2011年5月23日月曜日

レビュー|赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」

展覧会名|赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」
会期|2010年10月22日(金)~11月7日(日)
会場|横浜市民ギャラリーあざみ野

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景

この展覧会は、毎日新聞に4年間連載された《散歩の言い訳》が一冊の本『散歩の収獲』(日本カメラ社、2010年)として出版されたことを記念して行われ、54点の写真とインタビュー映像が展示された。同時開催の「横浜市所蔵カメラ・写真コレクション展」にも赤瀬川は積極的に関わり、ステレオ裸眼視の実践教室なども行った。


Fig.2 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景

横浜市民ギャラリーあざみ野のHPに赤瀬川の言葉があるので引く。「散歩とカメラ/カメラは散歩の導火線だ。何か撮りたい、何か見つかるかもしれない、という小さな火に導かれて町を歩く。ウォーキングは脚の筋肉だけの話になるが、カメラがあると目が加わり、感受性がスイッチされる。/赤瀬川原平」

広い会場にゆとりを持って写真が展示されている。吹き抜けの部分には「この世は偶然に満ちている。だから人間は人工管理の街を造った。でも街はいずれ老朽化し、その隙間から、追い出された偶然がまた顔をのぞかせる。カメラにはそれが美味しい。」と大きく記されている。


Fig.3 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景


Fig.4 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景


Fig.5 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景

赤瀬川の言葉にもあるようにその写真の特徴は、日常目にしながらも何処か奇妙な異空間の瞬間をとらえ、タイトルがその諧謔性を強調するものだ。老朽化といっても古美術のような懐古主義ではなく、かといって廃墟のような朽ち果てた段階でもなく、飽くまでも日常の「隙間」を見逃さず撮影しているのである。

私は赤瀬川の画業について、納得していない面が多かった。60年代の読売アンデパンダン展に出品した《ヴァギナのシーツ》など人体を変形させた作品から千円札模造に至り、裁判に負け、『桜画報』を通じて『超芸術トマソン』、『路上観察』に至りつく。あそこまで克明な描写作品を他者の手によって剥奪された後、何故戦わないのか。私にとって「無用の代物」である『超芸術トマソン』は、国宝の仏像にしか見えなかった。加えてペンネーム「尾辻克彦」としての芥川賞受賞は、日展の入賞にしか感じられなかったのだ。岡本太郎や秋山祐徳太子のような前衛と社会を繋ぐ役割を果たすのではなく、自らの追求に熱を注いでいるようにしか見えなかったのである。

しかし今回の展示で赤瀬川の作品を目の前にして、その発想は覆った。赤瀬川の写真はカメラを持つと全体を見渡すが、しかし同時にモチーフはフレームから食み出していくのである。この現象はペンを持つと細部に目がいく千円札模造の作品と寸分も異なるところがないのだ。つまり赤瀬川にとって重要なのは立体なり絵画なり写真なりという種別なのではなく、自らが「見る」というモチーフなのである。そのため赤瀬川は「何かを撮りたい」と思い続けるのだ。

このように発想すると、赤瀬川の作品は「見ること=見詰めること」で一貫している。小説も「見た」ことを詳細に描いていると解釈することができる。赤瀬川は外部と戦うことよりも自らの視覚と対決することに熱を注いでいる。

このような赤瀬川の作品がその発生当初から現在に至るまでどのような変遷を辿っているのか、それが時代に左右されていないことを立証し、探ることが、私のこれからの課題となった。

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