2013年6月16日日曜日

イマジン|往復書簡:それぞれの日本画―間島秀徳、市川裕司の場合(前編)

1信|小金沢智→間島秀徳、市川裕司
2013/06/02 20:35

間島秀徳様 市川裕司様 

同世代の作家と日本画を考える企画「イマジン」の立ち上げから、約11ヶ月が経ちました。現在主軸となっているdrawerの公開もほぼ毎月行い、現時点では19人の作家による、それぞれが考える日本画についての「声」が視覚化されています。

ただ、見ていただいて多くの方が気づかれると思うのは、「日本画」観が必ずしもそこに明確に表現されているわけではないということです。どの方も、drawerのコンセプトを伝えた上で提出していただいていますが、一見そこに「日本画」観が表現されているとはわからないdrawerも少なからず見受けられます。たとえば、どちらかというと自身の制作にあたってのコンセプトが強く表出されていて、日本画への言及とはあまり見えない、というような。もちろん、A3程度の紙面で日本画について表現して下さい、という僕たちのお題の厚かましさ/難しさもあると思うのですが、これはどういうことなのだろうとずっと考えていました。

日本画についての思考は既に自身の体内にすっかり溶け込んでいて、特にそれと言わなくても、滲み出ているということなのでしょうか? あるいは、日本画出身だけれども、日本画について特に言葉にする/考える必要性を感じていないということなのでしょうか?

そうした中で、1975年以降に生まれた作家を対象に行ってきたイマジンを、年代という枠組みを取り払って考える必要があるのではないか?と思い、今回、長く日本画をベースに制作をされている間島秀徳さんに、drawerの制作と、市川裕司さんとの往復書簡のお願いをしました。間島さんは、ご自身の制作に加え、鎌倉の日本画塾(1995-2011年)で講師をつとめられ、今では美学校で講座「超・日本画ゼミ」を担当されているなど、日本画を実践的かつ批評的に考える場に長くいらっしゃいます。drawerに先立って公開するこの往復書簡では、僕から二人に対して以下の質問を投げかけさせていただき、それに対して、市川さん、間島さんに答えていただくという形式をとり、お二人にとっての日本画についてお話を聴かせていただきたいと思います。
お聞きしたいことは、以下の二つです。

Ⅰ:「日本画」とその時代性について
間島秀徳さんは1960年生まれ、市川裕司さんは1979年生まれで、お二人は、年齢としては約20歳の差があります。その差は、日本画を制作する環境、学ぶ環境だけではなく、日本画が語られる状況の差をもたらしていると思います。日本画について考えるということは、そういった時代の状況と無関係ではないと思うのですが、お二人の場合はいかがでしょうか?

Ⅱ:制作と、長期にわたる海外での滞在経験について
間島秀徳さんは文化庁在外研修員としてフィラデルフィア(ペンシルバニア大学)、ニューヨークに2000年から2001年にかけて、市川裕司さんは第23回五島記念文化賞美術新人賞の研修でドイツに20127月から20137月にかけて、それぞれのキャリアの中で海外に長期間滞在されています。そこでの経験が、制作ないしは「日本画」観にどのような意味や影響をもたらしたか、あるいはもたらさなかったか、教えて下さい。

イマジンとしては、いずれ、実際の場を作ってお話ししたいことではありますが、市川さんが現在ドイツということもあり、まずこのような往復書簡というかたちで間島さんとお話をさせていただければと思います。
それでは市川さんから、よろしくお願いします。


2信|市川裕司→間島秀徳
“芸術として日本画という価値観は国際社会に通じないが、「日本画」という問題が起こっているということには、関心をよせるのではないか”
2013/06/07 9:11

間島秀徳様

大変ご無沙汰しております、市川です。

この度は小金沢さんのはからいで、畏れ多くも間島さんとの往復書簡という機会をいただくこととなりましたが、およそ20年近い視点の差がどのように交わされるか想像もつきません。縦の世代間で、作品が公募展やグループ展などで同じ場に並ぶことはあっても、作家同士の対話ってされているようであまりされていない気がします。そういえば最後に3人が同じ場所にいたのは、昨年4月の第5回日経日本画大賞展(上野の森美術館、2012)のレセプションでしたが、込み入った話はできませんでしたね。あれから一年とちょっと経ちましたが、今度は文面で「日本画」を交わしていきましょう。とりあえず、お題をいただいておりますので時代性のところから触れさせていただきますね。

僕にとっての日本画の起点は20033月、美術史家・北澤憲昭氏によって神奈川県民ホールで催されたシンポジウム<転位する「日本画」>に始まります。当時僕は多摩美術大学の卒業式を迎え、お恥ずかしながら会場へは足を運んでおらず、記録集となる「日本画の転位」北澤憲昭/著によって、シンポジウムの全容とその重要性について衝撃を受けるところとなりました。その内容は「日本画」の致命的な欠陥をさらけ出し、多くの日本画にまつわる作家、キュレーター、評論家、研究者によって検証が行われたものでした。舞台背景となった「ニュージャパニーズスタイルペインティング-日本画材の可能性」(山口県立美術館、1988)に始まる4つ展覧会は、まさに現在の間島さんの世代も渦中となって行われたもので、間島さんはシンポジウムのパネラーでもありましたね。僕の場合、このイベントによってそれまで所在を置いていただけの日本画から、再考すべきものとして大きく認識が変わりました。

でもこれはあくまでも公開された研究会で、政治や教育として語られたものでもありません。当時僕の世代でも、この検証の機会はそこまで広く知られていませんでしたし、知っていても自身の問題として作品制作にあたる作家はそう多くはいなかったように思います。もっとも村上隆氏がジャーナリズムに台頭し始めたこともあって日本画はそちら側から聞こえてくる方が印象強かったでしょう。それでも系譜といえる「超日本画宣言-それは、かつて日本画と呼ばれていた-」(練馬区美術館、2004)や「MOTアニュアル2006 No Border -「日本画」から/「日本画」へ-(東京都現代美術館、2006)の企画展、「東山魁夷記念 日経日本画大賞展」2002年~、や一般公募展「トリエンナーレ豊橋・星野眞吾賞展」1999年~の発足といった「日本画」を考える機会はその都度、僕らの目の前にあったのは確かです。

しかしこれらの機会も、「日本画」の許容範囲や作風の多様性ばかりが表面的に捉えられ、実質的な問いかけとして作り手が受け取っていないような気がします。その根本的な問題は“関心の希薄さ”にあると思います。例えば政治状況のヘッドラインは知っていても、投票には行かないといった風に、行動しなくてもそれなりに安住に足る状況は出てしまうし、行動しても手元に直接的なかたちは見えてこない。むしろ安直な発言や行動に横槍が入ることを懸念してしまう。そもそも国家からくる「日本画」を、アトリエで制作する日常とリンクするリアリティが見当たらないでしょう。それよりも今、どうしたら“世の中に受け入れられるのか”が制作思考の焦点で、芸術や日本画の問題は置き去りにされているように思います。

続いて滞在経験からのところですね。

ドイツ・デュッセルドルフでの滞在も、ようやく10ヶ月を過ぎたところですが、本当に日々新鮮な出会いがあります。美術に限らず、生活のひとコマごとに違いがあり、なるほどと思うこともあれば、理不尽さに苛まれることだってあります。日本の4倍苦労してできることもあれば、10倍かけてもできないことだってたくさんありますし。もっとも語学が一向に上達しない僕にとっては圧倒的に後者の方が多いかもしれませんね。

美術についての印象でいうと、トラディショナルな美術とは別に、ヨーゼフ・ボイスの反芸術や資本主義リアリズムなど戦後美術がしっかりと根ざす一方で、ドクメンタや大小の国際展、また教育機関や市場においても欧州各国にとどまらず、国外との流動が非常に活発なのが、かつて鎖国までした島国・日本との規模の違いを感じさせます。この既にグローバルな状況で、中国市場に大きくリードされたアジア美術の枠組みに、日本美術を見つけることはなかなかできません。このような国際社会と日本社会の内で「日本画」をどう捉えるべきか、明確な発言は見えてきていませんが、すこし思い至ることがあります。

これはベルリンに滞在していた作家の手塚愛子さんとの対話の際にでてきたことですが、“芸術として日本画という価値観は国際社会に通じないが、「日本画」という問題が起こっているということには、関心をよせるのではないか”ということです。国名を冠する「日本画」は、その説明に国家背景の問題を伝えることがつきまといます。でも敢えてこの摩擦状態を、あらためて個々の作家側から、問題としてはっきりと肯定することで生まれるカウンターカルチャーこそが、ひとつの美術を浮き彫りにできる活路になり得るのではないかということです。実際、世界中の絵画作品のほとんどが油彩画で、その識別要素は題材や技法、形式よりも自国のカルチャーや社会問題、美術運動といったものがアイデンティティの背後にしっかりと存在して成り立っています。こうした国際社会の意識や個性の問題、日本美術の位置づけなどは、おそらくアメリカの方が拓けているように思いますが、時期や場所によっても違いがありそうですね。

なんとなく10年の隔たりを端折った感じになりましたね。あくまでも僕の見ていた一部状況の主観に過ぎませんが、このへんで僕の方からの2信を終えたいと思います。


3信|間島秀徳→市川裕司
“日本画の問題は日本画だけの問題ではない”
2013/06/13 18:28

市川裕司様

間島です。
すっかりご無沙汰ですね。

今回の往復書簡を楽しみにしております。市川さんに最後に会ったのが日経日本画大賞展のレセプションということでしたが、何年か前の多摩美の特別講義の際には、助手として作品画像を見せる手伝いをして頂いたので、話の内容も伝わっていたでしょうか。他にもコバヤシ画廊での諏訪直樹の追悼記念展の打ち上げでも同席しましたね。同じ時代に生きる制作者として、世代を越えて話すべきことが「日本画」にもあるはずです。今回は小金沢さんのお題を受けての話しがきっかけとなりますが、少しでも実りある話しになる様に宜しくお願いします。

まずは市川さんの日本画の起点が、2003年のシンポジウム<転位する「日本画」>に始まるということでしたが、当時まさにそのシンポジウムの企画委員をさせて頂いた経緯もあるので、準備段階から記録集になるまでの全容を目撃しておりました。北澤憲昭氏の発案により実現したものですが、そこに関わったキュレーター、研究者、批評家、作家のみならず、「日本画」アンケートに至っては歌舞伎役者の方まで返答を頂きました。今から思えばもう10年も経ってしまったのかという感慨もありますが、当時の二日間にわたったシンポジウムの会場は多くの聴衆で埋め尽くされ、連日白熱した議論が交わされました。その内容は1988年から1998年の間に開催された現代絵画としての「日本画」の可能性を探る五つの展覧会を軸に検証することで、改めて「日本画」の問題を浮かび上がらせようという試みでした。詳しい内容は『シンポジウム<転位する「日本画」>記録集 「日本画」内と外のあいだで』(ブリュッケ、2004年)に記されています。10年を経た現在からみても、日本画の問題は日本画だけの問題ではないことが読み取れるはずです。

『シンポジウム<転位する「日本画」>記録集 「日本画」内と外のあいだで』(ブリュッケ、2004年)

私が直接展示に関わり参加した美術館での展覧会は、先のシンポジウムよりさらに10年遡った1993年の「現代絵画の―断面―「日本画」を越えて」(東京都美術館)が最初になります。当時の日本画の新しい動向を伝えるだけではなく、日本画材とどの様に関わり新たな表現を目指しているのかを問う展覧会でした。公募団体に所属する作家、無所属、現代美術作家まで、個別の代表作を大規模に紹介する展示でもありました。当時はまだ公募展も人気があり、同じ時期に別会場で開催されていた日展の会場は多くの人でごった返しているのに比べると、「「日本画」を越えて」の会場は充実した内容にもかかわらず、閑散とした会場であったことは懐かしい思い出でもあります。企画展会場を全室使用した展示内容は13人の作品82点で構成されいました。3Fに展示されたフロアーは諏訪直樹の作品に始まり、間島作品、中上清、村上隆の順であったかと思います。当時の村上氏の大作カラーズというタイトルの巨大作品は、群青絵具等を何度も塗り重ねた作品で、美しい作品なのですが、現代日本画に対するアンチテーゼともとれる作品でした。当時の私は86年に芸大の大学院を卒業後し、院展か創画会に出品することが日本画卒の学生のお決まりのコースに対抗して、個展形式で発表をくり返している時期でもありました(当時としては珍しい)。発表する場所が日本画の公募団体ではありませんので、出品すれば日本画という訳にはいきませんので、内容と形式の必然を考える実験の日々であったと思います。

現在の「日本画」を問う様な美術館での企画展は、2006年の「MOTアニュアル2006 No Border -「日本画」から/「日本画」へ-」(東京都現代美術館)を最後に落ち着きを見せている感じがします。日経大賞展は日本画版VOCA展の様でもありますし、ますますその境い目がなくなりつつ有るのかも知れません。一方でミズマアートギャラリーや、高橋コレクションといった個人コレクターから発信される作家の内容は、日本的なるものをモチーフにした作品が多く見受けられます。いわゆるデザインとしての作品は最近の傾向かも知れませんね。

市川さんは現在ドイツに滞在中ですが、一番の選んだ理由はどこにありますか。私はアメリカのフィラデルフィアに1年間滞在していました。アメリカは特に好きではないのですが、敢えて行って自分の眼で見極めてみようというひねくれた思いもありました。始めはニューヨークで研修先を探していたのですが、人伝に探すうちにフィラデルフィアのペンシルバニア大学の大学院に中里斉先生が居られることを知り、お世話になることになりました。完全なフリーで滞在するよりも海外の美術教育の現場を見てみたかったこともあって、客員アーティストとして大学院のアトリエを借りていました。ニューヨークまでは2時間ぐらいなこともあって毎週の様にニューヨークには出かけて、ニューヨークのアートシーンを見尽くすことも目標にしていました。そこで出会った学生やアーティストの出身国は世界中に及びますが、作品に対する考え方は様々で、自国のアイデンティティーを強く押し出すばかりではなかったですね。私が自分のプロフィールを紹介する際にもトラディショナル ペインティングを研究していることは伝えても日本画の話しには全くなりませんでした。それとフィラデルフィアは保守色が強い伝統的な街でしたので、ニューヨークとの対比を見るのは面白かったですね。19世紀からのアメリカンアートヒストリ-を紐解けば、アメリカにも公募団体の様なものが存在し、代表的なワイエス以外にも美術の伝統が写実であったことは良く分かります。アメリカと言えば現代アートの華やかな部分ばかりが目に浮かぶかも知れませんが、画家達がヨーロッパ美術を見て何を志し、どんな形で自国に取り入れたかは、かつての日本の状況と重なることがあるかも知れません。

はじめから問題提起という訳にはいきませんが、小金沢さんからも提言等有りましたら宜しくお願いします。



第4信|市川裕司間島秀徳
だからこそ僕らの“問いかけ”方がどうあるべきなのか、いま考えていかなきゃならない
2013/06/21 18:40

間島秀徳 様

お返事ありがとうございます。

大学時のことなどご記憶いただいていたとは嬉しいですね。あの時は機材の不備もございましたが、何より間島さんの膨大な仕事量にパソコンの画面切り替えが追いつかず、嫌な手汗をかいていたと思います。それでも、作品から語られる挑戦の背景を実感できた貴重な機会であったことには間違いありません。これもパソコンの問題ですが、実は今回、間島さんからいただいたメールが全て文字化けしていて面食らいました。異なる言語のやりとりでもないのに、記号の配列パターンがちょっとズレたことだけで何一つ読み取ることができない。手元のエンコードでも解決できなかったので、小金沢さんからの転送でようやく確認できました。なんだかこれは異言語コミュニケーションよりもよっぽど難儀なツールだなあと、ふと思ってしましました。今回は「日本画」から順序が変わるかもしれませんが、ドイツ選択の理由についてご質問をいただきましたので、こちらの話題から入って行きたいと思います。
 
これまで僕は、海外旅行の経験もなく昨年の夏、初めて日本国外へと渡り、そのまま現在に至ります。それは作家やプライベートでも渡航までの接点をもつ機会がなかっただけでなく、単純に関心や視野そのものが薄く狭かったことも要因といえるでしょう。実際、海外研修のチャンスが訪れるまで、具体的な国名が頭に浮かぶことはありませんでしたが、自身の制作方向性からも現代美術をみるということははっきりしていました。そこで先ず天秤にかけたのが、イギリスとドイツです。国内にいる際に何度かドイツの作家とお会いすることもありましたが、気風の印象からもドイツの方が落ち着いて向き合えるように感じました。次に美術の盛んな地域である、東のベルリンと西のデュッセルドルフを比較し、市場印象の強いベルリンよりも、つくること自体を根幹から見つめ直す時間に重点を置きたいと思い、伝統色の残るデュッセルドルフを選択しました。また僕の場合は間島さんと対称的になりますが、敢えて美術教育から離れ、フリーであることを選びました。渡航4日後から、買い物ひとつまともにできないのに、語学学校の宿題をさぼって始めたのが、なぜか道端に落ちているビールの王冠拾いです。気になることに従順になり、どうやって表すか一から考える。一応かたちには起こしたものの周囲の反応は?の連発でした。ですが今でも結局そんなことばかりをずっと繰り返していますね。特にドイツ美術は呪術的とさえいえる内面性や、記号化・象徴化してゆく体質などがあって、作品を見るものというより読むものとして印象づけます。これは現状日本アートのもつ明確さやヴィジュアル的な表面性に対極するものだと思えますが、とても刺激を受けた部分ですね。しかし10ヶ月いながらも見えてくるのは奥の深さばかりで、とらえどころのなさに不安さえ憶えてしまいます。そして日本のように物事が思い通りにいかない分、間島さんの中里先生との出会いのような縁や、どう1年を過ごすかという強い目的意識などが海外研修を大きく決定づけるように思います。“たられば”のように顧みることもありますが、ひとつひとつの出来事を大事に受け入れていくようにしています。




なんだかアメリカの写実と言われると少しドキッとしますが、確かにアメリカもまた日本のように、国外の美術・文化を受けてかたち作られてきた国でしたね。つい先日、本屋さんで見かけた美術雑誌の表紙がこのアイ・ウェイウェイ氏。シーズン的なこともあって第55回ヴェネチア・ビエンナーレの特集なのですが、今回ドイツの代表アーティストのひとりが中国出身のアイ・ウェイウェイなのです。他にインド、南アフリカ、ドイツと異なる四カ国の出身者からなるドイツ代表の構成がとられています。自国の代表者が外国人であるということは何となく王貞治氏やサッカー、ラグビーのなどスポーツ業界を思い起こしたりもしますが、今の日本ではあまり考えられないケースですね。そして今回、田中功起さんの日本館が特別賞をいただいたようですが、こうした国際評価も少なからずデザイン性の強い近年の日本のアート情勢に影響をもたらすでしょうし、その一端に在る「日本画」にも何かあってしかるべきと考えてしまいます。時間を縮めてみれば、大陸同士がくっついてしまいますが、今は見えない糸で世界中が縫い合わされています。そもそも「日本画」の問題も外交によるものですが、時代が進むにつれ問題意識も推移してゆくはずです。88年の最初の“問いかけ”から25年も経ちますからそれにあたる作家達も世代が変わります。だからこそ僕らの“問いかけ”方がどうあるべきなのか、いま考えていかなきゃならないと思いますね。



小金沢さんは年齢的には僕に近いですが、作家達とは異なる視線をもって、現在位置に立っていらっしゃるかと思われます。作家作品に対しての受け手でありながら、状況を整理して社会に提示する側でもあります。こうした「日本画」の変遷から感じることや、渡航経験を含む僕や間島さんの文面からお気づきになられることなどございましたらお応えいただきたいです。



第5信|小金沢智間島秀徳、市川裕司
「日本画」には現在も看過できない問題があって、それを考えることは美術を考えることに通じている
2013/06/25 11:18

おはようございます、小金沢です。
市川さんからパスをもらったので、これまでのやりとりを見ていて思うところ、お返事させていただきます。

そもそも僕がなぜこのようなことをしているか、というところからお話しさせて下さい。「このようなこと」というのは、市川さんがおっしゃっていた「作家達とは異なる視線をもち、作家作品に対しての受け手でありながら、状況を整理して社会に提示する」というような仕事です。学芸員だからというのは結果論なので、今後状況は変わるかもしれませんしね。市川さんとの初対面時はギャラリーに勤めていましたし、間島さんとの初対面時は学生でした。
僕は2002年4月、明治学院大学文学部芸術学科に入学したのですが、元々美術史を勉強しようと思っていたわけではなくて、もうひとつ合格したところと天秤にかけて、こちらの方が面白そうかな、くらいの意識で入りました。小学生の頃、絵画教室に通っていたことがあったので絵を描くこと自体は好きだったのですが、美大は思いつきもしませんでしたし、だから芸術学科に入ったのも軽い気持ちだったんですね。入学してみるとその学科は、今はコースが増えていて違うんですけれど、2年生以降、映像、美術、音楽の三つのコースにわかれていく。入学当初は、映画好きだから映像コースかなと思っていたのですが、講義に出てみると先生の話は全然わからないし、同級生も非常にレベルが高くて、というか僕のレベルが低すぎて、とてもついていけそうにない。音楽は無理だし、じゃあ美術か…という流れだったのですが、その美術コースの日本美術史の先生に、山下裕二先生がいたんですね。その授業がとても面白くて、日本美術のゼミをとろう、ということにした。

それで、ゼミをとると卒論を書かなければならない。思い出話が長くなっても仕方ないので割愛しますが、紆余曲折あって、大学三年生のとき、河鍋暁斎(1831-1889)について書くことを決めました。歌川国芳に学んだあと、狩野派にも学んだため、正統な絵から奇々怪々な絵まで描こうとすればなんでも描ける幕末・明治の鬼才です。なにより絵が面白くてやってみようと思ったのですが、作家研究はその時代背景を把握することも必須ですから、幕末・明治が美術にとってどういう時代だったか知る必要があった。その中で手に取ったのが、北澤憲昭『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年)でした。

北澤憲昭『眼の神殿 「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年)

なにがきっかけか覚えていませんが、こういう本があると知った僕は、学校の図書館で借りて読んだ。今でこそこの本はブリュッケから2010年に復刊され、手に入れやすくなりましたが、当時は絶版で、簡単には入手することができなかったんですね。その後僕は根気よく検索サイトの「日本の古本屋」で安いものを検索し続けて手に入れるんですが、基本的にプレミアム価格ですごい値段だった。大学三年生くらいになると、それなりにいろいろ知ってきて、「美術とはなにか?」みたいなことを考えて、友人と議論したりもするわけですが(笑)、その「美術」という言葉自体が、明治時代にはじめて、しかも自然発生的にではなく、ドイツ語の訳語として生まれた言葉だということを知った。これはすごい衝撃でした。つまり、今自分が考えている「美術」の土台に触れた、そういう気がしたんですね。

残念ながら、今回の往復書簡でも重要事項として触れられている2003年の〈転位する「日本画」〉は、まだそういう関心に至っているときではなかったので聴いていないのですが、東京都現代美術館の「MOTアニュアル2006
No Border -「日本画」から/「日本画」へ-」は、そういうところに関心がある時期だったので、すごく面白かった。そのとき僕は現代美術はほとんど見ていなかったのですが、この展覧会を見て、明治時代の問題は今も続いているんだなという感覚を覚えました。それからこれと同じ年の2006年秋から2007年にかけて、東京国立近代美術館と京都国立近代美術館で、「揺らぐ近代:日本画と洋画のはざまで」という展覧会が行われました。今は東京藝術大学大学美術館にいらっしゃる、古田亮さんが東近美時代に企画された展覧会です。近代における日本画と洋画の問題に正面から取り組まれていて、しかも書籍ではなくて展覧会だから作品が主体なんですよね。実作品を見ながら、日本画と洋画の複雑に入り組んだ関係を考えることができたということで、とても勉強になった展覧会でした。余談になりますが、このとき、京都会場では面白い試みが行われていて、それが「電子メール討論会」。この往復書簡にも似たところがありますが、無謀にも大学院生になった僕はこの電子メール討論会に一観賞者として意見を送っています。さらに余談ですが、「MOTアニュアル2006
No Border -「日本画」から/「日本画」へ-」の感想をmixi日記に書き込んだことがきっかけで知り合った、作家の三瀬夏之介さんも同じく投稿していたりするので、興味のある方がいましたらぜひ読んでいただきたいです。

電子メール討論会:「揺らぐ近代 揺らいでいるのはなにか?」
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2006/351interaction.html

大学院では作家も時代も変えて、岡本太郎(1911-1996)が戦前パリで活動していた時期に描いていた絵画について研究していたので、明治期の日本画/洋画問題とは少し距離ができてしまったのですが、三瀬さんと知り合ったのがきっかけで、それらの現代の問題にも少しずつ触れるようになっていきました。その流れがあって市川さんに会い、また別の角度からほぼ同時期に知り合った日本近代美術思想史研究の宮田徹也さんを通じて間島さんに会い、2006年前後は僕が今関心を持っている/行っていることの原点のような、大事な出会いがたくさんあったと今さらながら思います。

つまり、元々は自分の研究が起点にはなっているものの、そこから関心が派生して、色々な人と知り合って、ときには巻き込まれるようなかたちで「日本画」について考えている。結局は「美術」について考えたいという思いがあって、だから僕は自分では日本画専門とは思っていないんですね。そう認識してくださっている方が最近多いと感じるのですが、僕としては違う意識なんです。「日本画」には現在も看過できない問題があって、それを考えることは美術を考えることに通じている。言わば原理的な答えの出ない問いとしてあって、しかしそれでもそれに答えようとせずして先に進むことはできない、そういう種類のそれは問題なんです。「美術とは何か?」「芸術とは何か?」、それにたった一つの答えを出すことは難しいけれど、考えることが思考を先に進ませる。僕はそういう思考を有することが、作家だけではなく研究者にとってとても大事なことだと思うので、だからこうして一緒に作家と共同で何かをするというのは大事な機会だと思っています。

もちろん、時代が変われば思考の方法は変わるでしょう。問題の共有圏も変わっている。間島さんのようにアメリカへ行く、市川さんにようにドイツに行く。しかし国外に出るということは同じでも、二人のことを聞いているとモチベーションの違いがある。
あるいはそれを踏まえて聞いてみたいのは、作品として共通する点として、二人の仕事は抽象的な造形を志向されていますよね。日本画はそれが明治時代に対外的な必要性から生まれたとき、国民の多くが共有できて、国外にアピールできるような物語性を必要としていたと思います。それは宗教や歴史、あるいは時代が進んで戦争ということになりますが、国家にとって本質的に必要な絵画というのは、国民をひとつにまとめ上げるような、言わば共同幻想を形成するものだったと思うんですね。
けれども時代の中で、絵画が個人の表現になってきた。国家のためにというより、自己表現としての絵画が描かれるようになってきた。日本画に抽象的な傾向が現れるのは、単に海外からの動向として抽象絵画が入ってきたからということではなくて、それまでの物語的にならざるをえない日本画に対する反動だと僕は思うのですが、とはいえそうなったとき、そこに「日本」が冠せられていることに不思議な思いも抱かざるをえません。間島さんがおっしゃっていたデザイン的に思える現在の日本画の動向、僕はこれはかつての日本画への、あるいは明治以前の日本絵画への回帰のように見えます。かつて捨て去ったはずの物語を、やはり物語は必要なんだと求めている。根っこのところで、大なり小なりの物語の必要性を感じている。危険なことであるとも思う一方で、物語をまったくなくしては、人は生きていけないとも言えるのかもしれません。

返答が長くなってしまいましたが、お二人の日本画体験や、留学体験についてお答えいただいたところで、日本画で抽象的な仕事をする、ということについてお尋ねしたいです。そのことと日本画はどう結びついているのでしょうか?


後編に続く

2013年6月13日木曜日

レビュー|働正・働淳展

展覧会名|働正・働淳展
会期|201139日(水)~27日(日)
会場|早良美術館るうゑ


執筆者|宮田 徹也

fig.1 働正展示風景 撮影:宮田絢子

早良美術館るうゑは博多からバスで一時間は掛からない場所にある。1994年開館、るうゑはドイツ語”Ruhè”=憩いや安らぎを意味するとおり、居住空間がそのまま美術館となっていて、珈琲も楽しめる空間でありながらも本格的な作品を展示している。企画展を欠かさず行い、「るうゑ通信」も発行し続けている積極的な美術館である。地方の個人美術館の役割を果たす姿には頭が下がる。


 fig.2 働正展示風景 撮影:宮田絢子

私は20084月、宇城市の不知火美術館で開催された「働淳・正展」のカタログ編集をした。淳とは2006年の九州派の調査で知り合った。絵画と共に詩も描く淳は1959年福岡生まれ、舞踏とのコラボレーションも行うほどの見識の深さがある。淳の父、正(1934-1996)は熊本県に生まれ、1960年代前半「九州派」にて活躍。1965年より大牟田市にて児童美術教育に携わり、数多くの著作を残す。正が遺した絵画の作品群はポップアート調から刻々と変化し、晩年には一色の筆致を刻むのみへと至りついた。

fig.3 働正・淳展示風景 撮影:宮田絢子

るうゑにおける展示では、一階が正、二階が淳、階段が二人の作品となった。正がひたすらに線を引き重ねていく作品群《立つエッジ》は70年代の吉仲太造、中西夏之、堂本尚郎ら同時代の作家が描く作品と近似しても、その発想は全く異なる。作品に描かれた線を追えば追うほど画面が消失する。完全に消え去ったあとに、一枚の絵画が浮かび上がってくる。それは決して幻惑的な光景や魔術的な風景ではなく、描くこと=見ることを完全に一致させ、我々の目の前にある現実を立ち現せる絵画の本来の姿でもある。はじめてこの作品群を眼にした時は、一枚を見るのに優に一時間を必要とした。正の活動を正統に評価するのは時間が必要となる。しかし、正の作品に立ち向かわなければ、この国の絵画で何が起こっていたのかを見失うことになる。

 fig.4 働淳展示風景 撮影:宮田絢子

淳の作品は正に比べて判り易い。様々な植物や動物が絡み合い、超現実主義的な空間を編み出している。本人はシュルレアリスムと円山応挙、歌川広重の構図を融合させたいと考えているという。淳の作品の最大の特徴は、超現実主義の本質である、愛と詩と革命を携えていることにある。淳の作品には必ず風刺が込められている。かといって、淳はシュルレアリスムを標榜しているわけではない。超現実的な手法から、自らが求める姿を探している。そして、描く喜びを身を以て示しているのだ。

fig.5 働淳展示風景 撮影:宮田絢子

このような個性が強く主張も異なる二人の作品が温和に、しかし明確に見えるのは、一重にるうゑの空間がそうさせたのである。私がこの二者の作品を始めて見たのは、働のアトリエであった。その際、正の作品を明確に把握することが出来なかったし、淳の作品からは風刺よりもむしろ政治性を強く感じだ。二度目の不知火美術館、即ちホワイトキューブの際には、正の作品の緊張感が強調され、淳の作品からは詩情を読み取った。この度のるうゑの空間は自然光に満ち溢れ、家具という生活感が密着しているからこそ、作品が持つ意図が明確に透けて見えたのではないかと感じる。作品には様々な側面が存在する。その特徴を引き出すことが、展示空間と企画の役割であろう。私はいずれ、この二人展を東京で行いたいと画策している。そして、絵画としての厳しい側面を中央と言われる東京の作家と批評家に問いたいと考えている。

2013年6月6日木曜日

イマジン|中之条ビエンナーレ2013参加



「中之条の町に星の家を作る」
夜空に輝く満天の星と、それらのひとつひとつを結びつけ、ある図像を立ち上げる想像力。天を見上げながら星を繋いでいく行為の起源は古来エジプトまで求められ、星座は現在においても季節と時間を知るための指標であり、神話の投影であると言えるでしょう。あるいはこうも言えるかもしれません。それは人が想像力によって描き出す天空の絵画であると。

市川裕司《ソラ》バーチカルブラインド・アルミ箔、224.5×341cm2013

多田さやか、タイトル未定、出品予定作品下絵

日本画出身者によるプロジェクトグループ・イマジンは、中之条ビエンナーレ2013に「中之条の町に星の家を作る」というプランで参加します。会場は、六合・暮坂エリアにある2階建ての元民宿・十二みます。1階の土間と座敷には来訪者参加型インスタレーション「みんなの星で銀河を作る」と多田さやかの大作を、2階の客室には天文民俗学者・野尻抱影(1885-1977)氏の著作『星三百六十五夜』(1955年)から着想を得た作家12名の作品を展示し、群馬県北西部に位置する山間の町・中之条町に、星降る家を出現させるという試みです。

『星三百六十五夜』はその名のとおり、1年間365日分の星にまつわる随筆が収められています。もともと野尻抱影氏は、毎夜の観察によってそれらを収めることを目的としていたようですが、居住していた関東地方の気象ではそれがかなわず、戦前からの日記や思い出を補いつつ、おおよその月日にあたる星座や星を配し、愛誦する唐宋の詩、西詩、ギリシア・ローマ古詩の初訳など星にちなんだ文学も挟みこんでいます。それは、「星」をめぐる、豊かで、巨大なデータベースを形成していると言えるでしょう。


2階展示作品のアイデアソース、野尻抱影『星三百六十五夜』(恒星社厚生閣版、1981年)

今回私たちは、この『星三百六十五夜』の、それぞれの誕生日にあたる随筆を読み解き、創造の大きな源として作品を制作しました。たとえば、16日生まれの忠田愛が担当したのは、同日に書かれている「雪晴れ」と題された文章です。子どもが数日前に生まれたばかりで落ち着かず、妻子と母を置いて学生と温泉に出かける野尻氏が、夜空に寒々ときらめく一升星(スバル)に自身の心境を重ね合わせている。そんな光景を忠田は、母子に着目し、「冬の星」と題した母子像を描き上げました。会場では、こうして野尻抱影氏の随筆をアイデアソースとして作家12名が制作した作品に加え、それらの作品を元にした日本近現代美術史研究者・小金沢智の文章も展示します。

忠田愛《冬の星》和紙・墨、ガッシュ(白)・木炭・鉛筆、25F2013


いずれも作家個人の作品として独立しながら、星をテーマにしているという共通点を持ち、ここに訪れた方々があたかも夜空に星座を見つけるように、一軒の家屋の中で作品同士の繋がりを発見して欲しいと願っています。


会場の元旅館を側面から、2012年12月


イマジン参加概要
【展示会場】十二みます:群馬県吾妻郡中之条町入山4049-28
【プラン】「中之条の町に星の家を作る」
【参加メンバー】市川裕司、大浦雅臣、加藤優花、加藤由紀、小金沢智、菅原有生、多田さやか、忠田愛、西川芳孝、福田浩之、松川はり、Emily Miller、渡邊透真/13名

「中之条ビエンナーレ2013」概要
【会期】2013年9月13日(金)〜10月14日(月祝)
【展示会場】群馬県中之条町 町内6エリア37ヶ所
【イベント内容】温泉街や木造校舎など町内各所で絵画・彫刻・写真・インスタレーション等の展示、オープニング・クロージングイベント・舞踊等のパフォーマンス、建築館サテライト企画、伊参スタジオ映画祭タイアップ企画、作家によるワークショップを開催。展示会場を巡るバスは土日祝日に運行予定、ほか各種イベントを多数企画。
【パスポート】当日1,000円・前売り800 / 高校生以下 観覧無料 詳細は71日に公開
【アクセス】
・ お車の場合 – 関越自動車道「渋川伊香保I.C」より40
・ 高速バスの場合 -「東京駅」「新宿駅」より直行便で3時間
・電車の場合-上野駅より特急草津で2時間
公共交通で六合(くに)地区へお越しになる場合は、「長野原草津口」駅より路線バスをご利用ください。(運行数が少ないのでご注意ください。)
【お問い合わせ】中之条ビエンナーレ実行委員会事務局(SATORI)
377-0424 群馬県吾妻郡中之条町大字中之条町926-1
TEL/FAX : 0279-25-8500
email : biennale@town.nakanojo.gunma.jp
【公式サイト】http://nakanojo-biennale.com/