展覧会名|藤井雷「Hear
nature for a while.」
会期|2011年6月18日(土)~7月2日(土)
会場|アートギャラリー閑々居
会場|アートギャラリー閑々居
藤井雷は1981年東京生まれ、横浜に育ち、2000年に武蔵野美術大学入学、02年に休学し奄美大島、沖縄を経て、台湾へ。故宮博物館に通い古画を研究する。04年に大学を中退し、「日本×画 にほん×ガテン!」(横浜美術館/06年)に120mに亘る《絵手紙》を出品、07年大佛次郎館、08年アートギャラリー閑々居で個展、09年は韓国仁川美術館招聘留学、その成果を横浜と閑々居で発表、11年には韓国 Seoul Art Space-Geumcheon Seoul市に招聘され、3ヶ月滞在し制作をする。このアートギャラリー閑々居での展覧会は、Seoul個展出品作であった。
fig.2 藤井雷展 展示風景 撮影:飯村昭彦
主に150×210cmの大型の作品が、閑々居の壁面を埋め尽くす。それまでの藤井の作品は、ユーモラスな文人画的要素を保つ人物や禽獣、風景であったと記憶する。横浜美術館の際も、その後の閑々居でも、墨をたっぷりと使った太い線によって描かれる対象は、日本画の主題というよりもむしろ、本当の意味での今日のキャラクターを描いているのではないだろうかと感じるほどに、時代を捉える日本画の作法を以ていた。ところがこの展覧会ではその要素は消え、果てしなくリアリズムでありながらも長大な時空を超えた、さ迷える風景を描いてきたのだ。
fig.3藤井雷展 展示風景 撮影:飯村昭彦
それはそれまでの日本画の顔料と和紙から、色墨と韓紙と画材が変化したことだけに由来するのではあるまい。元々東洋の絵画を探求していた藤井にとって、これら韓国の顔料は決して簡単ではないが直ぐにこなすことは可能であったのだろう。しかし、こなれた自らの技法に対して新たな探求をする謙虚な姿勢は、画面から直ぐに窺うことが出来る。また、描いた世界観が、何とも言えない独自性を保っている。山水として日本画/中国画的に仕上げることは容易にできたのであろう。しかし藤井の描く世界は、日本でも中国でも韓国でもない、謂わば東アジアが持つ特徴を示していると解釈することが出来る。
思えば日本画という定義事態が思い上がりである。日本でしか通じない概念であり、日本がアジアの中心であり、さもアジアが日本の属国であるような錯覚に見舞われる。日本画とは何かという議論は果てしなく続いている。その中で藤井は、日本画ではなく東アジアの絵画を描くことによってこの課題をあっさりと乗り越えた。では東アジアもオリエンタリズムでヨーロッパに於いて定義された、ナショナルな視点であろうと指摘されれば、私は当然の如くそうであろうと答える。それでいいのではないかと答える。
fig.4 藤井雷《Mt.Seorak in a snow》韓紙・墨、1500x2100mm 撮影:飯村昭彦
なぜなら藤井は自らのルートを探り、この作品に行き着いたことに由来する。藤井がそうであるならば誰がどのように定義したのかは問題とならない。藤井の作品に東アジアの発想と風景が描かれている。それを「血」であるとか「風土」、「趣」で説明すると、たちまち明治時代のファシズムに回帰してしまう。しかしこの三つの要素が不可欠であることは確かなことだ。三遠に拘らず蛙眼の視線、西洋遠近法では説明できない藤井の視線は、藤井個人と時代性を乗り越えて、今、我々が必要とし、忘れていた身近な眼差しなのである。
fig.5 藤井雷《The memory of Damyang》韓紙・墨・色墨、1500×2100mm
藤井は現在、カナダで制作を行っている。近作は知らない。そこにこのような東アジアの視線が失われていても、私は当然のことながら、いいのではないかと思う。藤井が自らの目が未開な状態であることを自覚し、新たな視線を獲得しようと努力しているのであれば、それ以上のことはない。そこには常にナショナルな眼差しも、歴史を捏造しようとする発想も必ず含まれて居ない。そして、常に藤井は藤井であるために藤井であることを止める。そこに藤井の絵画と現代の問題が焙り出されてくるのだ。日本画であること、日本人であること、もう「であること」を藤井のように止めよう。そして、自らでなくて自らであることを探す必要が今、求められている。
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