2013年9月25日水曜日

レビュー|俵萌子展

展覧会名|俵萌子展
会期|2011411日(月)~23日(土)

会場|Oギャラリーeyes


執筆者|宮田 徹也

fig.1 俵萌子 会場風景 提供:Oギャラリーeyes

俵萌子の近年の活動が著しい。俵は1978年静岡県生まれ、2001年大阪教育大学教養学科芸術専攻美術コース卒業、2005年シェル美術賞展2005(代官山ヒルサイドフォーラム・東京)、2006年からOギャラリーeyes(大阪)で個展を毎年開催、2010年トーキョーワンダーウォール公募(東京都現代美術館・東京)。私は2008年のOギャラリー(東京)で作品に触れて以来、漆黒の闇から立ち現れる光に魅了されていた。2011年にも同会場で個展を開催し、大阪でも新作を出すと言うので赴いた。

fig.2 俵萌子 会場風景 提供:Oギャラリーeyes

会場に犇めき合っている作品群は、これまでの青と緑の風景を切り裂く白と黒のヴィジョンに満ち足りていた。柔らかい靄のような空間性は次第に内面の澱のように変化を遂げながらも、その澱は決して濁ることはなく、澱になることによって、より純化を増している感がある。画面中の桃色が血液や筋肉、内臓に見えないのは、そういった制作の方法が作用していると感じる。

俵は出産することによって、世の中の美醜は同様であることを知ったと言う。これは、シュルレアリスムの画家が夢を通じて到達した地点でもある。俵は日常を大切にして画面に盛り込んでいるという。これは、暗黒舞踏が持つ共通の概念に匹敵する。俵は超現実主義とも暗黒舞踏とも遠い地点にいながらも、自ずと同様の思想を手中に得たのである。


俵萌子《untitled 11-02》 提供:Oギャラリーeyes

untitled 11-02》に浮遊する白い線は、垂直、水平に横切りながらも勾配のある錯覚を生み出している。それは背景を包み隠そうとしているのではなく、より一層背景と手前の関係性を消滅させ、地と図の差異をなくそうとしているように見える。それは、自らが生きる世界と、自己以外の他者が生息する未知の国を結ぶ架け橋となるのだ。

俵萌子《untitled 11-03》 提供:Oギャラリーeyes

untitled 11-03》なると、水平とも呼べないくらいの強烈な切り傷にも見える線が、画面を直角に穿っているようにさえ感じる。自らと他者の世界に対して、ここまで切り込む作品は他に類がない。目を背けたくなる程の鮮烈な画面は、2011年という現実を直視しているため、見る者が試されている感すら与えている。

俵は2012年、αMの連続企画に参加した。その際感じたのは、画面の穏やかさである。その原因とは、この2011年の作品に比べて、「ある一線を越えた」厳しさがそうさせたのではないかと私は感じた。俵は自らの感性によって世界を認識し、自らの手法によって、その世界を絵画として出現させている。これからの俵の活動に、更なる期待がかかる。繰り返すが俵の作品を目にすることによって、我々は我々を認識することが必然となるためである。

2013年9月22日日曜日

レビュー|神山貞次郎×小野塚誠 写真展 ~舞踏を撮り続けてきた二人の写真家

展覧会名|神山貞次郎×小野塚誠 写真展 ~舞踏を撮り続けてきた二人の写真家
会期|2011414日(木)~420日(水)

会場|HIGURE 17-15 cas


執筆者|宮田 徹也

fig.1 神山貞次郎展示風景1 撮影:宮田絢子

fig.2 小野塚誠展示風景1 撮影:宮田絢子

美学校アニュアル・リポートの一環で開催されたこの展覧会は、舞踏批評家の竹重伸一と天狼星堂主宰の舞踏家、大森政秀が企画した。日米安保条約で興廃する東京で1969年に創立した美学校は、美術の分野を超克し芸術が果たすべく役割を探究し続けている。1972年に笠井叡を講師に迎えた頃から、舞踏にも深く関わってきた。美学校は今日においても舞踏を支援し続けている。二人の略歴を美学校アニュアル・リポートのwebhttp://bigakkobar.jp/record/exhibition/0414-0420.html)から引用する。

神山貞次郎は1948年仙台生まれ。1973年天使館公演「七つの封印」にて笠井叡氏に出会う(赤坂芸術家センター)。これを機に舞踏家の舞台風景を撮り始める。1998年頃から、舞台照明、舞踏公演チラシデザイン等も始める。カメラ機材をデジタルに変える。

小野塚誠は1951年栃木県生まれ。フリーカメラマン。東京工芸大学(旧東京写真大学)卒。広告写真・エディトリアル写真etc。学生時代、舞踏家土方巽と出会い舞踏の世界を長年撮り続けている。土方巽の多くの写真は、慶応義塾アートセンター『小野塚誠コレクション』として土方巽研究に活用されている。

神山は笠井叡を出発点とし、大野一雄の舞台も多く撮影している。小野塚は土方巽を出発点とし、土方の弟子の小林嵯峨、玉野黄市らを時代とともに撮影してきた。出発点が違えども、神山小野塚ともに、今日の舞踏を、どのような若手でも、どれだけ小さな舞台でも、果敢に撮影していることに共通点がある。

HIGURE一階の展示室に、神山の写真が展示された。神山は単体が空間に拡散するように各人の舞踏を撮影する。そのため、画面に映し出された一人の舞踏者は、個体として、静的な「状態」を保っているように見える。これは神山が群舞を行う笠井の公演においても、笠井を「個」として撮影していたことも示している。この個体の写真を神山は、展示空間一杯に、整然と並べて舞踏が持つ個人主義を示したのであった。

fig.3 神山貞次郎展示風景2 撮影:宮田絢子

それに対して小野塚は、土方の舞踏の特徴である群舞を積極的に撮影し、複数が空間に密集することによって個に収斂するような写真を生み出す。そのため画面に一人の舞踏者が映し出されていようとも、その背後に複数の舞踏を予感させるような「現象」をとらえていると解釈することが出来る。小野塚は写真をグラビア、ネガと共に混沌と展示することによって、舞踏の土着性を見せたのであった。

fig.4 小野塚誠展示風景2 撮影:宮田絢子

対照的な二人の作品と展示方法は見応えがあった。舞踏とはバレエ、クラシック、モダン、コンテンポラリー、ジャズ、ストリート、民族、ダンスといった分類に納まるものではなく、状態や現象といった作用であると解釈すべきだ。そのような特質を持つ舞踏は、写真で収めることによって、様々に認識される。「これが舞踏だ」という写真は存在しない。

思えば日本美術史の形成において、写真が果たした役割と功罪は果てしなく大きい。廃仏毀釈により多くの仏像を焼き払った後に、これら仏像がナショナリズムにおいて「美術品」として活用できることを察知した明治政府は、急いで文化財保護法を成立させた。しかし世界各国で行われる万国博覧会に出品するだけの仏像は残されていなかった。1900年パリ万博のために発行した『稿本日本帝国美術略史』(帝国博物館編)に掲載された写真は、さも大量の古美術が残されているような印象を与えるように撮影された。これを切っ掛けに、その後、様々な方法論を用いて仏像を撮影する技術を、写真家たちは模索したのであった。


舞踏も最早、稀少な存在、または過去の遺物と化している。しかし舞踏はナショナリズムに活用されず、今日に至っている。一つの作用を様々に撮影する舞踏の写真は、現在、軽んじられている。過去の追憶として雑誌に掲載される場合、クレジットさえも失われているのが現状である。舞踏そのものの研究は慶応大学がアーカイヴを用いて行っているが、まだ始まったばかりであるということができるであろう。「舞踏の写真」そのものの深い洞察を行うことによって、舞踏とは何かが明らかになる機運を齎すことになるのであろう。いかなる権威からも逸脱する舞踏を探ることによって、我々は何を「現代美術」とすべきか問う必要性が生じているのだ。

2013年9月15日日曜日

レビュー|今井アレクサンドル展―針生一郎先生に捧ぐ―

展覧会名|今井アレクサンドル展―針生一郎先生に捧ぐ―
会期|2011年 413日(水)~27日(水) 

会場|新生堂 中地下会場


執筆者|宮田 徹也

fig.1 今井アレクサンドル展展示風景 提供:新生堂

今井アレクサンドル(1959-)といえば今井俊満(1928-2002)の息子というよりも、1980年代からのライブペインティング、巨大なディスプレイ、神奈川県民ホールギャラリー全館での一万枚個展という、破天荒な作家として知られている。近年の作品は自己を喪失させる意味で父を凌駕する抽象画に加えて、デ・クーニング、キース・ヘリング、マルレーネ・デュマスに匹敵するほどの具象画を描いている。私はその実力を深く認め、2008年に横浜ZAIMとギャラルリーパリでの同時展覧会を企画した(「現代を透視する-急-」、「現代を透視する-緩-」)。

fig.2 今井アレクサンドル展展示風景 提供:新生堂
その想いは、20105月に没した針生一郎も同様であった様子だ。針生一郎は1925年仙台市に生まれ、敗戦後の美術/文学批評に広く楔を打ち込んだ人物である。1996年、僅か一年間であったが、私も和光大学の針生ゼミに参加した。その後縁が遠かったのであるが、晩年の針生自宅ゼミに参加したところ、私と同様の作品を預かっていることが判明したのだ。抽象絵画が売れないというだけの理由で美術館から消滅し、アレクサンドルが評価されるのは100年以上待たねばなるまいというのが針生と共通の認識であった。

fig.3 今井アレクサンドル展展示風景 提供:新生堂

展覧会は、中型の抽象作品が主となった。新生堂が持つ漆黒の空間に、アレクサンドルの作品は相応しい。アレクサンドルは大型の紙若しくは広大な空間でポーリングを行うので、その筆跡の勢いは他の追従を許すことがない。その上、これまでの経験で培った色彩感覚は抜群であり、そのためにモノクロの作品を制作すれば、古来の水墨画すらも超越するのではないかという期待が込められる。

fig.4 今井アレクサンドル展展示風景 提供:新生堂

今回出品した屏風調の作品に、俊満の《鯉のぼり-大分-》(1987年、大分市美術館蔵)を想起する者もいるのであろう。しかし俊満とアレクサンドルの大きな相違点は、描くことの軽さにあると私は思う。綿密に計算する俊満に比べて、アレクサンドルはラフに仕上げる。これは親子、作家の違いと言うよりも、作品を制作する時代の要望であると解釈することが出来る。アレクサンドルが何故あれだけ大量の作品を生み出しているのかを考察して欲しい。現代に必要なのは、疾走する力なのだ。アレクサンドルに実際に出会うと「作品を買って欲しい」と執拗に迫られる場面が多々ある。我々は作品を消費するのではなく、受容する力を作家と作品から求められているのだ。その点を忘れてはならない。

fig.5 今井アレクサンドル展展示風景 提供:新生堂

アレクサンドルは、その後も各地で制作を続け、作品を発表している。この展覧会の売り上げを東日本大震災の被災地への寄付に当てるとDMに記してあるように、アレクサンドルは資本主義という現代と闘っているのだ。新生堂という日本画のメッカでの展示を乗り越えて、今日もアレクサンドルは制作していることであろう。

2013年9月14日土曜日

レビュー|加藤芳信展 画集出版記念

展覧会名|加藤芳信展 画集出版記念
会期|2011322日(火)~42日(土)
会場|ギャラリー川船


執筆者|宮田 徹也

fig.1 加藤芳信展展示風景 提供:ギャラリー川船

加藤は1932年生まれだから、この年、80歳だと思えないほどに作品が若い。この展覧会に出品した点描の作品は、カタログの土方明司によると40年以上も続けている。作品は総て、紙に墨で描いている。信じ難い墨のテクニックと言えば靉光(1907-46)を思い起こすが、加藤はシュルレアリスムも新人画会も引き継いでいない。それどころか、池田龍雄のペン画による原始的光景、リー・ウーファンの反復とも全く異なる様相を呈している。加藤が師と仰ぐ井上三綱は画家というよりも東洋思想/宗教研究者である。しかし加藤は東洋的であってもあくまで加藤個人であり、大文字の歴史に身を委ねることはしない。加藤を「美術の歴史」に組み込むことは不可能である。

fig.2 加藤芳信展展示風景 提供:ギャラリー川船

fig.3 加藤芳信展展示風景 提供:ギャラリー川船

即ち、加藤が描く世界観とは、加藤にしか出来ない東洋の思想であると言うことができるのである。すると、東洋とは何かと言う問題が降りかかってくる。墨と和紙を使えば、東洋的であるといえるのか。それは西洋に対する東洋ではないのか。我々が自身を東洋人と標榜するのも、この一貫ではないだろうか。己が己であることを自覚し、現代と言う時間軸に自己を無として身を委ねることにこそ、加藤を何とか東洋的であるという認識することができるのではないだろうか。東洋に生まれたから、東洋に住んでいるから、東洋の思想を学んだから東洋であるとは、断じて言うことができない。

fig.4 加藤芳信展展示風景 提供:ギャラリー川船

加藤の作品が持つ本質とは、モノクロームの世界観ではない。それは同時に展示されている加藤の彫刻を見ることによって発見することができる。色、形、素材、マッスを無視して成立している彫刻群は、空間に収まること=空間を生み出すことを拒絶し、内側から光り輝く存在のあり方を問うているのだ。加藤の絵画作品も同様である。平面である、描かれたものである、何かを表出していると考察すると、作品の真意に届くことはない。加藤が描こうとしているのは、世にある世のあり方なのである。

fig.5 加藤芳信展展示風景 提供:ギャラリー川船

加藤はこれからも紙に点を打ち続けるのであろう。それば事物に蚤を穿ち、素材が持つ本質を引き出す仏師の姿にも似るのではないだろうか。加藤の画業は、これから大きな転機を迎える予感がする。そこに立ち現れる宇宙に対して、私は臆すことなく向き合う準備を整えたい。