日時|2014年4月22日(火) 6時限(17時10分〜18時30分)
場所|東北芸術工科大学 本館
講義|芸術文化原論
場所|東北芸術工科大学 本館
講義|芸術文化原論
話者|小金沢 智
はじめに
小金沢です。この度は呼んで下さりありがとうございます。
最初に簡単に自己紹介をさせていただきます。東京にある世田谷美術館で非常勤学芸員として主に収蔵品の調査・研究にたずさわりながら、分館 宮本三郎記念美術館のワークショップやコンサート、講演会の企画など教育普及事業も担当し、個人的な仕事として美術雑誌や展覧会カタログなどに評論を寄稿したり、作家と一緒に展覧会を作り上げたりということをしています。執筆の仕事では、一例を挙げると、『月刊ギャラリー』という雑誌で「評論の眼」という主に展覧会批評の連載を、2010年の秋から書いています。また、画家の諏訪敦さんの二冊目の画集で『どうせなにもみえない』(求龍堂、2011年7月)という本がありますが、この本の作品解説はほとんど僕が書かせていただきました。展覧会では、主に日本画出身の作家と、ガロン、イマジンといったグループにそれぞれ属して活動をしています。あとでその理由を説明させていただきますが、あまりジャンルにこだわらず仕事をしようとしています。
1982年生まれなので、現役の大学院生のみなさんより10歳くらい上になるでしょうか。主に関心の領域にあるのは、日本の近現代美術です。学部の卒業論文では、幕末・明治の日本の転換期を生きた河鍋暁斎の作品論を書き、大学院の修士論文では、抽象絵画、シュルレアリスムが当時最先端の美術動向としてあったパリで1930年代を過ごした岡本太郎の作品論を書きました。ジャンル分けをするなら、河鍋暁斎は日本画、岡本太郎は洋画です。かつ時代も違いますから、まっとうに美術史を研究しようとするなら、そうやって学部から大学院に進んだくらいでジャンルを変えたり時代を変えたりということは普通しないんですね。というか、先生から奨励されません。とはいえ、二人に共通するところもあって、それは、時代が大きく変わりつつあった時代を生きた作家であるということです。幕末・明治であり、戦間期であり、そういった時代の変化、社会制度や価値観が大きく揺れ動く時代の中で作家がどのように生き、作品を作っていたかということが、僕の大きな関心のひとつです。これは作家にとっての、ある種の外圧が、作品にどのような影響をもたらすか、と言い換えることができるかもしれません。
今年の二月、日本画コースの卒展イベントで僕を呼んでいただきましたが、そのとき、洋画・版画コースでは美術史家の山下裕二先生を呼ばれていました。残念ながら大雪の影響で来ることができませんでしたが、僕が大学、大学院で教わったのは、その山下先生です。僕は、山下先生に対する照れがあって、直接こういうことは言ったことがないですし、人にも言わないようにしているのですが、最近、つくづく僕は山下先生の影響を強く受けているなと思います。それは、山下先生が好きな作家や作品は自分も好き、というような、フォロワーとかファン的な意味ではなくて、もっと原理的なところで僕は山下先生から多くのことを学びました。この「芸術文化原論」で講義をさせていただくのは今年で三回目になりますが、今日は、この講義の主題として三瀬さんからうかがっている「芸術とは何か?」ということを、僕が山下先生から学んだものを出発点にして話を進めていきたいと思います。
最初にお断りしなければなりませんが、もしかしたら、今日の講義の中で、今、日本にかぎらず世界の現代美術はこういう動向で、こういうものが人気であるとか、注目されているとか、傾向がある、そういうことを聞きたいという人がいるかもしれません。ただ、残念ながら今回はそういう話にはなりません。そういうところとは別の観点から美術を考えたいという気持ちがありますので、今日の話は具体性に欠けて、抽象的なように思われるところが多いと思いますが、できれば我慢して聞いていただいて、話していることから自分の問題を掴んでいただきたいと思っています。
思考を澱ませず、硬直化させず、常に流動化させようと動き回ること
最近、山下裕二先生と高岸輝先生の二人で監修された、『日本美術史』という本が美術出版社から刊行されました。縄文時代から現代までの日本美術史の通史で、各時代、各分野それぞれ専門の方が執筆されています。その冒頭に、山下先生の「日本美術史を更新するために」という4頁ほどの文章が載っていて、それが山下先生の性格を非常によくあらわしていると思いますので、僕が重要だと思うところを一部紹介させて下さい。読み上げます。
「美術史は、いやすべての歴史観は、更新されなければ澱んでしまう。硬直化した歴史観に基づく人々の営為が、いかに不毛な結果をもたらすか、多くの善良な人々は身に染みてわかっていると思う。だがそれでも、ごく少数のそれをわかっていないのに権威になってしまった人々によって、歴史は書き変えられぬまま硬直化し、不幸な状況がつくり出されてしまう。そんなことがあってはならない。
文献による歴史学においては、気が遠くなるような研究の蓄積のもと、慎重な改訂作業がなされている。だが幸い、美術史においては、時として旧来の歴史観を吹き飛ばすような新出作品が見出されることもあるし、旧来知られていた作品の解釈が一変することもある。ようするに、「モノ」が数百年、数千年の時を経て、いま、ここに厳然として存在するからこそ、アクチュアルな歴史観を更新することが可能なのである」(山下裕二、高岸輝監修『日本美術史』美術出版社、2014年、3-4頁)
難しいことを言っているわけではないので、特に解説も必要なく、そのまま意味を理解していただけると思います。つまり、歴史を硬直したものではなく流動的なものとして考えるということ、そしてそのために、作品を新たに発見する、また新たに解釈するための柔軟な思考を持ちなさい、ということです。これが言わば山下先生の思想の根本にあるところで、先ほど申し上げた、僕が山下先生から学んだ原理的なところというのはそういうことです。
もう少しつっこんで言うなら、これは、「わからないものをひきうけなさい、そして自分の言葉を手に入れなさい」ということではないでしょうか? 「わからないものをひきうけること、そして自分の言葉を手に入れようと試みること」、僕は今日講義で話をさせていただくにあたってこの二つのことを、芸術を考えるにあたって非常に大事なものとして話したいと思うんですね。わからないものをひきうけるということは、思考を硬直化しないということ、自分の言葉を手に入れるということは、そのわからないものを自分の目でしっかり見ようと試みてみるということです。
大学のとき、山下先生は頻繁に、自分の足を使いなさいとおっしゃっていました。美術館やギャラリーに展覧会を見に行く、あるいは寺社仏閣を訪れる、そうやってとにかく自分の足で作品がある、表現がある現場を訪れて、自分の目で見て考えなさいということをおっしゃっていました。今、なにか調べようとしたらインターネットが非常に便利ですし、見たい作品がネット上に載っているということもありますよね。でもおそらく美術を見るということは、僕は、自分が見たいものを見るだけではないと思うんです。インターネットでも思いがけないものに出会うことがありますが、でも未知の作品との出会いということを考えたとき、僕は実際にからだを使って歩いて見て回るなかで、それを果たしたいという気持ちが強くあるんですね。だから、自分の専門とするジャンル以外の美術も見る、あるいは美術以外の表現も積極的に見る、聴く、体験する、そういう中で自分が知らないもの、わからないものに出会うということが、芸術それ自体を考えるときに非常に重要なのではないかと思うからです。これが、自分が美術について文章を書く、考える、展覧会を作るといったときの、ベースになっています。
それは、自分の思考を澱ませない、硬直化させない、常に流動化させようと動き回るということです。この講義を受けているみなさんの中には、あるいは、ひとつのことを徹底的に続けていきたいという方もいらっしゃるでしょう。でもひとつのことを続けていくということは、常に自分がそれを新鮮な目で見るということができないといけないと思うんですね。そうでないと、ただのルーティーン・ワークになってしまうし、それが創造的な仕事であるかと問われたら、僕は難しいと言わざるを得ない。そうやって自分の思考をある意味ではゆるやかなかたちのままにしておくことで、非常にフレキシブルに物事を考えるということができるんじゃないか。これは、自分というものがないということではなくて、それが自分の核や軸がどこにあるのかというところをむしろ知らせてくれて、自分の状態をそういう風にしておくことが、自分の思考を拡張させるために非常に有効なのではないか、ということです。また、美術を考えるということは、なにも美術だけを勉強すればよいというわけではない。文学、科学、物理学、数学、民俗学、人類学、医学、そういったものとの関係性の中で美術を考えるということも大事なことです。東北芸術工科大学の学生は、この東北の風土における信仰や歴史を含んださまざまな環境から作品を組み立てようとしている人が多いように感じますから、このことは比較的理解していただきやすいのではないでしょうか。実際、私たちの思考は時代や居住する環境に大きく影響を受けていますから、美術のことを美術のことだけで考えるということはとても難しいし、不自然であるとも言えるわけです。
一方で、非常に個人的なレベルでなにかを考えているということもあります。だから、自分がいったいなにもので、どういうことを考えているのか? そのことにしっかり向き合う必要があります。そして、そのためには、私以外の世界を知らなければならない。他者を知ろうとすることが自分を知ることに繋がり、その絶え間ない思考の往復が、自分、そして自分の世界を大きく拡げることであるということを、僕は強調したいと思います。なにかものを考えるということはそういうことであって、つまり、美術、芸術を考えるということも、そういうことなのではないでしょうか。
去年のこの講義でも紹介させていただきましたが、今年もE.H.ゴンブリッチの『美術の物語』という本に書かれている一節を紹介したいと思います。1950年に出版されて以来、35カ国語に翻訳されている世界的ベストセラーの美術書ですが、ゴンブリッチはその序章「美術とその作り手たち」をこのような文章ではじめました。
「これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。大昔には、洞窟の壁に、色土でもってバイソンの絵を描いた人がいた。現代では、絵具を買ってきて、広告板に貼るポスターを描いたりもする。人はいろんなものを作ってきたし、いまも作っている。そういう活動をみんな美術と呼ぶのなら、さしつかえはない。美術といっても、時と所によってさまざまだということを忘れてはならない。普遍的な「美術」が存在するわけではないのだ。ところが、いまや「美術」が怪物のようにのさばり、盲目的な崇拝の対象になっている。だからある画家をつかまえて、あなたの作っているものはすばらしい、でも「美術」ではない、と言ったら肝をつぶすかもしれない。また絵を見て楽しんでいる人に、あなたの好きなのは「美術」ではなく、なにか別のものなのだ、と言ったら面食らってしまうだろう」(E.H.ゴンブリッチ『美術の物語』PHAIDON、2011年、21頁)
世界的ベストセラーの美術書の著者が、その冒頭で、「普遍的な「美術」が存在するわけではない」と書いているのは、とても面白いことではないでしょうか?つい私たちは、普遍的なものを求めてしまいがちです。変わらないもの、永遠なもの、あるいは、正しいもの。そして、変わるもの、永遠ではないもの、悪しきものを退ける。しかし、普遍的なものなんていうのは存在しないのではないか。正しいものが、悪しきものに逆転することが往々にしてあることを歴史は教えてくれます。したがって、普遍的なもの、そういうものが存在すると考えること自体、僕はある意味では非常に危険なことではないかとも思うんですね。なぜならそれは、自分が考える普遍的なもの以外は排除するという、独裁、独善的な思考に行き着きかねないからです。「硬直化した歴史観」という言葉を山下先生は使いましたが、硬直化した思考は、相容れないものを排除することを厭いません。僕が考える美術というものは、それから最も遠い。なぜなら、僕が考える美術は、「この世界を私はこう見る、解釈する、分析する」というひとつの提案だからです。一人一人見ている世界は異なるはずなのに、さも同じ方向を見せられている、同じことを考えさせられているような感覚を覚えることが、日常的にありませんか? そしてそういうものを、非常に息苦しく感じることがないでしょうか? 美術は、そういう全体的なものに抗するひとつの力であると僕は思います。ガチガチに固められた思考や態度にすきま風を通す、あるいはもっと言えば風穴をあけるようなものとして、美術を考えたい。そのためには自分も硬直化せず、流動的であらなければならない。さながら旅人のように。
もちろん、その時々の判断はしなければなりませんよ。作品を作るということだけではなく、評論を書く、展覧会を作るということも、その時々での価値判断を下す、ジャッジするということです。けれどもそのジャッジに留まり続けてはならないのではないか。自分がわからないものに触れることや、わからないものに留まること、そういうことを通じて、自分がなにを考えているのかというところに辿り着こうと試みること。子どもが言葉を喋ることができるようになるのは、そこに自分以外の他者からの学びがあるからです。わからないなりに、それを真似してみる、口に出してみる、そうやって積極的に他者の存在に触れることで、ようやく自分の言葉が構築されていく。美術もそういうものではないのかと僕は思います。自分ひとりの考えだけでどうにかなるものではない。僕の好きな松本竣介という画家の言葉に、こういうものがあります。
「現実がそのまゝで美しかつたなら、絵も文学も生まれはしなかつた。そして現実生活の一部分にでも共感するものがなかつたなら文章を絵も作られはしない」(松本俊介「雑記帳」『雑記帳』第1巻第3号、1936年12月。引用は、『新装増補版 人間風景』中央公論美術出版、1990年、137頁)
美術は個人的であり、主観的でありながら、それを作り上げるためには他者の存在、自分以外の世界の存在が不可欠である。竣介はそういうことを言っているのではないでしょうか。
「日本画」をめぐる思考から
抽象的な話が続いてきましたから、ここで、少し具体的な話をしたいと思います。いや、あまり具体的ではないかもしれませんが、聞いて下さい。
学部時代に河鍋暁斎を研究したことがきっかけとなって、僕は今に至るまで「日本画」に対する関心を持ち続けてきました。それは、ただその作品が好きだとか気になるということではなくて、「日本画とは一体何か?」ということです。今、この教室の中にも、日本画を専攻している学生がいると思います。本当は、ここで誰かしら指名して、「あなたにとって日本画はと何ですか?」ということをやってみたいのですが、残された時間ではそれを収拾できる気もしないので、やめておきます。つまり、僕は「日本画」を岩絵具や和紙といった画材の問題では考えたくなくて、絵画の中のひとつのジャンルを意味する言葉の中に「日本」という言葉が入っているのはどういうことか? ということを考えたいんですね。明治に日本国家が成立して以来、ある絵画のジャンルに「日本」が冠せられてきたということはどういうことなのか、ということを考えたい。これは、作家によっても、研究者によっても、さまざまな考え方があるので、一様に答えを出す、出せるというものではありません。ただ、自分は自分の問題として、このことを考え続けたい。なぜかというと、「日本画」を考えるということは、先ほど申し上げた「わからないものを引き受ける、そして自分の言葉を手に入れようと試みること」にほかならないからです。
ひとつ例を挙げましょう。日本画家の菱田春草(1974-1911)は、わずか37歳で亡くなった夭折の作家ですが、その生涯は明治期にすっぽり入っています。その菱田春草が、日本画についてこういうことを言っています。
「現今洋画といわれている油絵も水彩画も又現に吾々が描いている日本画なるものも、共に将来に於ては―勿論近いことではあるまいが、兎に角日本人の頭で構想し、日本人の手で制作したものとして、凡て一様に日本画として見らるる時代が確かに来ることと信じている」(菱田春草「画界慢言」『絵画叢誌』275、1910年3月、引用は佐藤道信『〈日本美術〉誕生』講談社、1996年、96-97頁)
つまり、明治時代になって開国した日本に、西洋から油絵の技術が本格的に入ってきて、それが官製の美術学校で教えられるようになった。洋画と呼ばれることになるものがそれですが、一方で、それまでの日本絵画の諸流派をさながら統合するようなかたちで「日本画」という言葉も生まれ、浸透していった。それまでは、宋、元、明、清といった中国絵画の画題や手法による日本絵画を「漢画」といったり、またそれを日本化する過程で生まれた絵画のことを「やまと絵」といったりして、それぞれ得意とする流派がいたわけですね。漢画であれば狩野派、やまと絵であれば土佐派といった具合に。しかし、明治時代になると幕府がなくなり、藩が解体され、そういった場所で仕事を請け負っていた画家たちは、ことごとくクライアントを失い、流派を存続できなくなります。
「日本画」の成立はそのことともちろん無関係ではなくて、「日本画」は、そういったこれまでの流派なりそれらが得意としてきた画風を、新たな時代の中で統合するという意味合いがあった。一方で、洋画は日本の伝統美術を擁護する、言わば国粋主義的な観点から排斥され、東京藝術大学の前身である東京美術学校が開設された1887年当初は、洋画を学ぶ学科は設置されていませんでした。菱田春草の言葉は、亡くなる前年の1910年のもので、その段階では既に東京美術学校にも洋画科が設置され、文展において日本画、洋画という枠組みができていたのですが、菱田春草はそういった時代の流れの中で、洋画か日本画かという二元論を超えてものごとを考えなければならないと考えていたのだと思います。
これは非常に柔軟な思考で、すっきりするところがあると思うんです。「日本人が描いた絵画は日本画である」、つまり、そこには岩絵具か油絵具か日本か西洋かといった問題は解決されているわけですね。しかし、現在の視点から考えると、では、「日本人」とは何か?という問題もここでは持ち上がってくるでしょう。日本人とは、一般には日本に国籍を持つ人間と考えることができると思いますが、では日本国籍を持たず、しかし日本に住んでいる人たちが描く絵画は、なんと呼ぶことができるのでしょうか? あるいは、日本国籍をかつて持っていたが、今は別の国籍を有している、そういった人たちが描く絵画は、なんと呼ぶことができるでしょうか? 僕はこれに答えることができません。
一方で、日本画を日本画と呼ぶことをやめ、洋画を油彩画(油絵)と呼ぶように、画材の名称にするべしという考え方もあります。星野眞吾(1923-1997)は、伝統的、形式主義的な日本画と自らの作品を区別する意味で、「膠彩画」という言葉を用いました。星野眞吾は、日本画が担ってきた、あるいは担わされてきた「日本」の「伝統」から、そうやって積極的に距離をとろうとした。これもひとつの解決策です。ただ、解決策ではあるのですが、僕はそこに少し物足りないものも感じてしまいます。つまり、そこには想像力の余地がないんです。膠彩画と呼んでしまうと、それはある画材による絵画という以上のものを持ちえない。日本画が日本画という名称であるがゆえに紡がれてきた歴史があり、作家の自負があり、困難があり、言ってしまえば日本画であるがゆえの呪縛があるとして、それらをすっぱり断ち切ってしまうことが、よいことであるとも中々思えないんですね。
2012年の春に、作家の市川裕司さんとイマジンというグループを作って活動をはじめました。そこでは、日本画出身の比較的世代が近い、あるいは僕たちより若い作家に声をかけて、drawer(引き出し)という名称で、「A3程度の紙面で制作のプロセスからうかがえる「日本画」について表出された事柄」を制作して下さいとお願いをしています。自分の制作の中で、日本画がどう表出されているか、絵画でも、言葉を使ってもかまわないので、とにかくA3のサイズ内にそれを描いて/書いてみてくれないか、ということです。現時点で24名の作家にこれを書いてもらっているのですが、それを見ての感想として僕が抱いたのは、「日本画」を考えるということが今ラディカルな行為ではないのではないか、ということです。つまり、日本画というお題で依頼しても、提出されるdrawerは、自分の制作テーマが述べられているものや、下絵のようなものが多く、添えられた言葉としても歴史的、制度的な意味合いから日本画を考えるということはほとんどなされていないんですね。もちろん、日本画のことは考えていてなお、こうである、ということなのかもしれません。無理やり捻り出してもらうのも違うと思っていますが、それにしてもこれほどまでに日本画に対して触れない方が多いという現在の状況に、僕は少なからず驚きました。これは考え方によっては、これまでの日本画についての研究と討論の蓄積が、やっとかたちを結んだのだと考えることもできるでしょう。もはや、日本画論は必要ないくらいに、日本画は、日本人が描けば日本画であるということになっているのかもしれません。そう考えれば、歴史の進歩という意味ではとても喜ばしいことで、まさしく春草が願った世界が到来しているのですが、本当にそれでよいのだろうか、という気持ちも僕にはあるんです。
今日、冒頭から何度も言っていることですけれど、僕は、芸術を考えるというときに、自分以外の他者、すなわち「わからないもの」を引き受けなければならないと考えています。そうしないと思考が澱み、からだが重くなり、身動きが取れなくなるからです。その観点から考えると、現在の日本画に対する状況は、あまり喜ばしいものではない。日本画という、「わからないもの」、「定義できないもの」、「解決できないもの」がある。しかしそれは、いくら考えても定義できず、解決できず、わからないものでありつづけるという意味においてこそ、その価値があると僕は思うんです。これほど、考えがいのあることは中々ないと思うんですよ。歴史、制度、ナショナリティ、画材、そういった絵画をめぐるいろいろな問題をどれだけ放り投げてもへっちゃらみたいな底知れない深さが日本画にあるのではないか。もちろん、日本画でなくてもいい。洋画でも彫刻でも写真でも版画でもインスタレーションでもなんでもいいのですが、そういうひとつのジャンルにおける原理的なことを考えてみるということは、とても大事なことで、それが自分の思考の基礎体力をつける。
今年の二月、「日本画(仮)部」(ニホンガカッコカリブ/通称:カリブ)という部を立ち上げて、僕が部長で活動をはじめました。日本画を未だ定義されていない、仮称のものとして考え続けようという部活です。これは、東北芸工大で三瀬夏之介さんと鴻崎正武さんが中心になってされている「東北画は可能か?」の「可能か?」というところに、少なからず影響を受けているというところがあります。だから目的は、考え続けることにあって、「日本画」が定義できるものであるとは僕は思っていません。なぜなら、わからないところに積極的に身を置き、考え続けることによってこそ、自分の思考が磨かれると考えているからです。もしかしたらその果てに、自分の言葉を手に入れることができるかもしれない。あくまで、かもしれない、ですが。
美術史というものがあり、あるいは歴史自体でもかまいませんが、私たちはそこからさまざまなことを学ぶことができるでしょう。こうしなければよかったのではないか、という誤りや、こうした方がいいのではないか、という提案をそこから受け着ことができます。けれどもここで勘違いしてはいけないのは、そうやって歴史的に出された回答というのは、他人がその環境の中で出した回答なんですよ。自分が辿り着いたものではない。だから、それをそのまま受け取ってもいけないんです。もちろん大事なものとして考える必要があるのですが、それを知った上で、じゃあ自分はどう考えるかということを考えなくてはならない。人が必死になって辿り着いた回答を、さも自分が出したもののように考える、そういうことはしてはいけないと思います。
終わりに
今日は、最初から最後まで、作家やその作品を紹介するということではなくて、そういうものとはちょっと意図的に距離を置いて、話をしてみました。多分、大学院生くらいになると、制作においても、なにか考えるにあたっても基本的な力がついてきて、こういうことをやってみたいということがあり、それに向かって努力をしている、そういう時期なのではないかと思います。これから自分ができることに対していろいろな希望を持っていることでしょう。
今日は、最初から最後まで、作家やその作品を紹介するということではなくて、そういうものとはちょっと意図的に距離を置いて、話をしてみました。多分、大学院生くらいになると、制作においても、なにか考えるにあたっても基本的な力がついてきて、こういうことをやってみたいということがあり、それに向かって努力をしている、そういう時期なのではないかと思います。これから自分ができることに対していろいろな希望を持っていることでしょう。
その中で僕が敢えて言いたいことは、そういう意思はもちろん大事にしながら、しかしそれでも自分を固定化させないようにして欲しい、ということです。自分以外の世界に対して開かれた思考を持ち続けること。これは、自分を疑ってみるということでもあります。自分の純粋さや、不変さを信じたい、ありのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちがもしかしたらあるかもしれませんが、そんなものはまやかしであると考えてみて下さい。作品制作においても、自分を受け入れてくれる人と一緒にいれば気持ちがいいですが、そこに本当に新たな展開があるのか考えてみて下さい。こういったことは一見、制作とは直接関係がないかもしれませんが、一方でそういった態度を持ち続けるということが、作品を作るときの新しい展開の可能性を生み出すのではないでしょうか。僕自身、思考を澱まないように気をつけながら美術を考え続けたいと思いますので、みなさんもどうか澱まずに、これから作品を作り、研究をし続けて欲しいと思います。それではこれで、今日の僕の話を終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。
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