2011年8月28日日曜日

レビュー|上條明吉展

展覧会名|上條明吉展
会期|2011年1月12日(水)~29日(土)
会場|ギャルリーヴェルジュ

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ

上條明吉が、七年ぶりの個展を果たした。上條は1934年松本市生まれ、1957年日大芸術学部美術家卒、個展・グループ展開催多数、2004年12月、脳梗塞で倒れ、右側マヒ言語障害。2006年12月、前立腺ガンの為入院し、2007年12月に直腸ガン手術を受けた。一時期は利き手ではない左手で描いていたと、噂で聞いた。

上條の展覧会について、美談で終らせてはならない。その作品の今日的意義を問わなければならないのだ。上條は巨大な画面を七枚描いた。何れの画面も、裸体の人物が犇めき合っている。ある者は墜落し、ある者は浮遊し、ある者は祈り、ある者は蹲り、ある者たちは連なり、またある者達は祝福をあげ、そしてある者たちは土に還り、天空からの迎えがやってくる。


Fig.2 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ


Fig.3 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ


Fig.4 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ


Fig.5 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ

ここに描かれている人物に、性も年齢も人種もない。唯、剥き出しの生きた人間が受難している。期を待っていると言ってもいいのかも知れない。このような人間像は、これまで西洋の美術史を振り返ればレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画《最後の審判》を、日本の美術史を手繰れば敗戦後間もない1948年の福沢一郎《群像》、果ては1943年の藤田嗣治《アッツ島玉砕》を想い起こす可能性も否定できない。

しかしこれらの作品と上條のそれには、徹底的な違いがある。それは時間概念であろう。福沢と藤田は「その時」を描いた。凍結された世界、正に「記録画」だ。レオナルドは果たしない未来を描いた。上條は、自己が生きた時間を描いている。ここに圧倒的な差異が生まれている。そのため上條の作品は、時代も場所も特定できない。翻って福沢と藤田、上條の単なる人物像を比較すると、何と近似していることか。

これは上條が、自ら生まれた時代から2011年に至るまで、全く変化していないことを描いているのだ。当然、上條が変化していないのではない。上條を取り巻くこの国の時間が止まっていることを示しているのだ。ここにこそ、上條の作品の現代的な意義が象徴されている。上條は現状のみを提示し、自らの希望や夢を塗り込めない。ここに「現象」は存在せず、「事実」のみが展開する。そこに美しさが花開いていくのだ。

そして上條の作品に描かれている人物のもう一つの特徴、期を待つことにも注目すべきだ。「期待」とは「期を待つ」ことである。「希望」とは「希少な事物を望む」ことである。字面のみを追うと「期待」とは他力本願的で、受動的な感覚を受けるが、語源を確かめると実に能動的な思考だ。「他力本願」もまた、自己という狭い世界から抜け出し、他者と触れ合うことで解脱を目指す能動的な発想である。

陰惨な時代を生きる私達は、上條が教えてくれるように、この時代に耐え、乗り越える機運を待つ=生み出す力を育まなければならない。


today[新春企画 上條 明吉 展]
Galerie VERGER

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