会期|2011年3月6日(日)~4月2日(土)
会場|小島びじゅつ室
執筆者|宮田 徹也
Fig.1 原井輝明展 2F展示風景 提供:原井輝明
原井輝明はその活動を絵画から始め、インスタレーション、コンセプチュアルアートに移行し、再び絵画へ戻ってきた作家である。こう書くと語弊があるかも知れない。原井は始めからこれまで絵画を描き続けているのだと。
今回、原井は13点の作品を展示した。
二階展示室(入口から左周り、以下同様)
《人知れず1》(14×18cm/油彩/2011年)
《ブラックバス》(130×162.1cm/油彩/2011年)
《人知れず3》(14×18cm/油彩/2011年)
《人知れず2》(14×18cm/油彩/2011年)
《2F》(90×117/3cm/油彩/2011年)
《ぴーぴーまめ萌芽1》(33.7×24cm/水彩/2010年)
二階茶室
《“動くな”!と云っても動く子ども》(30×42.4cm/油彩/2011年)
《コウテイペンギン》(90.2×66cm/油彩/2011年)
一階展示室
《ぴーぴーまめ萌芽4》(41.8×32.8cm/水彩/2010年)
《LAWSON》(162×130.4cm/油彩/2011年)
《ぴーぴーまめ萌芽2》(33.5×25.6cm/水彩/2010年)
《ぴーぴーまめ萌芽3》(33.7×24cm/水彩/2010年)
《A/H1N1》(66×90.2cm/油彩/2011年)
二階展示室の作品群は、様々な高さに展示されている。正面に展示されている《ブラックバス》は、鯉の池の中に不気味に潜んでいるブラックバスが描かれている。一階展示室《LAWSON》の、コンビニエンスストアの後方で工場が廃棄物を垂れ流しているイメージが盛り込まれているのと同様の感触がする。《ブラックバス》の左右に展示されている小さな作品が、複数の窓に見えてならない。こちらが窓を覗き込んでいるのではなく、外の風景からこちらが覗かれているような、背筋の冷たくなる展示である。
Fig.2 《ブラックバス》 提供:原井輝明
Fig.3 《LAWSON》 提供:原井輝明
そのような場面を想起させるのは、二階茶室にある《コウテイペンギン》である。ここに描かれているのが原井の子供なのか、原井自身なのか、全く別のモチーフであるのかが読み取れないのである。背景に描かれている事物、服の雰囲気が古めかしいと共に、顔と身体の比率が「子供」という概念が生まれていなかった中世の肖像画を思い起こさせるのだ(フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』、1960年)。そのような発想を考慮に入れると原井の描く《コウテイペンギン》は、「見る/見られる」という関係性を破壊し、越境しようという視点が込められていると解釈することができる。
Fig.4 二階茶室展示風景 提供:原井輝明
Fig.5 一階展示室展示風景 提供:原井輝明
今日、複雑なインスタレーションは失われ、サイトスペシフィックという名を変えながらも、80年代に考察と研究が繰り広げられた動向は失われている。そのような傾向の中で、原井が絵画でインスタレーションを行った意義は大きい。W・ベンヤミンが論じた『複製技術時代の芸術作品』(1936年)に対してアウラの概念が論究される場合が多いが、ここでベンヤミンが提唱した芸術作品の「礼拝的価値」と「展示的価値」に注目すると、嘗て洞窟や教会という固定された場所から近代に至って芸術作品は複製と化し、展示の可能性が飛躍的に増大したと解釈されているが、ベンヤミンは既に『宗教としての資本主義』(1921年)において「資本主義はまぎれもない礼拝宗教で」あると述べている。するとベンヤミンにとってアウラが失われることは喜ばしき現象ではあるのだが、それは別の論考に機会をゆずることにして、このベンヤミンの定義を原井のインスタレーションに当て嵌めるとすれば、原井は礼拝主義のインスタレーションを回避し、資本主義への叛乱を視野に入れていると解釈することができるのではないだろうか。
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