も渦中にいる時代に目を向けなれば、日影の作品の本質に届くことができない。

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