会期|2011年1月18日(火)~1月23日(日)
会場|247photography Roonee
執筆者|宮田 徹也

Fig.1 朝弘佳央理展示風景 撮影:朝弘佳央理

Fig.2 マスナリジュン展示風景 撮影:朝弘佳央理

Fig.3 朝弘佳央理《無題》

Fig.4 朝弘佳央理《無題》

Fig.5 朝弘佳央理《無題》
《無題》の作品群を見て驚愕したのは、ここに朝弘が一切存在しないことである。美術者が詩を書いたり、ダンサーがセルフ・ポートレートを撮ったりすることは多々ある。しかしここまで自らの体を客観視し、一人の人物が同じものを創作したとは思えない例ははじめてだ。朝弘は自己と友人のダンサーを撮影しているのだが、その区別さえもつかない。それは朝弘がファインダーを覗き込んでシャッターを押したのではなく、ファインダーが自動的に朝弘を写したことに等しい。即ち、ここには視線も個人も存在しないのである。
それが機械的な作業によって行なわれるといった、脱近代的要素は一つもない。カメラのファインダーではなく、ある特定の「視線」を見つけ出すことは容易なことである。なぜなら、ここには「視線」だけが存在しているのだ。しかしその「視線」は、何かを見詰めてはいない。何かをとらえようともしていない。「視線」だけが浮遊する。撮影している被写体の外からファインダーを覗いている、つまり、画面の外にピントがあっているような錯覚に見舞われる。
内側と外側は安易に反転することが可能だ。しかし朝弘の作品は、みればみるほど遠ざかり、近づいてくる。それを一元論と言っても過言ではないだろう。不二一元論という思想がある。私しか存在しない。神しか存在しない。この思想が頭によぎったのであるが、遥か彼方へ消えてしまった。
しかしこの作品を見てから再度朝弘のダンスに目を投じると、同じように朝弘はフォルムをなくし、自己をなくし、客体のみが漂う舞台であるということも出来るのかも知れない。重要なことは、朝弘のダンスと作品が分裂していることではなく、それぞれで存在していることなのだ。この考察は、現代におけるダンスと写真の意義を再認識する機運が隠されているのかも知れない。ダンスとは何か、写真とは何か。踊ることとは、撮ることとは。時間と空間が交錯するのは現象なのか、思想なのか。未だ未だ考えなければならない課題が山積みとなっていく。
アマヤドリ(朝弘佳央理ブログ)
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