会期|2010年5月13日(木)~22日(土)
会場|なか玄アート
執筆者|宮田 徹也
Fig.1 左から、園家誠二《無題Ⅵ》《無題Ⅱ》《無題Ⅲ》《無題Ⅴ》 撮影:宮田絢子
《無題Ⅰ》(80.3×661.5cm/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など) 《無題Ⅱ》(10号M縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など) 《無題Ⅲ》(10号M縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など) 《無題Ⅳ》(12号M縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など) 《無題Ⅴ》(8号F横/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など) 《無題Ⅵ》(6号S縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など) |
《無題Ⅰ》は計四枚であり、今回はスペースの都合上直角に隣り合う壁面に二枚ずつ展示された。園家によると《無題》は《景》に言い換えることが出来るという。《無題Ⅰ》以外小品ではあるのだが、どの作品も南宋画を見るようなスケール感に満ち溢れている。
Fig.2 園家誠二《無題Ⅰ》 撮影:宮田絢子
Fig.3 園家誠二《無題Ⅰ》(左) 撮影:宮田絢子
Fig.4 園家誠二《無題Ⅰ》(右) 撮影:宮田絢子
私は作品がホワイトキューブではなく床の間でもなく、漆喰の壁に展示されている光景をその時思い浮かべた。または「侘び寂び」という語彙も頭によぎった。何れもダイレクトに展開する感触ではなかったのだが、そこに共通する事項が「光」ではないかと私は思いついた。影を前提とした、薄暗い日本家屋の中で園家の作品が蠢く。そこに必要なのは屋外からの光だ。これまでの制作態度から想い起こすと、園家は光そのものを描くことは決してない。ではここに表れた光をどのように説明すべきか。これまでの作品に光が含まれていたのであれば、それは充分に説明が付く。そのため、園家の作品は写真に撮りにくい側面を持つ。園家は画面が面にならず「粒子の層になるように心がけている」(前出Web)と語っていた。それは自己のイメージの隙間に光が風のように入り込み、表面だけはなく内側から、裏側から照らされる=見る者の視線が放たれることを望んでいるのではないだろうか。それは決して「和風」という明治以後のナショナリズムが形成したものではない、園家独自でありながらもこの国にあった作品に含まれている概念なのではないだろうか。
Fig.5 園家誠二《無題Ⅳ》 撮影:宮田絢子
園家誠二(そのけせいじ)(前出Webより転載) 1960年 富山県黒部市に生まれる 1984年 東京学芸大学卒業 1987年 無可有展(銀座・文芸春秋画廊 1987年 隔年95年まで) 1994年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち) 1995年 にわび会(銀座・北辰画廊) 1995年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち) 1996年 東京日本画新鋭選抜展(大三島美術館) 1996年 にわび会(銀座・北辰画廊) 1996年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち) 1997年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち) 1998年 早春の会(新橋・アートギャラリー閑々居) 1998年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち) 1999年 早春の会(新橋・アートギャラリー閑々居) 2000年 個展「天神の空から」(新橋・アートギャラリー閑々居) 2001年 現代日本画選抜(大三島美術館)奨励賞 2002年 個展「季節」(新橋・アートギャラリー閑々居) 2004年 個展(銀座・ギャラリーアートポイント) 2005年 個展(銀座・ギャラリーアートポイント) 2006年 個展(銀座・ギャラリーアートポイント) 2006年 現代「日本画」の展望 -内と外のあいだで-(和歌山県立近代美術館) 2006年 個展(京橋・なか玄アート) |
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