展覧会名|神山貞次郎×小野塚誠 写真展 ~舞踏を撮り続けてきた二人の写真家
会期|2011年4月14日(木)~4月20日(水)
会場|HIGURE 17-15 cas
美学校アニュアル・リポートの一環で開催されたこの展覧会は、舞踏批評家の竹重伸一と天狼星堂主宰の舞踏家、大森政秀が企画した。日米安保条約で興廃する東京で1969年に創立した美学校は、美術の分野を超克し芸術が果たすべく役割を探究し続けている。1972年に笠井叡を講師に迎えた頃から、舞踏にも深く関わってきた。美学校は今日においても舞踏を支援し続けている。二人の略歴を美学校アニュアル・リポートのweb(http://bigakkobar.jp/record/exhibition/0414-0420.html)から引用する。
神山貞次郎は1948年仙台生まれ。1973年天使館公演「七つの封印」にて笠井叡氏に出会う(赤坂芸術家センター)。これを機に舞踏家の舞台風景を撮り始める。1998年頃から、舞台照明、舞踏公演チラシデザイン等も始める。カメラ機材をデジタルに変える。
小野塚誠は1951年栃木県生まれ。フリーカメラマン。東京工芸大学(旧東京写真大学)卒。広告写真・エディトリアル写真etc。学生時代、舞踏家土方巽と出会い舞踏の世界を長年撮り続けている。土方巽の多くの写真は、慶応義塾アートセンター『小野塚誠コレクション』として土方巽研究に活用されている。
神山は笠井叡を出発点とし、大野一雄の舞台も多く撮影している。小野塚は土方巽を出発点とし、土方の弟子の小林嵯峨、玉野黄市らを時代とともに撮影してきた。出発点が違えども、神山小野塚ともに、今日の舞踏を、どのような若手でも、どれだけ小さな舞台でも、果敢に撮影していることに共通点がある。
HIGURE一階の展示室に、神山の写真が展示された。神山は単体が空間に拡散するように各人の舞踏を撮影する。そのため、画面に映し出された一人の舞踏者は、個体として、静的な「状態」を保っているように見える。これは神山が群舞を行う笠井の公演においても、笠井を「個」として撮影していたことも示している。この個体の写真を神山は、展示空間一杯に、整然と並べて舞踏が持つ個人主義を示したのであった。
fig.3 神山貞次郎展示風景2 撮影:宮田絢子
それに対して小野塚は、土方の舞踏の特徴である群舞を積極的に撮影し、複数が空間に密集することによって個に収斂するような写真を生み出す。そのため画面に一人の舞踏者が映し出されていようとも、その背後に複数の舞踏を予感させるような「現象」をとらえていると解釈することが出来る。小野塚は写真をグラビア、ネガと共に混沌と展示することによって、舞踏の土着性を見せたのであった。
fig.4 小野塚誠展示風景2 撮影:宮田絢子
対照的な二人の作品と展示方法は見応えがあった。舞踏とはバレエ、クラシック、モダン、コンテンポラリー、ジャズ、ストリート、民族、ダンスといった分類に納まるものではなく、状態や現象といった作用であると解釈すべきだ。そのような特質を持つ舞踏は、写真で収めることによって、様々に認識される。「これが舞踏だ」という写真は存在しない。
思えば日本美術史の形成において、写真が果たした役割と功罪は果てしなく大きい。廃仏毀釈により多くの仏像を焼き払った後に、これら仏像がナショナリズムにおいて「美術品」として活用できることを察知した明治政府は、急いで文化財保護法を成立させた。しかし世界各国で行われる万国博覧会に出品するだけの仏像は残されていなかった。1900年パリ万博のために発行した『稿本日本帝国美術略史』(帝国博物館編)に掲載された写真は、さも大量の古美術が残されているような印象を与えるように撮影された。これを切っ掛けに、その後、様々な方法論を用いて仏像を撮影する技術を、写真家たちは模索したのであった。
舞踏も最早、稀少な存在、または過去の遺物と化している。しかし舞踏はナショナリズムに活用されず、今日に至っている。一つの作用を様々に撮影する舞踏の写真は、現在、軽んじられている。過去の追憶として雑誌に掲載される場合、クレジットさえも失われているのが現状である。舞踏そのものの研究は慶応大学がアーカイヴを用いて行っているが、まだ始まったばかりであるということができるであろう。「舞踏の写真」そのものの深い洞察を行うことによって、舞踏とは何かが明らかになる機運を齎すことになるのであろう。いかなる権威からも逸脱する舞踏を探ることによって、我々は何を「現代美術」とすべきか問う必要性が生じているのだ。
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