2011年4月23日土曜日

レビュー|ガロン 第1回展

展覧会名|ガロン 第1回展
会期|2010年6月11日(金)~13日(日)、18日(金)~20日(日)
会場|瑞聖寺ZAPギャラリー

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 金子朋樹《Axis/世界軸-万象は何を支軸に自転し、そして公転するのか-》 撮影:島村美紀

ガロン成立について、メンバーの小金沢智「「ガロン 第1回展」を終えて」(『ガロン 第1回展』リーフレット(ガロン実行委員会発行、2010.8)から引用する。

「ガロンというグループを構成する7人のうち、作家でないのは私だけだ。そのため、私がキュレーターだと思われることもしばしばだが、私はキュレーターではない。グループの発起人は金子朋樹であり、金子と松永龍太郎の二人が中心になって、他の4名の作家―市川裕司、大浦雅臣、佐藤裕一郎、西川芳孝―が選出されたからだ。私はすべての作家が集まった段階で金子から声をかけられ、アドバイザーのような形でこのグループに加わった。2008年秋のことだ。その段階でグループ名や展覧会の会期・会場は決まっておらず、私がガロンという名称はどうかと提案したのは同じ年の暮れだった。」

メンバーは20代後半から30代前半までの若い層である。金子と松永は活発に活動しており、その磁場に他の5人が引き寄せられた形となる。小金沢を除いた6人は日本画出身だが、ガロン展の何処にも「日本画」という語彙は存在しない。この点について小金沢が前出の文献で記しているので引用する。

「ただ、この時の私は、グループ展といえども最終的な評価は個々の作品に帰結する以外ありえないと考えていたから、それぞれが希望する場所で最高のパフォーマンスができればそれでよいと考えていた。その根底には日本美術史上の「日本画」を巡る諸問題が関係していて、私はもはや「日本画」という言葉を軸にした上で展開される、「日本画」の滅亡や、新しい「日本画」といった、実は内輪内の動向の堂々巡りに辟易していた。そこに横たわっているのは、歴史は進歩すべきであるという発展史観にほかならず、それは私には、日本画出身者にかけられた〈呪い〉のようにも思えた。したがって、日本画のグループとしてのコンセプトを打ち出さないということは、そのような輪の中に私たちは入らないということの、したたかな意思表明でもあった。」

「日本画の呪い」を断ち切ることができたか。出品作品を以下に記す。

出展リスト
1階
金子朋樹《Axis/世界軸-万象は何を支軸に自転し、そして公転するのか-》ラウンドパネル/富山五箇山悠久紙・八女肌裏紙・新聞紙/正麩糊・三千本膠・天然蜜蝋/墨・染料・箔、258×515cm、2010
佐藤裕一郎《ice fog 108》和紙/岩絵具・顔料、262×455cm、2010
大浦雅臣《創世機》225×300cm、紙/樹脂膠/岩絵具・箔・泥・墨、2010

2階
松永龍太郎《Vector X》二曲一隻屏風/和紙/岩絵具・水干・墨・アクリル・箔・金泥・膠、172×186cm、2010
市川裕司《genetic trans 10-2》ポリカーボネート/方解末・ジェッソ・樹脂膠・アルミ箔・典具帖紙・墨、2010
市川裕司《eschaton 10-5,106》ポリカーボネート/樹脂膠/アルミ箔、130×10,000cm、2010
西川芳孝《天川図》新鳥の子紙/墨・墨汁、329×485cm、2010

それぞれの作品が異化することもなく調和することもなく、確実に佇んでいた。上記の理由で「日本画」を避けた展示ではあるのだが、皮肉にもこれほど明確に「現代の日本画」を示した展覧会はこれまでどのようなコンペティションでも美術館でも在りえなかった。


Fig.2 佐藤裕一郎《ice fog 108》 撮影:島村美紀


Fig.3 大浦雅臣《創世機》 撮影:島村美紀

思えば1990年代に端を発した「日本画」論争には、言葉の定義、素材の問題よりも抽象画の介入が根底にあったと私は思えてならない。日本画の定義を巡って山種美術館が主催する山種美術賞が97年に終焉し、「現場」研究会が主催した日本画シンポジウム(2003年3月/神奈川県民ホール大会議室)によって一応の収まりがついた感があった。2003年の第一回日経日本画大賞展の大賞作品である浅野均《雲涌深処》は具象と言えど繰り返すモチーフは抽象性に溢れ、第二回(04年)の大賞菅原健彦《雲水峡》も同様、第三回(06年)の奥村美佳《かなたⅦ》では一気に具象作品となり、第四回(08年)の岡村桂三郎《獅子08-1》でも具象性が強調されている。

ガロン第1回展に並んだ作品には共通点がある。それは具象性でも抽象性でもなく、「オールオーヴァー」である。「オールオーヴァー」の意味を端的に示すと以下のようになる。「「全面を覆う」という意味の言葉。転じて、絵画空間の中に一定の中心を持たせないで、全体性や単一性、均質性を保ちながら、絵画からイリュージョンを廃して、平面性を重視する構造の作品を指すようになった」(参照:weblio 美術用語辞典)。


Fig.4 市川裕司《genetic trans 10-2》、《eschaton 10-5,106》 撮影:島村美紀


Fig.5 松永龍太郎《Vector X》 撮影:島村美紀


Fig.6 西川芳孝《天川図》 撮影:島村美紀

このように引用すると、私の考察が一歩進められる。何故かというと、ガロン1回展出品作品の共通項は、「全体を覆」いながら、その画面の皮膜の中に「イリュージョン」を持たせているからだ。それは作者の意図と反しているのかもしれないが、私にはそう見えた。「イリュージョン」をもたせているのであれば、「オールオーヴァー」とは言えなくなる。その新しさが、ここに揃った6人の共通項だと私は思っている。

重要なのは、画面の皮膜の奥にあるイリュージョンである。それが一体何を示しているのかが、全く見えてこない。もしかしたら皮膜を突き破ったその先には、何もないのかも知れない。それが新しさであるのか曖昧であるのかは、今後のガロンの活動にかかっている。

0 件のコメント: