2013年6月13日木曜日

レビュー|働正・働淳展

展覧会名|働正・働淳展
会期|201139日(水)~27日(日)
会場|早良美術館るうゑ


執筆者|宮田 徹也

fig.1 働正展示風景 撮影:宮田絢子

早良美術館るうゑは博多からバスで一時間は掛からない場所にある。1994年開館、るうゑはドイツ語”Ruhè”=憩いや安らぎを意味するとおり、居住空間がそのまま美術館となっていて、珈琲も楽しめる空間でありながらも本格的な作品を展示している。企画展を欠かさず行い、「るうゑ通信」も発行し続けている積極的な美術館である。地方の個人美術館の役割を果たす姿には頭が下がる。


 fig.2 働正展示風景 撮影:宮田絢子

私は20084月、宇城市の不知火美術館で開催された「働淳・正展」のカタログ編集をした。淳とは2006年の九州派の調査で知り合った。絵画と共に詩も描く淳は1959年福岡生まれ、舞踏とのコラボレーションも行うほどの見識の深さがある。淳の父、正(1934-1996)は熊本県に生まれ、1960年代前半「九州派」にて活躍。1965年より大牟田市にて児童美術教育に携わり、数多くの著作を残す。正が遺した絵画の作品群はポップアート調から刻々と変化し、晩年には一色の筆致を刻むのみへと至りついた。

fig.3 働正・淳展示風景 撮影:宮田絢子

るうゑにおける展示では、一階が正、二階が淳、階段が二人の作品となった。正がひたすらに線を引き重ねていく作品群《立つエッジ》は70年代の吉仲太造、中西夏之、堂本尚郎ら同時代の作家が描く作品と近似しても、その発想は全く異なる。作品に描かれた線を追えば追うほど画面が消失する。完全に消え去ったあとに、一枚の絵画が浮かび上がってくる。それは決して幻惑的な光景や魔術的な風景ではなく、描くこと=見ることを完全に一致させ、我々の目の前にある現実を立ち現せる絵画の本来の姿でもある。はじめてこの作品群を眼にした時は、一枚を見るのに優に一時間を必要とした。正の活動を正統に評価するのは時間が必要となる。しかし、正の作品に立ち向かわなければ、この国の絵画で何が起こっていたのかを見失うことになる。

 fig.4 働淳展示風景 撮影:宮田絢子

淳の作品は正に比べて判り易い。様々な植物や動物が絡み合い、超現実主義的な空間を編み出している。本人はシュルレアリスムと円山応挙、歌川広重の構図を融合させたいと考えているという。淳の作品の最大の特徴は、超現実主義の本質である、愛と詩と革命を携えていることにある。淳の作品には必ず風刺が込められている。かといって、淳はシュルレアリスムを標榜しているわけではない。超現実的な手法から、自らが求める姿を探している。そして、描く喜びを身を以て示しているのだ。

fig.5 働淳展示風景 撮影:宮田絢子

このような個性が強く主張も異なる二人の作品が温和に、しかし明確に見えるのは、一重にるうゑの空間がそうさせたのである。私がこの二者の作品を始めて見たのは、働のアトリエであった。その際、正の作品を明確に把握することが出来なかったし、淳の作品からは風刺よりもむしろ政治性を強く感じだ。二度目の不知火美術館、即ちホワイトキューブの際には、正の作品の緊張感が強調され、淳の作品からは詩情を読み取った。この度のるうゑの空間は自然光に満ち溢れ、家具という生活感が密着しているからこそ、作品が持つ意図が明確に透けて見えたのではないかと感じる。作品には様々な側面が存在する。その特徴を引き出すことが、展示空間と企画の役割であろう。私はいずれ、この二人展を東京で行いたいと画策している。そして、絵画としての厳しい側面を中央と言われる東京の作家と批評家に問いたいと考えている。

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