2012年7月22日日曜日

レクチャー採録|「私」を起点に現在の日本の美術とその歴史化について考えるための試論

日時|2012717日(火) 6時限(1710分〜1830分)
場所|東北芸術工科大学 本館 401講義室
講義|芸術文化原論

話者|小金沢 智


はじめに
小金沢智です。この度は呼んで下さいましてありがとうございます。
 自己紹介を簡単にさせていただくと、1982年群馬県生まれで、20083月に明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程を修了。現代美術のギャラリーで働いたのち、20107月から世田谷美術館で非常勤の学芸員をしています。この授業を履修している大学院生とも年齢が近いと思うので、同じ世代の、作家ではない立場の人間がどういうことを考えているかということを今日は聞いていただければと思います。
 東北芸術工科大学に来るのは初めてではなくて、200911月末に一度訪れています。そのときの目的は、大学見学と、肘折温泉で行なわれていた「ARTTOUJI 肘折版現代湯治2009」。というか、今日声をかけて下さった三瀬夏之介(1973-)さんの作品を見るのが目的と言った方が正確ですね。僕は三瀬さんの作品を、2006年に東京都現代美術館で開催されたMOTアニュアル2006No Border—「日本画」から/「日本画」へ」という展覧会で初めて拝見してから、可能なかぎり追いかけています。その三瀬さんが五島記念文化財団美術新人賞の研修でイタリアから帰ってきたと思ったら、東北の地で先生になられた。どういうことをしているのだろうという関心がありました。2009年というのは、三瀬さんが大学に着任された年に当たります。
 そして200911月というのは、三瀬さんが「東北画は可能か?」を鴻崎正武(1972-)さんとはじめられた時期でもあるのですね。当時の写真を見てみると、三瀬さんの研究室の前に、「東北画は可能か?」に参加している学生たちの共同制作による屏風が置かれている。あるいは、ドアの横には三瀬さんがそのとき「ご神体」と呼んでいた神棚がある。研究室では、《千歳》(2009年)という山の形をした水墨による山水作品があり、肘折温泉では《肘折幻想》(2009年)というまさにその土地の山と歴史をモチーフにした屏風が展示されていた。僕はそういうものを見るにつけ、三瀬さんが生まれ育った奈良(関西)を離れ、新しい場所で、新しい段階に積極的に進もうとしているということを実感しました。
 今僕がしている仕事をご存知の方は、僕の専門は現代美術だと思われているかもしれないですが、僕がそもそも大学で学んでいたのは日本近代美術史でした。ご存知の方もいると思いますが、山下裕二先生というのが僕の指導教官で、僕はそのゼミにいて、大学では河鍋暁斎(1831-1889)という幕末・明治の画家について研究していた。暁斎は幼少期に浮世絵の歌川国芳(1798-1861)に学び、その後狩野派に学んだという特異な経歴の持ち主で、国芳さながらのユーモラスな作品やデモーニッシュな作品、狩野派から学んだからこその堅実な作品、そしてそれらのリミックス的な作品まで、とても作品の幅が広い作家です。また、幕末・明治というのはとても面白い時期で、日本は基本的には鎖国をしていましたから、それまで一部をのぞいてほとんど対外的に閉じられていたにもかかわらず、明治維新後、国をあげて外国からの文化を積極的に輸入していった。もちろん美術も例外ではありません。そもそも当時日本に「美術」という言葉はなくて、「美術」はウィーン万国博覧会(1873年)に参加する際、向こうの言葉を翻訳する必要性に応じて生まれた言葉であるというのが、北澤憲昭さんの『眼の神殿』(美術出版社、1989年)をはじめとした、一連の日本美術の起源研究によって広く知られているところです。
 僕は河鍋暁斎という画家を研究する中で、平行してそういう著書を読むことに夢中になった。1876年のフィラデルフィア万国博覧会に出品したり、お雇い外国人の建築家ジョサイア・コンデルを弟子に持ったり、暁斎もそういう時代の大きな転換期の中で生きていた画家で、作家を通して時代を視ていたということもあります。
 そういうときに、今の「日本画」について批評的に考える展覧会が行なわれていたということです。「日本画」もまた、明治時代に「洋画」の対概念として生まれた言葉ですが、自分が研究している対象の起源がどこにあるのかということをしっかり考えなければいけないと、そのとき強く感じました。興味深かったのは、そういうことを作家の側も非常に真剣に考えているということで、僕は三瀬さんに対して、作品だけではなくて、そういう歴史に対する非常な関心の強さという点から、関心を抱いていきました。もともと現代美術を研究対象にしたいと考えていたわけではないのですが、三瀬さんをはじめとした作家との出会いや付き合いを通して、次第に関心の方向が変わっていった。「歴史」「日本」「実践」というのがこの講義のテーマだと聞いていますが、三瀬さんは作家として制作を続けていく中で、それらを自分の中でずっと考えてこられたのだろうと思います。自分が行なおうとしていることのルーツはどこにあるのか、自分が住む日本という国はどういう場所か、その場で自分は何が可能なのか。


語り、書くことの暴力性
ではそういう問題設定がされた講義の中で、具体的に自分が何を話すことができるか。僕は自分の専門を、非常にザックリとしているのですが、「日本近現代美術史」と言っています。つまり、大学時代に学んでいた日本の幕末・明治時代から現代まで、ということです。ザックリし過ぎだろうという指摘はひとまず置いておきたいと思うのですが、では、そもそも現代美術史は可能なのでしょうか? 今、生きているこの時代の美術をそれまでの歴史に繋げていくということ、歴史というきわめて巨視的な観点から今の美術を語ることは可能でしょうか?
 率直に言って、それはまず不可能だろう、と現時点の僕は感じています。そのうち考えが変わることがあるかもしれませんが、少なくとも現代は歴史化できない、というのが僕の考えです。美術史にかぎらず、歴史というのは、ある程度の時間が経過しないと客観的な視点からの記述ができないということです。たとえば、1990年代の日本の美術を研究したいという学生がいたら、多くの美術史の先生は、「それはまだ歴史になっていないから考え直しなさい」とアドバイスするのではないでしょうか。
 では、歴史化はできないけれども、今こういう美術の流れがあるというような、現状分析は少なからずできるかもしれません。今日三瀬さんにお願いしてコピーを配っていただいたのは、去年「ジパング展」(日本橋髙島屋、京都髙島屋を巡回)が開催されたとき、『月刊美術』6月号で特集が組まれたときに書いたテキスト(「イデオロジカルな〈日本的なもの〉、その消尽よ、進め」)です。その展覧会のキュレーターであるミヅマアートギャラリーの三潴末雄さんもこの講義にいらっしゃったようですし、もしかしたらそのあたりの話もあったのかもしれませんが、「ジパング展」出品作家の特徴として、いわゆる日本的と呼ばれるところの、きめ細やかな手仕事を感じられる制作手法や、あるいは過去の日本の美術史ないし文化からインスピレーションを受けている、というようなことが挙げられるのかなと、展覧会を見ると感じます。
 テキストに簡単に目を通していただきたいと思うのですが、編集者から僕への依頼は、「ジパング展」に出品する同世代の作家について書いて欲しいということでした。先ほど話したような、いわゆる現状分析ですね。そのとき僕が感じたことは、それらの作家には確かに「日本的」な感性や表現の発露が見られるけれども、たとえば「日本」を背負っているというような、そういうある種の「重さ」はないな、ということでした。それこそ明治初期、美術が誕生した当時というのは、国を挙げて美術の振興がはかられていたわけです。日本が近代国家として西欧諸国と肩を並べるために、文化力は欠かせないものでした。だから政府は海外から外国人を招聘し、作家を育てるための学校を作り、展覧会も整備していった。今僕たちは美術館やギャラリーといった作品を展示する場所の存在を当たり前に思っていますけれども、もちろんそんなもの最初はなくて、次第に整備されていった。美術史という学問もまた、外部からの視線をあらかじめ想定しての、「日本の美術はこうです」と外部に向けてプレゼンテーションする意味があったはずです。あるいは、近代的統一国家を形成するにあたっての、内部に向けて「日本の美術はこうです」と伝える意味もあったでしょう。
 ただ、今がそういう時代であるかというと、決してそうではないというのが実感ではないかと思います。僕たちは誰からも頼まれていません。研究者は国から頼まれて海外に発信するための美術史を研究しているわけではないし、作家も国から依頼されて作品を作っているのではないと思います。それぞれが勝手に、自分の意志でそれらをやっている。四民平等の、ある意味では自由な時代が日本でも形作られていくにつれて、自分たちの意思で美術をやろうというときに、明治初期、発生当時の美術の大義名分はいつしか失われていったのではないでしょうか。誤解しないで欲しいのですが、美術に大義が必要であると言いたいわけではありません。そんなものなくてもいいのです。「ジパング展」に出品されていた、特に僕と同世代の若い作家に見られるのは、そういう「日本」の重さから解き放たれた、軽さのようなものでした。そこで日本は良くも悪くもただの記号と化しているように思いました。
 そういうことを書いて、興味を持ってそのテキストを読んで下さる方もいたのですが、一方で、自分が書いたことに対し、「本当にそうか?」という気持ちもありました。つまり、作家を時代や世代で一括りにし、非常に矮小化して書いているのではないか、という危惧です。これはどれだけ共感していただけるか分かりませんが、美術においてある対象について文章を書くということは、とても暴力的な行為です。美術だけにかぎった話ではないかもしれませんが、一方的な名づけや語りが、その対象の性格を規定してしまうかもしれないからです。優れたテキストがその作品や作家の解釈の幅を広げる役割を果たすこともあれば、その逆も往々にしてあります。僕はそれをしてしまっていないか? そういう不安を、特にこのようなテキストを書くときには感じます。客観的な振りをして、作家を一緒くたにし、わかった風なことを書いているだけなのではないか? と。
 こういう危惧というのも、そもそも人が歴史=テキストに対する客観的な記述を求めることに原因があります。こういうことを話していると、歴史は客観的ではなければならない、という風に怒る人がいるのですが、よくよく考えて、歴史における客観的な記述はありえるでしょうか? もちろん、主観だけでは立ち行くはずはありませんから、さまざまなデータを用意し、分析し、整備し、正確で誠実な記述を試みる必要は、最低限の態度として必須でしょう。とはいえ、データや事実もまた、立場によって姿を変えます。たとえば、戦争の勝者と敗者で、その歴史は同じ姿形をとるでしょうか? とらないはずです。それと同じように、むしろそういった社会におけるできごと以上に、美術の歴史というのは語り手によってその姿形を変えるのではないでしょうか? その語り手が、いつどこ生まれた人間で、性別はなにか、人種はなにか、宗教観や政治観はなにか、趣味嗜好はなにか、なにを学びどのような経験を有するか、そういった個人を形成するすべてが、一つの歴史=テキストが書かれる背景にはあるはずです。
 ですから重要なことは、たとえ客観的な正確さに欠けたとしても、そのことを自覚した上で、現在の日本の美術を語ること、書くことではないでしょうか。ここで言う「現在の日本の美術」とは、世界を見据えた上での、一つのジャンルとしての日本の「現代美術」ではありません。その言葉どおり、「今・ここ」としての「現在」の、美術です。「今・ここ」としての「現在」とは、とめどない連続した時間の流れの中で、この代替不可能な体を持つ「私」を起点にするということ。「私」のこの体が見、聴き、感じ、触れ、その結果として語りがあり、歴史が考えられるということ。
 もしかしたら「私」を起点にしたそれは、これまでの歴史には接続しないかもしれません。人によっては、取るに足らないと一蹴される可能性もあるでしょう。あるいはこのような考え方は、極東とも呼ばれる島国・日本に住み、大きな世界に繋がっているわけではない自分に対する手慰みなのかもしれません。
 けれども、できることならば大きなものに惑わされず、絡めとられず、しかしナルシシスムに陥ることなく、「私」と眼前の作家や作品との関係を起点に美術やその歴史について考えたい。世界における現代美術のルールやコンテクスト、あるいは流行というようなものは、「私」の外部の美術を構成する一つのケースでしかありません。個々によって美術を形作るありようは異なり、ルールやコンテクストという言葉を使わなければいけないとすれば、自分の中でルールを持つということ、自分の中でのコンテクストを作るということ、そういうことが大事なことで、既にある他者が作り上げたものをそのまま受け取る必要はなく、自分を軸にそれらを考えるということが大事なのではないか? そのとき、出発点としてはミクロかもしれないけれども、結果としてマクロへと至る道筋が見えないだろうか? そこにこれからの美術を考えるための可能性はないか? 僕が今、これからも美術を見てゆく立場の人間として考えていることは、そういうことです。


「私」を起点に現在の日本の美術とその歴史化について考えるために
そう考えていくと現状分析ではなくて個々の作家論に行き着くのですが、ここで昨年一緒に仕事をさせていただいた二人の現代作家と、一人の物故作家の紹介をしたいと思います。昨年、『どうせなにもみえない』(求龍堂)という画集の解説執筆の仕事をさせてもらったのですが、諏訪敦さんという画家がいます。1967年生まれなので、僕より一回りほど年配の作家です。「NHK 日曜美術館」にも出演されていましたから、放送を見て知っているという人もいるでしょう。諏訪さんとは2010年に自主企画の展覧会に来ていただいたのをきっかけに知り合って、昨年はこの仕事を通して密なやりとりがありました。


諏訪敦《どうせなにもみえないver.2》2009年/91.0×60.6cm/Pencil,pigment,silver point,watercolor and oil on gesso panel

 諏訪敦《大野一雄》2008年/120.0×194.0cm/Oil,tempera on canvas 

 諏訪さんの作品はその多くが人物を描いたものですから、人によっては、写実的な具象画、ただそのように捉えられるかもしれません。写真みたいな絵画という形容詞が、純粋な驚きとして、場合によっては誹謗の言葉として使われることがあるかもしれません。しかし、その完成に至るプロセスを聞けば、どうでしょうか。つまりその作品が、徹底的なまでの取材によってできあがっているということ。たとえば諏訪さんには舞踏家の大野一雄(1906-2010)さんを描いた作品がありますが、そのとき諏訪さんは大野さんの横浜の稽古場に通い、またその数々の著書を読破しただけではなく、その出身地の北海道にまで取材のために訪れました。それから、「日曜美術館」でも放送された、国外で亡くなった若い女性を、その両親からの依頼で描いた作品(《恵里子》、2011年)があります。大野さんのケースとは異なり、不在の対象を描くにあたって諏訪さんが行なったのは、両親から借り受けたその女性が写る写真や映像を参考にするということだけではありませんでした。両親やその家族を取材し、若くして子どもを亡くした人たちの団体を取材し、不在の肉体のイメージの手助けとするために義肢メーカーの取材も行ないました。それらの取材の結果が直接的に画面に描かれうるかどうかというのとは別の問題で、そういう過程を経た上で、一つの絵画として完成される。確かに諏訪さんはきわめて描写力の高い画家であって、その仕事は驚くべき密度があり、物質的な魅力も備えています。しかし、ただ精緻に描くということではない、本質的な意味でのリアリズムがその作品が描かれる背景には横たわっている。


諏訪敦《恵里子》2011年/72.7×50.0cm/Oil on panel 撮影:飯村昭彦

 諏訪さんと話していて、象徴的だと思った発言があるので、紹介したいと思います。それは、諏訪さんがされていた小説家・古井由吉さんのエッセイの挿絵について、「挿絵で想像上の人物を描くのと、現実にいるモデルを描くのは、まったく違う作業ですか? 現実に存在するものから描くことと、自分以外が書いた文章から想像を膨らませて描くことの、感覚的な違いを知りたいです」という質問が寄せられたときのことでした。こう答えています。

 「まったく想像上の人物を描くということは、今のところまずありません。将来描くことがあったとしても、何かしらの現実の人物を思い浮かべることになると思います。僕は「頭の中のイマジネーションは無限だ」というようなことはまったく信用していなくて、意外とつまらないことしか考えていない。だから作品に対し対象への寄りかかりというのをよく言われるのだけれども、それは当然と思っています。頭の中で考えているつまらないことよりも、世界の方がよほど面白いし、すごいことが起こっている。そこから何かをもらったり、リミックスしたり、反応することでしか新しいものは出てこない。」(『平成22年度 世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館 展覧会・講座室活動報告書』、p.36、世田谷美術館分館 宮本三郎記念美術館、20117月)

 この発言は、諏訪敦という画家のありかたを非常にあらわしていると思います。興味深いのは、その「世界」に対する厳格さです。「面白い」とか、「すごい」と感じたら、徹底的にその対象を掘り下げていく。一方で、そうやって掘り下げていく過程における軸足に、しっかりとした自己がある。美意識と言ってもよいかもしれません。
 今、諏訪さんが手がけているプロジェクトというか新作の話が、先日恵比寿amuで行なわれたトーク「諏訪敦:問題解決不能の世界へ」のときにありました。僕がその詳細を話すのもどうかと思いますから、多くは語りませんが、それは一言でいうならば、諏訪敦という個人を起点にした歴史画の制作のようなものでした。自分の近しい対象を、掘って、掘って、掘った先に、結果的に個人を超えるような大きなものにぶつかったというような、なんともいえない感覚をそのとき僕は感じました。僕が宣伝するのも変なのですが、数年の間に発表されると思いますから、ぜひそのときは注目して下さい。

 それから、内海聖史さんという画家がいます。1977年生まれの作家です。素材は油彩、技法としては綿棒による点描で、その集合によって色彩豊かな画面を作っています。「絵画の美しさは絵具の美しさ」という言葉というか哲学が非常に象徴的です。内海さんと諏訪さんの話になったことがあるのですが、そのときは先ほど僕が話したような作品のテーマなどではなくて、絵画としての画面の巧みさについてだったことが思い出されます。
 その内海さんが昨年11月、表参道のvoid+という非常に小さなギャラリーで個展「シンプルなゲーム」を行いました。デザインスタジオAzone+Associatesが運営するギャラリーなのですが、どれくらい小さいかというと、サイズを言いますので想像してみて下さい。奥行3メートル40センチ、高さと横幅は等しく2メートル8センチです。なにより面白いのが、天井にも照明のダクトなどが付けられていない、これぞまさしくホワイトキューブという空間であるということです。絵画はその長い歴史の中で、たとえばお城やお寺といった特定の場所に備え付けのものとして制作される場合が非常に多かったわけですが、おそらく近代以降、万国博覧会の開催がその顕著な例だと思いますが、作品が国内だけではなく世界中を行き来し、美術館や博物館などのいわゆる展示のためのスペースも整備されていくにつれて、どんな作品にも対応できる空間が作られていくようになりました。そういう空間のことを「ホワイトキューブ」と呼びますが、void+は、僕がこれまで見てきた空間の中で最もそう呼ぶにふさわしい空間でした。そこは言うならば、何を展示することもでき、また、何を展示してもさまになってしまうきわめて恐ろしい空間なのです。
 では、内海さんはその空間にどのような作品を展示したか。結論を言うと、なにを展示してもさまになる空間だからこそ、自分で制作にあたってのルールを課して、5つのヴァリエーションの作品を展示、会期をわけて発表されていました。天井画、三角形の作品、星型の作品、虹色の作品、黒い作品、といった具合に。内海さんは、そのような、ある意味では突飛な、それまで行なったことがない作品の展示方法や形態などを通して、自分の絵画の新たな課題を欲した。これは諏訪さんにも共通することだと思いますが、そうやって自分の中での表現のルールを設定し、それに厳格なまでに対応しようとすることで、それまでにはなかったものが出力されるということを体験的にご存知なのだと思います。


サムシンググレート/something great/h2040×w3350mm/油彩・水彩・綿布/2011年 撮影:加藤健
内海聖史個展「シンプルなゲーム」(void+、2011年)

スパイダー/SPIDER/h1060×w1410mm/油彩・水彩・綿布/2011年 撮影:加藤健
内海聖史個展「シンプルなゲーム」(void+、2011年)

スター/STAR.r/h1980×w2055mm/油彩・水彩・綿布/2011年 撮影:加藤健
内海聖史個展「シンプルなゲーム」(void+、2011年)

アホネン/Ahonen/h1160×w890mm/油彩・水彩・綿布/2011年 撮影:加藤健
内海聖史個展「シンプルなゲーム」(void+、2011年)

ナイスなミュージック/nice music/h1400×w2040mm/油彩・水彩・綿布/2011年 撮影:加藤健
内海聖史個展「シンプルなゲーム」(void+、2011年)

 あるいはその前の個展「さくらのなかりせば」(ギャラリエアンドウ、20114月)では、内海さんは展示の時期が春であるということで、桜色のピンクを基調にした作品《なかりせば》(2011年)を発表された。僕はこの作品を見たときのことを文章にしているのですが、その冒頭で「美しい」という言葉を使いました(「とある四月の絵画の美しさについて」、『月刊ギャラリー』20115月号、pp.76-77)。「美しい」という言葉というのは、なかなか批評や評論の言葉として使われない、というのは思考停止に陥る危険性があるからだとしばしば言われるのですが、僕としてはむしろその言葉から思考を展開していく必要性をそのとき感じました。


なかりせば/2050×5553mm/綿布・油彩・水彩/2011年 撮影:加藤健
内海聖史個展「さくらのなかりせば」(ギャラリエANDO、2011年)

 最後に、物故作家ですが、松本竣介という画家を少し紹介して終わりたいと思います。1912年生まれ、今年で生誕100年ですが、1948年に36歳の若さで亡くなっています。今年4月から生誕100年を記念した大規模な展覧会「生誕100年 松本竣介竣介展」が岩手県立美術館ではじまり、現在神奈川県立近代美術館 葉山に巡回中です。その後宮城県美術館、島根県立美術館、世田谷美術館と回りますから、ぜひどこかで機会を作って見ていただければと思います。
 最も有名な作品として、《立てる像》(神奈川県立近代美術館、1942年)という作品があります。ある意味でこの作品は、非常にその時代を感じさせるもののように見えるかもしれません。制作年は1942年、つまり戦争の時代に当たるからです。当時、時代は画家が自由に作品を発表できる状況ではなくなっていました。画材すら満足に手に入れることが難しいその時代、画家は洋画家・日本画家問わず戦争画を描くことを軍部から依頼され、現地に従軍し、国民に対する戦意高揚のための絵画が描かれ、それらを展示するための展覧会が行われ、ある意味で日本の美術はこのとき、最も国家から必要とされたと言えるのかもしれません。
 そういう時代に対してこの《立てる像》に描かれている青年は、あたかも抵抗しているかのようにまっすぐ前を見据えてただ立っています。この作品の前年、竣介は美術雑誌も戦争と美術についての記事が多くなる中で、美術雑誌『みづえ』(19414月号)に「生きてゐる画家」という芸術の自立を主張するテキストを発表しました。その中で竣介はこういうことを書いています。

 「私達若い画家が実に困難な生活環境の中にゐてなほ制作を中止しないといふ事は、それが一歩一歩人間としての生成を意味してゐるからである。例へ私が何事も完成しなかったとしても正しい系譜の筋として生きていたならば、やがて誰かがこの意志を成就せしめるてあらう」

 人は社会状況というものをまったく無視して生きることはできません。それは、画家もまた例外ではありません。竣介はその中でも、「人間としての生成」を求めて制作を止めようとしなかった。そういった態度が、この《立てる像》からも垣間見えるように思います。
 しかし、では一方で戦争画を描くということは、画家の姿として正しくなかったのでしょうか? 戦争画を描いた藤田嗣治や中村研一や宮本三郎らは、正しくなかったのでしょうか? 決してそうではないでしょう。戦争画を描いた画家には彼らにとっての思想があり、信念があった。それを一概に否定することはできません。その当時、そういう状況に身を置いていなければわからないことが必ずあるからです。今僕はわざと松本竣介と戦争画を相反するものとして、きわめて単純な構図で語ろうとしましたが、その実相にはそんな簡単に腑分けすることができない、もっと複雑なものがあった。
 なにが言いたいかというと、自分たちが生きているこの時代といっても、きわめて多様であり、立場によって美術の理想とするありかたも変わるということです。結局、美術を語るとか、作るとか、そういうことは、もともとはきわめて個人的な行為であって、それに時代というものが多かれ少なかれへばりついてくるということではないでしょうか? そのへばりつきかたや、へばりつくものが人によって違う。少なくとも僕はそういうものだと思っていて、その個人がそれぞれの立場でいかに誠実に振る舞えるかどうかということだと思います。世界がどうだから、アジアがどうだから、日本がどうだから、東京がどうだから、他人がどうだから、そういう大なり小なり他者を前提にするのではなくて、もちろんそれらは意識せざるをえない大事なことなのだけれども、誰にとっても正しい、それしかない方向性というのはないということを自覚する。最初の話に戻りますが、客観的にはならないかもしれないけれども、過去の歴史や今の状況からも学び、見ることと考えることの経験を重ねながら、「私」自身を起点に美術を考えていく。その中で意識せざるをえない作家や作品があった場合は、徹底的に見ていく。そして自分なりの美術史というか、その結果としてのテキストを一つずつ編んでいく。その精度を上げていく。僕はこれからそういうことをやっていきたいと思いますし、僕はそれしかできないのではないかと思っています。


結局自分の立場の話に終始してしまい参考になったかわかりませんが、以上で今日の話を終わります。自分の立場や状況を自覚するということ、自覚するための知識を得るということは、なにかを作り出そうとするときにとても大事なことだと感じていますので、今日は自分を顧みるよい機会にもなりました。どうもありがとうございました。



                                      

本稿は、東北芸術工科大学大学院生対象の芸術文化原論で、2012年7月17日(火)にゲストとして行なったレクチャーの原稿を、加筆・修正したものです。

参考
ATSUSHI SUWA 諏訪敦 公式サイト
内海聖史 works - satoshi uchiumi
立てる像 文化遺産オンライン

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