展覧会名|「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」
会期|2010年9/30(木)~10/19(火)
会場|横浜市民ギャラリー
執筆者|
宮田 徹也
Fig.1 「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」展示風景(赤羽史亮)
Fig.2 「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」展示風景(石山朔)
この展覧会は現代にある様々に展開する美術様式の中から絵画に注目し、「なぜ作家は描き、見るものは絵画を楽しむのか。執拗なまでに描き、特異な作品を生み出してきた対照的な二人の作家をとりあげ、その答えに迫」る(チラシ)ことを主眼とする。アーティストは1984年生まれの赤羽史亮と、1921年生まれの石山朔である。赤羽は16点、石山は13点出品した。赤羽は10号から200号の作品であったが石山が主に300号ということもあり、小さくさえ見える。
第一室は二人の作品が交互に展示され、次の部屋は石山、二階は赤羽であった。内へ内へと焦点に向かって巻き込んでいくような赤羽と、たった一つの動機から宇宙にまで広がっていく石山といった作品はまさに対照的である。年齢も対照的ではあるのだが、年齢というよりも背負う時代のスタンスの相違をここでは感じられた。石山は60年代から活動を始めていたとしても20年あまり沈黙し、2000年を越えた近年、作品の発表を続けているので、二人は「現代の作家」であるということができる。
Fig.3 自作前で語る赤羽史亮
Fig.4 自作前で歌う石山朔
赤羽の盛り上げる絵具にアンフォルメルを想い起こす。しかし描かれている主題と目的にそれを符合しない。ジャン・デビュッフェのようなアール・ブリュットから派生するアウトサイダー・アート的な着想ではなく、ここに出現するキャラクターが持つユーモアには風刺ほどの痛烈な当たりは存在しないが、闇の中で蠢く恐怖を振り払う闇独特の楽しさに満ち溢れている。それでも気になるのは筆跡である。その速度、強弱という問題に関わらず印象的な線は、やはり50年代の美術を想起させるのである。それを辿るのが赤羽の手なのだ。
Fig.5 「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」展示風景(石山朔)
翻って石山の明るい色彩は岡本太郎を想い起こしたとしても、70年代ではなく現代の街の光景を呼び起こしてくる。そして巨大な画面に対してのジェスト的な筆致よりも、その構成力に眼を奪われる。石山の巨大な画面を写真にして限りなく縮小したとしても、そこに宿っている生命の迫力に変化は見られないだろう。それは、これ以上にどこまででも巨大な画面になったとしても同様の観点が存在することに等しい。それでも、実際のサイズが最も相応しい。即ち、石山の絵画は既に描かれている絵画を眼で探っている感覚がするのだ。
この感覚を互いに入れ替えても成立する。赤羽の手=線を眼で辿る、石山の眼=構成を手で追想する。何れにしても私たち人間から生まれる感覚なのだ。これは飽くまでも感覚の問題で、三次元を二次元とする絵画が持つ創造の力と対等なことを示している。そして、絵画の魅力とは未だ計り知れない力を持っていることを、この展覧会は教えてくれたのであった。
ニューアート展2010 描く - 手と眼の快
island: Artists/ 赤羽史亮 Fumiaki Akahane
ABSTRACT★SAKU 石山朔(イシヤマ サク)ホームページ
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