第1信|小金沢智→市川裕司
2012/05/22 10:04
おはようございます。小金沢です。
早速ですが、イマジンについてのメールによる往復書簡を始めたいと思います。
なぜこういうことをしようと思ったかというと、先日、drawerに誘った一人の作家と話していて、このプロジェクトの方向性がよくわからないということを言われた。プロジェクトの意義や目的、着地点がどこにあるのか、といったことです。僕たちは、自分たちとしては丁寧に文書で書いたつもりでしたが、独りよがりのところがあったのかなと思う。依頼した作家からそういう意見があったということは、そうではなくてこれを見てくれる人たちは、もっとそう思っているかもしれないということですよね。ならばできるかぎり平易な言葉で語り直さないといけない。それで、市川さんが今回のプロジェクトの発起人で、僕はそれに誘われたという形で一緒にやっていますから、僕から市川さんに質問していくという形式で往復書簡を始め、現時点でのイマジンをより明確に形作ろうと思いました。基本的にこのメールがそのままウェブにアップされると考えて下さい。
まず、最初に確認しなければいけないことは、なぜ今さら「日本画」なのか? ということでしょう。イマジンは、「日本画」に関係すると僕たちが考える作家に声をかけている。時事的なことを言うと、市川さんも、「第5回東山魁夷記念日経日本画大賞」@上野の森美術館(2012年5月19日~6月3日)に出品していますが、大賞を受賞された鴻池朋子さんはじめ、入選者の中では淺井裕介さんなど、はたしてどこまでが「日本画」の枠組みで考えられるのか、再考を促す作家が入賞・入選していますよね。市川さん自身、墨や箔や膠といった画材を使ってはいるものの構造的には彫刻で、「日本画」と敢えて言わなくてもいいのではないかと僕は思ってしまう。全30人の作家の作品を見ていると、「日本画」という言葉で語れるものの多様性を感じますが、それは悪く言えばなんでもありにも見えてしまう。
市川裕司《amorphous》方解末、ジェッソ、典具貼紙、墨、樹脂膠、スチール、アクリル板 401.6 × 401.6 cm 2009年 撮影:末正真礼生 協力:コバヤシ画廊 「第5回東山魁夷記念日経日本画大賞」出品作品
こういう状況がある中で、敢えて「日本画」に注目するということはどういうことなのか?
市川さんにとって「日本画」とはなんなのか?
その2点について改めて市川さんに質問して、第1信を終えたいと思います。
第2信|市川裕司→小金沢智
2012/05/23 23:42
こんばんはー。市川です。
何だか動機が不穏なんですが、この公開文通を通してイマジンの親睦をはかろうと思います。
「日本画」とはなにか?いきなり最終回じゃないですよね。取りあえず質問に応える感じでいきます。
きっと「日本画」は“確固たる制度(regulation)はないが、規則(rule)が存在している”というところで摩擦が起こるんですよね。でも実際、世代の推移に比例して制作現場ではかなり薄らいだ話題になってきています。だから僕はそんな現状の「日本画」を「日本画」って認識しているところです。僕自身のことで言えば、制作において何らかの“縛り”があってそれが出自でもある「日本画」に起因しているんですよね。ただそれが一般的概念での「日本画」に当てはまらないというのが、見る側にとって僕の作品が立体であるとか材質的な違和感を感じさせているのだと思う。世の中って、不明瞭なものはどんどん仕分けされちゃいますよね。僕らのやってることって少し違うけど、一見意味のなさそうなことがもっと可能性という言葉に置きかわってもいいんじゃないかなと思います。「日本画」もグローバルやローカルでもない、もっとパーソナルな視点で捉えたら広がりがあるんじゃないかな、そういった問題提起の先に表現の活路を感じるからこそ敢えて「日本画」に関わろうとするのかもしれないですね。もっとも平面や現代美術で括ってしまえば全く機能しない問題ですが。
第3信|小金沢智→市川裕司
2012/05/27 8:59
おはようございます。
出張に行っていて返事が遅れました。ごめんなさい。
はい、もちろんいきなり最終回ではありません。ただ、僕たちがどういうスタンスでこのイマジンをやろうとしているか、それを伝えるために、まず自分たちの立ち位置を表明する必要があるんじゃないかなと。drawerは最初の段階で10人の作家に声をかけていて、これからも声をかけていく予定ですが、現時点でも主に自分と「日本画」との距離感の問題から、幾人かから辞退と保留を申し出られていますから。
市川さんは「日本画」を白抜きにして「日本画」と表現していて、それはきわめて意識的に「日本画」を換骨奪胎しようということだと思う。ただ、そもそもの「日本画」の範疇が大きくなりすぎているから、それが理解しにくい。市川さんが、制作において"縛り"があって、それが「日本画」に起因している、と言うと、そんな「日本画」の"縛り"なんて無視した方がいい作品ができるんじゃないか、と言われるかもしれませんよね。僕はそういう"縛り"って制作に必要不可欠なものだと思っていますが、どうも「日本画」と言うと、非常に狭い印象を与えがちのように思います。
けれども、僕はこのイマジンのdrawerによって、その狭い印象を解放できるのではないかと思っているんです。範疇が大きくなりすぎている「日本画」を、僕みたいに美術史の人間ではなくて、作家のきわめてパーソナルな視点によって見直すことが大事なんじゃないかと思う。鶴の一声的に「日本画」を定義し直すのではなくて、「日本画」というよくわからないものから、個々によって様々なものが引き出される様を僕は見たい。前回のメールで、僕は市川さんから誘われたという形で一緒にやっている、と書いたので、他人行儀な感じを受けるかもしれませんが、面白いと思ったから賛同しているわけです。好奇心ですね。もしかしたら、全然引き出されなくて、やっぱり限界だ「日本画」は、っていうことになるかもしれないけど(笑)。
それから一つ強調しておきたいところですが、僕たちは作家のすべてを「日本画」に帰結させようなんて乱暴なことは考えていない。つまり、「日本画」もまた作家の引き出しの一つである、ということ。今はそういう時代だという感覚があるから、イマジンで声をかけている作家も1975年生まれの方が最年長です。
第4信|市川裕司→小金沢智
2012/05/27 23:26
出張おつかれさまでした。
立ち位置表明ってのはかたいのかな、辞退や保留などもしごく当然のリアクションだから、それを受けての説明には及ばない姿勢です。このやり取り自体には非常に意味があると思っておりますので、前述は悪しからず、よろしくお願い致します。
取りあえず「日本画」の件、例えばサッカーの試合を観戦してて、選手がボールを手で掴んだら反則ですよね。でも手が使えたらもっと効率がいいのになんて話にはならない。選手にとっても観客にとっても特定のルールがあることで競ったり、楽しんだりすることができるわけで、もしルールがなくなればあらゆる球技がただの球遊びに淘汰してしまうかも知れません。美術もそれぞれジャンルに規定や縛りなどがあり、それによって絵画と彫刻、作品と観客などの関係に境界線や共通認識がつくられています。ファインアートに限りませんが、しばしば境界線や共通認識が曖昧になる場合があり、ジャンルをクロスオーバーしているものや特定しづらいものが出てきたりします。現代はマスメディアに乗っかった企画そのものが作品の主体だったり、副次的な作品を生み出すことであらゆる着地点をもったりと、まさにカオスですよね。一方「日本画」は非常に曖昧な境界線と共通認識に囲われていて「日本画」と問えば様々な答えが返ってきます、こちらもまたカオスです。でも実際全ての返答が散漫ということではなくて、ざっくりとしたある範疇にあるんですよね。それを「日本画」における見えない“縛り”とおいているのですが、曖昧だからこそ個性が出易い。だから規制と自主性の絶妙なバランスをもった特殊な場なのではないかと考えています。今回のdrawerという作業は本制作から距離を置き、作家各々の“縛り”を見つめ直す自己表現の検証の機会でもあるし、それを互いに照らし合わせることで、自己と他者の位置関係や表現思考の発展に繋がるように思うんですよね。その副産物として波打った「日本画」の輪郭がみえてきたら面白いとも思っています。
確かに小金沢くんの言うように「日本画」も作家の引き出しのひとつなんでしょうね。あくまでもベースは個々。その中で作家が「日本画」をどう位置づけているか、イマジンはそれをみんなで見せ合う場。まあどうなるかわかりませんが、これから集まるdrawerにイマジンの指針と小金沢くんの進退が占われると思うと緊張しますね(笑)。
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