2011年7月13日水曜日

レビュー|関直美個展「解放へ」  

展覧会名|関直美個展「解放へ」  
会期|2010年11月9日(火)~21日(日)
会場|GALLERY KINGYO

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景

これまでも様々な素材を用いた彫刻を制作している関の展覧会が開かれた。それは関が持つ彫刻の可能性と探求を示している。今回はハンノキとシリコンである。出品リストを掲載する。

出展リスト

1F
no.1 64w×143d×73h cm (凹型)
no.2 70×64×70
no.3 74×64 ×74
no.4 70×70×74
no.5 70×70×74
no.6 72×20×64
no.7 66×20×67 (以上でひとつ)

no.8 35×12×190 (丸太半栽)
no.9  35×12×190 (丸太半栽)
no.10 10×10×190×4本 (丸太半栽の4等分)

no.11 23×20×100

—総ての素材はハンノキ・シリコン、制作年度は2010年

2F
no.12 230×200×200 (ポリエチレン他)

2F小品
no.1 15w×3d×20h cm (レリーフ) 20,000
no.2 13×3×13
no.3 10×3×10
no.4 10×3×10
no.5 10×3×10
no.6 10×10×14 (立体)
no.7 11×10×11
no.8 12×10×9
no.9 10×12×9
no.10 10×9×8
no.11 8×10×9
no.12 7×8×9
no.13 8×7×9
no.14 10×7×10

—no.1はシリコン、no.14はシリコン他、その他は1Fと同じ

大型の作品から小品まで形、大きさは様々だが、ハンノキとシリコンを使用している点で同様だ。木から食み出すシリコンが、異様な雰囲気を醸し出しているにも関わらず、造形の美しさを感じるのは何故だろう。関に制作方法を聞いた。

「今回は、ハンノキを使いました。長野県大町市海の口の知り合いが持つ森に5月6月、通いました。森の中にある山小屋を拠点に、ある程度の大きさに木材をカット(乾燥させるため)、細かいカットやシリコン剤の作業はアトリエで仕事しました。細長く切ったものはアイナンバーをつけて、元通りにシリコンで接着する、といったことを試みました。白いニュルンとしたものは、建築材料のひとつで、シリコン剤です。よくビルのガラスとコンクリートとの境目などに使われています。色は、黒、グレイ、透明、白などが一般的です。木材を縦に、チェーンソーでカット、その間を12ミリの間隔をあけてシリコン剤で接着、飛び出ている丸いニュルンは改めてゲージを作りました。ゲージは12ミリの空間がある5×100センチの細長い箱を作り、離型の養生をしてケーキにホイップクリームを盛りつける要領で注入します。それら出来たものを張り合わせて板状にし、コノ字型にしました。樹木の半栽の2点はそれらの元の考え方を提示しました」。

通常食み出したシリコンは、切り落とされ磨かれる。関の場合はそれが主役となった。ある作品は樹木の間にシリコンが挟まれゼブラと化し、またある作品の樹木ははコの字型に整えられ満遍なく並べられている。それらが人間の手によって加工され、切り刻まれて変形したものになっていないのは、関の持つ自然との対話の威力がそうさせているのであろう。


Fig.2 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景


Fig.3 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景


Fig.4 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景

これまでの関の作品にあった皮膚感も、充分に生かされている。今回特に備わったのは、シリコンの動作を固定した点であろう。風にそよぐわけでもないのに、作品に動作が盛り込まれている。それは人の動作が瞬時に凍結したというよりも、固定されることによって作品が動き出す事例を示している。

人体を想起させながらも、関の作品は切断され、再度接着されている。それにも関わらず、残忍なイメージが全く生じない。また、関の彫刻に台座は必要ない。古代から現代まで、彫刻は台座から逃れることが儘為らなかった。では関の彫刻は彫刻ではないのか。

私はここまで「シリコンが食み出している」と書いてきた。しかし、ここではシリコンが媒体としてハンノキを繋いでいるのではなく、シリコンとハンノキはその量の差があったとしても、関にとっては同等の役割を果たしていると解釈すると、作品への眼差しは全く別のものとなる。

クレス・オルデンバーグ(1929-)は、「柔らかい彫刻」を用いて台座の問題と共に彫刻が持つ課題と闘ってきた。関もまた「柔らかい」素材を用いることがあるが、オルデンバーグと全く異なる素質を持つ。関の小作品を手に持つと、不思議と人体や小動物と言った有機的な感触を受ける。そして、形は違えどもまるで仏像のような「御神体」を自らの掌が包んでいる錯覚を覚えるのである。

近代以後、宗教から自律した美術は宗教に立ち返ることを絶対的に拒んでいた一方、芸術至上主義に対する抵抗を他方で行なってきた。関の作品が先祖帰りをしているというわけではない。重要なのは、関の彫刻が彫刻を意識することを留めた時、彫刻が彫刻であるべき姿にとても似ている点なのだ。

今回の関の作品は衝撃的であり、まだ考察は終っていない。私は関の彫刻を、これからも更に洞察していく。