既に送っていただいた状況で恐縮ですが、市川さんからの第7信の最後にあったように、drawerを制作しながら、間島さん自身思われたこと、振り返られたことがありましたらぜひ教えて下さい。そして、市川さんには、ドイツから帰国して数ヶ月が経つ現在、ドイツでの体験が自分にとっての「日本画」に与えたもの、与えなかったものがあればぜひ教えて頂きたいと思います。僕の怠慢ですっかり延びてしまったこの往復書簡を、そこで一区切りといたしましょう。
小金沢智
第9信|間島秀徳→市川裕司、小金沢智
“「日本画」に沈滞するか、絵画に吸収されるのか。そのいずれでもない地平に突き抜ける事が可能なのか。自覚と意志によって、普遍への扉をこじ開けねばならない。”
2014/3/18 2:11
市川裕司様、小金沢智様
大変ご無沙汰しております。混沌の渦の中を抜け出せないままでしたが、何とか戻ってまいりました。昨年の11月の小金沢さんからのメッセージを頂いてから大分時間が経ってしまいましたが、何とか記憶を辿って行きたいと思います。市川さんからの問いにも有りましたが、drawer作成時に意識したことは「日本画」観の変遷についてです。既に発表されていた作家達のdrawerが個別のコンセプトからのドローイングが多かったこともあって、ほとんど「日本画」に触れていないことも気になったのです。これは日本画家として活動されている作家や美大の日本画専攻の学生にも言えることですが、あまり「日本画」を視野に入れずに自分の制作に終始している作家が多いのは現状としてあります。
左から、『現代の日本画 その冒険者たち』図録(岡崎市美術博物館、2003年)、『二年後。自然と芸術、そしてレクイエム』図録(茨城県近代美術館、2011年)、『現代美術というジャンル』図録(佐倉市立美術館、1998年)
drawer作成にあたって、その文章に記した三つの参加した展覧会の中で、1998年に参加した「現代美術というジャンル」(佐倉市立美術館)に参加した当時は、カタログの冒頭のテキスト「「ジャンル」を超えて」で谷新氏が触れている様に、一般的な「洋画」「日本画」「版画」「彫刻」「工芸」の各ジャンルから参加している作家の分類がいかに便宜的であいまいであるかに気付かされ、表現方法やその形式においてもジャンル分けが難しくなっており、ジャンルに固執するか脱ジャンルに向かうかが問われていたのです。その後の2003年の転位する「日本画」シンポジウムでの公開質問の際にジャンルは不要であるという質問者に対して、椹木野衣氏が、ジャンルがあってこそその中からより先鋭的な表現が生まれる可能性があると答えていたことが印象的でした。
2003年に参加した「現代の日本画—その冒険者たち」(岡崎市美術博物館)を振り返るべく、その企画者でもある天野一夫氏によるカタログの文章から、「日本画」という言葉すら安易に使用できない危険地帯と述べている中での続く一文を紹介します。
「「日本画」は西洋モダニズムの中で制作し、批評して終わるものには、ほとんど目を覆い、あるいは無視すべき特異なものであるかも知れないし、またそのような見方は、新たな問題項を生まなくて済む安寧の構えかも知れない。しかしあえて言うならこの「日本画」という危険な場に係わるなら、それだけの意識的で強い知的な作家が現れることを私は期待してきた。その意味では「悪い場所」(椹木野衣)なのかも知れないが、それだけ常に自らの立ち位置への自覚を促される場でもあるのだ。むろん可能性は村上隆・会田誠のような問いの仕掛けだけではあるまい。その政治性、形式性、文様の力、装飾的魔・・・・・。ここをどう利用するのか。再活用の手法と手腕はまだまだ多様な道があるはずなのである。またその一方でここに現在絵画することの真摯な試行者がいるとするなら、それは不思議には当たらない。むしろこの「日本画」という場を何らかの形で意識して制作することで、結果として絵画することの不可解さと矛盾にまで及ぶようなスリリングなものになるとしたら、それは優れて知的な営為でもあるだろう。「日本画」を問うことは「絵画」じたいを問うことであり、それの新たな姿を探究することであろう。」
天野一夫氏とはもはや20年以上前から親交があるのですが、かつて勤めていたO美術館(東京都品川区)では数多くのマニアックな展覧会を連発で企画していました。その後の批評活動のジャンルは「日本画」にとどまらず、あらゆるジャンルを横断して行くのです。同世代でもあり言葉と制作ではアプローチの方法こそ異なりますが、批評から受ける刺激は重要です。
最後にdrawerに記したのは2013年に参加した「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」(茨城県近代美術館)でのコメントになります。ここでは他の二つの展覧会とは異なり、「日本画」については触れていません。大震災の当日から、制作の核になっている水の記憶を辿りながら現在の心境を述べています。
3.11の震災当日は、その当時講師をしていた鎌倉の日本画塾の学生とのギャラリー研修中で、半蔵門線の清澄白河の手前で震災に遭遇し緊急停車となり、その瞬間の地下での恐ろしい体験から緊張の日々が始まるのです。
日本画塾に関しては、この往復書簡の初回で小金沢さんに紹介して頂きましたが、1995年から2011年までの16年間、北鎌倉に存在した全日制(2年間)の画塾です。開校当初から大学院レベルの内容をどこまで実践可能なのか模索をくり返す日々でしたが、美大とは異なるカリキュラムを提案(支持体、描画材、顔料等の基礎素材演習に始まり、毎月開催の講評会は長時間にわたる白熱したものとなる)しながら、ギャラリー研修や海外研修(韓国、台湾、上海
、ニューヨーク、バリ等)に頻繁に出かけていました。他にも多くのゲスト講師(評論家、作家、職人等)にも来て頂き、幾つかの重要なシンポジウムも企画されました。そこで様々なことを実現できたのは2学年で10人程度の少人数制にもよるのですが、そこに参加していた作家である講師も、学生たちと共に学びながら一つの運動体として機能していたのです。詳しくは日本画塾記録誌(早見芸術学園)をご覧ください。
『日本画塾 記録誌』(2012年)
教育現場の繋がりで言えば、現在関わっている超・日本画ゼミ(美学校)があります。日本画塾のスピリットを受け継ぎつつ2012年に開講しました。超・日本画(日本・画)をキーワードに、飛躍のための徹底した探究を試みることで、実践の可能性を探ります。この現場でも共に学び考える姿勢は変わらないのですが、「日本画」を創る以前に「日本画」を徹底的に掘り下げて学び取る可能性は多々あるはずです。最近では「日本画」からも割と面白い作家が出てきている様な話しを耳にしますが、「日本画」では個人のイメージに基づいてダイレクトに制作に向かうというよりも、その前に岩絵具の様に古代から使用されている物質感の強い素材との出会いが始めに有ります。いきなり自分の作品を作るというよりも、素材や歴史等も含めた絵画原理を学びながら表現のあり方を探っていくのです。
最後に自分の制作について触れなければなりません。1980年代の発表当初とは異なる形で、今は再び形式と内容のあり方について見直していることがあります。いわゆるダイレクトなイリュージョンをもたらす平面絵画を、立方体や円柱に変化させながら
自然と身体性との関係を成立できるのか。発表方法は今も個展が中心ですが、大作1点のみの絵画展示から構成的な作品まで、その場所との関係性の中から空間を変容させるのです。作品というものは何かまとわりつく枠組みがあると弱く見えるものです。具象でも抽象でもあり、そのどちらでもないような作品を今は目指しています。
「間島秀徳展」(ギャラリーK、2013年) 撮影:飯村昭彦
「間島秀徳展」(アートギャラリー閑々居、2013年) 撮影:飯村昭彦
「アートフェア東京2014」、Gallery 香染美術より出品 撮影:飯村昭彦
「アートフェア東京2014」、Gallery 香染美術より出品 撮影:飯村昭彦
かつて岡崎市美術博物館のアンケート(「あなたが制作に関わることで、今、興味を持っていることは何ですか。これからの(日本画)について、どう展開すると思われますか」)にも書いた様に、「日本画」に沈滞するか、絵画に吸収されるのか。そのいずれでもない地平に突き抜ける事が可能なのか。自覚と意志によって、普遍への扉をこじ開けねばならない。という発言の意識は今も変わりありません。
前回の第8信で小金沢さんが最近の作品について指摘していた様に、自然に対する思考が、「水」というよりも「大地」に対して出力されており、水が流れる地面に対して意識が向けられているとありましたが、それは無意識でしたが確かなことかもしれません。いわゆる概念としての水が震災を境に、生と死の感覚までも具体的に呼び起こしたのです。
以前から日本人のみに向けた言葉としてではなく全てに翻訳可能な作品を目指していましたが、コンセプト重視の西洋式アートに対抗するために物語はやはり必要なのでしょうか? 村上隆の様に国家のフレームを意識することが、世界基準で勝負することになるのでしょうか? 例えば相撲の世界で活躍する日本人は少なくなっていますが、今後もその様な日本独自の
システムが続くでしょうし、「日本画」も同じ様に存続するでしょうか? 西洋に追いつけ追い越せの時代はもう終わっています。日本人がもっと日本のことを知ることも必要でしょうし、小熊英二氏の震災後のコメントにある様に、従来の発想が行き詰まっているときには、本当の意味での発想の転換が必要であり、自分の見方だけが正しいと言い張るのではない対話の必要性を説いています。どういう社会をこれから作っていくのか、土台を共有した対話の必要性もです。運動とは広い意味での人間の表現行為であり、社会を作る行為であると。ここでの発言は「日本画」を今考えることをあてはめて読み取ることも可能です。
今後も今回の往復書簡のようなかたちとは別の方法でも何か意見交換ができるような場を作りたいですね。もうすでに皆さんは始めているでしょうが・・。
今回往復書簡という有意義な機会を与えて頂き有難うございました。
間島秀徳
第10信|市川裕司→間島秀徳、小金沢智
“「日本画」について作家それぞれの意識が、体系や外観の形成の問題としてではなく、自分の手に握った一本の筆の先に生まれる「日本画」なるものがつまるところ何であるのか、たとえそれが棚の上でも引き出しの奥であっても、どこにあったのか確認しておくことが大事なのではないだろうか”
2014/6/3 21:43
間島秀徳様、小金沢智様
第1信がおよそ1年前、小金沢さんのご提案とともにこの往復書簡という形で始まり、間島さんと私との3人で行われてきました。今回 私事にかまけて3ヶ月近い間を置くこととなってしまいましたが、間島さんが第9信の冒頭で、これまでのdrawerが「日本画」についてあまり触れていないのではないかという状況を語られており、それは図らずも遡った第1信の始めに小金沢さんよりお伝えいただいた当時のdrawerの景観でありますので、1年経った今、先ずそのことについて触れてみたいと思います。
130602 「日本画」について考えるが、とりわけ研究しているわけでもなく、直接作品がそこに在るというものでもない。しかし、そこに引っかかりをもつことで案出される動機をかたちにしてきた経緯が、いま基礎を支えているのは確かである。
国外にいて毛ほどにも通用しないこの「日本画」にあらためて問いかけたい。
※第1信にあたる2013年6月2日の市川裕司の日記
僕はこのdrawer(=イマジン)という機会を、「日本画」に身を置くそれぞれの作り手の側から、どのように捉え自らの作品の内に活きているのか。それを交わす場であると考えております。展示企画や制度、技法など幾つかの側面から与えられる「日本画」は、おおよそ作り手の外側から発せられ、その都度付き従う傾向にあるように見られ、「日本画」って何? の問いに苦渋の表情を浮かべながら、与えられた教科書の一文を復唱するしかありません。苦渋の原因は確証の揺らぐ「日本画」の位置づけはもとより、間島さんのお話にあった、制作にとってのリアリティが少し疎遠である現状に繋がります。こうした状況である今、そして今後、「日本画」について作家それぞれの意識が、体系や外観の形成の問題としてではなく、自分の手に握った一本の筆の先に生まれる「日本画」なるものがつまるところ何であるのか、たとえそれが棚の上でも引き出しの奥であっても、どこにあったのか確認しておくことが大事なのではないだろうかと思います。そしてdrawerにみられた空白とも言える「日本画」のそれぞれの内心は、応え難い実情をそのままを映しているという点では肯定的なものがあります。ですが敢えて「無い」と口にすることと、あくまでも沈黙にとどまるという比較においては、内実とは別に表現された行動の問題でもあるでしょう。このdrawerによる“作家それぞれの「日本画」の現在の認識”は、またあらためて継続する事例の回収の中で適した議論の余地を検討していきたいと思います。
これまでの僕を含む23名の作成と違い、制作を通じて長い時間「日本画」に強く関わってきた間島さんのdrawerには、重みのある一枚として「日本画」にまつわる変遷の一シーンを窺い知ることができました。そして3つそれぞれの背景にある時代とその立ち会い方の違いが興味深いですね。もちろんそこに本人の当時の制作思考がリンクしてくるのでしょうけれど、作品へ反映される変わらない根幹と都度につきつけている厳しさがあらためて浮かんできます。3つ目に関しては避けようのない大きな状況の変化から推移する意識的なものと小金沢さんの指摘した「大地」のように無意識に出てくるものもあるのですね。震災の余波は今なお引き続いておりますが、作家としての生き方を根底から考えさせられました。当時は都心近くにおり、情報に錯乱してゆく不安感だけが高まる毎日でしたが、首都圏北部のアトリエから避難されていたという間島さんの噂も届いていましたから、想像に及ばない大事変であることを察する他ありませんでした。その後に取り組まれた作品として、帰国後に閑々居の作品を拝見したときにはギョッとさせられるものがありました。一番の印象は立体的であって立体ではないと言うところです。それは僕の見方なのでしょうけど絵画空間が強く面に集約される印象があり、質量として見えてきてもおかしくないはずなのに、不思議な身体感覚として引き込まれるものがあって、それは安直に絵付けされた直方体でもなければ、単純に平面画を張り合わされてできた面体でもないものでした。
それと第8信で小金沢さんよりご質問いただいた、“ドイツでの体験が自分にとっての「日本画」に与えたもの、与えなかったもの”についてお応えしないとですね。時間経過的になんだかすみません。結局言うべきことが過去に重複してしまいそうなのが、申しわけないと前置きさせていただきます。まず僕が欧州で確認できた範囲では、日本絵画として文明開化以前の日本の美術の存在は受け入れられていても、近現代に至る「日本画」を見聞きすることはありませんでした。日本の純度を線引きするのであれば、ひとつのボーダーとして否めないところです。またそうしたものを横目に日本の現在とパラレルする翻訳された漫画や、アニメーション、日本文化的なものはよく見かけましたね。実際これは国外に限った現象ではないと思われますが。そうなると気になるのがミッシングリンクともなっている近代に始まる日本の美術、そして「日本画」が日本絵画から現在の過程でどう解釈されるべきなのか、間島さんの引用された天野一夫氏のテキストにあるように、この危険な場所から日本の絵画を掘り起こすことが重要性をもつものであると思いますし、そのために固執するにしろ脱却するにしろ「日本画」というジャンルへ向き合わなくてはならないでしょう。僕の場合、食べたこともない美味しいところだけを摘んで語るのはいけ好かないところがあり、自分の足跡を辿ってもすぐそこまでしか行けませんが、隣をゆく先人の歩みに多くを見てきたことや、見過ごしてきた景色に実感がありルーツの入り口があるように思います。そこから順繰り辿った先で、ひとつ自分の「日本画」を見つけることが必要なのではないかと。渡航中も包括的な意味での「日本画」の答えを探してはいましたが、安直な回答すら見つからなかったのが事実です。しかし自身を裏付けるべき応え方は前述の通りですね。こんな様でも単純に日本の絵画として自負できる作品を手がけたいというおこがましい欲求を1年の渡航のうちで活性させられたのは、まだまだ子供染みた性分だからでしょうか。また一方で海外では当たり前のように見かけた、一人のアーティストが行う多彩な表出のありかたにはとても魅力を感じましたからジャンルへの自覚をもちながらも表現形式については末広がるイメージを持つようになりましたね。傍目には良くも悪くも頓着のなさが節々で露呈してゆくのかもしれません。
こちらの話題はご存知のところ今回の返信をさぼっていた最中に、ドイツ研修の成果発表展示を行っていたのですが、とりわけ作品を動かした(変えた)という点がちょっとしたポイントでもありましたので最後にお話しさせていただきます。具体的なひとつは、筆触によって描くことをやめたこと。もうひとつは具体的な図像(リンゴ)が介入してきたことですね。これまで自身の制作が絵画であることの所以を筆触に頼ってきたという嫌いが否めなく、それをいかに転じるか予てより機会を窺っていました。試行錯誤の最中、欧州の1年で気に留まった作家の一人にGünter Uecker(ギュンター・ウッカー)という作家が挙げられます。“釘”を扱った彼の作品はタブローであれ、立体であれ、美術館や公共空間、野外彫刻などどこにあってもそれらが一目で彼の作品であると解り、共通する釘を打ち込むという手法と材質の特化にあるアイデンティティの獲得に異彩の存在感を受けていました。
Günter Ueckerの公共作品(ドイツ・デュッセルドルフ)
その影響もあって、僕の表現媒体としての箔への絞り込みは、物質性や工芸的な灰汁が非常に強い分印象度も高く、一般的に描くというニュアンスと決別した場所から絵画を思考できる緊張感が決定的でした。透明体をベースに扱う僕の仕事にとっても、無いことを仮想する状態から瞬時に顕在的な事実へと変えてしまう薄い金属膜が、デリケートな境界線を欲する僕にとって好都合でしたし、日本の絵画空間の構成として問題意識を持てるところにも魅力を感じています。もうひとつ、欧州で人間の生き方として信じるべきものが、人の創り得た文化にあり、その厚みはそれまで日本で培った僕自身の曖昧さにとって対極的な存在でもありましたから、大きな関心の焦点でもありました。その象徴とも言えるリンゴは身近な日常生活から、語り継がれた物語、歴史文化のあらゆるシーンでその大役を担ってきた存在でもありますが、関心の裏では僕自身の羨望と恐れ、期待感のようなものが混濁しているように感じます。こうした二つの要素を合わせ落としたタイトルが、今回の「世界樹」です。2会場で短期間のお披露目となりましたが、お二人にもお忙しい中ご来場いただいておりましたので、この場を借りて御礼申し上げます。
市川裕司《世界樹Ⅲ》 市川裕司個展「世界樹」2014年、コバヤシ画廊 撮影:島村美紀
市川裕司《世界樹Ⅰ》 市川裕司個展「世界樹」2014年、スパイラルガーデン 撮影:島村美紀
市川裕司《世界樹Ⅱ》 市川裕司個展「世界樹」2014年、スパイラルガーデン 撮影:島村美紀
結果1年もの長きに渡ってしまった往復書簡ではございましたが、本当に有意義な機会となりました。間島さんとの世代を跨いだ対話に接点や共感する部分だけでなく、考えさせられる事柄が多くあり、勉強させていただくと共に自分の筋道をあらためて見つめ直す契機ともなりました。また間島さんと僕、双方の仕事を俯瞰してご覧いただいている小金沢さんのお話にも、作り手の主観とは違って差し入れられるものがあり、往復書簡相乗の立役者でもありました。こうして実感の持てる懐の交わし合いは、これからも何らかのかたちで実践していきたいですね。
乱筆な僕が場を締めるのも心もとないところではございますが、これにて往復書簡「それぞれの日本画―間島秀徳、市川裕司の場合(後編)」を打ち切りとさせていただきたいと思います。
間島さん、小金沢さん、この度は本当にありがとうございました。