2013年5月10日金曜日

レビュー|斎藤秀三郎展

展覧会名|斎藤秀三郎
会期|201137日(月)~20日(月)
会場|アートスペース貘


執筆者|宮田 徹也

Fig.1 斉藤秀三郎展 展示風景 撮影:宮田絢子


東日本大震災は、関東地方に在住する人間の生活に多大な影響を与えた。生肉や野菜は売れ残り、インスタント商品やミネラルウォーター、米、トイレットペーパーが姿を消した。その中で私は予定通り、斎藤秀三郎と働正+淳の展覧会の取材へ福岡に向かった。

斎藤秀三郎は1922年生まれ、初期九州派に参加、その後グループ西日本の中心メンバーとして活躍した。福岡市美術館の山口洋三氏の報告によると、若手の作家とも広く活動を共にしている(http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/curator/yy_0805.html)。

2011年の個展について、会場のアートスペース貘のwebにレポートがあるので引用する。「「生者必滅」という冷厳な掟を斎藤さんがどこまで受容できるか?我が身がこの世から永久に消え去っていくということを自問自答する「生と死と愛」をテーマにした作品の展示です。16年前に亡くなった妻麻子さんの着物や玩具を素材にしたオブジェ3点、庭にある蝉の抜け殻を黒い木枠の棺桶に見立てた箱に入れた7点の作品、咲いて枯れていく百合の花の姿を11枚の「連続絵画」にしている。」(http://artspacebaku.net/wiki/index.php?%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E

Fig.2 斉藤秀三郎展 展示風景 撮影:宮田絢子

アートスペース貘は、決して窮屈な画廊ではない。斎藤の作品が大きすぎて/広すぎて、引きで全体を見渡すことが出来ないのである。貘のレポートにあるように、21点の作品が連続することによって一つの作品を生み出す、謂わばインスタレーションである。同webに斎藤の近年の活動が残されているが、その総てが平面ではなく物質を用いた展示表現であることも重要である。

Fig.3 斉藤秀三郎展 展示風景 撮影:宮田絢子

引きで見渡せないのは、斎藤の意思かも知れない。人間は全球体を見渡すことが出来ないのだ。それほどまでに、空間と絵画が一体化していることこそが、インスタレーションの所以ではないだろうか。今回、斎藤が用いているのがオブジェであっても、「絵画」であることには代わりがない。客観的なオブジェクトに対する徹底的な主観であるサブジェクトが、ここには満ち溢れている。斎藤にとって蝉の抜け殻は客体ではなく、自己を含む死の主体なのだと解釈することも可能なのではないだろうか。

Fig.4 斉藤秀三郎展 展示風景 撮影:宮田絢子

そして個々の立体、平面、装飾するための台までが互いの形として響き合って相克し、内臓の形、花の姿、昆虫の生きた痕跡、人間が作り上げたフォルムを無化していく。キャプションとも作品の一部とも認識できる作品中の文章を転載する。「からっぽの蝉/からっぽの人間/それに、からっぽの着物。/見上げればきょうも/どこまでもどこまでも/からっぽの空が…。/私は――、/私はただひたすら/花を捧げるだけ。」

Fig.5 斉藤秀三郎展 展示風景 撮影:宮田絢子

斎藤の言う「からっぽ」とは「虚空」ではない。からっぽであるからこそ満たされた状態を指し示すのは、逆説ではない。空間に自らが充満するのではなく、自らが空間と一体化すること。ここには「美術」という定義を乗り越えた、一つの認識論が存在する。その認識論を理論化するのではなく体験することに、美術とは何かという根源的な問いが隠されている。私たちは、そのような問いに対して、答え無き問いを返していかなければならない使命を受けている。

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