2011年4月30日土曜日

レビュー|浜田知明の世界展

展覧会名|浜田知明の世界展  
会期|2010年7月10日(土)~9月5日(日)
会場|神奈川県立近代美術館 葉山

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山

この展覧会の開催趣旨は「版画173点、彫刻73点、油彩画4点のほか、デッサンやスケッチ、資料など約80点、総計約330点による浜田知明の世界を展観するもの」であるとチラシに記されている。同展カタログ「あいさつ」によると、この展覧会は浜田知明氏から2008年度に受けた128点版画寄贈に対する記念の意味も込められているという。

同「あいさつ」から、更に引用する。「版画家、彫刻家として、92歳になる今もなお活躍する浜田知明の展覧会を開催します。浜田知明は、1917(大正6)年、熊本県上益城郡高木村(現・御船町高木)で生まれ、青春時代に戦争を体験した世代です。中国に出征した浜田は、軍隊体験をもとに戦後制作した〈初年兵哀歌〉シリーズ(1950-54)によって高い評価を受けました。そのシリーズに終止符を打ったのちも50年以上、戦争をテーマにした作品を描き続ける一方で、多岐にわたるテーマの版画も多く描き出してきました。また、彫刻家としての制作も、すでに20年以上になります。この5年間に制作された未発表の彫刻の新作もまた、今回の展覧会で紹介します。(後略)」

カタログによると浜田が初めて版画を制作したのは1938年、彫刻は1983年ということになる。広大な葉山の展示空間に、隈なく版画と彫刻が広がっていく様は圧巻だ。一点一点丁寧に見ても飽きることがない。版画と彫刻はほぼ対価に展示され、優越をつけない点も素晴らしい。


Fig.2 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山


Fig.3 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山


Fig.4 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山

版画、彫刻共に大胆でありながらもその形は恐ろしいまでの繊細な手業が支えている。全体を見て細部を凝視すればこの事実に驚嘆するのであるが、細部から全体に眼を移すと浜田が生み出す形というものに最早抽象も具象も関係がないまでに感じてくる。ものの形を空中から掴み、作品とするのは浜田の手業の技術だけが裏打ちしているのではない。その視線が作品を生み出しているのだ。

特に新作の彫刻は、見えるように見えることを追求している。《霊界を覗く人》は小さな窓が空いた壁際を間にして髑髏と人物が向き合うようにいる。人物のほうから窓を覗き見ると髑髏は見えないのだが、髑髏のほうから覗くと人物の顔が丸見えなのである。しかし浜田は彫刻の特性を生かしたり、版画を立体化させたりしているのではない。浜田の「一貫」した作品群がそれを示している。

何故浜田はこれほどまでに「一貫」しているのか。カタログ中、山梨俊夫は浜田の言葉を引用している。「近代絵画は主題を捨てた。だが主題があるから、芸術の価値が減少することは断じてない。人間は社会的な存在だ。だから、私は社会生活の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対話したいと思う。」

浜田に何故版画と彫刻を選択したのかと問う意義は全くない。「版画」や「彫刻」とは創られた概念であり、浜田の言う「造形」とは全く関係ないのだ。そのように考えると、「作品」や「美術」も「造形」とは関わりがなくなってくる。それほどまでに、浜田の「造形」を一般概念である「美術」に押し込めることが不可能なのだ。

浜田の作品を通覧すると、浜田の主張はやはり「社会の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対話」することなのではないかと思う。ここには時代を生きる「人間」が必要なのだ。「美術」家である意味を持たないのである。確かに浜田が描き始めた時期から時代は流れた。しかし「人間」に変化はない。浜田は戦争体験、批判をリアリズムとして直接的に、風刺として間接的に様々な手法を用いて描いてきた。それは「主張」ではなく「対話」を求めているのである。そのため浜田の造形に向き合うとすれば、浜田の語り掛けに対して見る者が応える、即ちそこに対話がなければならないのだ。

翻って「美術」の動向に眼を向ければ、時代と先進国の潮流に乗り遅れないように作品を制作する者、発表の機会を与え援助する者に満ち溢れている。そこに金銭が関わるかはここでは問題ではない。世界的に評価されれば発表の場が与えられ、過去の主張=対話は時代と共に忘れられる。この根底にある「社会」に変化があったのだろうか。現在でも数多くの平和展は開催され、美術館や画廊も展示することによって20世紀の悲惨な状況に戻らないことを助長する。私はそのような行動に対して非難するつもりは全くない。しかし「美術」に留まる限り、外部からの圧力が加えられると展覧会は中止され、「美術」という枠を剥奪されると非常事態に対して無力と化すのだ。それは帝国主義の「美術」という範疇から逃れられないことを示しているというよりも、この概念から解放される術を見出していないと言い換えることができる。

近代絵画に捨てられた主題の価値。この問題とも向き合って、我々は再び浜田の造形と―それ以上に「美術」そのものと―対話することが何かを問わなければならないだろう。

2011年4月23日土曜日

レビュー|ガロン 第1回展

展覧会名|ガロン 第1回展
会期|2010年6月11日(金)~13日(日)、18日(金)~20日(日)
会場|瑞聖寺ZAPギャラリー

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 金子朋樹《Axis/世界軸-万象は何を支軸に自転し、そして公転するのか-》 撮影:島村美紀

ガロン成立について、メンバーの小金沢智「「ガロン 第1回展」を終えて」(『ガロン 第1回展』リーフレット(ガロン実行委員会発行、2010.8)から引用する。

「ガロンというグループを構成する7人のうち、作家でないのは私だけだ。そのため、私がキュレーターだと思われることもしばしばだが、私はキュレーターではない。グループの発起人は金子朋樹であり、金子と松永龍太郎の二人が中心になって、他の4名の作家―市川裕司、大浦雅臣、佐藤裕一郎、西川芳孝―が選出されたからだ。私はすべての作家が集まった段階で金子から声をかけられ、アドバイザーのような形でこのグループに加わった。2008年秋のことだ。その段階でグループ名や展覧会の会期・会場は決まっておらず、私がガロンという名称はどうかと提案したのは同じ年の暮れだった。」

メンバーは20代後半から30代前半までの若い層である。金子と松永は活発に活動しており、その磁場に他の5人が引き寄せられた形となる。小金沢を除いた6人は日本画出身だが、ガロン展の何処にも「日本画」という語彙は存在しない。この点について小金沢が前出の文献で記しているので引用する。

「ただ、この時の私は、グループ展といえども最終的な評価は個々の作品に帰結する以外ありえないと考えていたから、それぞれが希望する場所で最高のパフォーマンスができればそれでよいと考えていた。その根底には日本美術史上の「日本画」を巡る諸問題が関係していて、私はもはや「日本画」という言葉を軸にした上で展開される、「日本画」の滅亡や、新しい「日本画」といった、実は内輪内の動向の堂々巡りに辟易していた。そこに横たわっているのは、歴史は進歩すべきであるという発展史観にほかならず、それは私には、日本画出身者にかけられた〈呪い〉のようにも思えた。したがって、日本画のグループとしてのコンセプトを打ち出さないということは、そのような輪の中に私たちは入らないということの、したたかな意思表明でもあった。」

「日本画の呪い」を断ち切ることができたか。出品作品を以下に記す。

出展リスト
1階
金子朋樹《Axis/世界軸-万象は何を支軸に自転し、そして公転するのか-》ラウンドパネル/富山五箇山悠久紙・八女肌裏紙・新聞紙/正麩糊・三千本膠・天然蜜蝋/墨・染料・箔、258×515cm、2010
佐藤裕一郎《ice fog 108》和紙/岩絵具・顔料、262×455cm、2010
大浦雅臣《創世機》225×300cm、紙/樹脂膠/岩絵具・箔・泥・墨、2010

2階
松永龍太郎《Vector X》二曲一隻屏風/和紙/岩絵具・水干・墨・アクリル・箔・金泥・膠、172×186cm、2010
市川裕司《genetic trans 10-2》ポリカーボネート/方解末・ジェッソ・樹脂膠・アルミ箔・典具帖紙・墨、2010
市川裕司《eschaton 10-5,106》ポリカーボネート/樹脂膠/アルミ箔、130×10,000cm、2010
西川芳孝《天川図》新鳥の子紙/墨・墨汁、329×485cm、2010

それぞれの作品が異化することもなく調和することもなく、確実に佇んでいた。上記の理由で「日本画」を避けた展示ではあるのだが、皮肉にもこれほど明確に「現代の日本画」を示した展覧会はこれまでどのようなコンペティションでも美術館でも在りえなかった。


Fig.2 佐藤裕一郎《ice fog 108》 撮影:島村美紀


Fig.3 大浦雅臣《創世機》 撮影:島村美紀

思えば1990年代に端を発した「日本画」論争には、言葉の定義、素材の問題よりも抽象画の介入が根底にあったと私は思えてならない。日本画の定義を巡って山種美術館が主催する山種美術賞が97年に終焉し、「現場」研究会が主催した日本画シンポジウム(2003年3月/神奈川県民ホール大会議室)によって一応の収まりがついた感があった。2003年の第一回日経日本画大賞展の大賞作品である浅野均《雲涌深処》は具象と言えど繰り返すモチーフは抽象性に溢れ、第二回(04年)の大賞菅原健彦《雲水峡》も同様、第三回(06年)の奥村美佳《かなたⅦ》では一気に具象作品となり、第四回(08年)の岡村桂三郎《獅子08-1》でも具象性が強調されている。

ガロン第1回展に並んだ作品には共通点がある。それは具象性でも抽象性でもなく、「オールオーヴァー」である。「オールオーヴァー」の意味を端的に示すと以下のようになる。「「全面を覆う」という意味の言葉。転じて、絵画空間の中に一定の中心を持たせないで、全体性や単一性、均質性を保ちながら、絵画からイリュージョンを廃して、平面性を重視する構造の作品を指すようになった」(参照:weblio 美術用語辞典)。


Fig.4 市川裕司《genetic trans 10-2》、《eschaton 10-5,106》 撮影:島村美紀


Fig.5 松永龍太郎《Vector X》 撮影:島村美紀


Fig.6 西川芳孝《天川図》 撮影:島村美紀

このように引用すると、私の考察が一歩進められる。何故かというと、ガロン1回展出品作品の共通項は、「全体を覆」いながら、その画面の皮膜の中に「イリュージョン」を持たせているからだ。それは作者の意図と反しているのかもしれないが、私にはそう見えた。「イリュージョン」をもたせているのであれば、「オールオーヴァー」とは言えなくなる。その新しさが、ここに揃った6人の共通項だと私は思っている。

重要なのは、画面の皮膜の奥にあるイリュージョンである。それが一体何を示しているのかが、全く見えてこない。もしかしたら皮膜を突き破ったその先には、何もないのかも知れない。それが新しさであるのか曖昧であるのかは、今後のガロンの活動にかかっている。

2011年4月21日木曜日

レビュー|Dance Perfomance "MAREBITO"

展覧会名|Dance Perfomance "MAREBITO"
会期|2010年5月29日(土)・30日(日)
会場|Living Gallery&Space MAREBITO

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 MAEWBITO Duo 撮影:平河綾

当日に配布されたパンフレットによるとこの公演はダンサーが企画したように見えるが、ここでは一つの写真展と解釈する。先ずはパンフレットに記されている四人のプロフィールを引く。

プロフィール
原裕子(Yuko Hara)
18才モダンダンスに出会う。結成当初よりRoussewaltzに参加。内田香、中村恩恵をはじめ国内外多数の公演に出演。2008年初ソロパフォーマンス「frozen time」を発表。以後、独自の感性で作品に切り込み、エネルギッシュかつ存在感のある踊りで空間を満たす。今回、DanceSangaで出会った二人の世界が…Costume、Photoとともマレビトの空間に広がってゆく。

江角由加 (Yuka Esumi)
6才からクラシックバレエを始める。日本大学芸術学部演劇学科卒業後、同期により結成されたShoppin'gocartメンバーとして活動。07年より中村恩恵に師事、DanceSanga研修生。その一方、笠井叡・笠井瑞丈・上村なおか作品や、宮下恵美子仮想ダンスカンパニー・アトリエムメンバー、ホナガヨウコ企画メンバー 等として、様々な振付家作品にダンサーとして参加。6月には、アコーディオン奏者のcoba×「カンパニーデラシネラ」の小野寺修二、コラボレーション公演に出演。型にはまらない独自の表現方法を大切にしながら、ソロ作品や即興にも意欲的に取り組んでいる。

平沢みゆき (Miyuki Hirasawa)
長野県生まれ 【SOCIAL ACTIVITY】2008年8月 日暮里 HIGURE17-15cas。ソラキカク企画「サイボウダンス」衣装担当。2008年10月 女子美術大学女子美祭ソラキカク企画「サイボウダンス」衣装担当。

平河綾(Aya Hirakawa)
趣味で気ままに写真を撮る。『カメラピープルみんなのまち』2枚入選。『女子カメラ』Vol.12,14写真掲載。『カメラつれてこ』Vol.2,3冊子に写真掲載。CP+2010カメラつれてこ写真展 2枚写真採用。他。
http://fotologue.jp/#colors-in-my-heart

ダンス、衣装、写真が関わっている。会場は古びたマンションの一角であり、鍵、瓶、小物入れといった古道具が並び、自然光を取り入れながらも温かい光のライトがオブジェを照らしている。これは会場の「MAREBITO」が販売しているものである。ルー・リードの落ち着いた曲が流れる。江角が無表情で無音の中、立ち尽くす。グレン・グールドの《ゴールドベルク組曲》が流れ、原は壁に凭れて座り、ゆっくりと立ち、椅子に座る。再び立ち上がり、滅びるように頭を抱え、ふと振り向いて壁に貼られたDMの一枚を剥がし、手に持ち、会場を後にする。フラッシュとシャッター音が三回焚かれては響き渡り、カメラによる場面の変更が演出される。原は背を向け、右手のみを伸ばして肩を震わせ、爪先で歩み椅子に座る。指先を頬や他方の手に這わせ、緩急をつけた手足の動きを織り交ぜつつ、膝を抱えて沈黙する。床で大きく展開し、蝉の声が断片的に聞こえたかと思うと退場する。二人が舞台に上がると、柔らかい電子音が響き渡る。椅子に座る、思わず立ち止まるなど個々の物語を静謐に身体で語り、モチーフである手の動きが一度だけ同調したかと思うと離別していく。原が僅かに震えると公演は終了する。各15分、Duo5分程であった。


Fig.2 MAEWBITO 江角由加 撮影:平河綾


Fig.3 MAREBITO 原裕子 撮影:平河綾

光、音、雰囲気が回顧、追憶といった記憶を擽る。二人の透徹した皮膚感は平沢による柔らかい衣装が生み出した。最も印象的であったのは、平河が写したDMのイメージから二人が零れ落ちたことである。椅子に座る二人、壁際に佇む二人の姿を納めた写真の雰囲気が、そのままパフォーマンスとして実現したように錯覚する。それは「我が国の古代には、人間の来客の来ることを知らず、唯、神としてのまれびとの来る事のみを知っていた」(折口信夫「国文学の発生(第三稿)」1929年)ことと同様に、DMが総てを予知していたのであった。


Fig.4 Dance Perfomance "MAREBITO" DM(表)


Fig.5 Dance Perfomance "MAREBITO" DM(裏)

このようなDMの機能は、ダンスでは稀有な事例である。【MAREBITO】に再会したい思いと同時に、平河の写真展にも期待が高まる。

2011年4月15日金曜日

レビュー|秋山祐徳太子個展「高貴骨走」

展覧会名|秋山祐徳太子個展「高貴骨走」 
会期|2010年5月28日(金)~6月27日(日)
会場|アイショウミウラアーツ

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 秋山祐徳太子個展「高貴骨走」展示風景 画像提供:アイショウミウラアーツ


Fig.2 秋山祐徳太子個展「高貴骨走」展示風景 画像提供:アイショウミウラアーツ

今回秋山は一階の展示場で都知事選のポスターとその当時出演したテレビなどを編集した映像を上映し、二階ではブリキ彫刻群、ライカ同盟の写真、絵画作品を展示した。出展リストを転載する。

出展リスト

新作ブリキ彫刻(2F)
1 . ダリコ佛 S
2 . ダリコ佛 M  
3 . ダリコ佛 M  
4 . ダリコ佛 S  
5 . ダリコ佛 L  
6 . ダリコ佛 S 
7 . ダリコ佛 M  
8 . ダリコ佛 M  
9 . ダリコ佛 S  
1 0 . ダリコ佛 S 
1 1 . ダリコ佛 M  
1 2 . とぼけ佛 M L  
1 3 . ダリコ佛 金  
1 4 . ダリコ佛 S S e d . 1
1 5 . ダリコ佛 S S e d . 2  
1 6 . ダリコ佛 S S e d . 3  
1 7 . ラビットバロン1 e d . 1  
1 8 . ラビットバロン e d . 2  
1 9 . 遠方の男爵K  
2 0 . 春の公園  
2 1 . 脳虫力
2 2 . 空中金魚(絵画) 
2 3 . 春の将軍(絵画)  
2 4 . 富士とラビットバロン  
2 5 . 佛の心  
2 6 . 佛の導き

ライカ同盟写真(2F)
ポッポアート 4 1 x 2 7 c m
ポチ 4 1 x 2 7 c m
セコムしてますか 4 1 x 2 7 c m
あんたが大将 4 1 x 2 7 c m
ブランカ 4 1 x 2 7 c m

選挙ポスター(1F)
都市を芸術する。
フィーバーアキヤマ
東京ラプソティー
保革の谷間に咲く白百合

一階の映像にノスタルジーを感じさせないのは編集の手腕と秋山の力量、そして日本という国の時代変化のなさを物語っている。都知事選ポスターのデザインも同様だ。そしてこのポスターから、日本が変わらない限り秋山が闘い続ける意志すらも感じてしまう。


Fig.3 秋山祐徳太子個展「高貴骨走」展示風景 画像提供:アイショウミウラアーツ


Fig.4 秋山祐徳太子個展「高貴骨走」展示風景 画像提供:アイショウミウラアーツ

二階の展示を通覧すると、秋山の多様性、ポップアートとの関連性よりもむしろ、秋山の大衆性が目を引いた。秋山の描く絵画の自由さは、正に子供が描く絵画のような喜びに満ち溢れている。様々な前衛シーンを潜り抜けてきた秋山ならではの「前衛性」である。ここに70年代に謳歌したデザインにおける「へたうま」、90年代の「アウトサイダーアート」を引き合いに出す必要はないだろう。即ち、秋山の作品はカテゴライズが不可能なのである。同じことはブリキの彫刻にも言える。ブリキと言うキッチュな素材を用いたポップな作品であるとも、そのフォルムが仏像や道祖神を想い起こさせるとも解釈することは可能だが、重要なのは秋山のブリキ彫刻が既存の美術にも工芸にも雑貨にも当て嵌まらないことであろう。では何なのか。それが本来の意味での前衛であることは言うまでもない。

そしてこれから考察していかなければならない事項は秋山の大衆性だけではなく、戦後美術と大衆性の問題であろう。敗戦後、総てが焼け野原になった状態で「美術のあり方」が模索された。そのテーマの指針が大衆性であった。しかしその大衆自身が「最早戦後ではない」と言われ始めた1955年には早くも資本主義の奴隷と化し、60年の安保の敗北、70年の大阪万博という国家行事に飼いならされてしまったのだ。

この時期、最も「大衆性」と闘ったのは岡本太郎だった。岡本は1947年に文学者花田清輝と共に「夜の会」を組織し、やがて破綻しても自己の力を信じて大衆に呼びかけ続けた。太郎が大衆ではなく「前衛」に敗れたのは恐らく1957年に上陸した所謂「アンフォルメル旋風」に対する誤認からであろう。それでも太郎は万博に《太陽の塔》を出品し、その後もパブリック彫刻や壁画の制作を続けた。そして80年代にはテレビコマーシャルに出演し、美術関係者からは顰蹙を食らい90年代には忘れ去られて没した。画風に変化が見られないのは、翻れば主張の一貫性を読み取ることが出来る。

秋山の場合はどうだろう。1965年の岐阜アンデパンダン展に自己を「出品」し、その後ゼロ次元と活動を共にするが主宰の加藤好弘が逮捕され当時は壊滅、75、79年都知事選に立候補するという「パフォーマンス」を繰り広げる。文頭で私は「ノスタルジーを感じさせない」と記した。秋山は生きているのだから、秋山を見ると時代を遡り岡本を見ると時代が競り上がってくるはずなのだがこれは逆だ。しかし秋山を見ると時代が競り上がり、岡本を見ると時代が遡るのでもない。時間のベクトルは一方向にしか進まない。ここの宙にぶら下がっているものは何かを考察することが、前衛と大衆性の問題の鍵になるのではないかと私は秋山の作品を見ながら思った。



秋山祐徳太子(あきやま ゆうとくたいし)アイショウミウラアーツWebより転載)

1935 年 東京生まれ
1960 年 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)彫刻科・卒業

1965 年 アンデパンダン展 ( 岐阜)
1975 年、1979 年 政治のポップアート化を目指し東京都知事選に立候補
1986 年 グループ展「前衛の日本展」(ポンピドゥー・センター / フランス)
1991 年 「芸術と日常-反芸術 / 汎芸術-」(国立国際美術館)
1992 年 ライカ同盟発足(メンバー:赤瀬川源平・高梨豊 )
1994 年 「秋山祐徳太子の世界展」(池田 20 世紀美術館 / 静岡)他多数〈グループ展〉
2008 年 「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」(東京国立近代美術館)
2009 年 「アートフェア東京」(ギャラリーアートもりもとから出品)
2009 年 フォト台北(AISHO MIURA ARTS から出品)

おもな作品収蔵先
国立国際美術館 / 徳島県立近代美術館 / 池田 20 世紀美術館 / 目黒区美術館 / 広島市現代美術館 / 青森県立美術館 宮城県立美術館 / 夕張市美術館 他多数

2011年4月11日月曜日

レビュー|園家誠二個展

展覧会名|園家誠二個展  
会期|2010年5月13日(木)~22日(土)
会場|なか玄アート

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 左から、園家誠二《無題Ⅵ》《無題Ⅱ》《無題Ⅲ》《無題Ⅴ》 撮影:宮田絢子

園家は今回、6点の作品を出展した。

《無題Ⅰ》(80.3×661.5cm/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など)
《無題Ⅱ》(10号M縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など)
《無題Ⅲ》(10号M縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など)
《無題Ⅳ》(12号M縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など)
《無題Ⅴ》(8号F横/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など)
《無題Ⅵ》(6号S縦/雲肌和紙に膠、岩絵具、墨、アクリル、雲母、金泥など)

《無題Ⅰ》は計四枚であり、今回はスペースの都合上直角に隣り合う壁面に二枚ずつ展示された。園家によると《無題》は《景》に言い換えることが出来るという。《無題Ⅰ》以外小品ではあるのだが、どの作品も南宋画を見るようなスケール感に満ち溢れている。


Fig.2 園家誠二《無題Ⅰ》 撮影:宮田絢子


Fig.3 園家誠二《無題Ⅰ》(左) 撮影:宮田絢子


Fig.4 園家誠二《無題Ⅰ》(右) 撮影:宮田絢子

これまでも園家は作品をどこということない心象風景として描いてきた。それは理想郷ではなく自己の中にある世界だという(以下参照 'Round About 園家誠二)。練馬区美術館に所蔵される作品など、これまでの園家の軌跡を見てきた私にとって、今回の作品に異質なものを感じた。それは景としての動機でも描かれている形でもない。色だ。日本画の素材を用いながらも日本画を超然と乗り越えてきた園家の色彩が、非常に「和風」に見えたのだった。それを園家に話すと「私は幾つも引き出しを持っているからその一つに過ぎないと思う」と言ったように憶えているのだが、つまり園家にとってはあまり気にならない、重要な転換ではないことがこの発言からは受け止められる。

私は作品がホワイトキューブではなく床の間でもなく、漆喰の壁に展示されている光景をその時思い浮かべた。または「侘び寂び」という語彙も頭によぎった。何れもダイレクトに展開する感触ではなかったのだが、そこに共通する事項が「光」ではないかと私は思いついた。影を前提とした、薄暗い日本家屋の中で園家の作品が蠢く。そこに必要なのは屋外からの光だ。これまでの制作態度から想い起こすと、園家は光そのものを描くことは決してない。ではここに表れた光をどのように説明すべきか。これまでの作品に光が含まれていたのであれば、それは充分に説明が付く。そのため、園家の作品は写真に撮りにくい側面を持つ。園家は画面が面にならず「粒子の層になるように心がけている」(前出Web)と語っていた。それは自己のイメージの隙間に光が風のように入り込み、表面だけはなく内側から、裏側から照らされる=見る者の視線が放たれることを望んでいるのではないだろうか。それは決して「和風」という明治以後のナショナリズムが形成したものではない、園家独自でありながらもこの国にあった作品に含まれている概念なのではないだろうか。


Fig.5 園家誠二《無題Ⅳ》 撮影:宮田絢子

これからの園家の作品の色彩の変化に対して、私は驚かない。むしろ、そのような展開を望むと言い換えたほうがいいのかも知れない。そして作品に光が回り込むまで凝視すること。再び園家の作品に眼という光が「触れる」ことを待ち続ける。



園家誠二(そのけせいじ)前出Webより転載)

1960年 富山県黒部市に生まれる
1984年 東京学芸大学卒業
1987年 無可有展(銀座・文芸春秋画廊
1987年 隔年95年まで)
1994年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち)
1995年 にわび会(銀座・北辰画廊)
1995年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち)
1996年 東京日本画新鋭選抜展(大三島美術館)
1996年 にわび会(銀座・北辰画廊)
1996年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち)  
1997年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち)
1998年 早春の会(新橋・アートギャラリー閑々居)
1998年 個展(京橋・ぎゃらりーこいち)
1999年 早春の会(新橋・アートギャラリー閑々居)
2000年 個展「天神の空から」(新橋・アートギャラリー閑々居)
2001年 現代日本画選抜(大三島美術館)奨励賞
2002年 個展「季節」(新橋・アートギャラリー閑々居)
2004年 個展(銀座・ギャラリーアートポイント)
2005年 個展(銀座・ギャラリーアートポイント)
2006年 個展(銀座・ギャラリーアートポイント)
2006年 現代「日本画」の展望 -内と外のあいだで-(和歌山県立近代美術館)
2006年 個展(京橋・なか玄アート)

2011年4月5日火曜日

レビュー|翁譲彫刻展「水のみる夢」

展覧会名|翁譲彫刻展「水のみる夢」
会期|2010年4月27日(火)~5月4日(火)
会場|埼玉県北葛飾郡杉戸町生涯学習センター

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 翁譲彫刻展「水のみる夢」展示風景 撮影:宮田絢子

翁の地元での展覧会である。翁は自らが住む町の「水」の問題をこの展示のテーマとした。倉松川の氾濫の問題、それに付随する水害といった限定された主題を扱うのではなく、川が氾濫する時には雨が降る、雨を問題にすると晴れている日もある、晴れていると樹木が光合成を行うといった、幅広い主題が隠されている。そのため天井から滴り落ちる水を受け止めるイメージで、木製の盥を用意した。来客者に「この建物は雨漏りをするのかね?」とまで聞かれたと翁は笑って教えてくれた。それでもテーマは「水」である。美術作品を展示するのに不利である公民館を使用したのは、地元住民に対する翁のメッセージが隠されている。翁は地元で数々の展覧会を行い、住民との交流を深めている。それが町興しに繋がるのではなく、人と人とが繋がることに主眼が置かれていることに注目したい。

翁は様々な時期の作品を、約20点出品した。出品目録もキャプションも作成せず、一般の人に作品と直に向き合って貰う事が前提となっているのだ。そしてまた作品全体で「水のみる夢」という一つの作品にする意図も隠されている。会場には長く白い布が対角線に敷かれ、これだけで公民館を美術展示場に異化する効果が発揮されている。個々の作品は主に木彫と鉄が組み合わされている。それはまるで木の中に予め彫刻が眠っていたのではないかという錯覚さえ与えてくれる。土台に置かれた作品は少なく、翁は彫刻が抱える近代的な問題から解放されていることを示している。屈強な鉄ですらも、木のように容易く加工しているように見える。翁が素材に対して強引な手業を用いるのではなく、自然物と対話するように制作している姿が伺える。このような素材の扱いによって、作品が「人体」ではなく「人間」に見えてくるのだから不思議だ。



Fig.2 翁譲彫刻展「水のみる夢」展示風景 撮影:宮田絢子


Fig.3 翁譲彫刻展「水のみる夢」展示風景 撮影:宮田絢子


Fig.4 翁譲彫刻展「水のみる夢」展示風景 撮影:宮田絢子


Fig.5 翁譲彫刻展「水のみる夢」展示風景 撮影:宮田絢子

作品群の特徴はそれだけではない。今回のテーマにより翁の作品がより自然物であり、自然と呼応していることに気が付くのである。水がなければ木は育まれない。飛んでしまった水分が鉄に宿っていた時期を思い起こさせる。そのような当たり前の姿を再認識させてくれるのだ。

勿論、翁の作品は美術館でも画廊でも空間演出の場でもこのような主張を発揮するだろう。また異なる場所での翁の展示が待ち遠しくなった。



翁譲(おきな ゆずる)公式サイト 

1947 彫刻家翁朝盛の二男として、宮城県仙台市に生まれる
1971 多摩美術大学彫刻科卒業
1988 宮城県芸術選奨受賞(1987年度)

個展
1973 にれの木画廊 (東京)
1975 村松画廊 (東京)
1980 村松画廊 (東京)
1982 鎌倉画廊 (東京)
1983 ギャラリー絵美詩 (岐阜)
1985 ビデオパフォーマンス サウンドファクトリー (東京)
    村松画廊 (東京)
1987 ビデオギャラリー 宮城県美術館
    ギャラリーQ (東京)
    宮城県美術館県民ギャラリー
1990 「デモンストレーション『木をきく』」宮城県美術館
2000 「木をきく-静かにそして静かに」CHIMENKANOYA (東京)
2001 「木をきく-静かにそして静かに」かん芸館 (東京)
2003 「翁譲1971-2003 心にふれたいと思うことは」
    ギャラリーブリキ星 (東京)
2006 「心にふれたいと思うことは-22時25分」ちめんかのや (東京)
2009 「分岐点」同時企画、翁 譲 - 〈1週間シャッターをあける〉
    (埼玉県 杉戸町、宮代町)
2010 「水のみる夢」カルスタすぎとオープンギャラリー(埼玉県)

主なグループ展・公募
1964 「第1回宮城県芸術祭 選抜美術展覧会彫塑・工芸展」丸光
    (仙台/以降毎年出品、'73年芸術祭賞など)
1971 「第2回現代国際彫刻展」箱根彫刻の森美術館
1972 「6人展」村松画廊 (東京)
1974 「2人展」紀伊国屋画廊 (東京)
1975 「6人展」神奈川県民ギャラリー
1976 「第12回現代日本美術展」東京都美術館、京都市美術館
1982 「第14回日本国際美術展」東京都美術館、京都市美術館
1983 「現代のリアリズム展」埼玉県立近代美術館
1984 「彫刻3人展」宮城県美術館県民ギャラリー
1986 「世田谷美術館所蔵作品展」世田谷美術館
1989 「世田谷美術展'88」世田谷美術館
    「美術の国の人形たち」宮城県美術館
1992 「みちのくの造形Ⅱ-人のかたち」宮城県美術館
1993 「開館記念展」相生森林美術館(相生町/徳島)
1999 「みやぎ秀作美術展1999」せんだいメディアテークほか
     (以降2001年、'04年、'07年選出)
2007 「アートみやぎ2007」宮城県美術館
2008 「もうひとつのページェント展vol.1」ギャラリーsenbi(仙台)
2009 「6人展ふたたび-since1975-」画廊るたん(東京)
2009 「分岐点」栗橋町いきいき活動センターしずか館(埼玉県)
2009 「もうひとつのページェント展vol.2」ギャラリーsenbi(仙台)
2009 「鹿首」に参加。詩、歌、句、美の総合誌
    10月創刊準備0号発行
2010  竹のアート2010(埼玉県宮代町)
2010 「もうひとつのページェント展vol.3」ギャラリーsenbi(仙台)

空間演出
1975 第14回現代舞踊協会新鋭中堅公演 <現代舞踊>
    「野坂公夫『砂丘』」(虎ノ門ホール/東京)
1977 第16回現代舞踊協会新鋭中堅公演 <現代舞踊>
    「野坂公夫『丘の枯れ木を見ていただけよ』」
    (虎ノ門ホール/東京)
1982 加藤みや子ダンススペース25周年記念公演 <現代舞踊>
    「加藤みや子『白い壁の家』」(調布グリーンホール/東京)
1989 現代舞踊協会新鋭中堅公演 <現代舞踊>
    「秋谷ひとみ『花鎮め』」(虎ノ門ホール/東京)
1992 加藤みや子ダンススペース公演 <現代舞踊>
    「加藤みや子『白い壁の家』全編初演」(青山円形劇場/東京)
1993 加藤みや子ダンススペース公演 <現代舞踊>
    「加藤みや子『白い壁の家』改定再演」(草月ホール/東京)
1994 FREE PACKAGE vol.4 <現代舞踊>
    「北野啓子『皮膚下のうす笑い』」(俳優座/東京)
1995 加藤みや子ダンススペース公演 <現代舞踊>
    「加藤みや子『イエルマ』」(スペース・ゼロ/東京)
1996 加藤みや子ダンススペース公演 <現代舞踊>
    「加藤みや子『イエルマ vol.2』」(青山円形劇場/東京)
1996 ルナの会プロデュース公演Ⅱ <演劇>
    「ルナの会『Chieko』 『バーサよりよろしく』」
    (CHIMENKANOYA/東京)
1998 HOT HEAD WORKS 1998 <コラボレーション>
    「翁譲・深谷正子・田口敏子 『7月27日砧公園晴れ』」
    (アネックス仙川ファクトリー/東京)
1999 ジァンジァン企画公演 
    「宮下恵美子・アベレイ 音響詩『少年は石を拾った』」
    (渋谷ジァンジァン/東京)
2003 tatopani 内野敦子 FASHION SHOW
    『あたたかい水』(そば処 ゆう/東京)
2006 第1回 ACKid 2006 <コラボレーション>
    「翁 譲・斉藤直子・田口敏子」
    (キッド・アイラック・アート・ホール/東京)
2006 畦地's ダンスパフォーマンス <コラボレーション>
    畦地 真奈加・畦地 亜耶加
    (ちめんかのや/東京)
2007 アートみやぎ2007
    〈アーティスト・トーク+ダンス・パフォーマンス〉
    翁譲(彫刻)・遠藤 豊(ダンス)・熊地勇太(音楽)
    (宮城県美術館)
2008 第3回 ACKid 2008 <コラボレーション>
    「翁 譲・遠藤 豊・熊地勇太」
    (キッド・アイラック・アート・ホール/東京)
2009 「分岐点」翁 譲-〈1週間シャッターをあける〉同時企画
    「きよじ屋書店朗読会」
    翁 譲 (彫刻)・佐藤 昇 (朗読)
     (きよじ屋書店 / 埼玉県杉戸町)
2010「七夕朗読会」(弥生湯 / 埼玉県杉戸町)
2010 竹のアート2010「鎮守の森朗読コンサート」(埼玉県宮代町)

パブリック・コレクション
宮城県美術館  ビデオ作品 《WALK》
世田谷美術館  彫刻作品 《羽化羽化》 ビデオ作品 《WALK》
相生美術館  彫刻作品 《木をきく-Ⅰ》
せんだいメディアテーク  ビデオ作品 《WALK》

2011年4月2日土曜日

レビュー|「THE LIBRARY ASHIKAGA」

展覧会名|「THE LIBRARY ASHIKAGA」
会期|2010年4月10日(土)~6月13日(日)
会場|足柄市立美術館

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 「THE LIBRARY ASHIKAGA」展示風景 画像提供:足利市美術館


Fig.2 「THE LIBRARY ASHIKAGA」展示風景 画像提供:足利市美術館


Fig.3 「THE LIBRARY ASHIKAGA」展示風景 画像提供:足利市美術館

THE LIBRARY ASHIKAGAは2006年に「THE LIBRARY」として同美術館(4月22日~6月4日)と多摩美術大学美術館(6月10日~7月2日)に行われた展覧会の続編である。今回は静岡アートギャラリー(2009年10月24日~12月20日)と足利市立美術館の展示となり、前回と連続して出品した作家はいない。この展覧会の特徴は「本」という作品を絵画、彫刻、工芸、写真、映像、イラストレーションなど、さまざまなジャンルで活躍する45名が制作した点と、作家の年齢が20代前半から70代まで、活動する地域も国内では宮城から兵庫まで、またドイツ在住の者も含んでいる点である。それにより現代の「作品」の在り方に注目することができる。

出品者を羅列する。
荒木珠奈/飯田啓子/石上和弘/石川雷太/石渡雅子/稲垣立男/乾久子/今井紀彰/上野慶一/内海聖史/内倉ひとみ/勝又豊子/加藤寛子/金子清美/河田政樹/倉重光則/倉本麻弓/来島友幸/黒須信雄/くわたひろよ/小林のりお/清水晃/関野宏子/高石麻代/高久千奈/高島芳幸/高橋理加/多田由美子/田邉晴子/戸泉恵徳/栃木美保/豊嶋康子/中西晴世/原田さやか/菱刈俊作/ピコピコ/前本彰子/松永亨子/三田村光土里/ミツイタカシ/本原玲子/森妙子/山本あまよかしむ/山本耕一/ワタリドリ計画(麻生知子・武内明子)。

手にすることが売りの展覧会ではあるが、石上、石川、勝又、ミツイ、山本の作品はケースに収められている。同じ「作品」であっても、制作する者の立場が異なることが面白い。造型を追及する者がいれば、機能を重視する者もいる。見る「本」と読む「本」に大きく分別することができる。飯田はビスケットを塗りつぶし、アルファベットを連ねることで「本」にした。内倉の「本」は開くと会場の光を乱反射する。倉重は本にドリルで孔を開けただけだがそこにあるコンセプトと記憶が意味深い。高島の「本」は一枚一枚手にとって読むのではなく開いて中身と「対話」することによって意義が生まれる。ワタリドリ計画は葉書を「本」とし、見る者が旅を形成していくのだ。


Fig.4 「THE LIBRARY ASHIKAGA」展示風景 画像提供:足利市美術館


Fig.5 「THE LIBRARY ASHIKAGA」展示風景 画像提供:足利市美術館

作品を「触ること」の喜びは、従来の展示では味わうことが出来ない。しかし「本」を手に取ることは日常であり、翻れば手に取らなければ成立しない。何時の間に「作品」は日常から分離したのだろうか。そう考えると、仏教什器は「作品」ではなく飽くまで宗教用具なのだ。美術は制度によって美術と化す。そのようなことも考えさせてくれる展示であった。

「THE LIBRARY ASHIKAGA」公式サイト
足利市美術館公式サイト