2013年7月8日月曜日

イマジン|往復書簡:それぞれの日本画―間島秀徳、市川裕司の場合(後編)

6信|間島秀徳市川裕司、小金沢智
作品は思想を表わし、そこには日本画への批評も込められている
2013/07/01 16:42

市川裕司様、小金沢智様

続けて返信有難うございます。

市川さんは今まさにドイツに滞在中ということですから、さぞ毎日充実した暮らしを送っていることと思います。私がドイツに行ったのは10年以上前にカッセルのドキュメンタとミュンスターの彫刻プロジェクトを(評論家で現在豊田市美の天野一夫氏と)巡って、その足でオーストリアやヴェネチアビエンナーレまで短期間に足を運んだ記憶があります。かつて国民的日本画家の東山魁夷が若い頃にドイツに留学して、フリードリヒの影響を受けたことは良く知られたことですが、それ以前にも横山大観等が欧米の美術館を巡り、ヨーロッパ絵画に対抗すべく作品を思案していたことを思えば、今にも繋がっていることなのかも知れませんね。

小金沢さんにこの道に入るきっかけを話して頂きましたが、そこでは人との出会いや重要な文献を知ることで様々な関心が深まって行った様ですね。一方では展覧会で実作を体現することで、そこで感じたことが、対話や批評になってくる。私が北澤憲昭『眼の神殿―「美術」受容史ノート』を読んだのも、1993年の「現代絵画の一断面」(東京都美術館)の開催中に北澤さんにお会いしてからですから、制作をしていないと出会えないこともあるかも知れません。

そもそも私が日本画から始めてみようと思った時期を振り返ってみると、1970年代後半の高校生の頃まで遡る。美術好きの父の影響もあって、絵を描くことだけではなく定期購読していた美術雑誌を子供の頃から良く目にしていました。古典絵画にも関心はあったのですが、当時の東山魁夷の《道》(1950年)の絵がぼんやりと気になったり、一方では中村正義の様な日展で穏やかな少女像を描いていた作家が、一転して激しくアヴァンギャルドな作風に変わっていく姿を見て、日本画に対する関心が強まっていったのです。(岡本太郎『日本の伝統』も刺激を受ける)

これはたまたま今、自宅の書棚から手に取った父が残した美術雑誌『萠春』196411月号をめくってみると、「日本画の危機」と題して美術批評家の柳亮氏が投稿している一文を見つけたので少し紹介します。

『萠春』196411月号 写真提供:間島秀徳

「日本画家が日本画について考えることを止めれば、自滅以外ないことは敢えて言うまでもなかろう。ところが、現状は甚だそれが心もとない状況をしめしていて、日本画家は日本画よりも洋画について考えているのではないかと疑われるような現象さえ見うけるのである。まず、日本画という概念が根底から崩れてきた、とくに、洋画に対してそれを考える時、何が日本画かを想起するのに骨が折れるような実情である。(途中省略)日本画という概念は洋画との対置に於いてよりも、むしろ、日本画自身の理想に於いて捉えるべき概念であろう。日本画家がそれを考えないとすれば、それはとりもなおさず日本画についての権利をみずから放棄したことにならないであろうか?(後略)」

この文章は50年も前のものですが、前回紹介した日本画シンポジウムにも繋がる当時の言説です。かつては明治期からあったとされる日本画滅亡論も時代の変化と共に繰り返し問われながら今に至っている訳です。

話しが飛んでしまいましたが、1980年に東京芸大の日本画に入学後、日本画素材との出会いは新鮮でしたが、重要な影響を受けた文献として李禹煥『出会いを求めて―現代美術の始原』(田村書店、1971年)、辻惟雄『奇想の系譜—又兵衛—国芳』(美術出版社、1970年)等が思い浮かびます。李禹煥はもの派運動の柱としても知られ、明晰な文章と岩絵具を用いた作品の実践は数少ない日本画の転位を成し遂げた作家でもあります。辻惟雄『奇想の系譜』は村上隆のスーパーフラットにも影響を与えますが、そこで取り上げた江戸の異端と言われた作家の再評価は現在に至ってはもはや主流となっています。
芸大を卒業する頃の時代はバブルの直前でしたが、あのヨーゼフ・ボイスが芸大の体育館で学生達を前にして熱く語ったのもその頃です。1970年代から絵画の終焉を唱えられ、まして日本画は既に形骸化している存在とされていましたので、ボイスの様な社会に強くかかわる芸術家の声は、私を表現することの困難な谷底へ追い込むことになったのです。

その様な時代の流れを感じ取りながら、日本画の公募展には出品することは断念し個展で発表することを決断したのです。

間島秀徳 初個展 1988年(ギャラリーなつか/東京)展示風景 写真提供:間島秀徳

ここからは小金沢さんの問いでもある日本画で抽象的な仕事をすることについて答えたいと思いますが、まず作品が日本画であることは自分から規定したことは無いのですが、近年になって(最近10年ぐらい)は日本では、日本画家と呼ばれることが多くなり、その流れででしょうか、作品も日本画とされることも多いのは確かです。抽象的という概念についても、それが具象が変化したものという意味であるならば、厳密にいえば具象に近いかも知れません。それと共に日本画における抽象表現となるとかつての堂本印象の時代にもありましたが、何かローカルでマイナーな印象が拭えない、聞こえが悪い感じがしますね。新しき日本画という様なくくりも何か恥ずかしい。

これはdrawerに込めるメッセージとしても考えている一つのコメントですが、1998年に開催された「チバ・アート・ナウ’97 現代美術というジャンル」(佐倉市立美術館)に参加した際のコメント「消滅と生成へ」の一部を紹介します。

「ここでは、常に作ることが前提とされ、きりつめた思考が要求される。絵画にまつわる既成概念をすべて忘れ去るために(イデオロギーを持たないこと、目標を持たないこと、造形的になりすぎないこと、自然に寄り添いすぎないこと・・・)作品が自立するためには、自分独自のシステムを作ることで、客観性を持たなければならない。そこではまず、自分をすてること、(個的なイメージを追い求める限り、永遠に他者はあらわれない)対象を持たないこと。ここでの作画の距離は、形式という枠組みにこだわることから多様な内容が生みだされることを信じて、自分でイメージできない手法から始められる・・・。」

当時はややミニマル思考が強いかもしれませんが、今も変わらないことは、作品は思想を表わし、そこには日本画への批評も込められているということです。

「チバ・アート・ナウ’97 現代美術というジャンル」(佐倉市立美術館)展示風景 写真提供:間島秀徳

「チバ・アート・ナウ’97 現代美術というジャンル」(佐倉市立美術館)展示風景 写真提供:間島秀徳


うまく答えになっていないかも知れませんが、長くなりましたので再びパスをお返しします。




第7信|市川裕司→間島秀徳、小金沢智
もし作品の中にあるグレーゾーンの存在が言語化の過程であぶり出されるのであれば、日本絵画(「日本画」)の抽象性の問題は「日本語」に帰結する
2013/07/11 7:03

間島秀徳様 小金沢智様

返信ありがとうございます。お二人の真摯な背景からあらためて緊張感が伝わるものがありました。

まず何と言っても、50年前の柳亮氏の投稿が、現在においても芯を捉えた直球であることが本当に驚きです。戦後、人の暮らしや社会の状況は相当変わってきていますし、そこに生きる作家もまた時勢から考えることがそれぞれ異なるでしょうけど、日本画には未だ同じこの問いかけが該当してしまう。それだけ根深い問題の証拠なのかも知れませんが、糸口の見えない奮闘に哀愁すら感じてしまいます。そして時代の流れの中で間島さんが選択された「日本画の公募展には出品することは断念し個展で発表することを決断した」というのくだりにも重みがありますね。公募団体に出品をしていれば否応なく日本画家と名乗ることになっていたかも知れませんし、そうしたひとつの整いの中から思考する「日本画」は実作への反映も含め、大分違っていたように想像してしまいます。それは抽象表現の問題にも大きく関わってくるでしょうし。
小金沢さんの共同幻想としての物語の必要性というのも、以前のような国家や対外的なベクトルとは違い、日本的なもののブームの到来を待ち望んでいた多くの業界がイニシアチブを振るっています。自国文化のいいとこ取りだから誰もが御の字でしょうけど、作り手(企画者ではなく実作者)の場合は、純粋な芸術性のために欲しているというより、状況にコネクトするために必要な手掛かりのように思えますね。特に間島さんのおっしゃる「作品は思想を表わし、そこには日本画への批評も込められているということです」ということばに照らし合わせると、自己表現を伴う“思想”は与えられるものではなく自ら生み出すものであるように思います

お二人の回想にあわせ、少し大学当時からの状況を見直しますと、僕の場合は「日本画」への起点となる2003年のシンポジウム〈転位する「日本画」〉とは別に、まず公募団体の存在が見えてきます。概ね美術大学で実技教鞭をとる先生方が公募団体に属していたり、フリーであっても過去に公募団体での経験をお持ちだったりしますから、すこし関心を寄せれば、自ずと状況に触れることができました。実際、卒業された先輩方の多くも公募団体で活躍されていましたし、主要である院展、日展、創画展などはかかさず見に行っておりました。また、入学後すぐとなる1999年5月に日展の東山魁夷氏の訃報がはしり、その後10年を隔て、2004年に創画会の加山又造氏が、2009年には院展の平山郁夫氏と三山と呼ばれた公募団体を代表する日本画の巨匠が次々と逝去されています。こうした慌ただしい業界の変革は、報道のよそで、身近な諸先生や先輩方を通じて日本画社界を一歩外側から体感するものがありました。一方で、作家活動の身の置き方として公募団体に属するという選択以外に、フリーで個展を行っていく傾向が次第に目立つようになりつつも、就職氷河期の直中でしたから、作家活動自体の先行きに不安を隠しきれないのも事実でした。ごく近年のように学生時や卒業後すぐに発表できる機会が外部からアプローチされるケースはあまりありませんでしたから、世の中に作品を発表するためには公募展に入選するか、高い賃料を払って画廊の貸しスペースを獲得するために、ポートフォリオを作り、プレゼンテーションにはしごする他ありませんでした。そうした意味でも、公募展という環境は大きな道標のひとつでしたね。
当の僕は、まず、竹橋の東京国立近代美術館で行われた横山操の回顧展(日本画の偉才・横山操展―ほとばしる黒、寂寥の赤― 1999)で強烈な先制パンチを浴びせられます。受験時代、初めて日本画として認識した、日本画家・田渕俊夫の画集を穴があくように見入っていただけに、鉄線描の美観と異なる剛胆な筆致や構成を目の当たりにし、射抜かれるような衝撃がありました。日本画科という進路も、写生における修錬的な魅力や技術的必要性を感じてのこともあって、耳や目から入ってくるゼロ年代のムーブメントや、自分の知らなかった美術の世界にその都度感化されながらも、学生時代のほとんどが表現になれない習作の苦渋に没頭する日々でした。といって実直にただ日本画作法を倣っていたわけでもありません。多くの日本画志望者が答えるような、材質観から入り込むものが多かったのですが、すこし状況がひらけると、強引な解釈も含め我流に捉えることが大方であったと思います。例えば、膠の云々よりも液体が個体になるものは何でも接着剤になり得るということに執心していたり、身の回りにあるものは多くがプラスチックやアルミに変わったのだから、それらを主体にする方が現代を示す素材観として妥当だろうとか。その時分には〈転位する「日本画」〉の影響もありましたが、表面的な日本画解離も当然の成り行きでもあったかもしれません。学生時代は十数回の一般公募展(公募団体とは異なる)に挑戦しましたが、ただ一度の入選すらありませんでしたから、さすがに劣等感に落ち込んだりもしましたね。大学院後半頃には、公募団体やフリーで活躍する先達に憧れながらも、気がつけばどこの枠(日本画)にも収められないような制作に突っ立っていました。結局「現代美術」として個展発表へ進むことになりますが、自己に邁進した結果であることには違いなく、納得のいく進路でもありました。



市川裕司 初個展 2005年(GALLERY b.TOKYO)展示風景 写真提供:市川裕司

市川裕司 初個展 2005年(GALLERY b.TOKYO)展示風景 写真提供:市川裕司

市川裕司 初個展 2005年(GALLERY b.TOKYO)展示風景 写真提供:市川裕司

抽象的な仕事についてですが、実際“形から離れる”という認識はあっても、具象/抽象表現としての分別を意識して制作したことはありません。それは間島さんのおっしゃるような“具象からの変化”の背景が、写生的具象から時間をかけて徐々に推移した現在の表現思考に当てはまるように思います。前述の素材観についても「日本画」のベースに対する発想で、全く別の場所からアプローチしているわけではないですね。ざっくり言うなら僕の場合「日本画」は表現動機の在処で、「抽象」は結果的なものですね。またこれは少し別問題にそれてしまいますが、日本の場合は視覚情報の具体性は明確だけれども、充てがわれる風情や情緒観、精神性は言葉に置き換えると非常に曖昧さを帯び、しかもこのニュアンスは鑑賞側が日本人であることを前提に、曖昧なまま通用する機微だったりします。単純に外国人が日本絵画を見て感激しても潜在的なものの理解にまで及ぶことはかなり難しい。そこへ状況解説とは異なる感覚的な日本の解釈を持ち込むと、眉間にシワを寄せられる。だからといって表面的な技術やセンスでゴリ押ししたり、外国人に都合のつくフレーズをとってつけて納得してもらうのでも合点がいかない。もし作品の中にあるグレーゾーンの存在が言語化の過程であぶり出されるのであれば、日本絵画(「日本画」)の抽象性の問題は「日本語」に帰結するように思います。

結局は、不確かなことの説明を天秤を揺らしながら語るしかない僕らの言葉のやり取りこそ抽象的であるかも知れません。それこそ「作品と思考の中間的存在」としてうたったdrawerの位置づけもまた、抽象の体現といえるでしょう。今回、間島さんにdrawerの作成をご依頼させていただきましたが、回答事例のある設問でもありましたし、純粋に問いかけに向き合うだけではないものもあったかも知れません。メッセージの続きが気になるところではありますが、何か作成過程の背景で思うところなどがありましたらお聞ききしたい次第です。

市川裕司


第8信|小金沢智→市川裕司、間島秀徳
なにかをきっかけにして、結果的に自分の作品ができあがっていくということ。そのきっかけはもちろん「日本画」にかぎりませんが、「日本画」がそれを果たすこともある
2013/11/16 8:27

市川裕司様 間島秀徳様

大変ご無沙汰しています、小金沢です。第7信から時間が経ってしまったことをお詫びします。
7月から11月までの4ヶ月間に、市川さんはドイツから帰国し、イマジンとして「中之条ビエンナーレ2013」に参加、間島さんは軽井沢ニューアートミュージアム(ギャラリー3)、閑々居と個展が続くなど、夏から秋にかけて大変忙しく過ごされていたのではないかと思います。イマジンとしての「中之条ビエンナーレ2013」への参加は、また改めて振り返る場所を設けたいものですが。

さて、市川さんからの第7信では、日本画が変わらず抱えている問題、市川さんの日本画体験、市川さんの作品における抽象表現について語られていました。時間の経過がありますので、この往復書簡を読んで下さっている方は、再度全体読み直していただくとよいのかなと思いますが、最後にイマジンで行っているdrawerについて触れられています。作品としての抽象性から、言語/思考としての抽象性へと展開する話が、「作品と思考の中間的存在」として位置づけているdrawerへ辿り着く。drawerは既にご紹介のとおり、「A3程度の紙面で制作のプロセスからうかがえる「日本画」について表出された事柄」。「日本画」自体が明確な輪郭を持たない現状がある以上、これはきわめて抽象性の高い依頼内容であろうと思いますが、とはいえ前述のとおり、こうして依頼しているdrawerに、必ずしも「日本画」が表出されているとは言えない現状もありました(たとえば、あくまで自身の制作におけるステイトメントの要素が強いなど)。それがなぜなのか考えなければならないと思っていますが、その中で今回間島さんが制作して下さったdrawerは、間島さんの「日本画」についての約15年間の思考が、チバアート・ナウ’97 現代美術というジャンル」(佐倉市立美術館、1998年)、現代の日本画ーその冒険者たち」(岡崎市美術博物館、2003年)、「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」(茨城県近代美術館、2013年)という3つの展覧会にあたって書かれた文章を辿ることによって見えてくるという、とても興味深いものでした。


間島さんのdrawerは墨汁の上から鉛筆で書かれていますので、実は手元にdrawerを持っている僕でも、その全文をdrawer自体で読むことが難しいのですが、関心のある方はぜひそれぞれの展覧会カタログをご覧になって下さい。drawerでは、第6信で間島さんが転載されているチバアート・ナウ’97 現代美術というジャンル」における一文も書かれています。また、「現代の日本画ーその冒険者たち」の、「あなたは日本画家ですか?」というアンケートに対する、「いいえ。日本画」を描く作家が日本画家であるならば、答えはノーである」といった一文が読めます。いきなり過激ですね。そしてそののちの文章で、「日本画という言葉自体に内在する意味は、都合良く解釈することが可能な魔力を既に持ち合わせており、(後略)」と書かれている。「都合良く解釈することが可能な魔力」というのは、「日本画」の問題を的確に言い表していると思いました。定義ができないから、各自で定義するしかない。その結果、自分にとって「都合が良い」「日本画」になってしまうということ。そしてそれがイデオロギーと結びつく。だからこそ、間島さんは「自分をすてる」ことを目指し、今に続く制作手法に至った。
閑々居の個展「Cosmic garden」を拝見しましたが、間島さんの作品はその素材や手法は以前からのものを踏襲しながら、さらに新しい造形へと展開しています。これまでも平面的な作品だけではなく、屏風形式や円柱、四角錐の形態の作品など立体的な作品を制作されていましたが、今回の作品は四角錐の作品をさらに押し進めたもので、間島さんの自然に対する思考が、「水」というよりも「大地」に対して出力されている。水が流れる地面に対して、より意識が向けられていると感じました。過去チバアート・ナウ’97 現代美術というジャンル」で「自然に寄り添い過ぎないこと」と書かれていた間島さんの近作に、僕は畏怖を伴った「寄り添い難い自然の姿」を見ます。それは、間島さんが「自分独自のシステム」を作った結果、長い時間をかけて行き着いたもので、これからまた変化をしていくのでしょう。そういう作品の構築と変化の過程を、今回送っていただいたdrawerの思考の展開と重ね合わせるととても面白い。「都合良く解釈することが可能」ということは、どう変わってもなんとでも言える、ということだと思いますが、間島さんはそれに「ノー」を突きつけながら、自分のシステムの中においては積極的な変化を狙っています。それは、市川さんが「「日本画」は表現動機の在処で、「抽象」は結果的なもの」と言っていることと、もしかしたら近いのかもしれません。なにかをきっかけにして、結果的に自分の作品ができあがっていくということ。そのきっかけはもちろん「日本画」にかぎりませんが、「日本画」がそれを果たすこともある。

既に送っていただいた状況で恐縮ですが、市川さんからの第7信の最後にあったように、drawerを制作しながら、間島さん自身思われたこと、振り返られたことがありましたらぜひ教えて下さい。そして、市川さんには、ドイツから帰国して数ヶ月が経つ現在、ドイツでの体験が自分にとっての「日本画」に与えたもの、与えなかったものがあればぜひ教えて頂きたいと思います。僕の怠慢ですっかり延びてしまったこの往復書簡を、そこで一区切りといたしましょう。

小金沢智



9信|間島秀徳市川裕司、小金沢智
「日本画」に沈滞するか、絵画に吸収されるのか。そのいずれでもない地平に突き抜ける事が可能なのか。自覚と意志によって、普遍への扉をこじ開けねばならない。
2014/3/18 2:11

市川裕司様、小金沢智様

大変ご無沙汰しております。混沌の渦の中を抜け出せないままでしたが、何とか戻ってまいりました。昨年の11月の小金沢さんからのメッセージを頂いてから大分時間が経ってしまいましたが、何とか記憶を辿って行きたいと思います。市川さんからの問いにも有りましたが、drawer作成時に意識したことは「日本画」観の変遷についてです。既に発表されていた作家達のdrawerが個別のコンセプトからのドローイングが多かったこともあって、ほとんど「日本画」に触れていないことも気になったのです。これは日本画家として活動されている作家や美大の日本画専攻の学生にも言えることですが、あまり「日本画」を視野に入れずに自分の制作に終始している作家が多いのは現状としてあります。

左から、『現代の日本画 その冒険者たち』図録(岡崎市美術博物館、2003年)、『二年後。自然と芸術、そしてレクイエム』図録(茨城県近代美術館、2011年)、『現代美術というジャンル』図録(佐倉市立美術館、1998年)

drawer作成にあたって、その文章に記した三つの参加した展覧会の中で、1998年に参加した「現代美術というジャンル」(佐倉市立美術館)に参加した当時は、カタログの冒頭のテキスト「「ジャンル」を超えて」で谷新氏が触れている様に、一般的な「洋画」「日本画」「版画」「彫刻」「工芸」の各ジャンルから参加している作家の分類がいかに便宜的であいまいであるかに気付かされ、表現方法やその形式においてもジャンル分けが難しくなっており、ジャンルに固執するか脱ジャンルに向かうかが問われていたのです。その後の2003年の転位する「日本画」シンポジウムでの公開質問の際にジャンルは不要であるという質問者に対して、椹木野衣氏が、ジャンルがあってこそその中からより先鋭的な表現が生まれる可能性があると答えていたことが印象的でした。

2003年に参加した「現代の日本画—その冒険者たち」(岡崎市美術博物館)を振り返るべく、その企画者でもある天野一夫氏によるカタログの文章から、「日本画」という言葉すら安易に使用できない危険地帯と述べている中での続く一文を紹介します。

 「「日本画」は西洋モダニズムの中で制作し、批評して終わるものには、ほとんど目を覆い、あるいは無視すべき特異なものであるかも知れないし、またそのような見方は、新たな問題項を生まなくて済む安寧の構えかも知れない。しかしあえて言うならこの「日本画」という危険な場に係わるなら、それだけの意識的で強い知的な作家が現れることを私は期待してきた。その意味では「悪い場所」(椹木野衣)なのかも知れないが、それだけ常に自らの立ち位置への自覚を促される場でもあるのだ。むろん可能性は村上隆・会田誠のような問いの仕掛けだけではあるまい。その政治性、形式性、文様の力、装飾的魔・・・・・。ここをどう利用するのか。再活用の手法と手腕はまだまだ多様な道があるはずなのである。またその一方でここに現在絵画することの真摯な試行者がいるとするなら、それは不思議には当たらない。むしろこの「日本画」という場を何らかの形で意識して制作することで、結果として絵画することの不可解さと矛盾にまで及ぶようなスリリングなものになるとしたら、それは優れて知的な営為でもあるだろう。「日本画」を問うことは「絵画」じたいを問うことであり、それの新たな姿を探究することであろう。」

天野一夫氏とはもはや20年以上前から親交があるのですが、かつて勤めていたO美術館(東京都品川区)では数多くのマニアックな展覧会を連発で企画していました。その後の批評活動のジャンルは「日本画」にとどまらず、あらゆるジャンルを横断して行くのです。同世代でもあり言葉と制作ではアプローチの方法こそ異なりますが、批評から受ける刺激は重要です。

最後にdrawerに記したのは2013年に参加した「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」(茨城県近代美術館)でのコメントになります。ここでは他の二つの展覧会とは異なり、「日本画」については触れていません。大震災の当日から、制作の核になっている水の記憶を辿りながら現在の心境を述べています。
3.11の震災当日は、その当時講師をしていた鎌倉の日本画塾の学生とのギャラリー研修中で、半蔵門線の清澄白河の手前で震災に遭遇し緊急停車となり、その瞬間の地下での恐ろしい体験から緊張の日々が始まるのです。

日本画塾に関しては、この往復書簡の初回で小金沢さんに紹介して頂きましたが、1995年から2011年までの16年間、北鎌倉に存在した全日制(2年間)の画塾です。開校当初から大学院レベルの内容をどこまで実践可能なのか模索をくり返す日々でしたが、美大とは異なるカリキュラムを提案(支持体、描画材、顔料等の基礎素材演習に始まり、毎月開催の講評会は長時間にわたる白熱したものとなる)しながら、ギャラリー研修や海外研修(韓国、台湾、上海 、ニューヨーク、バリ等)に頻繁に出かけていました。他にも多くのゲスト講師(評論家、作家、職人等)にも来て頂き、幾つかの重要なシンポジウムも企画されました。そこで様々なことを実現できたのは2学年で10人程度の少人数制にもよるのですが、そこに参加していた作家である講師も、学生たちと共に学びながら一つの運動体として機能していたのです。詳しくは日本画塾記録誌(早見芸術学園)をご覧ください。

『日本画塾 記録誌』(2012年)

教育現場の繋がりで言えば、現在関わっている超・日本画ゼミ(美学校)があります。日本画塾のスピリットを受け継ぎつつ2012年に開講しました。超・日本画(日本・画)をキーワードに、飛躍のための徹底した探究を試みることで、実践の可能性を探ります。この現場でも共に学び考える姿勢は変わらないのですが、「日本画」を創る以前に「日本画」を徹底的に掘り下げて学び取る可能性は多々あるはずです。最近では「日本画」からも割と面白い作家が出てきている様な話しを耳にしますが、「日本画」では個人のイメージに基づいてダイレクトに制作に向かうというよりも、その前に岩絵具の様に古代から使用されている物質感の強い素材との出会いが始めに有ります。いきなり自分の作品を作るというよりも、素材や歴史等も含めた絵画原理を学びながら表現のあり方を探っていくのです。

最後に自分の制作について触れなければなりません。1980年代の発表当初とは異なる形で、今は再び形式と内容のあり方について見直していることがあります。いわゆるダイレクトなイリュージョンをもたらす平面絵画を、立方体や円柱に変化させながら 自然と身体性との関係を成立できるのか。発表方法は今も個展が中心ですが、大作1点のみの絵画展示から構成的な作品まで、その場所との関係性の中から空間を変容させるのです。作品というものは何かまとわりつく枠組みがあると弱く見えるものです。具象でも抽象でもあり、そのどちらでもないような作品を今は目指しています。

「間島秀徳展」(ギャラリーK2013年) 撮影:飯村昭彦

「間島秀徳展」(アートギャラリー閑々居2013) 撮影:飯村昭彦

「アートフェア東京2014」、Gallery 香染美術より出品 撮影:飯村昭彦

「アートフェア東京2014」、Gallery 香染美術より出品 撮影:飯村昭彦

かつて岡崎市美術博物館のアンケート(「あなたが制作に関わることで、今、興味を持っていることは何ですか。これからの(日本画)について、どう展開すると思われますか」)にも書いた様に、「日本画」に沈滞するか、絵画に吸収されるのか。そのいずれでもない地平に突き抜ける事が可能なのか。自覚と意志によって、普遍への扉をこじ開けねばならない。という発言の意識は今も変わりありません。

前回の第8信で小金沢さんが最近の作品について指摘していた様に、自然に対する思考が、「水」というよりも「大地」に対して出力されており、水が流れる地面に対して意識が向けられているとありましたが、それは無意識でしたが確かなことかもしれません。いわゆる概念としての水が震災を境に、生と死の感覚までも具体的に呼び起こしたのです。
以前から日本人のみに向けた言葉としてではなく全てに翻訳可能な作品を目指していましたが、コンセプト重視の西洋式アートに対抗するために物語はやはり必要なのでしょうか? 村上隆の様に国家のフレームを意識することが、世界基準で勝負することになるのでしょうか? 例えば相撲の世界で活躍する日本人は少なくなっていますが、今後もその様な日本独自の システムが続くでしょうし、「日本画」も同じ様に存続するでしょうか? 西洋に追いつけ追い越せの時代はもう終わっています。日本人がもっと日本のことを知ることも必要でしょうし、小熊英二氏の震災後のコメントにある様に、従来の発想が行き詰まっているときには、本当の意味での発想の転換が必要であり、自分の見方だけが正しいと言い張るのではない対話の必要性を説いています。どういう社会をこれから作っていくのか、土台を共有した対話の必要性もです。運動とは広い意味での人間の表現行為であり、社会を作る行為であると。ここでの発言は「日本画」を今考えることをあてはめて読み取ることも可能です。

今後も今回の往復書簡のようなかたちとは別の方法でも何か意見交換ができるような場を作りたいですね。もうすでに皆さんは始めているでしょうが・・。
今回往復書簡という有意義な機会を与えて頂き有難うございました。


間島秀徳


第10信|市川裕司→間島秀徳、小金沢智
“「日本画」について作家それぞれの意識が、体系や外観の形成の問題としてではなく、自分の手に握った一本の筆の先に生まれる「日本画」なるものがつまるところ何であるのか、たとえそれが棚の上でも引き出しの奥であっても、どこにあったのか確認しておくことが大事なのではないだろうか”
2014/6/3 21:43

間島秀徳様、小金沢智様

第1信がおよそ1年前、小金沢さんのご提案とともにこの往復書簡という形で始まり、間島さんと私との3人で行われてきました。今回 私事にかまけて3ヶ月近い間を置くこととなってしまいましたが、間島さんが第9信の冒頭で、これまでのdrawerが「日本画」についてあまり触れていないのではないかという状況を語られており、それは図らずも遡った第1信の始めに小金沢さんよりお伝えいただいた当時のdrawerの景観でありますので、1年経った今、先ずそのことについて触れてみたいと思います。


130602 「日本画」について考えるが、とりわけ研究しているわけでもなく、直接作品がそこに在るというものでもない。しかし、そこに引っかかりをもつことで案出される動機をかたちにしてきた経緯が、いま基礎を支えているのは確かである。
国外にいて毛ほどにも通用しないこの「日本画」にあらためて問いかけたい。
※第1信にあたる2013年6月2日の市川裕司の日記

僕はこのdrawer(=イマジン)という機会を、「日本画」に身を置くそれぞれの作り手の側から、どのように捉え自らの作品の内に活きているのか。それを交わす場であると考えております。展示企画や制度、技法など幾つかの側面から与えられる「日本画」は、おおよそ作り手の外側から発せられ、その都度付き従う傾向にあるように見られ、「日本画」って何? の問いに苦渋の表情を浮かべながら、与えられた教科書の一文を復唱するしかありません。苦渋の原因は確証の揺らぐ「日本画」の位置づけはもとより、間島さんのお話にあった、制作にとってのリアリティが少し疎遠である現状に繋がります。こうした状況である今、そして今後、「日本画」について作家それぞれの意識が、体系や外観の形成の問題としてではなく、自分の手に握った一本の筆の先に生まれる「日本画」なるものがつまるところ何であるのか、たとえそれが棚の上でも引き出しの奥であっても、どこにあったのか確認しておくことが大事なのではないだろうかと思います。そしてdrawerにみられた空白とも言える「日本画」のそれぞれの内心は、応え難い実情をそのままを映しているという点では肯定的なものがあります。ですが敢えて「無い」と口にすることと、あくまでも沈黙にとどまるという比較においては、内実とは別に表現された行動の問題でもあるでしょう。このdrawerによる“作家それぞれの「日本画」の現在の認識”は、またあらためて継続する事例の回収の中で適した議論の余地を検討していきたいと思います。

これまでの僕を含む23名の作成と違い、制作を通じて長い時間「日本画」に強く関わってきた間島さんのdrawerには、重みのある一枚として「日本画」にまつわる変遷の一シーンを窺い知ることができました。そして3つそれぞれの背景にある時代とその立ち会い方の違いが興味深いですね。もちろんそこに本人の当時の制作思考がリンクしてくるのでしょうけれど、作品へ反映される変わらない根幹と都度につきつけている厳しさがあらためて浮かんできます。3つ目に関しては避けようのない大きな状況の変化から推移する意識的なものと小金沢さんの指摘した「大地」のように無意識に出てくるものもあるのですね。震災の余波は今なお引き続いておりますが、作家としての生き方を根底から考えさせられました。当時は都心近くにおり、情報に錯乱してゆく不安感だけが高まる毎日でしたが、首都圏北部のアトリエから避難されていたという間島さんの噂も届いていましたから、想像に及ばない大事変であることを察する他ありませんでした。その後に取り組まれた作品として、帰国後に閑々居の作品を拝見したときにはギョッとさせられるものがありました。一番の印象は立体的であって立体ではないと言うところです。それは僕の見方なのでしょうけど絵画空間が強く面に集約される印象があり、質量として見えてきてもおかしくないはずなのに、不思議な身体感覚として引き込まれるものがあって、それは安直に絵付けされた直方体でもなければ、単純に平面画を張り合わされてできた面体でもないものでした。

それと第8信で小金沢さんよりご質問いただいた、“ドイツでの体験が自分にとっての「日本画」に与えたもの、与えなかったもの”についてお応えしないとですね。時間経過的になんだかすみません。結局言うべきことが過去に重複してしまいそうなのが、申しわけないと前置きさせていただきます。まず僕が欧州で確認できた範囲では、日本絵画として文明開化以前の日本の美術の存在は受け入れられていても、近現代に至る「日本画」を見聞きすることはありませんでした。日本の純度を線引きするのであれば、ひとつのボーダーとして否めないところです。またそうしたものを横目に日本の現在とパラレルする翻訳された漫画や、アニメーション、日本文化的なものはよく見かけましたね。実際これは国外に限った現象ではないと思われますが。そうなると気になるのがミッシングリンクともなっている近代に始まる日本の美術、そして「日本画」が日本絵画から現在の過程でどう解釈されるべきなのか、間島さんの引用された天野一夫氏のテキストにあるように、この危険な場所から日本の絵画を掘り起こすことが重要性をもつものであると思いますし、そのために固執するにしろ脱却するにしろ「日本画」というジャンルへ向き合わなくてはならないでしょう。僕の場合、食べたこともない美味しいところだけを摘んで語るのはいけ好かないところがあり、自分の足跡を辿ってもすぐそこまでしか行けませんが、隣をゆく先人の歩みに多くを見てきたことや、見過ごしてきた景色に実感がありルーツの入り口があるように思います。そこから順繰り辿った先で、ひとつ自分の「日本画」を見つけることが必要なのではないかと。渡航中も包括的な意味での「日本画」の答えを探してはいましたが、安直な回答すら見つからなかったのが事実です。しかし自身を裏付けるべき応え方は前述の通りですね。こんな様でも単純に日本の絵画として自負できる作品を手がけたいというおこがましい欲求を1年の渡航のうちで活性させられたのは、まだまだ子供染みた性分だからでしょうか。また一方で海外では当たり前のように見かけた、一人のアーティストが行う多彩な表出のありかたにはとても魅力を感じましたからジャンルへの自覚をもちながらも表現形式については末広がるイメージを持つようになりましたね。傍目には良くも悪くも頓着のなさが節々で露呈してゆくのかもしれません。

こちらの話題はご存知のところ今回の返信をさぼっていた最中に、ドイツ研修の成果発表展示を行っていたのですが、とりわけ作品を動かした(変えた)という点がちょっとしたポイントでもありましたので最後にお話しさせていただきます。具体的なひとつは、筆触によって描くことをやめたこと。もうひとつは具体的な図像(リンゴ)が介入してきたことですね。これまで自身の制作が絵画であることの所以を筆触に頼ってきたという嫌いが否めなく、それをいかに転じるか予てより機会を窺っていました。試行錯誤の最中、欧州の1年で気に留まった作家の一人にGünter Uecker(ギュンター・ウッカー)という作家が挙げられます。“釘”を扱った彼の作品はタブローであれ、立体であれ、美術館や公共空間、野外彫刻などどこにあってもそれらが一目で彼の作品であると解り、共通する釘を打ち込むという手法と材質の特化にあるアイデンティティの獲得に異彩の存在感を受けていました。


Günter Ueckerの公共作品(ドイツ・デュッセルドルフ)

その影響もあって、僕の表現媒体としての箔への絞り込みは、物質性や工芸的な灰汁が非常に強い分印象度も高く、一般的に描くというニュアンスと決別した場所から絵画を思考できる緊張感が決定的でした。透明体をベースに扱う僕の仕事にとっても、無いことを仮想する状態から瞬時に顕在的な事実へと変えてしまう薄い金属膜が、デリケートな境界線を欲する僕にとって好都合でしたし、日本の絵画空間の構成として問題意識を持てるところにも魅力を感じています。もうひとつ、欧州で人間の生き方として信じるべきものが、人の創り得た文化にあり、その厚みはそれまで日本で培った僕自身の曖昧さにとって対極的な存在でもありましたから、大きな関心の焦点でもありました。その象徴とも言えるリンゴは身近な日常生活から、語り継がれた物語、歴史文化のあらゆるシーンでその大役を担ってきた存在でもありますが、関心の裏では僕自身の羨望と恐れ、期待感のようなものが混濁しているように感じます。こうした二つの要素を合わせ落としたタイトルが、今回の「世界樹」です。2会場で短期間のお披露目となりましたが、お二人にもお忙しい中ご来場いただいておりましたので、この場を借りて御礼申し上げます。


市川裕司《世界樹Ⅲ》 市川裕司個展「世界樹」2014年、コバヤシ画廊 撮影:島村美紀

市川裕司《世界樹Ⅰ》 市川裕司個展「世界樹」2014年、スパイラルガーデン 撮影:島村美紀

市川裕司《世界樹Ⅱ》 市川裕司個展「世界樹」2014年、スパイラルガーデン 撮影:島村美紀

結果1年もの長きに渡ってしまった往復書簡ではございましたが、本当に有意義な機会となりました。間島さんとの世代を跨いだ対話に接点や共感する部分だけでなく、考えさせられる事柄が多くあり、勉強させていただくと共に自分の筋道をあらためて見つめ直す契機ともなりました。また間島さんと僕、双方の仕事を俯瞰してご覧いただいている小金沢さんのお話にも、作り手の主観とは違って差し入れられるものがあり、往復書簡相乗の立役者でもありました。こうして実感の持てる懐の交わし合いは、これからも何らかのかたちで実践していきたいですね。

乱筆な僕が場を締めるのも心もとないところではございますが、これにて往復書簡「それぞれの日本画―間島秀徳、市川裕司の場合(後編)」を打ち切りとさせていただきたいと思います。
間島さん、小金沢さん、この度は本当にありがとうございました。



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