2014年4月21日月曜日

レビュー|鈴木省三「天空が近づく」

展覧会名|鈴木省三「天空が近づく」
会期|2011825日(木)~27日(土)

会場|The Artcomplex Center Tokyo


執筆者|宮田 徹也



fig.1 鈴木省三展展示風景 撮影:飯村昭彦

この展覧会は私が企画した。企画者が批評すると自画自賛になるのでご法度と言われるが、神奈川県立近代美術館の土方定一は自己が企画した展覧会について、積極的に新聞に長所と短所を書いた。それに倣って批評する。

60代半ばの鈴木省三は、最早ベテランの域を超え、孤高の存在として絵画を描き続けている。目黒区美術館、府中市美術館などの重要な展覧会に参加し、最近では東京国立近代美術館「プレイバック・アーティスト・トーク展」(2013年)で作品を出品し、インタビュービデオも公開した。「天空が近づく」の前は、2009年末に茨城県立近代美術館の「眼をとじて−“見ること”の現在」展で一室が与えられていた。この展示が今回のヒントになったことは言うまでもない。

鈴木省三が「死ぬ前に、自分の作品の前でダンスが行われるのを見たい」と、ぽろり呟いたことを知ったのが企画の始まりだった。鈴木の近作は、見る者がトラウマになってしまうのほどの恐ろしい破壊力を持つ。ここで踊れるダンサーとはベテランではなく活きがいい、今日最も輝いている者でなければならない。そのため舞踏にこだわらず、私が年間150本は見ているダンス公演の中から、三者を選出したのであった。展覧会が始まって分かったことだが、鈴木は若き頃、舞踏者たちと交流があった。

私は展覧会名を「天空が近づく」とした。鈴木の作品の特徴は、画面手前と奥行の振幅にある。この水平に広がる世界観に対して、ダンサーは垂直な動作が課題となる。「天空に近づく」とすると、天に上っていくイメージが発生する。広大に広がる地平線にダンサーが舞うことによってアトラスの膝が瓦解し、天が堕ち、文明は崩壊、我々が滅亡しても絵画とダンスが残る印象を出したかった。何故なら、鈴木は私の3.11に対する質問に対して、「自分は地球が太陽に呑み込まれる瞬間まで描き続ける」と答えたからだ。

fig.2 鈴木省三展展示風景 撮影:飯村昭彦

出品作品は、鈴木が直前まで描いていた100号の油彩17枚組である。後に鈴木から、この作品群を何千万の《天空が近づく》連作として一枚売はしないことにしたと聞いた。この展覧会で最も重要なのは、作品と作品の間にある50cm程度の隙間である。隙間を柱に見立て、その背後に作品が存在するという地と図の反転を鈴木は試みたのであった。私は会場を何度も廻った。その度に記憶され、忘却の彼方に置き去りにされる絵画の連続性の恐怖と、自己が人間である限界を思い知らされたのであった。

三日間、11時から18時迄が展覧会であり、僅か一時間で照明、音響、客席を作って一日にダンサー一人の公演を行った。客席の作りは各ダンサーに委ねた。初日は相良ゆみ「アプローチ」であった。相良はEikoKoma、大野一雄、及川廣信に師事し、舞踏を超える舞踏を踊ることができる舞踏の第一人者である。日本画家間島秀徳とのコラボレーションを幾度となく、こなしている。相良は会場中心に客席を設け、自らは左回りに、一枚一枚の絵画と対話し、自らの総てを曝け出した舞踏を行った。

fig.3 鈴木省三+相良ゆみ 撮影:宮田絢子

二日目の幸内未帆「天空が近づく」は、前半は録音音楽であったが、後半は伊藤啓太によるダブルベースの生演奏との即興であった。幼少よりクラシックバレエを学び、オペラ、ミュージカル、コンサートツアーなどに出演し、ニューヨークで四年間の留学経験を持つ幸内を、いわゆるコンテンポラリーダンスに枠に嵌める事は出来ない。幸内はスペースの手前に椅子を配置し、会場を劇場に仕立てた。自在に、揺ぎ無く、自らのダンスをキープしながら鈴木の作品を引き出し、引き寄せる踊りであった。

fig.4 鈴木省三+幸内未帆 撮影:宮田絢子

トリをとったのは三者で最も若い永井美里「海を歩く」であった。永井は振付、出演を果たし、構成、演出は所属している団体AAPAの代表である上本竜平が担当した。AAPAは野外、地下、劇場内にも突如、全く別の空間を発生し、演劇的要素を持ち込みながらも公演を形成する。イギリスでコンテンポラリーダンスのメソッドを充分に吸収した永井は、コンテンポラリーダンスを凌駕する発想を携えている。「海を歩く」においても、自己の物語に鈴木の絵画を投入した自らの現在を排出したのであった。

fig.5 木省三+永井美里 撮影:宮田絢子


密度の濃い展覧会とダンス公演が成立したが、反省点も数多くあった。更に作品とダンスが融合する配慮が、私に足りなかった。ミーティングも予算も不足していたと感じた。何よりも美術作品とダンスの融和の難しさがある。M・カニングハム、J・ケージ、R・ラウシェンバーグですらも叶わなかったこの融和は、良し悪しではなく、結果を必要としない、絶えまない実験精神が必要なのだ。その点を強調することができなかったのは、私の研究不足でもある。私自身も、今後、揺るがない実験精神を携えたいと誓った。

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