会期|2010年9月25日(土)~10月11日(月)/2010年11月1日(月)~13日(土)
会場|ギャラリー四門/ギャラリー現
執筆者|宮田 徹也

Fig.1 「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」(ギャラリー四門)展示風景
画像提供:高島芳幸

Fig.2 高島芳幸個展(ギャラリー現)展示風景
ここでは特にA4サイズのドローイングについて言及する。高島はこの作品をA4クリアファイルに入れて保管している。四門のファイルに記されている事項を引用する。

Fig.3 「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」(ギャラリー四門)展示風景
画像提供:高島芳幸
「用意されている絵画―記録/The appointed Picture-record(Fu.2010.7.5. 9:03-2010.7.7. 18:24)/高島芳幸/データー/記録日…2010年7月5日9:03-2010年7月7日18:24/素材…紙・インク/この作品は1枚の紙面に対し、そこから生まれる感覚と意識と時間と共に、線と言葉で記録したものです。」Ⅰは7月5日9:03-9:29までの8枚、Ⅱは同日17:52-18:30までの6枚、Ⅲは同月6日16:50-17:27までの7枚、Ⅳは7日18:24-18:35までの4枚、計25枚である。
現のファイルに記されている事項を引用する。

Fig.4 高島芳幸個展(ギャラリー現)展示風景
何れの作品を見てもシュルレアリスムにある自動書記、河原温のようなコンセプチュアルな要素は見当たらない。一枚一枚が、そこにあって通り過ぎていく。つまり高島の作品は「用意されている」絵画ではあるのだが、描かれていても見られることを想定していないのである。
見られることを想定しないとは何か。まずディスクリプションが成立しない。何がどうあるからこうだという作品の記述と解釈を拒否しているのだ。次に高島の作品は概念的要素が強いので、これまでも多くの語り手が観念を用いて対抗してきた。しかし高島の作品は概念を中心に添えて理論を展開していくタイプではない。そして素材だけを提示する所謂「もの派」ではない。もの派は決して「インスタレーション」ではないのだ。それ以前の「エンバイラメント=環境芸術」の影を引き摺っている。引き摺っているからこそ、それが当時新しかったのだ。高島の絵画はもっと、透明感もなく押し寄せては引いていく。時間が誰にでも同じように進んでいくように。

Fig.5 「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」(ギャラリー四門)展示風景
画像提供:高島芳幸

Fig.6 高島芳幸個展(ギャラリー現)展示風景
その想いを、高島は誰に頼まれたのではなく自らに課すのでもなく、淡々と果たし続けているのではないだろうか。二つの展覧会の間をさ迷い、私はそのようなことを夢想した。
ギャラリー四門
ギャラリー現
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