2014年4月29日火曜日

レビュー|西森禎子展 ZEROの誕生 No.17 ~ブラックホールからの招待~

展覧会名|西森禎子展 ZEROの誕生 No.17 ~ブラックホールからの招待~
会期|20111010日(月)~15日(土)
会場|ギャルリーパリ


執筆者|宮田 徹也




fig.1 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

西森禎子は1941年札幌市生まれ、64年に北海道教育大学美術科を卒業後、67年にヨーロッパ美術研修、翌年フランスで画家オンドレ・キュフェロスに師事し、ポルトガルで児童画を指導し、ギリシャ、アフリカ、中近東史跡探訪を経て72に帰国、横浜に拠点を定め現在に至る。その間にもハンガリー、メキシコ、ポルトガル、サンディエゴ、パリで活躍する。1993年に画集『ZEROの誕生』を刊行する。

画集に寄稿した政治家の高秀秀信は「市民ギャラリーにおけるメキシコやハンガリーの子供たちの作品展示、上海市での日中合作児童壁画や横浜博覧会での大壁画制作指導など枚挙にいとまがないほど、本市の姉妹都市間の児童画交流や国際美術交流に対して、多大なご尽力をいただきましたことに改めて感謝申しあげます」と記している。西森が児童画、壁画を通じて国際的に活動していることが伺える。

同じく画集に寄稿した美術評論家の匠秀夫は「ギリシャの海で、透明な水底深く、大(ママ)古から現世へと息づく壷の世界を発見する(中略・引用者)メキシコの叢林にひっそりと息ず(ママ)く巨石が彼女をとらえる」などと、西森が単なる児童画を描いているのではなく、近代以前の、古代文明からインスピレーションを受けていることを指摘する。西森が単に古代遺跡からモチーフを探り出しているのではなく、古代遺跡が西森を「とらえている」ことが重要な観点となる。

詩人の松永伍一は「彼女は、しかし画壇というものを信じていない(中略・引用者)。一個の表現者として自立し、みずから主題を自分の内面に投げかけ、誰からも知恵を借りずに答えを出そうとしている。(中略・引用者)生命の始源(ママ)に向かって魂の旅をしている。ZEROの発見のために遊行しているのだ。そこで母性が匂い、宇宙の吐息が詩となって匂い、「永遠なる主題こそ祝福されるものだ」という天の声が匂い立つ」と論じる。西森が孤高に、自ら答えを求める姿が茫洋と浮かび上がってくる。

画集刊行から18年を経たこの展覧会が17度目を数えるならば、西森はほぼ毎年個展を開催してきたことになる。私は今回、初めて西森の作品に触れた。高秀の言うように、児童画に貢献してきた通り、近代的な天才趣向は存在せず、純粋な色と形が画面を支配する。匠が考察したように、近代では見出すことのできない有機体がここにある。松永が記した如く、根源的な生命体が描かれている。西森は真にぶれがなく、自らのイメージを追い続けている証左でもある。

fig.2 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

それでも今回のDMで西森は「岩山の細い道を四輪駆動車で15時間登っていくと、その先にラバが待っていた。片道5時間、ラバの背に乗り渓谷を登り下りし、幾つもの岩山砂漠を超える。生死の狭間、ラバと時間を共有する。その瞬間、ブラックホールへ吸い込まれていく。そこで1万年前の輝く洞窟壁画との遭遇(後略・引用者)」。西森の「生命の始源に向かって魂の旅」は、過去に遡るのではなく、時空を超えてブラックホールに巡り合う。

fig.3 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景
それはドンファンを伴わない、C・カスタネダの時空を超える旅を想起させる。カスタネダの一連の著作は文明批判とヒッピー思想の指南が強調されるが、私はもっと根源的な問題を提起しているように思えてならない。人間が存在すること、そこに神は存在しないことを説いているのではないか。あらゆる権威を捨て去り、究極的な自画像を描き出そうとする第一次世界大戦下に発見された現代美術の思想とカスタネダは通じるところがあるのだ。

fig.4 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

すると西森が発見した「洞窟壁画」をモチーフとした作品群が、カスタネダのいう「宇宙の根源の襞」と同様に思えてならない。我々が視覚を中心とした諸感覚で世界の真理を掴み取ろうとするのではなく、感覚を無化した、剥き出しの人間存在そのままの姿で直観的に事象のありようと向き合うこと。その機運は、素材というボディを無視した現代美術の優れた発想を持つ作品や、肉体というマテリアルを消滅させることに徹底した暗黒舞踏に、ほんのたまに見かけることが可能である。

fig.5 西森禎子 ZEROの誕生 No17 展示風景

そのような観点から考察すると、西森の作品とは近代的な絵画であることよりも壁画であること、壁画を我々は近代的な視線で追っているのではないかということ、壁画や児童画の本質は絵画を捨てることなのではないかというような、様々なイメージが派生していく。現代美術とは答えなき問いを発し続けることに特徴がある。その問いを感じ取る者が答えではなく新たな問いとして更に発し続けることに、現代美術の存在意義が発生する。そのような意味で、西森の作品は真の現代美術であるということができる。

2014年4月27日日曜日

レビュー|渡辺皓司展

展覧会名|渡辺皓司展
会期|2011109日(日)~15日(土)

会場|ゆう画廊


執筆者|宮田 徹也




fig.1 2011年渡辺皓司展 展示風景

渡辺皓司は1932年生まれ、青年の頃から日本美術会に所属し、1962年の「ソ連における現代日本美術展」に反対する「日本美術会62年総会への提案」署名者29人の中に朝倉摂、桂川寛、池田龍雄らと共に名前を連ねていることを考慮に入れると、若手の頃から相当の実力と共に、深い信念を持っていることが理解できる。そしてそれは、今日の作品を見ることによって証明される。

fig.2 2011年渡辺皓司展 展示風景

渡辺は地球温暖化が騒がれた時期、自宅の庭で飼育している鶏の餌の昆虫が全く取れなくなったことに気が付いた。地球規模の問題が身近であることに呆然としたのだ。この後テーマを「いのち」とし、人間の勝手に因って自然が変形させられる姿を、異様な形の鳥や魚などの生き物を描くことによって表し続けている。およそ二年に一度、個展を開催している様子である。


fig.3 2011年渡辺皓司展 展示風景
渡辺はゆう画廊の6階のスペースに大型作品を、5階のスペースに小品を展示した。小品も丁寧に描いているが、やはり大型の画面に目が行く。画面に描かれている歪な生き物よりも、それらが漂う空間性に圧倒される。それは様々なイメージがコラージュされることなく連動し、一つの意志が継続されていることを示している。物語に陥らず、一枚の絵画として立脚している。

fig.4 2011年渡辺皓司展 展示風景

グロテスクな様相からシュルレアリスムを連想させるのかも知れないが、渡辺は無意識を掘り出そうとしているのではなく現実を掘り起こそうとしているので、それに当て嵌まらない。かといって桂川寛や山下菊二の様に体制に対して直接的な否を叩き付けるのではなく、中村宏のようにイマージュを解体して現実に突き付けるのでもない。渡辺は、飽くまで「現実に忠実」でいようとする。

fig.5 2011年渡辺皓司展 展示風景
渡辺の作品は、日本敗戦後美術の正統派である。その理由は、大東亜戦争、原爆、敗戦、朝鮮戦争、公害病、環境破壊、スリーマイル、東海村、チェルノブイリ危機、ソ連崩壊、日本経済破綻、福島原発事故と、人間が犯した過ちによる肉体と精神の崩壊を「現実に忠実」に、そして冷静に見て、その上でその都度、「いま、ここ」に作品制作を続けているからである。

渡辺は政治が自分にとって遠い近いという距離の問題ではなく、政治が現実であることを知っている。だからこそ、現実に対して画家の目から忠実に目撃し、冷静に作品として昇華させていく。この作業に、その都度新たな気持ちを注いでいる。1950年代であろうと今日であろうと、現代美術にとってはその瞬間を切り取る行為として等価なのだ。渡辺は「日本戦後美術」としてもっと評価されるべきである。


渡辺は、個展は二年に一度であっても、日本アンデパンダン展には毎年、大型の作品を出品している。日本美術会には、渡辺のような実力者が多く存在する。莫大な作品数に呆然とするが、無鑑査だからこそレベルの高い作品と出会える。その作家たちがもっと個展を開催し、その力を示すことが、売り絵ばかりが立ち並ぶ今日の画廊に必要なことであると、私は強く思うのである。

2014年4月25日金曜日

レビュー|日影眩展 フログズ・アイの大展開、大転回、そして大天界

展覧会名|日影眩展 フログズ・アイの大展開、大転回、そして大天界 
会期|2011630日(木)~1011日(火) 

会場|池田20世紀美術館


執筆者|宮田 徹也




fig.1 日影眩展展示風景 提供:日影眩

池田20世紀美術館は現代美術の作家の個展をよく開催するので、今回の展覧会も、日影が1936年生まれで30年のキャリアを持っていようと決して回顧展には陥らず、1982年以来の代表作と新作も含めた37点が展示された。日影はグラフィックデザイナーとして活動を開始、1960年には日本宣伝美術会の作品公募に入選、イラストレーターとして活動するが、1980年代にアーティストに転身、1994年からニューヨークに活動の拠点を構える。画面における見上げる構図が盗撮の元祖とも言われている。

fig.2 日影眩展展示風景 提供:日影眩

会場を巡ると、日影の変遷が明らかになっていく。確かにニューペインティング調のイラスト的絵画から、電子機具や日用品が人物と一体化した作品を経て、ニューヨークの日常をリアリズム絵画的に描いていく感触をつかむことはできる。デザインから美術への転換と、時代の推移と共に場所の移動が日影の制作を変容させていると言うこともできるのであろう。しかし日影は現代美術を描いていると私は考えているため、そのような発展史観を求めることはできない。

fig.3 日影眩展展示風景 提供:日影眩

その所以は、カタログに記される日影の言葉(「フログズ・アイの大展開、大転回、そして大天界」)にある。「最近になって仲間の一人は「あなたがマンガを初めてアートにした」と言い、批評家の一人は「若者が皆、日影さんの後を追った」と評してくれた。確かに今はジャパニーズ・ポップとされる表現の影響で若者が漫画スタイルを取る場合が多くなった。けれどそれらはポップ式に漫画スタイルを引用しているのであって、漫画のアート化を目指していない。私が40年前に始めたことを実際はまだ誰1人始めてもいない。つまり通俗画をアートの高みへという道である」。

fig.4 日影眩展展示風景 提供:日影眩

興味深い内容である。サブカルチャーからアートへの引き上げは「引用」であり、通俗画「そのもの」がアートになるべきである。確かに近年、サブカルチャーどころか生人形や日用品さえも「アート」として括っている傾向がある。その裏を返せばローカルチャーをハイカルチャーとしてあげるぞという、上から目線が深く介在している感がある。そして、あらゆるものを「アート」という権威が呑み込み、膨張している印象も受ける。これはファシズムという語彙以外に、当て嵌まる言語は存在しない。

fig.5 日影眩展展示風景 提供:日影眩

日影が「アートの高み」と書いたとしても、それは皮肉に他ならない。日影は「アート」を権力の座から引き落とし、文化本来の民主的な姿を取り戻そうとしているように、私には思えてならない。日影は同カタログでリアリズムについても触れている。「現代の人々は写真こそが究極のリアルだと信じ込んでいる。(中略・引用者)実際は、それは機械の生み出す個別的な写像で、象徴化されていない。言葉を支えているのもそれだが人間にとって大切なのは象徴化作用である」。

日影はリアル=リアリズムとは象徴化であるとする。日影は下から見上げる形は「記憶に基づく絵」(同カタログ)であるというが、自らの視線の介在を象徴化することこそ、リアリズムであると私は再定義する。そう、日影の作品は、すべてリアリズム絵画であるのだ。1850年代のG・クールベと同様なのである。クールベは自由を欲し、勲章を拒絶した。日影はクールベ、セザンヌ、クレーに続く写実主義の系譜に位置し、それ以上に「象徴化」を重要視している。現代を描くには、フログズ・アイ=蛙目が不可欠と判断したのだ。 

蛙目とは批評の瀬木慎一が日影の作品群について、早くから名付けた定義である。蛙が下から上を見上げる視線は、鳥が上から下を見る鳥瞰と対比するだけではない。瀬木は同展カタログ(「作家論に代えて」)で以下のように記す。「ほとんど全面的な「フログズ・アイ」、上方に広がる晴天とそれを感じさせる室内、昼夜に問わず、そこに流れるcleanな空気。そのアングルがどんなに急角度だとしても不純なものは一切なく、悪意の生じる暴露性が皆無であること、これは全く異例のことと思います」。

「暴露性が皆無であること」は、日影の作品に盗撮的要素がないことを示し、日影の正当性を擁護している。大切なのは「不純なもの」が一切無いという指摘である。瀬木は日影の正当性を問うことよりもむしろ、日影のリアリズムを強調していたのではないかと文脈から読み取ることが出来る。リアリズムとは神からの視点では不可能であり、常に描く者の主観が付いてまわる。しかしその主観を可能な限りクリアになる努力をすればするほど、物事の本質に近づくのではないだろうか。


そして日影は色彩について同カタログで言及する。「色は時を表す。(中略・引用者)時は一切を滅ぼす」。仏教的な「滅法」を引き合いに出すよりも、ここではWベンヤミンのいう「いま、ここ」を思い起こすことが相応しい。何気ない日常を描き続ける日影の作品は、作品が時代を背負っているのではなく、時代が作品を背負っている。その時代の「いま、ここ」が連続しているに過ぎない。我々は作品に目を向けるのではなく、我々も渦中にいる時代に目を向けなれば、日影の作品の本質に届くことができない。

2014年4月24日木曜日

レクチャー採録:わからないものをひきうけること、そして自分の言葉を手に入れようと試みること


日時|2014422日(火) 6時限(1710分〜1830分)
場所|東北芸術工科大学 本館
講義|芸術文化原論

話者|小金沢 智


はじめに
小金沢です。この度は呼んで下さりありがとうございます。
 最初に簡単に自己紹介をさせていただきます。東京にある世田谷美術館で非常勤学芸員として主に収蔵品の調査・研究にたずさわりながら、分館 宮本三郎記念美術館のワークショップやコンサート、講演会の企画など教育普及事業も担当し、個人的な仕事として美術雑誌や展覧会カタログなどに評論を寄稿したり、作家と一緒に展覧会を作り上げたりということをしています。執筆の仕事では、一例を挙げると、『月刊ギャラリー』という雑誌で「評論の眼」という主に展覧会批評の連載を、2010年の秋から書いています。また、画家の諏訪敦さんの二冊目の画集で『どうせなにもみえない』(求龍堂、20117月)という本がありますが、この本の作品解説はほとんど僕が書かせていただきました。展覧会では、主に日本画出身の作家と、ガロン、イマジンといったグループにそれぞれ属して活動をしています。あとでその理由を説明させていただきますが、あまりジャンルにこだわらず仕事をしようとしています。
 1982年生まれなので、現役の大学院生のみなさんより10歳くらい上になるでしょうか。主に関心の領域にあるのは、日本の近現代美術です。学部の卒業論文では、幕末・明治の日本の転換期を生きた河鍋暁斎の作品論を書き、大学院の修士論文では、抽象絵画、シュルレアリスムが当時最先端の美術動向としてあったパリで1930年代を過ごした岡本太郎の作品論を書きました。ジャンル分けをするなら、河鍋暁斎は日本画、岡本太郎は洋画です。かつ時代も違いますから、まっとうに美術史を研究しようとするなら、そうやって学部から大学院に進んだくらいでジャンルを変えたり時代を変えたりということは普通しないんですね。というか、先生から奨励されません。とはいえ、二人に共通するところもあって、それは、時代が大きく変わりつつあった時代を生きた作家であるということです。幕末・明治であり、戦間期であり、そういった時代の変化、社会制度や価値観が大きく揺れ動く時代の中で作家がどのように生き、作品を作っていたかということが、僕の大きな関心のひとつです。これは作家にとっての、ある種の外圧が、作品にどのような影響をもたらすか、と言い換えることができるかもしれません。
 今年の二月、日本画コースの卒展イベントで僕を呼んでいただきましたが、そのとき、洋画・版画コースでは美術史家の山下裕二先生を呼ばれていました。残念ながら大雪の影響で来ることができませんでしたが、僕が大学、大学院で教わったのは、その山下先生です。僕は、山下先生に対する照れがあって、直接こういうことは言ったことがないですし、人にも言わないようにしているのですが、最近、つくづく僕は山下先生の影響を強く受けているなと思います。それは、山下先生が好きな作家や作品は自分も好き、というような、フォロワーとかファン的な意味ではなくて、もっと原理的なところで僕は山下先生から多くのことを学びました。この「芸術文化原論」で講義をさせていただくのは今年で三回目になりますが、今日は、この講義の主題として三瀬さんからうかがっている「芸術とは何か?」ということを、僕が山下先生から学んだものを出発点にして話を進めていきたいと思います。
 最初にお断りしなければなりませんが、もしかしたら、今日の講義の中で、今、日本にかぎらず世界の現代美術はこういう動向で、こういうものが人気であるとか、注目されているとか、傾向がある、そういうことを聞きたいという人がいるかもしれません。ただ、残念ながら今回はそういう話にはなりません。そういうところとは別の観点から美術を考えたいという気持ちがありますので、今日の話は具体性に欠けて、抽象的なように思われるところが多いと思いますが、できれば我慢して聞いていただいて、話していることから自分の問題を掴んでいただきたいと思っています。

思考を澱ませず、硬直化させず、常に流動化させようと動き回ること
最近、山下裕二先生と高岸輝先生の二人で監修された、『日本美術史』という本が美術出版社から刊行されました。縄文時代から現代までの日本美術史の通史で、各時代、各分野それぞれ専門の方が執筆されています。その冒頭に、山下先生の「日本美術史を更新するために」という4頁ほどの文章が載っていて、それが山下先生の性格を非常によくあらわしていると思いますので、僕が重要だと思うところを一部紹介させて下さい。読み上げます。

「美術史は、いやすべての歴史観は、更新されなければ澱んでしまう。硬直化した歴史観に基づく人々の営為が、いかに不毛な結果をもたらすか、多くの善良な人々は身に染みてわかっていると思う。だがそれでも、ごく少数のそれをわかっていないのに権威になってしまった人々によって、歴史は書き変えられぬまま硬直化し、不幸な状況がつくり出されてしまう。そんなことがあってはならない。
文献による歴史学においては、気が遠くなるような研究の蓄積のもと、慎重な改訂作業がなされている。だが幸い、美術史においては、時として旧来の歴史観を吹き飛ばすような新出作品が見出されることもあるし、旧来知られていた作品の解釈が一変することもある。ようするに、「モノ」が数百年、数千年の時を経て、いま、ここに厳然として存在するからこそ、アクチュアルな歴史観を更新することが可能なのである」(山下裕二、高岸輝監修『日本美術史』美術出版社、2014年、3-4頁)

 難しいことを言っているわけではないので、特に解説も必要なく、そのまま意味を理解していただけると思います。つまり、歴史を硬直したものではなく流動的なものとして考えるということ、そしてそのために、作品を新たに発見する、また新たに解釈するための柔軟な思考を持ちなさい、ということです。これが言わば山下先生の思想の根本にあるところで、先ほど申し上げた、僕が山下先生から学んだ原理的なところというのはそういうことです。
 もう少しつっこんで言うなら、これは、「わからないものをひきうけなさい、そして自分の言葉を手に入れなさい」ということではないでしょうか? 「わからないものをひきうけること、そして自分の言葉を手に入れようと試みること」、僕は今日講義で話をさせていただくにあたってこの二つのことを、芸術を考えるにあたって非常に大事なものとして話したいと思うんですね。わからないものをひきうけるということは、思考を硬直化しないということ、自分の言葉を手に入れるということは、そのわからないものを自分の目でしっかり見ようと試みてみるということです。
 大学のとき、山下先生は頻繁に、自分の足を使いなさいとおっしゃっていました。美術館やギャラリーに展覧会を見に行く、あるいは寺社仏閣を訪れる、そうやってとにかく自分の足で作品がある、表現がある現場を訪れて、自分の目で見て考えなさいということをおっしゃっていました。今、なにか調べようとしたらインターネットが非常に便利ですし、見たい作品がネット上に載っているということもありますよね。でもおそらく美術を見るということは、僕は、自分が見たいものを見るだけではないと思うんです。インターネットでも思いがけないものに出会うことがありますが、でも未知の作品との出会いということを考えたとき、僕は実際にからだを使って歩いて見て回るなかで、それを果たしたいという気持ちが強くあるんですね。だから、自分の専門とするジャンル以外の美術も見る、あるいは美術以外の表現も積極的に見る、聴く、体験する、そういう中で自分が知らないもの、わからないものに出会うということが、芸術それ自体を考えるときに非常に重要なのではないかと思うからです。これが、自分が美術について文章を書く、考える、展覧会を作るといったときの、ベースになっています。
 それは、自分の思考を澱ませない、硬直化させない、常に流動化させようと動き回るということです。この講義を受けているみなさんの中には、あるいは、ひとつのことを徹底的に続けていきたいという方もいらっしゃるでしょう。でもひとつのことを続けていくということは、常に自分がそれを新鮮な目で見るということができないといけないと思うんですね。そうでないと、ただのルーティーン・ワークになってしまうし、それが創造的な仕事であるかと問われたら、僕は難しいと言わざるを得ない。そうやって自分の思考をある意味ではゆるやかなかたちのままにしておくことで、非常にフレキシブルに物事を考えるということができるんじゃないか。これは、自分というものがないということではなくて、それが自分の核や軸がどこにあるのかというところをむしろ知らせてくれて、自分の状態をそういう風にしておくことが、自分の思考を拡張させるために非常に有効なのではないか、ということです。また、美術を考えるということは、なにも美術だけを勉強すればよいというわけではない。文学、科学、物理学、数学、民俗学、人類学、医学、そういったものとの関係性の中で美術を考えるということも大事なことです。東北芸術工科大学の学生は、この東北の風土における信仰や歴史を含んださまざまな環境から作品を組み立てようとしている人が多いように感じますから、このことは比較的理解していただきやすいのではないでしょうか。実際、私たちの思考は時代や居住する環境に大きく影響を受けていますから、美術のことを美術のことだけで考えるということはとても難しいし、不自然であるとも言えるわけです。
 一方で、非常に個人的なレベルでなにかを考えているということもあります。だから、自分がいったいなにもので、どういうことを考えているのか? そのことにしっかり向き合う必要があります。そして、そのためには、私以外の世界を知らなければならない。他者を知ろうとすることが自分を知ることに繋がり、その絶え間ない思考の往復が、自分、そして自分の世界を大きく拡げることであるということを、僕は強調したいと思います。なにかものを考えるということはそういうことであって、つまり、美術、芸術を考えるということも、そういうことなのではないでしょうか。
 去年のこの講義でも紹介させていただきましたが、今年もE.H.ゴンブリッチの『美術の物語』という本に書かれている一節を紹介したいと思います。1950年に出版されて以来、35カ国語に翻訳されている世界的ベストセラーの美術書ですが、ゴンブリッチはその序章「美術とその作り手たち」をこのような文章ではじめました。

「これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人たちが存在するだけだ。大昔には、洞窟の壁に、色土でもってバイソンの絵を描いた人がいた。現代では、絵具を買ってきて、広告板に貼るポスターを描いたりもする。人はいろんなものを作ってきたし、いまも作っている。そういう活動をみんな美術と呼ぶのなら、さしつかえはない。美術といっても、時と所によってさまざまだということを忘れてはならない。普遍的な「美術」が存在するわけではないのだ。ところが、いまや「美術」が怪物のようにのさばり、盲目的な崇拝の対象になっている。だからある画家をつかまえて、あなたの作っているものはすばらしい、でも「美術」ではない、と言ったら肝をつぶすかもしれない。また絵を見て楽しんでいる人に、あなたの好きなのは「美術」ではなく、なにか別のものなのだ、と言ったら面食らってしまうだろう」(E.H.ゴンブリッチ『美術の物語』PHAIDON2011年、21頁)

 世界的ベストセラーの美術書の著者が、その冒頭で、「普遍的な「美術」が存在するわけではない」と書いているのは、とても面白いことではないでしょうか?つい私たちは、普遍的なものを求めてしまいがちです。変わらないもの、永遠なもの、あるいは、正しいもの。そして、変わるもの、永遠ではないもの、悪しきものを退ける。しかし、普遍的なものなんていうのは存在しないのではないか。正しいものが、悪しきものに逆転することが往々にしてあることを歴史は教えてくれます。したがって、普遍的なもの、そういうものが存在すると考えること自体、僕はある意味では非常に危険なことではないかとも思うんですね。なぜならそれは、自分が考える普遍的なもの以外は排除するという、独裁、独善的な思考に行き着きかねないからです。「硬直化した歴史観」という言葉を山下先生は使いましたが、硬直化した思考は、相容れないものを排除することを厭いません。僕が考える美術というものは、それから最も遠い。なぜなら、僕が考える美術は、「この世界を私はこう見る、解釈する、分析する」というひとつの提案だからです。一人一人見ている世界は異なるはずなのに、さも同じ方向を見せられている、同じことを考えさせられているような感覚を覚えることが、日常的にありませんか? そしてそういうものを、非常に息苦しく感じることがないでしょうか? 美術は、そういう全体的なものに抗するひとつの力であると僕は思います。ガチガチに固められた思考や態度にすきま風を通す、あるいはもっと言えば風穴をあけるようなものとして、美術を考えたい。そのためには自分も硬直化せず、流動的であらなければならない。さながら旅人のように。
 もちろん、その時々の判断はしなければなりませんよ。作品を作るということだけではなく、評論を書く、展覧会を作るということも、その時々での価値判断を下す、ジャッジするということです。けれどもそのジャッジに留まり続けてはならないのではないか。自分がわからないものに触れることや、わからないものに留まること、そういうことを通じて、自分がなにを考えているのかというところに辿り着こうと試みること。子どもが言葉を喋ることができるようになるのは、そこに自分以外の他者からの学びがあるからです。わからないなりに、それを真似してみる、口に出してみる、そうやって積極的に他者の存在に触れることで、ようやく自分の言葉が構築されていく。美術もそういうものではないのかと僕は思います。自分ひとりの考えだけでどうにかなるものではない。僕の好きな松本竣介という画家の言葉に、こういうものがあります。

「現実がそのまゝで美しかつたなら、絵も文学も生まれはしなかつた。そして現実生活の一部分にでも共感するものがなかつたなら文章を絵も作られはしない」(松本俊介「雑記帳」『雑記帳』1巻第3号、193612月。引用は、『新装増補版 人間風景』中央公論美術出版、1990年、137頁)

美術は個人的であり、主観的でありながら、それを作り上げるためには他者の存在、自分以外の世界の存在が不可欠である。竣介はそういうことを言っているのではないでしょうか。

「日本画」をめぐる思考から
抽象的な話が続いてきましたから、ここで、少し具体的な話をしたいと思います。いや、あまり具体的ではないかもしれませんが、聞いて下さい。
 学部時代に河鍋暁斎を研究したことがきっかけとなって、僕は今に至るまで「日本画」に対する関心を持ち続けてきました。それは、ただその作品が好きだとか気になるということではなくて、「日本画とは一体何か?」ということです。今、この教室の中にも、日本画を専攻している学生がいると思います。本当は、ここで誰かしら指名して、「あなたにとって日本画はと何ですか?」ということをやってみたいのですが、残された時間ではそれを収拾できる気もしないので、やめておきます。つまり、僕は「日本画」を岩絵具や和紙といった画材の問題では考えたくなくて、絵画の中のひとつのジャンルを意味する言葉の中に「日本」という言葉が入っているのはどういうことか? ということを考えたいんですね。明治に日本国家が成立して以来、ある絵画のジャンルに「日本」が冠せられてきたということはどういうことなのか、ということを考えたい。これは、作家によっても、研究者によっても、さまざまな考え方があるので、一様に答えを出す、出せるというものではありません。ただ、自分は自分の問題として、このことを考え続けたい。なぜかというと、「日本画」を考えるということは、先ほど申し上げた「わからないものを引き受ける、そして自分の言葉を手に入れようと試みること」にほかならないからです。
 ひとつ例を挙げましょう。日本画家の菱田春草(1974-1911)は、わずか37歳で亡くなった夭折の作家ですが、その生涯は明治期にすっぽり入っています。その菱田春草が、日本画についてこういうことを言っています。

「現今洋画といわれている油絵も水彩画も又現に吾々が描いている日本画なるものも、共に将来に於ては―勿論近いことではあるまいが、兎に角日本人の頭で構想し、日本人の手で制作したものとして、凡て一様に日本画として見らるる時代が確かに来ることと信じている」(菱田春草「画界慢言」『絵画叢誌』27519103月、引用は佐藤道信『〈日本美術〉誕生』講談社、1996年、96-97頁)

 つまり、明治時代になって開国した日本に、西洋から油絵の技術が本格的に入ってきて、それが官製の美術学校で教えられるようになった。洋画と呼ばれることになるものがそれですが、一方で、それまでの日本絵画の諸流派をさながら統合するようなかたちで「日本画」という言葉も生まれ、浸透していった。それまでは、宋、元、明、清といった中国絵画の画題手法による日本絵画を「漢画」といったり、またそれを日本化する過程で生まれた絵画のことを「やまと絵」といったりして、それぞれ得意とする流派がいたわけですね。漢画であれば狩野派、やまと絵であれば土佐派といった具合に。しかし、明治時代になると幕府がなくなり、藩が解体され、そういった場所で仕事を請け負っていた画家たちは、ことごとくクライアントを失い、流派を存続できなくなります。
 「日本画」の成立はそのことともちろん無関係ではなくて、「日本画」は、そういったこれまでの流派なりそれらが得意としてきた画風を、新たな時代の中で統合するという意味合いがあった。一方で、洋画は日本の伝統美術を擁護する、言わば国粋主義的な観点から排斥され、東京藝術大学の前身である東京美術学校が開設された1887年当初は、洋画を学ぶ学科は設置されていませんでした。菱田春草の言葉は、亡くなる前年の1910年のもので、その段階では既に東京美術学校にも洋画科が設置され、文展において日本画、洋画という枠組みができていたのですが、菱田春草はそういった時代の流れの中で、洋画か日本画かという二元論を超えてものごとを考えなければならないと考えていたのだと思います。
 これは非常に柔軟な思考で、すっきりするところがあると思うんです。「日本人が描いた絵画は日本画である」、つまり、そこには岩絵具か油絵具か日本か西洋かといった問題は解決されているわけですね。しかし、現在の視点から考えると、では、「日本人」とは何か?という問題もここでは持ち上がってくるでしょう。日本人とは、一般には日本に国籍を持つ人間と考えることができると思いますが、では日本国籍を持たず、しかし日本に住んでいる人たちが描く絵画は、なんと呼ぶことができるのでしょうか? あるいは、日本国籍をかつて持っていたが、今は別の国籍を有している、そういった人たちが描く絵画は、なんと呼ぶことができるでしょうか? 僕はこれに答えることができません。
 一方で、日本画を日本画と呼ぶことをやめ、洋画を油彩画(油絵)と呼ぶように、画材の名称にするべしという考え方もあります。星野眞吾(1923-1997)は、伝統的、形式主義的な日本画と自らの作品を区別する意味で、「膠彩画」という言葉を用いました。星野眞吾は、日本画が担ってきた、あるいは担わされてきた「日本」の「伝統」から、そうやって積極的に距離をとろうとした。これもひとつの解決策です。ただ、解決策ではあるのですが、僕はそこに少し物足りないものも感じてしまいます。つまり、そこには想像力の余地がないんです。膠彩画と呼んでしまうと、それはある画材による絵画という以上のものを持ちえない。日本画が日本画という名称であるがゆえに紡がれてきた歴史があり、作家の自負があり、困難があり、言ってしまえば日本画であるがゆえの呪縛があるとして、それらをすっぱり断ち切ってしまうことが、よいことであるとも中々思えないんですね。
 2012年の春に、作家の市川裕司さんとイマジンというグループを作って活動をはじめました。そこでは、日本画出身の比較的世代が近い、あるいは僕たちより若い作家に声をかけて、drawer(引き出し)という名称で、「A3程度の紙面で制作のプロセスからうかがえる「日本画」について表出された事柄」を制作して下さいとお願いをしています。自分の制作の中で、日本画がどう表出されているか、絵画でも、言葉を使ってもかまわないので、とにかくA3のサイズ内にそれを描いて/書いてみてくれないか、ということです。現時点で24名の作家にこれを書いてもらっているのですが、それを見ての感想として僕が抱いたのは、「日本画」を考えるということが今ラディカルな行為ではないのではないか、ということです。つまり、日本画というお題で依頼しても、提出されるdrawerは、自分の制作テーマが述べられているものや、下絵のようなものが多く、添えられた言葉としても歴史的、制度的な意味合いから日本画を考えるということはほとんどなされていないんですね。もちろん、日本画のことは考えていてなお、こうである、ということなのかもしれません。無理やり捻り出してもらうのも違うと思っていますが、それにしてもこれほどまでに日本画に対して触れない方が多いという現在の状況に、僕は少なからず驚きました。これは考え方によっては、これまでの日本画についての研究と討論の蓄積が、やっとかたちを結んだのだと考えることもできるでしょう。もはや、日本画論は必要ないくらいに、日本画は、日本人が描けば日本画であるということになっているのかもしれません。そう考えれば、歴史の進歩という意味ではとても喜ばしいことで、まさしく春草が願った世界が到来しているのですが、本当にそれでよいのだろうか、という気持ちも僕にはあるんです。
 今日、冒頭から何度も言っていることですけれど、僕は、芸術を考えるというときに、自分以外の他者、すなわち「わからないもの」を引き受けなければならないと考えています。そうしないと思考が澱み、からだが重くなり、身動きが取れなくなるからです。その観点から考えると、現在の日本画に対する状況は、あまり喜ばしいものではない。日本画という、「わからないもの」、「定義できないもの」、「解決できないもの」がある。しかしそれは、いくら考えても定義できず、解決できず、わからないものでありつづけるという意味においてこそ、その価値があると僕は思うんです。これほど、考えがいのあることは中々ないと思うんですよ。歴史、制度、ナショナリティ、画材、そういった絵画をめぐるいろいろな問題をどれだけ放り投げてもへっちゃらみたいな底知れない深さが日本画にあるのではないか。もちろん、日本画でなくてもいい。洋画でも彫刻でも写真でも版画でもインスタレーションでもなんでもいいのですが、そういうひとつのジャンルにおける原理的なことを考えてみるということは、とても大事なことで、それが自分の思考の基礎体力をつける。
 今年の二月、「日本画(仮)部」(ニホンガカッコカリブ/通称:カリブ)という部を立ち上げて、僕が部長で活動をはじめました。日本画を未だ定義されていない、仮称のものとして考え続けようという部活です。これは、東北芸工大で三瀬夏之介さんと鴻崎正武さんが中心になってされている「東北画は可能か?」の「可能か?」というところに、少なからず影響を受けているというところがあります。だから目的は、考え続けることにあって、「日本画」が定義できるものであるとは僕は思っていません。なぜなら、わからないところに積極的に身を置き、考え続けることによってこそ、自分の思考が磨かれると考えているからです。もしかしたらその果てに、自分の言葉を手に入れることができるかもしれない。あくまで、かもしれない、ですが。
 美術史というものがあり、あるいは歴史自体でもかまいませんが、私たちはそこからさまざまなことを学ぶことができるでしょう。こうしなければよかったのではないか、という誤りや、こうした方がいいのではないか、という提案をそこから受け着ことができます。けれどもここで勘違いしてはいけないのは、そうやって歴史的に出された回答というのは、他人がその環境の中で出した回答なんですよ。自分が辿り着いたものではない。だから、それをそのまま受け取ってもいけないんです。もちろん大事なものとして考える必要があるのですが、それを知った上で、じゃあ自分はどう考えるかということを考えなくてはならない。人が必死になって辿り着いた回答を、さも自分が出したもののように考える、そういうことはしてはいけないと思います。

終わりに
今日は、最初から最後まで、作家やその作品を紹介するということではなくて、そういうものとはちょっと意図的に距離を置いて、話をしてみました。多分、大学院生くらいになると、制作においても、なにか考えるにあたっても基本的な力がついてきて、こういうことをやってみたいということがあり、それに向かって努力をしている、そういう時期なのではないかと思います。これから自分ができることに対していろいろな希望を持っていることでしょう。
 その中で僕が敢えて言いたいことは、そういう意思はもちろん大事にしながら、しかしそれでも自分を固定化させないようにして欲しい、ということです。自分以外の世界に対して開かれた思考を持ち続けること。これは、自分を疑ってみるということでもあります。自分の純粋さや、不変さを信じたい、ありのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちがもしかしたらあるかもしれませんが、そんなものはまやかしであると考えてみて下さい。作品制作においても、自分を受け入れてくれる人と一緒にいれば気持ちがいいですが、そこに本当に新たな展開があるのか考えてみて下さい。こういったことは一見、制作とは直接関係がないかもしれませんが、一方でそういった態度を持ち続けるということが、作品を作るときの新しい展開の可能性を生み出すのではないでしょうか。僕自身、思考を澱まないように気をつけながら美術を考え続けたいと思いますので、みなさんもどうか澱まずに、これから作品を作り、研究をし続けて欲しいと思います。それではこれで、今日の僕の話を終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

2014年4月23日水曜日

レビュー|アーティストin湘南Ⅱ 髙良眞木・内田あぐり・石井礼子

展覧会名|アーティストin湘南Ⅱ 髙良眞木・内田あぐり・石井礼子
会期|2011917()1127()

会場|平塚市美術館


執筆者|宮田 徹也




fig.1 内田あぐり 平塚市美術館展示風景 提供:内田あぐり

平塚市美術館は開館20周年を記念した「アーティストin湘南」を2011年に三度行った。一回目は工藤甲人、伊藤彬、中野嘉之、山本直彰、斉藤典彦(2011722日~911日)、三回目は鳥海鳥海(122日~25日)であった。美術館が位置する湘南にゆかりのある物故、現存のアーティストの作品を展示することは、大変意義があると思う。ここでは第二回目の、特に内田あぐり、それも1015日に行われた舞踏者、大竹宥熙とのコラボレーションについて言及する。

内田あぐりは1949年東京都港区生まれ、1975年武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻日本画コース修了。修了制作優秀賞受賞、創画展で創画会賞受賞(同87年,97年)。1993年文化庁在外研修員として渡仏、山種美術館賞展で大賞受賞。1999年「現代日本絵画の展望展」でステーションギャラリー賞受賞。2002年、第1回東山魁夷記念日経日本画大賞を受賞する(参照:内田あぐりWeb http://www.aguriuchida.com/)。

fig.2 内田あぐり 平塚市美術館展示風景 提供:内田あぐり

この展覧会に内田は、《わたしの前にいる、目を閉じている》(2007年、240×240cm、彩色・紙)、《わたしの前にいる、目を閉じている#09T》(2009年、222×720cm、彩色・紙)、《消光》(2010年、220×720cm)、《吊るされた男#01K》(2001-2011年、240×480cm、彩色・紙)という大作で平塚市美術館の一室を埋めたが、一面に展示したデッサン35枚が、内田の仕事を綿密に物語っている。このコラボレーションは内田のWebに残されていないが、同日のワークショップに大竹がデッサン・モデルとして招かれていた。

大竹宥熙は1950年生まれ、69年、劇団天井桟敷「カリガリ博士の犯罪」に出演。71年、天使館入館、「霊的な兄」である笠井叡に師事。半年後に退館し独自の公演活動に入る(参照:「ダンスワーク」37号)。今日では北辰舞踏(北辰の会)として、舞踏会場の殿堂テルプシコールなどで作品を精力的に発表している。近年の公演は二時間近く踊り、G・マーラー、災害の鎮魂などをテーマとしている。内田のデッサン・モデルを長く務めているが、意外なことに作品と舞踏のコラボレーションは、今回が初めてだという。

fig.3 内田あぐり+大竹宥熙 提供:内田あぐり

美術館展示室にM・デイビスが75年に東京で行われたライブが流れると、途端に舞踏会場でもない全く異なる空間に変貌する。強い照明の中、大竹が登場しソロで身を揺るがす。視線を大竹の舞踏と内田の絵画に合わせると、舞踏が絵画に埋没し、絵画が舞踏に引き寄せられ、立体化する。互いに侵食し、彼岸と此岸を往復する。それよりも重要だったのは、絵画にも舞踏にも視点を絞らないことにあった。不可視な空間こそに、このコラボレーションの意義を見出すことができた。芸術とは目には見えないのだ。

fig.4 内田あぐり+大竹宥熙 提供:内田あぐり

内田の巨大な画面は日本画と呼ばれているが、様々な和紙を貼り合わせたり縫い合わせたりして、複雑な画面を構築している。描かれているモチーフも動作が綿密に盛り込まれているので、読解が不可能である。それでも日本画である所以は、デッサンに見られるように、描く姿勢が支えている。大竹もまたおどろおどろしい悪魔の舞踏のイメージはなく、むしろ太陽神のように光り輝いている。それでも大野一雄のように発光し続けないのは、やはり大竹が太陽の沈黙である闇を同時に背負っているからであろう。

fig.5 内田あぐり+大竹宥熙 提供:内田あぐり

一時間程度の公演だっただろうか、記憶にない。それほどまでに、空間が時間を凌駕した。しかし30年来、内田の作品のモデルを、すべてではないにしろ大竹が担ってきたとすれば、だからこそ、舞踏と作品は空間を凌駕し時間の果てまで行き着いたのかも知れない。議論を内田の作品に集中させれば、内田の作品とは動いている状態を描写しているという当たり前の発想が、この公演を見て、私はやっと実感できたのであった。それが、湘南の、この地であったことに、何かの意味を見出さずにはいられないのは当然である。 その意味とは、当然のことながら、近代に分別されてしまった永遠に残る美術と、一過性の儚い身体表現という枠の破壊である。

2014年4月21日月曜日

レビュー|鈴木省三「天空が近づく」

展覧会名|鈴木省三「天空が近づく」
会期|2011825日(木)~27日(土)

会場|The Artcomplex Center Tokyo


執筆者|宮田 徹也



fig.1 鈴木省三展展示風景 撮影:飯村昭彦

この展覧会は私が企画した。企画者が批評すると自画自賛になるのでご法度と言われるが、神奈川県立近代美術館の土方定一は自己が企画した展覧会について、積極的に新聞に長所と短所を書いた。それに倣って批評する。

60代半ばの鈴木省三は、最早ベテランの域を超え、孤高の存在として絵画を描き続けている。目黒区美術館、府中市美術館などの重要な展覧会に参加し、最近では東京国立近代美術館「プレイバック・アーティスト・トーク展」(2013年)で作品を出品し、インタビュービデオも公開した。「天空が近づく」の前は、2009年末に茨城県立近代美術館の「眼をとじて−“見ること”の現在」展で一室が与えられていた。この展示が今回のヒントになったことは言うまでもない。

鈴木省三が「死ぬ前に、自分の作品の前でダンスが行われるのを見たい」と、ぽろり呟いたことを知ったのが企画の始まりだった。鈴木の近作は、見る者がトラウマになってしまうのほどの恐ろしい破壊力を持つ。ここで踊れるダンサーとはベテランではなく活きがいい、今日最も輝いている者でなければならない。そのため舞踏にこだわらず、私が年間150本は見ているダンス公演の中から、三者を選出したのであった。展覧会が始まって分かったことだが、鈴木は若き頃、舞踏者たちと交流があった。

私は展覧会名を「天空が近づく」とした。鈴木の作品の特徴は、画面手前と奥行の振幅にある。この水平に広がる世界観に対して、ダンサーは垂直な動作が課題となる。「天空に近づく」とすると、天に上っていくイメージが発生する。広大に広がる地平線にダンサーが舞うことによってアトラスの膝が瓦解し、天が堕ち、文明は崩壊、我々が滅亡しても絵画とダンスが残る印象を出したかった。何故なら、鈴木は私の3.11に対する質問に対して、「自分は地球が太陽に呑み込まれる瞬間まで描き続ける」と答えたからだ。

fig.2 鈴木省三展展示風景 撮影:飯村昭彦

出品作品は、鈴木が直前まで描いていた100号の油彩17枚組である。後に鈴木から、この作品群を何千万の《天空が近づく》連作として一枚売はしないことにしたと聞いた。この展覧会で最も重要なのは、作品と作品の間にある50cm程度の隙間である。隙間を柱に見立て、その背後に作品が存在するという地と図の反転を鈴木は試みたのであった。私は会場を何度も廻った。その度に記憶され、忘却の彼方に置き去りにされる絵画の連続性の恐怖と、自己が人間である限界を思い知らされたのであった。

三日間、11時から18時迄が展覧会であり、僅か一時間で照明、音響、客席を作って一日にダンサー一人の公演を行った。客席の作りは各ダンサーに委ねた。初日は相良ゆみ「アプローチ」であった。相良はEikoKoma、大野一雄、及川廣信に師事し、舞踏を超える舞踏を踊ることができる舞踏の第一人者である。日本画家間島秀徳とのコラボレーションを幾度となく、こなしている。相良は会場中心に客席を設け、自らは左回りに、一枚一枚の絵画と対話し、自らの総てを曝け出した舞踏を行った。

fig.3 鈴木省三+相良ゆみ 撮影:宮田絢子

二日目の幸内未帆「天空が近づく」は、前半は録音音楽であったが、後半は伊藤啓太によるダブルベースの生演奏との即興であった。幼少よりクラシックバレエを学び、オペラ、ミュージカル、コンサートツアーなどに出演し、ニューヨークで四年間の留学経験を持つ幸内を、いわゆるコンテンポラリーダンスに枠に嵌める事は出来ない。幸内はスペースの手前に椅子を配置し、会場を劇場に仕立てた。自在に、揺ぎ無く、自らのダンスをキープしながら鈴木の作品を引き出し、引き寄せる踊りであった。

fig.4 鈴木省三+幸内未帆 撮影:宮田絢子

トリをとったのは三者で最も若い永井美里「海を歩く」であった。永井は振付、出演を果たし、構成、演出は所属している団体AAPAの代表である上本竜平が担当した。AAPAは野外、地下、劇場内にも突如、全く別の空間を発生し、演劇的要素を持ち込みながらも公演を形成する。イギリスでコンテンポラリーダンスのメソッドを充分に吸収した永井は、コンテンポラリーダンスを凌駕する発想を携えている。「海を歩く」においても、自己の物語に鈴木の絵画を投入した自らの現在を排出したのであった。

fig.5 木省三+永井美里 撮影:宮田絢子


密度の濃い展覧会とダンス公演が成立したが、反省点も数多くあった。更に作品とダンスが融合する配慮が、私に足りなかった。ミーティングも予算も不足していたと感じた。何よりも美術作品とダンスの融和の難しさがある。M・カニングハム、J・ケージ、R・ラウシェンバーグですらも叶わなかったこの融和は、良し悪しではなく、結果を必要としない、絶えまない実験精神が必要なのだ。その点を強調することができなかったのは、私の研究不足でもある。私自身も、今後、揺るがない実験精神を携えたいと誓った。

2014年4月17日木曜日

往復書簡:31才のリアリティ[サイトウケイスケ×小金沢智](前編)

第1信|小金沢智→サイトウケイスケ
描かれている人物やモチーフは一見かわいくて、明るくて楽しんだけれども、その内側にどろどろした人間の感情や得体の知れないものが渦巻いている

2014/04/14 17:16

サイトウケイスケ《CRIER FLIER》アクリル・ペン・色鉛筆 デジタルコラージュ インクジェットプリント 2012年


こんにちは、小金沢智です。昨日は長い時間ありがとうございました。仕事の相談をさせていただくのが目的でしたが、結局、昼から夜まで、場所を変えながら、色々な話をしましたね。最近よく聴く音楽の話、ストリート文化やヤンキー的なものへの相容れないからこその憧憬、長年住んだ山形県を離れてサイトウさんが今東京で考えていること、つまり土地と美術といったことや、1982年生まれで同い年の僕たちの今後の展望のようなものについて。東日本大震災についても話しましたね。今回こうしてメールを交わしたいと思ったのは、昨日対話を重ねながら、これは文章にしておく必要があるんじゃないかと思ったからです。少なくとも僕にとってはとても切実なものを感じて、それはもしかしたらもっと多くの人とも共有できることなのかもしれないと思った。神楽坂の居酒屋を出る間際に提案して、その場ですぐ了承してくれたこと、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

サイトウケイスケ《nuance》(東北画は可能か? 出品)パネルにアクリル・ペン・色鉛筆 2012年

この往復書簡では、僕からサイトウさんに質問を投げかけながら、それに答えていただくというかたちを基本的にとりたいと思います。その中で、サイトウさんから僕への問いかけもあれば、おっしゃっていただいて、それについて僕からも返答していく。分量を最初に決めさせていただくと、6往復、つまり全12通を、できればひと月の間で取り交わしたい。サイトウさんとのやりとりは多分、そうやって会話の勢いを殺さないでスピード感を持ってやった方がいいと思うんですね。実際できるかどうか心配もありますが、とにかくやってみましょう。

サイトウケイスケ (山形若手アーティスト展vol.4 サイトウケイスケ展「CRIER FLIER(クライヤー フライヤー)」にて

さて、まずはサイトウさんをご紹介する必要がありますね。サイトウケイスケさんは1982年山形県生まれ、2007年に東北芸術工科大学大学院ヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン領域を修了し、2013年春に長年住んでいた山形を出て、現在は東京に住んでいます。作品は明るい色使いとポップなモチーフが特徴で、その作品はいわゆる美術史的な影響下にあるというものではなく、音楽や漫画などサブカルチャーと言われるものからのそれが色濃い。とりわけ音楽については、ご自分でもバンド活動をされたり、自分の個展や関わっている展覧会のイベントで積極的にミュージシャンをブッキングをするなどされています。この前、大久保のART SPACE BAR BUENAで開催されたイベント「Resonance1 -音、アート、身体表現、映像の共振-」(2014年3月30日)で、小畑亮吾(ヴァイオリン、歌)さんの演奏に合わせてライブペインティングをされていましたが、そのときサイトウさんはマイクを握ってラップもしていた。サイトウさんの活動のメインは絵を描くことだと思いますが、その絵は音楽からの霊感を多く得ていて、絵と音楽との積極的なクロスが行われている。そういえば、僕がサイトウさんを三瀬夏之介さんから紹介していただいたのは2010年の六本木アートナイトでのことでしたが、そのときはもう深夜で、サイトウさんがこれからライブに行くと言っていたのが思い出されます。

サイトウ”自演乙”ケイスケ特別講義

パフォーマンス

Salome MC(Rap) x まさふみはしもと(踊り) x サイトウケイスケ(エレキギター)

2013年1月25日、東北芸術工科大学


僕は音楽に詳しいわけではないので、そこから作品にアプローチするということが難しいのですが、サイトウさんの作品の、描かれている人物やモチーフは一見かわいくて、明るくて楽しんだけれども、その内側にどろどろした人間の感情や得体の知れないものが渦巻いている、しれっとしているんだけれども刃物を持っている感じ。そこに僕は人間の切なさや闇みたいなものを見つけて、なんとも言えない気持ちになるんですね。ポップなんだけれどもパンクでノイジーで、さらにフォークソングものっかっているような、無理矢理僕が音楽の言葉を使うとしたらそんな感じになってしまう。とにかく、一枚の絵にいろんなも要素が混ざり合ってる。

サイトウケイスケ  Drawing in Tokyo,2013「DEAD」シリーズ第1作

 

ただ、そんなサイトウさんの作品が、東京に出てきてからしばらく色彩を失った。ツイッターやフェイスブックにモノクロの絵をアップしていて、どうしたんだろうと思っていた時期がありました。今はそんなことないですけれど、山形から東京に出て環境が変わって、心境的に色を使うということにリアリティが持てなくなったということだったんでしょうか。僕はサイトウさんの作品は、音楽との関係性しかり、サイトウさんにとってのリアリティが出力されたものという印象を持つんですね。だから、出てくるのは空想的なイメージだったりもするけれども、それはサイトウさんにとってのリアリズムなんだと思うんです。自分の状態や置かれている環境が作品に強く作用する。サイトウさんって付き合っているとすごく明るくてポジティブに見えますし、そう基本的にはふるまっていると思いますが、話していると、実は暗いところも持っている。それは人間であれば誰でも持つであろう暗さだと思うんですが、サイトウさんの場合はそれを普段意識的に出さないようにしている分、絵に出ているんじゃないかと思うところがあります。

ですから僕が最初に聞いてみたいことは、山形から東京に出てきて約1年間が経って、今東京でどのような日々を過ごしているか。それは一方で故郷をどのような視線で見つめているかということとも関係しますが、それがどう作品に影響しているかということについて、自己紹介もしていただきながら、お話しいただきたいなと思います。


それでは、よろしくお願いします。

小金沢智


第2信|サイトウケイスケ→小金沢智
自分は何がしたいのか、出来るのか、デザインて何? アートって何? そもそも何故生きているの?

2014/04/16 0:33


サイトウケイスケ《グラインド・ココア》紙きれに鉛筆 2014年

こんばんは。この度は往復書簡をさせていただき、ありがとうございます。先日は楽しかったですね。メガネをかけた男(31)二人で、カフェやら居酒屋やら移動しつつ、8時間くらい話していたのが面白かったです。会話はふんわりと消えていくので、こうやって文章に残すというのはとても大事ですね。実は、往復書簡はとてもやりたかったことなので、嬉しいです。あの日、一旦解散しようとした時に、なんとなく飲みに行こうと誘って良かったです。こういう偶然から生まれる出来事が、たまらなく好きです。
昨年東京に移動してから、「インタビューされたい!」という気持ちがずっとあったのです。山形を離れるということは、自分にとってとてつもなく大きな出来事だったので、話したくてたまらなかったのです。ただ、いざblogに書いてみようとしても整理できなくて断念していました。ちょうど良い機会なので、色々な心境をまとめられたらと思っています。

まず自己紹介的に生い立ちを書きます。山形で生まれ、幼少期からチラシの裏側に絵を描いている子供でした。激烈なインドア派です。思い返すと、外で遊ぶということを嫌っていた節があります。小学生低学年から嫌々スイミングスクールに通わされて、その帰りに少年ジャンプを立ち読みするようになるんですね。そして、5年生ぐらいから漫画を書き始めました。「幽遊白書」(陰惨でどろどろとした闇の世界)「ラッキーマン」(超平面的な絵と服のストレンジな装飾性)は僕の絵の根源にあります。テレビゲーム三昧でもあったので、「ロックマン」(変身性・かぶり物による属性の決定)の絵柄もルーツです。そして、ジャンプ読者ということで、スラムダンクに憧れて、そこから運動部にシフト チェンジするのです。中学はバスケ部で部活三昧。絵は好きだけど「美術」はあまり好きになれませんでした。多分、自分で描く授業中の落書きの方が面白かったからだと思います。中学で歌謡曲がとても好きになり、「音楽」に憧れていきます。高校に入ると、とても鬱屈した日々で、とにかくバンドに憧れていきました。NIRVANAを崇拝し、高1でエレキギターを買い、AIR JAM'98のビデオを毎日見て耳コピーしていました。高3でようやくバンドを組み、「SAPPY(サッピー)」というNIRVANAの曲名をバンド名としました。授業中は相変わらず落書きをする日々でしたが、「美術」は自分には無縁だと思っていました(しかもハンドボール部で、授業では美術ではなく音楽を選択)。ただし、この時点で「表現」したいという想いが溢れてきます。NIRVANAに出会うということは、SONIC YOUTH(アメリカ・オルタナティブロックの始祖的存在でパンク・即興・ノイズ・実験音楽へも繋がる)を知ることとなるので、様々な音楽への回路が開かれて行きました。Black Flag(アメリカのパンクバンド)を知り、そのフライヤーに憧れました(大学に入ってから知りますが、レイモンド・ペティボンが手がけていたのです)。アメリカのパンク・メロコアシーンのフライヤーやジャケットに憧れて、そのチープでポップ・キッチュな風合いが自分の描く「らくがき」と合致した気がしました。そこから、絵についての居場所を見つけたような気がします。


Unwound「A Single History 1991-1997」(Kill Rock Stars; 1999) レコードジャケット裏面

進路では、たまたま山形に東北芸術工科大学(以下、芸工大)がある、という理由だけで志望しました。ものすごい縁だなと思います。宮城に芸工大があれば、ぼくはそういう方向には進んでいないはずです。「グラフィック」という「言葉の響き」だけで志望コースを決めました。当時、意味すら調べていませんでした。自己推薦という入試形式で、デッサンの試験もありませんでした。デッサンがあれば、ぼくは入試を受けていないことでしょう。そこで鉛筆一本で3時間くらいかけてポスターを描き、幸運にも合格しました。面接の時も、直前まで居眠りしていたので、頭が真っ白になっていました。「将来どうして行きたいの?」と言われて、本当は「作品を作って売っていきたい」と思っていたはず が、「CDのジャケットを作りたいです」という言葉がポロっとでました。その言葉のおかげで、グラフィック「デザイン」のコースに合格したのではないかと思っています。10年以上続けてこれたので、やはり何か縁があったのだなあと思います。

前置きが異常に長くなってしまいました。けれども、ここらへんの根本的な生い立ちは、大学以降にも繋がっていくはずなので、書かせてもらいました。

さて、意味も知らないままグラフィック(デザイン)の分野に進んだので、ここから暗黒の時代が始まります。心の拠り所であったバンドも解散してしまい、自分は何がしたいのか、出来るのか、デザインて何?アートって何? そもそも何故生きているの? というところまで思い詰めて考えてしまい、とにかく混沌としていました。切実に苦しい時期でした。しかしそこで、日本語ヒップホップ・札幌にこだわって活動をする「THA BLUE HERB」と出会います。そして、「心の闇と前向きさ」という、MCであるBOSS氏リリック(歌詞)に感銘を受けました。なんだかんだで、大学3年から「前向きさ」を大切にするようになり、やっぱりぼくは「絵が描きたい!」とスッキリしたのが大学4年になった頃でした。イラストレーターになることが目標で、大学院に進んだあとにフリーのイラストレーターになりました。専門学校でグラフィックを教える仕事をしつつですが、2008年、初めて一人暮らしを始め、最高に貧乏になりました。その頃から、イラストレーターを名乗るより、好きな音楽に関わりながら、好きな絵を描いていこう、という気持ちになり、音楽に特化した動きを始めました。2009年から、幸運にも芸工大の美術科「総合美術コース」の副手の仕 事をさせていただくことになり、このタイミングで、アートのフィールド、すなわち願ったり叶ったりな場所に身を置くことができたのです。

そこで日本画コース教員である三瀬夏之介さんと出会い、「東北画は可能か?」とも出会います。ぼくは初め、「日本画」のことだから、自分には関係ない、と思って遠くから見ていました。しかし、誘っていただいたことと、山形出身で地元にこだわって活動をしていたこともあり、自分も「東北画」を考えて、取り組むことにしました。(そのくらいのタイミングで、六本木アートナイトで小金沢さんとお会いしたと思います。その日はラッパーのshing02さんと鈴木ヒラクさんのパフォーマンスを見に行きました。また、その時「contact Gonzo」のパフォーマンスには度肝を抜かれました。)

東北画が展覧会を行う中で、ぼくはほぼ必ずパフォーマンスやライブを企画しました。その理由は、絵画で構成される空間に、身体や音楽、言葉がぶつかることで化学反応がおきるかどうか、を見たいからです。実際、強烈な印象が残っていると思います。何かを思い出す時、視覚の情報よりも、音楽などの体感の方が、思い起こしやすいのではないかとも思えました。会津・漆の芸術祭で、東北画の会場にラッパーの狐火さん(2011年)、遠藤ミチロウさん(2012年)を、neutron tokyoの東北画(2012年)では京都からゆーきゃんさんをお招きできたことは、とても印象深く、ミュージシャンの方々と貴重な場をつくれたことは、とても嬉しい出来事でした。

2010年からは、山形に住みながら、東京で発表するということが始められました。初めての東京個展は新宿眼科画廊です。イラストレーターではなく、作家・絵描きとしての展示に臨みました。。2011年、3月に高円寺のAMP Cafeで小川恵子さんとの二人展を開催中に、震災が起きました。1日違えばぼくは東京にいたのですが、山形で地震に遭いました。(正直震災以降、ぼくは「言葉」を失っていると思います。)

サイトウケイスケ《dead》段ボールにペン 2013年(引っ越しの荷物が片付かない中描いたドローイング)

2013年、副手の任期を終えた後に東京へ出てきました。30才の時です。何がきっかけだったのか? ここは、また詳しく話していきたいところです。
東京に引っ越してきて、瞬間的に段ボールにボールペンでドローイングし始めました。何故か、しばらくの間、絵の具などの画材が荷物に混ざってしまい見つかりませんでした。なので、「ペンと紙さえあれば描ける」という精神でただただドローイングしていきました。「変化したい」という気持ちがあったので、目の前で起きる流れに従おうと思いました。色彩は無くなりましたね。東京の風景から、色を使う必然性を見いだせなかったです。山形にいる時に、どれだけ自然の風景から影響を受けていたのかを痛感しました。夕陽や山、空の風景は、1000倍の人々と、黒いスーツのサラリーマンと、高層ビルと、電車に変わりました。けれど、これはどちらが良い、悪いということでもないと思います。だからぼくは、山形に住んでいる時には味わえない空気を味わいたいと思っています。
東京へ出て来て、就職したのですが、1月に退社しました。今は、フリーランスで活動しようとしています。絵も制作して販売するし、イラストレーションやデザインの仕事も行います。必要があればアルバイトもするつもりです。ラッパーの狐火さんが「正社員になって働きながらでもラップしようとする自分の気持ちに出会えた」とラップしているのですが、状況はそんなに甘くなかったという気持ちです。

サイトウケイスケ《もうろうなトゥモロー》紙きれに鉛筆 2014年(往復書簡を書いた4/15のドローイング)

小金沢さんは、リアリティが出力されると言ってくださいましたが、まさにこの都市で吸収したエキスが絵に表れていると思います。特筆したいことは、(ある種意図的に)色彩を失ったことと、女性像(ギャル)を描くようになったことは大きな変化です。

さて、もの凄い量を書いてしまったのですが、気になるところだけ抽出してもらえたらと思います。今回「リアリティ」が話の中核になると思うのですが、「現実」と「現実感」という言葉は似ているけれど、意味合いは大分違いますね。ぼくは色々な方法で表現・制作をしていますが、それを一緒に解剖していって、我々は一体何に「(現)実感」を感じているのか、ということを二人で話せていけたらと思っています。
そして、この31才の自分たちは何者で、何故、今この土地(日本の東京)にいるのか、ということも話していきたいです。まさに、「31才のリアリティ」ですね。(狐火さんはぼくらと同じ才なんです。アルバム「31才のリアル」今度お貸しします!

最初から長くなりましたが、どうぞ、宜しくお願い致します。

サイトウケイスケ



第3信|小金沢智サイトウケイスケ
何百年、何千年前の作品に対して心が非常に惹きつけられる。そのとき、この感覚はなんだろうと思うわけです

2014/04/20 13:57



31才のリアル / 狐火 Track by 観音クリエイション


こんにちは、小金沢です。お返事ありがとうございました。そう、この往復書簡の「31才のリアリティ」はラッパーの狐火(1982年生まれ)さんの歌「31才のリアル」からきているのですが、これは聴いてみると僕にとってもすごくリアリティがある歌で、でも、これはもしかしたら世代がいくつか上の人にはわからないかもしれないとも思いました。早速iTunesStoreでアルバムを買って聴いたんですよ。今回の対話の基底になる「リアル」(現実)と「リアリティ」(現実感)のことを考えると、僕にとってのリアルがあり、サイトウさんにとってのリアルがありますよね。たとえば、僕は群馬県生まれで、父の仕事の都合で県内を転々として、小学校が二年毎に変わって、それで少なからず苦しい体験もして…、というのは僕の実体験(リアル)でサイトウさんにとってのリアルではない。つまり非常に個人的で代替できないものです。ただ、リアルではないけれども、そこにリアリティを感じるということはありますよね。ああ、それはわかるということがある。それはCGがふんだんに使われた映画を見るときや、見知らぬ土地や時代を舞台に繰り広げられる小説を読んだとき、それは自分にとってのリアルではまったくないけれども、なぜかリアリティを感じる。美術もそういうところがありますよね。何百年、何千年前の作品に対して心が非常に惹きつけられる。そのとき、この感覚はなんだろうと思うわけです。こうなってくると、心の問題にまで踏み込まないといけなくなるのかもしれません。自分のリアルがあり、それが、別の何かに対してリアリティを感じるときの源にあるのでしょうか

サイトウさんが現在に至るまでの道のりを書いて下さったので、僕もそのあたり率直に書いてみようかなと思います。先ほども少し書きましたが、僕は群馬県出身で、一浪して大学に出てくる19才までを群馬で過ごしました。ただ父が警察官で、そのため県内を転々としています。数年毎に異動があるんです。だから小学校が二回変わっていて、一時期転校した学校に馴染めなくて、嫌がらせのようなものを受けて不登校になった時期もありました。結局行けるようになって友だちもできたのですが、そのとき両親にはずいぶん心配をかけたと思います。ともかくそうやって、子どもながらにいろんなことがどうでもよくなるという時期がありました。そのときの自分は、このまま生きていくことができるんだろうか、いっそいなくなった方がいいんじゃないかと思いもしました。だから、小さい子どもが自ら命を絶つといったニュースを目にするたび、その悩みは大人からすれば小さいことかもしれないけれども、そのとき子どもは子どもの中のリアルとリアリティの中で生きているから、理解しようがないんですね。今がきついんだと。僕はそういうことが小学校三年生くらいのときにあって、それまでの土地ではわりと明るく過ごしていたのですが、大きなダメージを受けたようなとことがあります。もしかしたらそれは今でも続いているかもしれない、というか、続いているんでしょう。

サイトウさんは山形で、僕は群馬で住む土地も違うのに、話を聞いていると重なる体験がずいぶんあるなと思って面白いですね。たとえば、僕もスイミングスクールに通っていたとか、「少年ジャンプ」をよく読んでいたとか、あと漫画を描き始めたということ。僕は実は漫画家になりたかったんですよ。小学校一年生のときに、そのとき住んでいた町のお絵描き教室に通って絵を習うのですが、そこから引っ越してからも絵を描くことがずっと好きでした。得意としているようなところもあったんですね。テレビゲームも好きだったから、そのとき僕のすごい絵のイメージというか、絵の原体験って、鳥山明さんとか天野喜孝さんなんですね。鳥山明さんは言わずとしれた「ドラゴンボール」であり、テレビゲーム「ドラゴンクエスト」のキャラクターデザイン、そして天野喜孝さんはテレビゲーム「ファイナルファンタジー」のキャラクターデザインですよね。僕がはじめて自分の意思で行った展覧会って、「鳥山明の世界展」っていう1990年代前半に全国巡回していた鳥山明原画展なんです。小さかったので、母と弟と一緒に東京に来て見た覚えがあります。あと、これも小学校のときだと思いますが、新聞の広告に、天野喜孝展のチラシが入っていたりして、そこに行くとポスターかなにかもらえるというから、たしか母に連れて行ってもらったりした。
そうやって、絵が好きだっていうのはずっとあって、漫画家とかいいなぁという気持ちが高校まで続きますが、でも、美大に行くとかっていうことは考えもしない。それは油絵とか日本画とか彫刻とか、そういうものを観賞する機会はほとんどありませんでしたし、絵と言えば漫画とかテレビゲームのパッケージだったりするわけです。いわゆるファインアートはその当時自分にはまったく見えていないわけですよ。だから、大学に行く、でも大学在学中に漫画をしっかり描いてデビューする、なんてことを夢想していた高校生だったのですが、自分にそういう才能がないっていうのもだんだんわかってくるんですね。絵のスタイルも、物語も、ほとんど当時自分がはまっていた漫画の模倣なんですよ。浦沢直樹風のものあり、尾田栄一郎風のものあり、皆川亮二風のものあり。なまじ絵は模倣でもそれなりに描けたので、それがまたよくなかったと思います。
実際、漫画を一作品も描き上げたことがないまま、高校生活が終わるわけです。表紙ばかり描いている感じ(笑)。にもかかわらず漫画家になることを諦めきれないものだから、勉強が全然手につかず受けた大学ことごとく落ちるんですよ。歴史系の学科のところを受けて、それは自分が歴史好きだったし、漫画を考えるときにも役立つかなという意味で受けていたのですが、中途半端なことしてましたから、ダメだったんですね。それで浪人させてもらって、一年間予備校に通いました。一年後も歴史系の学科を受けるんですが、その中で、センター試験利用入試っていうのがちょうどそのころいろんな大学で採用するようになっていて、センター試験の成績で私立を受けることができるようになった。そこで受けたのが、結局自分が通うことになる明治学院大学なんですね。文学部に芸術学科っていうのがあって、ああなんだか面白そうだなと。正直先生のことなんて誰も知らなくて、その後美術史やろうなんてこともまったく考えていなかったのですが、自分は絵を習っていたからという変な自信があって、芸術とか面白そうじゃんと。軽いですよね(笑)。結局明治学院と、一般受験でもう一校私立が受かって、明治学院に通うことになります。

前置きが長くなってきてしまいましたが、大学ではスキーサークルに入って、そうなるともはや漫画のことなんて頭からだんだん消えていくんですね。我ながら単純な頭というか、あまり多くのことをできないようになっていて、スキーのためにバイトを沢山しないといけないし、もちろん勉強もしないといけない。僕は芸術についての知識が皆無だということに入学して気づくんですが、たとえば最初の授業で教授がランボーという人名を出したとき、詩人のアルチュセール・ランボーではなくて、アクション映画「ランボー」の主人公・ランボーだと思ったくらい、なにも知らないんですよ。明治学院大学文学部芸術学科は、映像、音楽、美術と三つのコースにその当時は分かれることになっていて、その分野のスペシャルな方々が先生でしたから、同級生もなにかしら目標があって入ってくるんですよね。僕みたいになんとなく入っちゃったというのは珍しかった。でも、やるんだったら、これを仕事にできるくらい頑張ろうという気持ちにもなっていて。
一年生のときに受けた、日本美術史が専門の山下裕二先生の授業がとても面白かったんですね。もともと僕は漫画とかゲームが好きで絵が好きだったから、雪村とか伊藤若冲とか曾我蕭白とか、日本美術史上のエキセントリックな表現に惹かれていくんですよ。それで、ゼミが始まる三年生のときに、山下先生のゼミに入ります。そのくらいの学年になると、美術館にも頻繁に通うようになっているし、美術館で働く学芸員という仕事があるらしいということを知ってるんですね。ゼミが始まる三年次は、学芸員資格取得のための授業も始まる時期に当たっていて、それで受講した博物館学概論の担当が、出光美術館学芸員の笠嶋忠幸先生でした。日本美術における書を専門とする先生ですが、授業はミュージアムの現在を考えるディスカッション形式の授業で、それもとても面白かった。先生がエネルギッシュで、博物館学が生きた学問という感じがした。山下先生によって日本美術史の面白さを知って、笠嶋先生によって美術館の面白さを知って、それが今の自分を形作っていると思います。その後、大学院に進んで、出てからはギャラリーに勤めたり、評論を書いたりして、現在は都内の美術館で働いています。このあたり、現在のことは追々。

「リアル」、「リアリティ」っていう話に少し戻しましょう。日本美術史って、たとえば縄文時代のことを考えれば一万数千年前のことなんですよ。日本美術史にかぎらず、歴史を考えるということは、そういう本当に長い、途方もない時間のことを考える、思いを馳せるということで、これは自分にとってのリアルでは本当は全然ありません。生きる環境も社会システムも大きく違うわけですから、わかるわけないんですよ、本当はそんな前のこと。
にもかかわらず、作られた作品について、リアリティを感じるのはなぜでしょうね? 造型的にすごいとか、あるいは美しいという感情は古今東西普遍的なものなのでしょうか? 僕は必ずしもそうだとは思いませんが、自分にとってリアルじゃない時代や土地で作られた作品に、強く心が惹きつけられるということが事実としてある。一方で、自分にとってリアルな時代であり土地で作られた作品に、なにも惹きつけられないこともあります。時代と土地で括るのも強引すぎる話なんですけれども、これは本当に不思議で、そして美術の面白いところだなと思います。
僕にとってのリアル、サイトウさんにとってのリアルがそれぞれあって、そして二人のリアリティは重なることもあるでしょうけれども、重ならないことももちろんある。それはたとえば、サイトウさんが東京に出てきてギャルを描くようになったということ。サイトウさんがギャルに関心があるということは聞いていましたが、なんでなんだろうという気持ちが僕はあるんですね。僕はギャルっていうのがわからないんです。だから、サイトウさんにとってのリアリティということで、そのあたりのこと、最後に質問として投げかけさせていただいて、今回のメールを終えたいと思います。よろしくお願いします。

小金沢智



第4信|サイトウケイスケ→小金沢智
 人が生きる社会というのは、「表」の世界だけじゃないという。生と同時に「性」もある

2014/04/23 0:41

こんにちは。サイトウです。濃厚なお返事をありがとうございます。小金沢さんの生い立ちはここまで聞いたこのがなかったので、とても興味深かったです。スキー部! スキーと言えば、岡本太郎! 運命的な感じですね(笑)。山下先生も、芸工大の卒展に何度も来てくださっていて、その講評がとても面白く痛快で、とてもファンです。というか、パンクだなあって、思うんです。

それぞれの目の前に「現実」はありますが、「現実感」というのは共有が可能なのかと思います。人間の五感は共通ですものね。しかしながら、その「感じ方」は完全にひとそれぞれ違いますよね。寒い、暑いの認識も、同じ現実の場にいたとしても、差がある。作品を鑑賞するときも、ある人は「わかる」「好き」しかし、ある人は「わからない」「嫌い」などと意見がわかれます。やはり、個人的な体験からくるものなのですかね。
けれど、その感情的な判断を超えて、理解しようとすること=「この時代に、ある人が、これを行う、ということは一体何なのか?」を考えたり、学んでいくことがとても尊いのだなあと最近思います。アートヒストリーは、とにかく不勉強だったことを悔いてます。デザイン畑にいても、知っておくべきでした。今、勉強している最中です。
芸術作品というのは、人生や生きていくことに対する「感じ方」や「受け取り方」を補助してくれる・疑似体験させてくれる効能もあるのではないかと思います。あの作品は、この感覚を表していたのか、と、とある現実に出会った時に気がつくことがあるかもしれません。ふと、思い出したのは、田中泯さんが、2007年あたりの冬に塩釜の港で「場踊り」をされたのを見たことです。そして、上映会のトークイベントで、「たとえ寝たきりになったとしても、人差し指一本あれば舞踏はできる」と言い切ったことを強く覚えています。
それにしても、小金沢さんが漫画家になりたかった、というお話が意外でした。しかも、美術に出会ったことも「なんとなく」の偶然性を帯びているから不思議です。

さて、「ギャル」に感じることについてです。果たして、それが「リアリティ」と言えるのか、どうか。狐火さんの31才のリアル聴いていただけて、嬉しいです。大森靖子さんとの曲は、泣きましたね。なんと、先日、Tシャツを作らせていただいたのです。タイトルは「アンロンリーギャル」です。ここにもギャルが登場です。そして、楽曲にも。


サイトウケイスケ《狐火Tシャツ》


ロンリーギャル feat.daoko / 狐火 Prod by Yuto.com ™

順を追って話していくと、「人造人間18号」→「コートニー・ラブ」→「エリイちゃん」。このお三方が起点になっています。そこに「人間や物事の表と裏」という側面が関わってきます。


サイトウケイスケ《UNEZ to Dance》

まず、鳥山明さんの「ドラゴンボール」は僕らの世代で通ってきている共通感覚ですが、そこに登場する「人造人間18号」というキャラクターは「金髪/不良/色っぽい/お姉さん/猫っぽい/Sっぽい」という印象で、性的な憧れを小学生の僕に植え付けてしまいました。そして、「ドラゴンボール」という男中心社会の中でも、恐ろしく「強い」存在でした。そこに僕はなんともいえない憧れの念を抱きました。これが、どうしても惹かれてしまうしまう女性像の起源だと思われます。

小金沢さんが、小学校時代に受けたダメージ(学校に馴染めなく、嫌がらせを受ける)の体験は、相当なダメージだったと思います。わかります。世界が変わってしまうんですよね。ぼくは、小・中学校は特に悩まずにたのしく過ごしていました。しかし、高校に入って、ちょっとしたことで友人と仲が悪くなり、しばらく無視されたことがあり、これが僕にとって世界が反転するくらいの大ダメージとなりました。まさに、それは大学生になっても引きずっていました。これまで楽しいと思っていた世界が、暗雲に閉ざされるような、天国が地獄に変わる様な辛さです。他人から見ると些細なことです。しかしこの現実だけは代替不能です。その時から、僕は目立たなくなり、人の顔色を伺い、人と接するのが怖くなっていきました。人間は、楽しく協調できる反面、攻撃性ももっているんだ、ということを強烈に体験してしまったのです。思えば、そういう人間の「負のパワー」に遭遇するのが遅すぎたような気がします。この時期の出来事が、人間の「表と裏」に興味を持つきっかけだと認識しています。「明るく健やかな社会」の裏側にあるドス暗い闇との出会いです。「負の経験」は根深いですよね。また、それらは、不良・体育会系のヤンキーへの恐怖とも重なります。

さて、その時、現実の感じ方を転換してくれたのは、音楽でした。どん底の気持ちの時に、今まで聴いていたJ-POPは、一切力を貸してくれなかった、という印象があります。この感情=「ほんとうの世界」は、決してテレビには映らない(登場しない)のだ、と絶望しました。そして、その時期はSHAZNA(シャズナ)がヴィジュアル系バンドとして登場した辺りで、きらびやかな女装と明るい曲は「完全に真逆だ!」と感じ、そこからJ-POPを毛嫌いするようになります。それは、テレビもCMも嘘!という考えにまで及びます。そんな時にクラスメイトのちょっと不良の少年が、洋楽の「OFFSPRING」を貸してくれました。その激しさと速さこそが、「現実感」を感じさせてくれたのでした。そこから、Hi-standardやAIRJAM(フェス)を知っていきました。
アメリカや日本のメロディックパンクの爽快な激しさは、暗い気持ちにも「熱」をくれたし、現実を乗り越えて行くというガッツをくれたと思います。

そして、もう一つ大きな出会いがNIRVANAです。まさにネガティブな感情を、肯定してくれた唯一の音楽だと思います。激しく共感をし、憧れて、崇拝していました。Smells
like teen spirit の「With the lights out, it's less dangerous
(灯りを消した方が敵は少ないぜ)」の歌詞を真に受けて、それまで快活だった僕は「灯り」(ポジティブさ・明朗さ)を消すんですね。そうすれば、傷つくこともない、と。それが、正しい、正しくないは別にして、これこそが当時の拠り所となりました。
まさに、ある人の生き方(作品)が、人生の感じ方を補助してくれた瞬間だと思います。


Nirvana「Smells Like Teen Spirit 」(Mtv Live 1992)

中学校の時に好きだったJ-POPはMAX、hitomiでした。その時点で、金髪・茶髪のお姉さん的存在に惹かれているのですが、J-POP否定の時期なので、一切共感が出来なくなってしまいました。また、モーニング娘。全盛期ですが、拒否していました。「ミュージックステーションは決して真実を映さない」という心情です。息苦しい高校生活では、「生々しさ」をひどく求めていました。
そんな時期に憧れる女性像は、カートコバーンの奥さんであるHOLEのヴォーカリストのコートニー・ラブや、BABES IN TOYLAND、L7などの強靭なガールズバンドたちでした。まさに、テレビの虚像とは対極にあり、現実を体現していると思います。詳しくは掘り下げてませんが、その周縁には、bikini killなどのフェミニズム思想とパンクが融合した「riot grrrl」のムーブメントもありました。



Hole「Celebrity Skin」


L7「drama」



Babes In Toyland「 He's My Thing」


きゃしゃな・美しい女性が、凶暴な轟音を鳴らすというところに、強烈な美しさと、かっこよさを感じるんですね。
ギャップというか。そこにはセクシャルな憧れではなく、パンク・反抗を体現している「女性が持つ強さ」への憧れがありました。

それで、その時はいわゆる「ギャル」「コギャル」へはヘイトな感情がありました。カラオケ、ファミレス、プリクラ、服など、「消費社会」の象徴に思えていたのです。思い出深いのが、大学4年時「自分がデザインしたものが、渋谷のギャルに消費されていくのは嫌だなあ」という発言を自分がしていたことです。デザインは、生きるための切実なもの、という意識があったから、ただ娯楽品が生産され、広告があって、消費されていく、というのが嫌だったんですね(大量生産・大量消費への疑念は、間違いなくパンク・ハードコアの精神から来ています)。

しかし、パンクとしての女性像と、雑誌eggに登場するようなギャルたちが、次第に融和して行きます。そう、Chim↑Pomのエリイちゃんの登場です。エリイちゃんの存在が、「ギャル」という固定観念や先入観を破壊してくれました。というか、マジでかっこいいと思いました。Chim↑Pomの作品・行為の練り込まれ方と、作品の明快さと、ユーモア。そして、行動力。展覧会があると、どうにかして山形から見に行ったりしていました(原爆の図丸木美術館の「LEVEL 7 feat. 広島!!!!」も夜行バスの弾丸ツアーで行ってきました)。
バンド L7の「Beauty Process」というアルバムは、「内面の美しさ」を扱った作品、のようなことをライナーノーツで読んだ覚えがあります。エリイちゃんはまさに、外面の美しさと同時に、強靭な知性と「内面の美しさ」を持っていると思うのです。
その、エリイちゃんへの憧れが、「ギャル」自体への憧れへと波及していきました。ギャル=最強にカッコイイ=激リスペクト!と思うようになるのです。単純にファン、と言えるのですが。。先日の結婚パレードも、本当凄いなと思います。

それで、よくよく考えると、女性がメイクをし、装飾品を付けて美しさを纏っていくことは、ある種最悪な世の中に対して武装しているとも言えるし、最大の防御であるとも言えると思うのです。高校生のぼくは、髪を伸ばして前髪を垂れ下げることで、外界を遮断・防御していました。ぼくが、NIRVANA(音楽)に救いを求めたように、女性たちは、メイクしたりすること自体が救いへの道に繋がっているのかも、と思った気がします。メイクをする、ということは、僕が興味のある「表と裏」=「うそ(虚)とほんとう(実)」「外面と内面」という様々な二面性と繋がっていくのです。だから、僕はギャルというか、女性がメイクをするということから目が離せないのです。化粧品などの広告に女性の顔が多様されますが、まさにアイ・キャッチされてしまいます。

昔は、「ギャル=軽い」という印象でしたが、今はそういう気持ちが全くありません。皆、それぞれが、重い現実を背負い、ぶつかり、それと戦うために「軽やかさ」を身にまとっているのです。だから僕がギャルを描きたい本質というのは、その背後にある「かなしさ」や「現実のしんどさ」なのです。そして、20代前半で「嫌い」だったのは、「好き」の裏返しであり、最も遠い「交わらない」カルチャーとしての憧れの念だったのだと思います。eggの表紙に「悪羅ギャルデビュー」というフレーズがあり、異様に引き込まれた覚えがあります。

サイトウケイスケ《Even in her youth》

東京に来てから女性像が増えたことは、まさに渋谷が近いこと、車の女の子に目がいくかと、広告に女性がたくさん写ってること、ヤングジャンプを買うようになったことに由来してると思われます。どちらかと言うと、僕は印刷物の、体温のない虚像的女性像を描きたいのです。山形では、女の子を描くことにどこか照れがありましたが、知人との距離があるせいか、気にせず、解放された気もします。

昨年、アーティストの花崎草さんと「グラマンバ」というパフォーマンスを、新宿眼科画廊地下でのイベントで行いました。グランジ(NIRVANAなどの「汚れ」まみれな音楽ジャンルを表す言葉)とヤマンバギャルの造語です。ボロボロの服を着て、時には髪も洗わない「グランジ」的な佇まいは、ある種外界を遮断するために武装(防御)とも言えます。それは、ヤマンバギャルたちが、強烈なメイクで、汚れた服すらも気にせずに自らを装飾したことは「武装/防御」通ずるのではないか。「どちらも同じなのだ、多様性を排他しないでくれ」という想いを込めてぼくはギターを弾いていました。それが、伝わるかどうかは別として、自分のためにでもやらなくてはなりませんでした。

グラマンバ

NIRVANAの「Smells like teen spirit」は鬱屈した少年たちのアンセム(応援歌・賛美歌)となり得ます。そしてそれは、小悪魔ageha(2008年6月号)の「病んだっていいじゃん」の見出しとも繋がります。そして、現在の鬱屈している「少女(少年)」たちのアンセムは、「生きる場所なんてどこにもなかったんだ」と歌う、でんぱ組.incの「W.W.D」です。「マイナスからのスタート舐めんな!」の言葉こそ、現代のリアリティとしての「Smells like teen spirit」だと思うのです。


『小悪魔ageha』2008年6月号


【生きる場所なんてどこにもなかった】でんぱ組.inc「W.W.D」Full ver.

以上が、僕が何故、女性やギャルに惹かれるかというのをまとめたものです。
ちなみに、J-POPだろうが何だろうが、良いものは良い、好きなものは好きという気持ちで、今はアイドルもとても好きです(高校時代、塞いでいた分、爆発しているかもしれません)。BiSが、本当アツイです。ノイズやインディーロック/パンクも巻き込んだ一大事です。とか、脱線しまくりますね。。いや、脱線してないか。。

初めて言葉にしてみたので、思い違いの部分も多々あると思います。女性からは「全然わかってねー」と言われるかもしれない。だとしたら、教えてほしい。そうやって、歩み寄りたい。
そして、ぼくはギャルや女性を尊重したい。

その一方。ここから派生して、自分の「エロス(性)」や「女性性/男性性」の問題とも関わってきます。
そして、表と裏という問題で、岡本太郎氏が著書『美の呪力』で「キリスト教の伽藍の裏側にはほとんどといってもよいほど女郎屋が群れていた。聖所に遊女がつきものだというのは古代からの伝統である」(「血・暗い神聖」中イーゼンハイムの祭壇画」『美の呪力』新潮文庫、2004年、p.71)という箇所があり、ぼくはそこに、痛恨(根源)的なリアルを感じたんですよね。「きれいな玄関と床の間だけじゃ生活できねんだよなあ みつを」的な。人が生きる社会というのは、「表」の世界だけじゃないという。生と同時に「性」もある。

基本的に、ぼくは描くことで、それらを(無意識的かもしてませんが)出力していこうとしていますが、最後にこの写真作品を投下して今回を終えていきます。

サイトウケイスケ《半ギャルで反逆する》インクジェットプリント/2013

サイトウケイスケ《Rainy but…》ミクストメディア/2007

そして、この話をしてい行く際に参照したいのが、同世代の作家の方々です。その一人が梅津庸一さんです。

特筆したいのが、なんと、梅津くんとは、山形で同じ高校の同学年なんです!しかも、当時、存在は知っていたものの、一言も話してないんです笑 梅津くんは現在、ARATANIURANOに所属されていて、展開催中です。オープニングで、初めて話せたんです笑 10年越しでこうやって、巡り会えるって、凄い事だなあって思います。「なんか見た事あるー!」と。楽しかったです。

さて、このタイミングで僕が、J-POPを嫌悪するきっかけとなってしまったSHAZNA(IZAM)が再登場します。いま、考えると、「女装」する「男性ミュージシャン」に強い嫌悪を抱いたのは、もしかすると、自分の中に隠されていた「女性性」が刺激され(露になって)、ひどく避けたのではないかと思うのです。

それが10数年後に、半分ギャルになる写真を撮っているという不思議な現実。

「女性が性的に好き」だけでは測れない類いの憧れがあり、それは女性自体への憧れだと思うのです。実際、ぼくは女性と話している方が、落ち着いて、楽しい、という現象があります。一体何なんだろうと思いますが、性にも「白か黒」ではない曖昧なグラデーションがあるはずです。

特に、ぼくの描くキャラクターの曖昧な性別や中性性など。

そして、梅津くんも「Melty Love」というまさにIZAM的存在を描いた作品があることを思い出したのです。僕は昔、BTで見ただけなのですが、2009年のVOCA展に出品しているみたいですね。小金沢さんは実物を見ていたのではないでしょうか?(奇しくも、その年は三瀬さんが受賞した年でもあります。)

ぼくは何故だか全裸にはなれず、半分だというところがまた大事だと思うんですが。

突き詰めて行くと、女性への憧れ、というよりも、bikini killたちが「男の子、大嫌い!」と叫んでいたように、マッチョ主義な男性、男性中心社会が、嫌い、というのが根本にある気がしてきました。男嫌い、なんですかね。ぼくはフェミニズム思想に詳しくないので、なんともいえませんが、自分に刷り込まれている気がしてなりません。

そして、もうお一人。消費社会の闇や、エロスやタブー的な題材をモザイク的な図像と共に恐ろしくもユーモラスな絵を描く、田中武さんです。以前、imura art gallery TOKYOでの個展の際にお話して、露骨にはあまり出したくないと話されていて、僕もそこに共感しました。

さて、僕が聞いてみたいことは、『月刊ギャラリー』のレビューは、基本的に同世代、比較的近い世代に焦点を当てていたと思いますその理由は、やはり、ぼくらの世代に流れる何か「共通感覚」を紐解きたいという理由から来ているのでしょうか?

僕らに世代に流れる空気感て、どんなものなんでしょうね?「ロストジェネレーション」は1993年から2005年までと言われているようで、ちょうど、そこから僕らは20代を後半へ向けて漕ぎだしている。いわゆる「ゆとり世代」「さとり世代」でもない。

あとは、唐突ですが、小金沢さんと岡本太郎の出会いを聞きたいです。渋谷に行く度に、《明日の神話》を見ていますね。修士論文は拝読していませんが、「パリ時代の岡本太郎 1929-1940」に至る経緯など。

そして、梅津庸一くんの個展も是非見ていただけたらと思います。トークイベントも3回あるようです。(残念ながら、予定があり26日は伺えないですが。。)同じ場所で3年間を過ごした人間が、ここまで違いがあるのか、または似通った部分があるのか、というのを見てみていただきたいです。ぼくも出来たら、次回までに梅津くんから色々お話を伺いたいなと思っています。

それでは、どうぞ、よろしくお願い致します。

そして、ぼくはバスで山形へ向かいます。現在運営として動いている「寺フェス'14 IN 山形県朝日町若宮寺」の会場下見や、「東北画は可能か?」の報告会に久々に顔を出します。数日の滞在です。そば、ラーメン、温泉。そして、景色。再会も楽しみです!よろしくお願い致します

サイトウケイスケ



第5信|小金沢智サイトウケイスケ
僕がもし「共通感覚」を紐解くとしたら、人間が表現をするということ自体に対する謎のようなものがあってそれをどうにか自分なりの答えを出したいということかもしれませ

2014/04/28 11:16

お返事ありがとうございました。サイトウさんがなぜギャルを描くのか? 丁寧に書いてくださったので、その意味するところを知ることができました。女性を描くということが性的な欲望の投影ではなく憧れであるということ、その原点に人造人間18号(鳥山明「ドラゴンボール」)という男も凌駕する力をもった存在がいるということ、面白いですね。思い返してみると、人造人間18号は兄妹に姿かたちがそっくりな人造人間17号がいて、そこでは男と女という性差での力の差はなかったと記憶しています。つまり、男と女が性別を超えたありようとして提示されていましたね。一方、その二人を取り込むことでセルが完全体になるというのは、そうはいってもしかし、生命が完全になる、あるいは生命が新たに誕生するというとき、そこには男と女というのが精神レベルではなくて肉体レベルで必要なのかなと思ったりしました。だから、サイトウさんの《半ギャルで反逆する》(2013年)は、これは1977年の榎忠《ハンガリー国へハンガリ(半刈り)で行く》を下敷きにしたものだと思いますが、男と女を統合させさながら「完全体」を目指すのではなく、あくまで異なる個体なんだ、異なるからこそ知りたい、わかりたい、というところが可視化されていて、共感します。

表と裏、男と女という要素はサイトウさんの作品を描くにあたって重要な要素ですよね。岡本太郎の例が出されていましたが、日本でも江戸時代の画題で「達磨と遊女」というものがありました。それは聖なる存在とされる達磨と遊女をひとつの画面に収めることで、その対比、もっと言えば逆転を描き出したものでした。達磨が遊女の服を着たり、あるいは遊女が達磨の服を着たり、そうすることで、聖なるものが俗になり、俗なるものが聖になる。話を聞いていると、サイトウさんは、俗っぽく見えるギャルを、聖なるものとして考えたいという気持ちがあるのではないでしょうか?
そういった形でギャルが描かれる一方で、サイトウさんの作品には、男の子とも女の子ともつかない中性的なキャラクターもたくさん描かれていますよね。ギャル以前から描かれているそのキャラクターは、表情が一定で、明るいとも悲しいとも判断がつかない。そしてその判断のつかなさが、見る人間の感情を投影させるところがあるのではないかと思いますし、僕はそのキャラクターがサイトウさん自身の分身のようにも見える。サイトウさんとしては、その昔からのキャラクターと、ギャルを画面内で組み合わせるということを、どう考えているのでしょうか?
がっちりした意味合いがこめられ、絵的にも強い印象を持つモチーフのギャルと、それとは対照的にも見える中性的なキャラクター。現状では、二つが描かれる場合、ギャルの方が大きく描かれているように見受けられます。解釈を拡大してみると、その様は母子像のようでもある。ギャルのサイズが、母性の大きさを示しているようにも見えるんですよね。マッチョなものに対する嫌悪について言及されていましたが、女性に対して母なるものを求める感覚が、サイトウさんにはあるのではないでしょうか?

作品にもいわゆる男性は登場しないこと、「男嫌い」の理由についても、思い当たることがあれば教えていただきたいです。そういえば、同い年ということを考えたとき、この前「エヴァンゲリオン」の話をしましたが、サイトウさんは見ていないんですよね。主人公のエヴァンゲリオン・パイロットである碇シンジ君は、男らしいとは言い難い少年で、考えもブレるし、父親の碇ゲンドウはマッチョな思想をその息子に押しつけるようなところがあります。逆に、同じパイロットで女の子の惣流・アスカ・ラングレーは、「男っぽい」。そういう、本来的に人間は男とか女とかでは計れない個々の態度や思想があるはずで、でも厳然とその性別だからこそのセクシャルなところも描かれていて、そこに非常にリアリティを感じていました。だからサイトウさん、ぜひ「エヴァンゲリオン」ご覧になって下さい!

さて、ここからは、質問してくださったことに順を追ってお答えしていきたいと思います。まず、『月刊ギャラリー』のレビューについてです。2010年の11月号から美術雑誌『月刊ギャラリー』で「評論の眼」という連載を担当して、そこで展覧会のレビューを中心に書かせていただいています。おっしゃる通り、比較的僕と年齢が近い世代の方を書こうとしていて、1970年以降に生まれた方がほとんどです。これはなぜかというと、まず、同じ世代の美術を文章として残すということに対する義務感があります。僕の美術に対する基本的な考え方として、「公的な機関であれ個人であれ、作品が残り、今見ることができるのは、それを残そうとした誰かの意思があるからだ」と思うんですね。その意思は、必ずしも作品に対する純粋なものではなくて、それを持つことによる政治的、社会的意味合いから発生するものでありもしますが、なんにせよ、誰かが作品を残そうとし、その意思が途切れることなく続いて来た。それが行われなかったら僕は美術館で作品を見ることができないと思うと、僕は今この時代の美術が残っていくため、言うならば、大げさかもしれませんが未来の人間のために、現在美術に関わる人間としてしなければならないことがあるのではないか、と思うんです。すなわち、優れた作品を残さなければならないということです。作品を買えればよいのですが、それは今僕は経済的な問題で、作家のマスターピースのようなものを買うことは残念ながらできません。じゃあ何ができるか? 文章で作品を、それがあった記録として残すことができるのではないか。

本格的にレビューを書くようになったのは、2007年の夏にカロンズネットというサイトの立ち上がりに参加したのをきっかけにしています。大学院二年目のことでした。最初は、せっかく美術史を研究しているのだからそれを現在に活かしたい、現代美術が専門でなくても活かすことができるか試したいという気持ちがありました。そして、現在活動している同世代の作家のことを理解できるのは同世代の自分だろうという気持ちがありましたし、そもそも同世代の作家の評論は決して多いものではなかったんですね。そこで、とりわけ近い世代の仕事を追っていくということをしていました。


現代アートのレビューポータルサイト|カロンズネット http://www.kalons.net/

ただ、これはだんだんわかってくるのですが、近い世代だから作家のことがわかるだろうなんてことはないんですね。確かにわかることも少しくらいはあるかもしれない。サイトウさんと僕がこうやって会話をしながら、漫画や音楽で共通する視覚や聴覚の体験をしていることがわかる。だからこういう感覚が共通してるんじゃないかと想像できる。作品にそれが表れてるんじゃないか? といった具合に。でもそうやってわかることって、当たり前ですが一部なんですよね。全部わかるわけじゃない。
『月刊ギャラリー』は毎月一本ですが、カロンズネットの頃は、ネット媒体ということもあって、月何本も書いてました。その頃僕はギャラリーに勤めていて、休みの日に展覧会見て、東京だけじゃなくて関西圏にも夜行バス使って行って。書くことは考えることですから、僕としては、書けば多少はその作家や作品のことがわかるんじゃないかという思いがあるわけです。でも、一方で文章はテクニックですから、わかったようなことを書くこともできてしまう。だから、たとえ「上手く」書けたとしても、本当にその文章が作家の、作品の核心に届いているのか? というと、なかなか届かない。それでも書くのは、わからないにもかかわらず強く作品に惹きつけられるから、としか言えないんですね。ですから、サイトウさんからの問いかけにあった、同世代の共通感覚についてですが、いつか掴むことがあるかもしれないですし、できることなら掴みたいと思いますが、それを一番の目的にしてはいけないなとも思っています。それを目的化すると、作品自体から得る感触を損なってしまうような気がするんです。自分の理解の範疇に押し込んでしまうというか。僕は自分が理解できないもの、わからないに興味があるんです。これは、自分ってなんだろう? という問いと表裏一体です。
だから、結果としてそうなったら面白いとは思いますが、積極的にそうしようとは今のところ考えていません。現在の美術について僕なりの考えはありますが、すべてをそれに収斂することはもちろんできない。先日、東北芸術工科大学で三瀬夏之介さんに呼んでいただいて、大学院で講義をしました。「わからないものをひきうけること、そして自分の言葉を手に入れようと試みること」というテーマで、すぐさま理解ができない、言葉にできなくても、わからないものに触れ続ける、留まることが美術を考えるときに大事なのではないかということを話をしました。アップしたのでお時間あれば読んでいただきたいのですが、それは、今書いたような気持ちがあってのことです。

東北芸術工科大学大学院講義「芸術学原論」(2014年4月22日)
レクチャー採録:わからないものをひきうけること、そして自分の言葉を手に入れようと試みること
http://www.art-critic.org/2014/04/blog-post_24.html

時系列が前後しますが、岡本太郎への関心は、大学四年生の頃にさかのぼります。そして、岡本太郎への関心が、先ほど申し上げたようなことの下地を作っているのかもしれません。最初は、僕の指導教官だった山下先生が、岡本太郎を再考する仕事を非常に精力的にされていたので、それで興味を持ったんですね。ゼミの友人と大阪の万博公演へ行って《太陽の塔》(1970年)を見たり、はじめはミーハー的な関心です。その頃、2004年頃だと思いますが、岡本太郎の本はほとんどが絶版で、新刊で手に入れることができるものって本当にわずかだったんですよ。その後、行方不明だったメキシコの壁画《明日の神話》(1968-1969年)の発見と日本への移送、岡本太郎の生誕100年(2011年)などがあって、岡本太郎再評価が進む中でその著書が文庫化されるようになりますが、サイトウさんが言及されていた『美の呪力』も、2004年3月に文庫化されるまで長く絶版でした。だから、勉強しようにも、岡本太郎はすぐ資料にあたれる対象ではなかったんですね。
それから、当時、僕は幕末明治に活躍した河鍋暁斎という画家のことを調べていて、それを卒論にしようとしていたので、岡本太郎は興味があるけど関心の時代から外れている、という感じなんです。でも、河鍋暁斎を調べる中で、北澤憲昭さんの『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年)などを読むようになり、それまで自明のものだと思っていた「美術」が近代(明治)になって作られたものだということを知るんですね。これは日本で美術を考えるとき必携の本なので、サイトウさんにもぜひ手に入れて欲しいです。ほかにも、『眼の神殿』を読んだ前か後か忘れましたが、山下先生も著者のひとりになっている『日本美術の発見者たち』(矢島新、山下裕二、辻惟雄、東京大学出版会、2003年)という本もあって、そこでは、美術史の中で語られることがなかった作品が「発見」される過程が論考されているんですね。その中に岡本太郎も縄文土器の発見者として出ていて、そうやって「美術」の起源、作品評価がどういう風に行われるかということを考えていたときに、岡本太郎が僕に近づいてきました。

北澤憲昭『眼の神殿ー「美術」受容史ノート』ブリュッケ版、2010年(美術出版社版は1989年)

矢島新、山下裕二、辻惟雄『日本美術の発見者たち』東京大学出版会、2003年

あと、僕は偶然というのをとても気にしてしまうんですね。岡本太郎のパートナーだった岡本敏子さんという方がいます。《明日の神話》が発見され、日本に持ってくるときに奔走されていた方ですが、移送渦中の2005年4月20日にお亡くなりになるんです。それが、僕が山下先生のゼミで卒論発表をする前日か当日のことだった。加えて、2006年の1月に卒論を提出して、大学の図書館でなんとなく岡本太郎の本を読んでいたら、その日が1月7日で、岡本太郎の命日だったんですね。僕は、こういう偶然の力を信じてしまうところがあって、そういうことが時期は間があきますが重なったものですから、これは岡本太郎に呼ばれているんじゃないかと(笑)。それで、先ほど話したような関心もあって、のめり込んでしまって、大学院では岡本太郎を研究させて下さい!って山下先生に話すんです。最初は反対されましたよ、明治時代のことをやっていた学生がやるものじゃないですから。でも、こういうことをやりたいですと話して、研究が進展していない岡本太郎のパリ時代(1930年代)について調べることにして、最終的には認めてもらいました。岡本太郎は1930年代をパリで過ごして、そのとき出会った文化人類学者のマルセル・モースや思想家のジョルジュ・バタイユと知り合ってその思想を醸成させる。その研究は盛んにされているのですが、画家としての岡本太郎はどうだったんだろう?ということが僕は気になったんですね。あまりに研究がされていないように見えたんです。というのは、岡本太郎は戦後日本で八面六臂の活躍をし、絵画だけではなく写真、彫刻、パブリックアート、著述など本当に多方面に渡る活躍をしますが、描くことをやめなかった。その、いわば画家としての岡本太郎の原点としてパリ時代のことを考える必要があるんじゃないか、と思ったんです。研究が進展しないのは、作品が戦争で焼失して残っていないからなのですが、パリで刊行された岡本太郎初画集『OKAMOTO』(G.L.M.社、1937年)があって、それで図版を見ることができるんです。大きくは、抽象絵画とシュルレアリスムの影響を受けていて、今東京都美術館で開催されているバルテュス風の少女を描いた作品もあったりするんですよ。修士論文、データにしているので送りますね。

そうそう、梅津庸一さんの話も出ましたし、ギャルや中性的なキャラクター、「男嫌い」とかということを考えたとき、バルテュスの「少女」は見ておかないといけないでしょうね。僕もまだ展覧会を見れていないのですが、混まないうちに行かねばと思っています(〜6月22日まで。その後京都市美術館に巡回)。三菱一号館美術館では、バルテュスが撮ったポラロイド写真の展覧会「バルテュス最後の写真ー密室の対話展」もはじまりますね(2014年6月7日〜9月7日)。

「バルテュス展」東京都美術館
http://www.tobikan.jp/exhibition/h26_balthus.html

岡本太郎対する僕の関心は、もともとはその思想、美の発見者としてのところから入ったのですが、次第に、その絵にこだわりたいという気持ちができてきたんですね。これは岡本太郎にかぎらず、今、いろんな作家の方の作品を見る上で、僕はやはり「絵」が気になるんです。写真も彫刻もインスタレーションもパフォーマンスもダンスも音楽もなんでも見たいという気持ちがありますが、絵が一番気になる。
たとえば、サイトウさんが音楽や漫画などの影響を受けているとか、絵だけではなくて、パフォーマンスも続けていくのだろうと思いますし、《半ギャルで反逆する》といった写真作品とか、彫刻のような作品も作っていくと思います。インスタレーションもするかもしれない。そうやってひとつのことに決めずに、サイトウケイスケという全体として活動をしていくんじゃないかと考えていますが、僕がやはり一番気になるのはサイトウさんの絵なんですね。

これは、僕自身小さい頃から絵が好きで、描いたりもしていたし、漫画家のようなものになりたいという気持ちがあったけれど、でも自分の絵を描くことができなくて、というところと無関係ではないはずなので、私情がかなり反映されてしまっていることは理解しています。でも、人間が絵を描くとはどういうことか? というところを、古くまでさかのぼって考えてみたいという気持ちがあるんですよ。絵の原点のようなものに触れることで、表現とはどういうことかということを考えたい。最初、僕が文章を書くのは作品を未来に残したいからだなんて偉そうなことを言いましたし、それは正直な思いですが、僕がもし「共通感覚」を紐解くとしたら、人間が表現をするということ自体に対する謎のようなものがあってそれをどうにか自分なりの答えを出したいということかもしれません。

往復書簡、まだまだ折り返しにも至りませんが、とりあえず今回はこれで終わりたいと思います。
引き続きよろしくお願いします。

小金沢智


第6信|サイトウケイスケ→小金沢智
だからこそ、僕は「足元を掘る」ところから始める

2014/05/20 11:22

こんにちは。なんと20日以上時間が経ってしまいました。すみません! 前回の書簡に、あまりにも核心を突かれて、すぐに言葉が出てきませんでした。同時に、色々自分でも検証しなくては、という気持ちでひと月近くを過ごしていました。15年近い時間差を経て、「エヴァンゲリオン」をコツコツ見ました。旧劇場版まで(笑)

「幽遊白書」で言う「霊丸(レイガン)」は残り4発(僕が返信できる数)、ということで、自分の「手札=自身 に関連するテーマ」は一体何か? なんてことも意識していました。僕の思考回路や興味は「ザッピング(テレビのチャンネルを頻繁に変えながら視聴すること)」的なんですよね。それで、今回、様々な素材がこのwebページにアーカイブされると思います。それらを全部グラスに入れてかき混ぜた時に、一体どんな飲み物になるのか? サイトウケイスケという輪郭であり、骨格や内蔵まで表すことが出来るのか、ということも意識して、僕はどんどん話題や事例を拡張して行きたいと思っています。

まず、この期間に描いていた絵を載せます。



前回の書簡時よりも絵が変化したと思います。

さて、前回核心を突かれたという部分は、「ギャル=聖なるもの」という部分です。これは、自分でも言葉にしたことがない考えでしたが、まさにその気持ちはありますね。そういえば、「GAL IS GOD(ギャルは神だ)」という言葉を使ったりすることもありました。
女性(ギャル)という存在は、最も美しくて、神秘的・母的な、憧れの対象でありながら、アダルトビデオ・性風俗に映し出されるように、性欲・欲望の対象にも成り得てしまう様は、聖と俗の両義性を帯びている存在だなと、改めて思いました。「達磨と遊女」の絵もとても面白いですね。小金沢さんが研究していた河鍋暁斎も《妓楼酒宴図》という、遊女と男を奥から達磨が覗いている(様に見える)絵があるのですね。相反する正反対のものがぶつかる様。江戸時代からこのような表現があることに、人間の業や宿命、おかしみを感じてしまいます。


母子像というのも、考えたことがなかったですね。 僕が描く女性像は、やはり遠くて、絶対的な存在に思えます。中世的なこどもは僕自身の投影でもありますが、あらゆる「人間」だと思います。そして、比較的無感情か悲しげな表情。これは、ぼくは元気でアツイものが大好きな反面、すごくドライに冷めている視点も持っているところがあります。2つを融合させるけれど、それは永遠に交わる事がないと思われます。だからこそ、画面上で融合させようと試みるのかもしれません。

さて、バルテュスの展覧会をすぐに見に行きました。正直、僕はバルテュスの存在を知らなかったんですよね(苦笑)。しかしながら、それが良かったと思います。すごく良かったです。広告のビジュアルにもなっている《夢見るテレーズ》の実物は、圧倒され ました。かなり長い時間、あの絵に見入っていました。何か、魔術的な吸引力を感じました。解説にもありましたが、構図や多数のパースが交差していて、かなり精巧に設計(デザイン)されている絵画だと思います。ブチのめされました。バルテュスはやはり猫に自己投影していたのでしょうか。少女の股間の真下に配置された「ミルク」を「舐める(食する)」猫がいることに、直接的ではない隠喩を感じてしまいます。あきらかに性的な表現・想像を感じてしまいます。スカートはもはや、口紅たっぷりの真っ赤な唇を想像させます。鑑賞者の問題なのかもしれませんし、それは誤読かもしれません。「これはエロい絵ではありません」と言われても、鑑賞者の奥底にその心理があれば、そう見えてしまいます 。ある種「踏み絵」の様な、なんだかこちらまで試されているような気がします。エロスを感じてはいけない、けど、感じてしまう、危うさが漂っています。

そして、『美術手帖』5月号(バルテュス特集)を買って「日本のオタクカルチャーと少女」の座談会の中で、イラストレーターの岸田メルさんが「性の対象というよりはどっちかというと自分がこうなりたかったという、自己同一化として描いている部分が大きい」と語っていることを読みました。そして冒頭の編集長・岩渕さんの文章「またもっとも自分から遠い存在(聖性)への憧れとして描いている一面があること」という側面が、座談会を通して浮かび上がっています。

このことは、まさにぼくが「ギャル」に惹かれること、描きたいと思うことと合致しました。おそらく僕は、服装や言動で強い主張をする「ギャル」に「なりたかった(自己同一化したい憧れがある)」のですね。


サイトウケイスケ マンガ「うつろくんの冒険」より(2011年)
「生まれ変わったらギャルになりたい」のフレーズ

それは、金髪で常識や制度に反抗するパンクスの雰囲気も内包している感覚です。ただ、僕はそうはなれない。路上に座り込んで、ギャーと騒げない。泥酔してもナンパとかできない(実話)。「エヴァンゲリオン」のシンジの様に人の目を気にする。もはや教育などの制度にガッチリと枠をハメられている気がします。けれど僕はそのことが、絵や作品を通して、反抗する動機でもあるのです。現実的に金髪にしたいとは思えないのです。

ただ、男としては女の子が好きで、(それ以上に女の子になりたい気持ちがあるというだけで)やはり「男」に魅了は感じませんね。男が嫌い、は言い過ぎなのかもしれないですが、やはり「力、暴力、権力」象徴で、僕はその「力」がないが故に、嫌な存在なのでしょう。なぜか僕は「シモネタ」に対する照れや嫌悪感を持っていますね。でも普通にエロいですし。おそらく、秘めておきたい、隠しておきたい部分なのかと思います。


また一つ矛盾がありますが、僕はバスケ・ハンドボールと体育会系直球の出身で、挨拶やお礼などをキッチリし、先輩を敬うというフォーマットに乗ると「楽」で居心地が良いことも知ってますし、同時に「上の命令が絶対」なことに関する嫌悪や超えられない壁も感じます。人間てやはり、相反しています。0か100じゃないんですね。『こころの処方戔』(河合隼雄、新潮社)の中の「心のなかの勝負は51対49のことが多い」という話を思い出しますし、「男女の性にも、グラデーションがある」という話を赤坂憲雄先生が話されていたことも再び思い出しました。

それで、今回の書簡で「ギャル」について掘り下げていくと、なんというか、ギャルに対して決着(ケリ)が着いた感じがするんです。小金沢さんの言う「わからないもの」ものをほじくって行ったら、なんとなくわかってきた。合点がついてしまった。

しかし、面白いことに、それと同時にバル テュスを見たことで、「可愛さ」への興味が「こどもっぽさ」に推移したと思います。このゴールデンウィークに「HARAJUKU KAWAii!! WEEK 2014」があり、原宿の女の子の雰囲気と出会うんですね。そして、僕は今、渋谷的な「強い」ギャルよりも、きゃりーぱみゅぱみゅ的な原宿の若い「カワイイ」女の子の方にリアリティ・近しさを感じて来ています。中高生がオシャレに化粧をして、爆裂に甘いクレープを食べる姿。これが、面白い。

そういえば、日本を代表する「カワイイ/Kawaii」の拠点は、「渋谷・秋葉原・原宿」が三大発信地だと思われます。渋谷はアウトドア的な狩猟的雰囲気、秋葉原はインドア的で内面の深い宇宙。そこで原宿ですが、まさにその中間で、グラフィック的な「表層」の匂いを感じたのです。ファッションそのものが「自己」となる感覚。極端な個性・内面を生成するのではなく、極端なファッションを身 につけることで、変身・装飾・防御する気分。誰でも15分だけは有名になれるような。。。とにかく今、原宿的感覚に大変興味が湧いています。

特に、最近参考資料にしているのが、日々無限大に増幅されている「自撮り」画像です。「可愛い」の究極形態かもしれない。カメラマン(他者)が見いだす美しさではなくて、自己が最高だと思うパフォーマンスであり、完成・完結・超ドライに凍結された「可愛さ」がそこにはあるのです。僕はそのエッセンスをかすめ取りたい。特にデッサンを習得していないので、描いていると似ていない別人になり、まさに「誰も知らない」女性像が生まれるのです。「サギ写」と言われる様に別人と化してしまうくらい美しく撮影できたり、出会い系・LINE ・SNSで予期せぬ(素敵な恋への/最悪な犯罪への)出会いへとも繋がってしまう。「自撮り」が生む「窓」は、非常にデンジャラスでありながら、魅惑的です。


サイトウケイスケ《EYE HATE GOD》

サイトウケイスケ《there is a light that never goes out》

そして、このタイミングで雑誌『egg』休刊のニュースです。その時期が「でんぱ組.inc」が武道館ライブを達成した5月と重なっているのが、偶然とは思えないんです。時代がじわりじわりと変わっているんです。『小悪魔ageha』の会社が業務停止してしまったのが今年の4月。これからegg的な肖像は現実世界から薄れていくのでしょうか(いや、おそらくGAL is NOT DEAD。GALの定義なんてありませんが)。

しかし一方で、大人になりたい、と思う若い女子たちのまわりには、巨大アイドルグループの様に、「黒髪・制服」「こどもっぽさ」と「清楚さ」が定型・フォーマットとなり、逆にノイズとして万延している気もします。
渋谷的な「悪羅悪羅系」(ヤンキー・不良的な系統)よりも、「こどもっぽさ」の万延の方がよっぽどエグいのではないでしょうか。現実を遮断・隠蔽するもの、かもしれない。でも「可愛い」からゾっとするほど惹かれてしまう。popteenの表紙に吸い込まれるような感覚。(そこにはグラフィックデザインの呪力・作用かかっています。現在どうなのかはわからないのですが、ヘタうまで一世を風靡したイラストレーターで、ギ ャングスタラップのマニアでもある湯村輝彦さんの「フラミンゴスタジオ」がかなりの数の女性誌のデザインをしていたことは、なんだか見逃せません。)


『popteen』2014年6月号 (c)角川春樹事務所

そこに「虚像・幻想的な可愛さ」があるとすれば、描く対象として、とても興味が湧いています。可愛くて、危ない=まさに「小悪魔」ですね。
そして、原宿の女子のファッションは、フォーマットを破壊するたくましさを持っています。音楽的には「ブレイク・コア」のようにブっとんでる側面がある。



Cure for ADHD「30 min of Breakcore!」


また、でんぱ組は、「幽遊白書」で言えば、魔界と人間界の穴が開くのを息をひそめて待っていたA級・S級妖怪的存在だと思っています。ディアステージという真のアンダーグラウンドから、メジャーまで這い上がって来た存在です。武道館達成は、まさに魔界の扉が開かれた状 況です。いままで虐げられてきたようなマイナーなカルチャーがこれからメキメキとオーバーグランドに登場する予感がしてなりません。2014年の5月は何かの変わり目であると思われます(政治的にも非常に不安で怖い)。


それにしても、きゃりーちゃんの登場は、女子の文化にとって、激震が走ったと思われます。当時、女の子の憧れ=益若つばさ(ギャル・大人的存在)であった時期に、きゃりー(かわいい子供的存在)が大きく登場したことは、時代の動きに作用しているはずです。

神保町の古本屋で10年前の5月の『egg』を手に入れたので最新の号(次号で休刊)と比較してみました。


『egg』の比較 2004年5月号(左)と2014年6月号( 右)

例えば2005年の『ranzuki』には渋谷の解剖マップがあり、「ギャルが集まる場所と言えばココ!!!サークルの勧誘も多いよ!!!」とか、2002年の『egg』では「ギャル友募集(手紙のやり取り)」などが掲載されていました。インターネットやSNSが発達していない時代にタイムスリップするような感覚です。ネットの普及は、やはり紙媒体にとって大打撃だったのですね。そして、便利になると、その裏で消滅するがあります。路上でのコミュニケーションはネットでのコミュニケーションに変容していったのですね。

facebookで知りましたが、この植竹拓(ピロム)氏のblog記事が興味深いです。渋谷ですら、地方の「ショッピングモール化」に似た状況になっているのですね。

http://ameblo.jp/peace-on-mars/entry-11828515749.html


いつ見ても『egg』の目次ページの「コラージュ」のカオティックさは、凄まじいです。この「パワー&バイオレンス」さに、惹かれていたのだと思います。


『egg』2004年5月号 目次ページ

僕も、「ギャル」を描くことは固定化しないだろうと思いますし、女の子も消失していくかもしれない。とくかく色々な概念に触れて、変化して行きたいと感じています。


さて、話は飛んで、バルテュスの絵の赤いスカートが唇に見える、という解釈ですが、例えば広告やCMの世界にもエロティックな記号が埋め込まれている場合があります。僕は、広告などを見るときにそれを注意深く探します。

『メディア・セックス』(ウィルソン・ブライアン・キイ、リブロポート)という本を読んだことがあり、潜在意識に訴えかけるサブリミナル効果や効果が刷り込まれた広告がアメリカでめちゃめちゃ使われていたことを知ったんですね。


ウィルソン・ブライアン・キイ『メディアセックス』リブロポート、1989年

まさか~と思いつつですが、広告の目で認知できないような部分に「SEX」という文字がおびただしい量記載されていたり、ファッションモデルの手がで輪っかを作っている動きが「女性器」のイメージを刷り込んでいるなどです。また、ドクロなどの「死」のイメージを配置している例もあります。そのような手法が批判され、規制されるようになるのですが、本当に購買意欲や興味などに関わっていたら凄まじいことだなと思います。というか、人間の性(サガ)って恐ろしいなと思います。 「ちょいエロ」な広告や、webのバナーなども、やはりクリック数は増えていると思います。人間の性に対する欲望は、根深いのだと思い知らされます。けど、それが現実で、真実で、すなわちリアルです。改めて、世の中は男性的な視点が強く反映されていますね。


Subliminal Messages Are Everywhere! With Scientific Studies In Description

そして、「エヴァンゲリオン」の中にも、サブリミナル的な効果を取り入れた瞬間がたくさんありますね。特にオープニングや、回想シーンなどに恐ろしい速さのコマ割で絵が切り替わります。(はるか昔のテレビ番組で、CMと番組の間に一瞬関係のない絵を挟むというのが行われていたのですが、批判・指摘されてなくなりました)。なんだか、深層心理に突き刺さるような 、気になる映像ですよね。やはり何か意図しているのでしょうか。人々を魅了する背景には、一体何があるのしょう。

その効果はさておいて、エヴァは見て良かったです。15年くらい「アニメ」に対する感受性がストップされていたのが、アップデートされた気分です。当時見ておけば良かったなあと思いました。アニメというと「善/悪」がわかれていて、勧善懲悪なストーリーがフォーマットになっている自分に気がつきます。ガンダムも通ってないので、尚更です。エヴァは想像をはるかに超えた壮大な世界でしたね。ATフィールドという概念が興味深いです。人と人の間というか、人間を形作る枠というか。心の壁、なんですかね。超えられない壁っていう所は、僕の興味と結構合います。 ちなみに、「人類補完計画」のことを、「保管」だとずうっと勘違いしていました。

ラッパーShing02氏のアルバム「緑黄色人種」(1999年)に入っている楽曲に「真吾保管計画」というものがあります。エヴァを見てから聴くとまた違う印象です。


Shing02「緑黄色人種」より「真吾保管計画」


そして、「ひとつになるとき」もなんとなくエヴァと通じる部分がありますが、とにかく素晴らしい楽曲です。


Shing02「緑黄色人種」より「ひとつになるとき」


同時に、山形のバンドに「WHAT EVER FILM」という大先輩のバンドがいます。(以下WEF)以前名前の由来を聞いたら、「人とコミュニケーションとる時に、すごく壁を感じるけど、いざ一歩進んで話しかけたり、心を開くと、その壁は簡単に破れる膜みたいなもの」という様に教えてもらったんです。


WHAT EVER FILM - ジン at DO IT 2008(DO ITは山形で開催されている地元のバンドによる音楽フェス。2008年は全国のインディー・メジャーが入り交じる過去最大の規模となった。http://off-quiet.info/doit/

ボーカルの門脇さんが説明している文章を見つけたので、転載します。
ーーー
Q4:バンド名の由来など教えてください。

門脇:WHAT EVER FILMって直訳すると「常に薄い膜で覆われたもの」っていう意味なんですが、人って普通に生活してるなかではある一定の距離を保ったり、壁を作ったりしてると思うんですよ。で、特にうちら3人は全てをさらけ出せないたちなんですが、それを取り払って音像として表現したいなと思い、この名前にしました。
ーーー
http://www.geocities.jp/hc_fanzine/page155.html
SOME TIMES HARDCORE ZINE(2004年の記事)

WEFの皆さんがエヴァンゲリオンを見ていたかは定かではありません。自然発生的にこの「薄い膜」という言葉・考えが生まれたのではないかと考えています。この話を聞いたのは大分後(2011年くらい)だったのですが、WEFのライブに通うことで、「自分から動く」「自分から話しかける」ということは言葉にならずとも、どんどん体得していった気配があります。人と人との絶対的な「壁・膜」は、僕にとっても非常に重要なテーマですね。

そしてエヴァからの影響直撃であろうバンドはアメリカにいます。Discordance axisというグラインド・コアのバンドです。


Discordance Axis「Ikaruga」

Discordance axis「Pattern Blue」

「ボーカルが使徒の顔のタトゥーを入れているから、エヴァを見始めた」と2000年くらいに友人が言ってたのです。ちょっと見るチャンスを逃してしまってましたね。こうやって、海外のハードコアバンドの人種までをも巻き込む事象ですから、僕は見てこなかったことを損したと思いました。
アニメ=インドア派の人のもの、という観念が、今になって完全に破壊されました。エヴァを見ていると「涼宮ハルヒの憂鬱」や「攻殻機動隊」にもつながり、「ぼくらの」の描写にもつながるのでしょうね。こうなると原作の漫画も読んでおきたくな ります。20年も前に放送されていたと思うと、ビックリします。

そして、このアニメは、18歳くらいで直面した「なんで生きてるんだろう?」的な考えに回帰する感覚を帯びています。テレビ放映版は、終わりがないような終わり方で、度肝を抜かれました(高校生で見ていたら、もしかしたら、意味が分からないなりに、救われていた可能性もありますね)。作品を鑑賞する時、結局は結論などを見いだそうとしてしまいますが、そうではない終わり方。すなわち「わからないもの」に近づく感じです。その後の劇場版は、ひとまずは見ないでおこうかなと思っています。

北澤憲昭『眼の神殿』も読み進めていますが、こちらはまだまだ時間がかかりますね。。しかし、「美術」という 言葉が生成させる過程や周縁を知ることができるのは貴重です。

小金沢さんが「日本画(仮)部」を発足された時、僕は乗り遅れたので、メンバーには入っていません。しかし、そこには「日本画」の問題は自分には遠い、という意識があったのだと思います。当事者性が希薄なんですね。「(仮)」の文字を見た時、「ロックンロール(笑)/笹口騒音ハーモニカ」の図が目に浮かびました。



笹口騒音ハーモニカ「ロックンロール(笑)」アルバムジャケット 

ロックが輸入された時に、和訳されなかったんだな、と気づきました。60年代の日本に、エレキギターという新しい「画材」が入って来たという事。きっと「MUSIC(音楽)」の中の「R OCK」は日本語にも漢字にも出来なかったんですね。邦楽/洋楽の構図は、日本画/西洋画にあたるのですかね。
(仮)と言うことはとても面白いと思います。そもそも形があるのか、まだまだ可変していくのか、という「謎」を含んでいます。
僕は、名前をつけると安心する反面、おかしくなる、と考えています。病気の名前を知るだけでは、自体は解決しないような。音楽のジャンルを見ても感じていることです。人の心理か何かで、規定したくなるんでしょうね。つい、細分化したくなってしまう。そうなると蛸壷的な状況になる(縦方向にだけ深く、横の広がりがなくなってしまう)。私はこのジャンルだから、他のジャンルはわからない、興味がないという状況。書いていてハッとしましたが 、自分もその状況じゃないかと気がつきました。そもそも、学校で「~~コース/~~科」と規定するところから、他ジャンルへの断絶が始まるのではないでしょうか。正直、仕方がないとも思えますが。。高校でも「理系」「文系」と分けるところから断絶が始まりますね。けれど、そうなると「越境」という言葉が輝きを帯びてくるのも事実ですね。細分化されると、淘汰されて、古いものは切り捨てられて行く。女性誌が細分化しすぎて、ファンが拡散してしまい、購買者が減ってしまう状況にも似ています。

やはり、自分が立っている土地(日本・東京/山形/東北)のことを知りたい気持ちが、31歳にしてようやく湧いてきた次第ですね。山形を離れることで、逆に興味が湧くというパラドックス。
「汝の立つところ深く掘れ、そこに泉あり」 という赤坂憲雄先生が言われていた言葉の通りです。赤坂先生の著書、全然読んでいなくて恥ずかしい限りですが。ちなみに、僕が山形を出るキッカケとなる最後のトドメを刺したのは赤坂先生との再会と、とある言葉でした。これはまた後日に話します。

小金沢さんの岡本太郎との出会いと、引き寄せられることへの偶然性の話、とても共感できます。ぼくも、偶然の出会いが大好きです(セレンディピティ/serendipity=「何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能」という言葉が好きで、とても重要だと思っています)。
そして、僕は「いま、ここで、このタイミングで」出会うということに強烈な縁を感じるんですね。エヴァを20年ごしで見たり。同じ高校の梅津庸一くんと会えたり。そして、今、山形県朝日町で寺フェスというイベントに関わっていて、そこで展示も企画しているんです。


 寺フェスチラシ

寺フェス 展示のビジュアル

そのお寺は700年の歴史があって、江戸末期に建造された鐘楼堂があったり、本堂の欄間への透かし彫り、そして八十八枚の花鳥図による天井画が設置されているんですね。それで、そういう歴史的な芸術作品(であり、建築物であり、日用品とも言えるもの)に出会うことって、なかったんですよね。というか、スルーしていたし、頭に入って来なかった。けれど、今はなんだか入っていける感覚なんですよね。150年くらい前の、歴史の大舞台には登場しないけれど確かに存在した、地域の凄腕の職人。まさに「地方の強者」です。そして、先日、東京都大森にある「成田山圓能寺」での音楽イベントに行ったのですが、その本堂でライブを聴いていた時に、確かに「歴史と接続する」感覚を得られたんですよね。これから、お寺とサイトウケイスケが出会う、ぶつかるということで、何が起きるんだろう? と思うんです。すぐに結果はでないですけど、それは、ギャルカルチャーがきゃりーちゃんと出会ったことで少しずつ、ゆるやかに変動して行くことに似ているかもしれません。ボクシングのボディ・ブローのように。なので、今の興味としてお寺や仏教にまつわる日本の美術の話を伺いたいですね。明治の神仏分離・廃仏毀釈はどのくらいの影響があったのか、寺院などはそれほど、強大な力を持っていたのでしょうか?「神仏習合」という言葉もあるのですね。ということは、ひとつに融合したもの(していたもの?)を、ふたつに引き裂いた(細分化した)がために、何か狂った ものがあるのか。そこが現代に及ぼしている影響はあるでしょうか?

最近改めて読んだのですが、『眼の神殿』の著者である北澤憲昭さんが『アートで生きる』(杉田敦、美術出版社)」の中で話されている事柄に「プロというのは、自らの思想、欲望、可能性を総動員して、現代に介入してゆく制作者のことだからです。歴史と社会によって規定されている今を見つめ、今を知り、今を脱却してゆく。現代の美術史学にはそういうプロの作家をバックアップする使命があると思っています。」という箇所があり、感銘を受けました。しかし、それにはかなりの努力が必要だし、途方もなく「遠さ」を感じてしまいます。だからこそ、僕は「足元を掘る」ところから始める。そして、この往復書簡を「いま、ここ、このタイミング」で行えることは、大きな意義があると思っています。自身の思考や欲望も含め、アップデートしなくてはいけない、切実な期間なのだと実感しています。東京に来なければ、ここまでギャルを描いていなかった。欲望を露出できたと思います。

そして、『月刊ギャラリー』の連載「評論の眼」でパフォーマンスのレビューを書いていただき、ありがとうございます。初めて誌面に載せてもらうので、とても嬉しいです。


『月刊ギャラリー』2014年5月号

先日は、神保町「路地と人」のイベントでパフォーマンスをさせてもらいました。



その映像もいつかお見せできたらと思います。
今回、かなり叫びました。僕が叫んだり、ノイズを出すことは、人と人の間の膜や、「ATフィールド」をアンチさせたい欲求があるのでは? と推察します。誰にでも「叫ぶ場所」が必要だと思います。小金沢さんはよくカラオケで叫びますよね? 銀杏BOYZとか。。(あの絶叫は負けた、と思いました。)小金沢さんにとって、「文章」というのは叫びの場所になり得ているのでしょうか? ステイトメントを読むと、「叫び」ではなく「使命」を感じました。

小金沢智/KOGANEZAWA Satoshi statement
http://koganezawasatoshi.tumblr.com/statement


最後に、本当に毎回長くなってしまいすみませんが、ミキサーに全てをぶち込む感覚で、どんどんミックス・クロスしていければと思います。
そして、同世代の梅津庸一くんと田中武さんの話にまで入っていけてませんが、これは後半の楽しみにとっておきましょう。


6月は高円寺ギャラリーにて、展示と公開制作も行います。



それでは、後半もどうぞ、宜しくお願い致します。



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