会期|2010年7月10日(土)~9月5日(日)
会場|神奈川県立近代美術館 葉山
執筆者|宮田 徹也
Fig.1 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山
同「あいさつ」から、更に引用する。「版画家、彫刻家として、92歳になる今もなお活躍する浜田知明の展覧会を開催します。浜田知明は、1917(大正6)年、熊本県上益城郡高木村(現・御船町高木)で生まれ、青春時代に戦争を体験した世代です。中国に出征した浜田は、軍隊体験をもとに戦後制作した〈初年兵哀歌〉シリーズ(1950-54)によって高い評価を受けました。そのシリーズに終止符を打ったのちも50年以上、戦争をテーマにした作品を描き続ける一方で、多岐にわたるテーマの版画も多く描き出してきました。また、彫刻家としての制作も、すでに20年以上になります。この5年間に制作された未発表の彫刻の新作もまた、今回の展覧会で紹介します。(後略)」
カタログによると浜田が初めて版画を制作したのは1938年、彫刻は1983年ということになる。広大な葉山の展示空間に、隈なく版画と彫刻が広がっていく様は圧巻だ。一点一点丁寧に見ても飽きることがない。版画と彫刻はほぼ対価に展示され、優越をつけない点も素晴らしい。
Fig.2 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山
Fig.3 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山
Fig.4 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山
特に新作の彫刻は、見えるように見えることを追求している。《霊界を覗く人》は小さな窓が空いた壁際を間にして髑髏と人物が向き合うようにいる。人物のほうから窓を覗き見ると髑髏は見えないのだが、髑髏のほうから覗くと人物の顔が丸見えなのである。しかし浜田は彫刻の特性を生かしたり、版画を立体化させたりしているのではない。浜田の「一貫」した作品群がそれを示している。
何故浜田はこれほどまでに「一貫」しているのか。カタログ中、山梨俊夫は浜田の言葉を引用している。「近代絵画は主題を捨てた。だが主題があるから、芸術の価値が減少することは断じてない。人間は社会的な存在だ。だから、私は社会生活の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対話したいと思う。」
浜田に何故版画と彫刻を選択したのかと問う意義は全くない。「版画」や「彫刻」とは創られた概念であり、浜田の言う「造形」とは全く関係ないのだ。そのように考えると、「作品」や「美術」も「造形」とは関わりがなくなってくる。それほどまでに、浜田の「造形」を一般概念である「美術」に押し込めることが不可能なのだ。
浜田の作品を通覧すると、浜田の主張はやはり「社会の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対話」することなのではないかと思う。ここには時代を生きる「人間」が必要なのだ。「美術」家である意味を持たないのである。確かに浜田が描き始めた時期から時代は流れた。しかし「人間」に変化はない。浜田は戦争体験、批判をリアリズムとして直接的に、風刺として間接的に様々な手法を用いて描いてきた。それは「主張」ではなく「対話」を求めているのである。そのため浜田の造形に向き合うとすれば、浜田の語り掛けに対して見る者が応える、即ちそこに対話がなければならないのだ。
翻って「美術」の動向に眼を向ければ、時代と先進国の潮流に乗り遅れないように作品を制作する者、発表の機会を与え援助する者に満ち溢れている。そこに金銭が関わるかはここでは問題ではない。世界的に評価されれば発表の場が与えられ、過去の主張=対話は時代と共に忘れられる。この根底にある「社会」に変化があったのだろうか。現在でも数多くの平和展は開催され、美術館や画廊も展示することによって20世紀の悲惨な状況に戻らないことを助長する。私はそのような行動に対して非難するつもりは全くない。しかし「美術」に留まる限り、外部からの圧力が加えられると展覧会は中止され、「美術」という枠を剥奪されると非常事態に対して無力と化すのだ。それは帝国主義の「美術」という範疇から逃れられないことを示しているというよりも、この概念から解放される術を見出していないと言い換えることができる。
近代絵画に捨てられた主題の価値。この問題とも向き合って、我々は再び浜田の造形と―それ以上に「美術」そのものと―対話することが何かを問わなければならないだろう。
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