2011年2月12日土曜日

レビュー|京都市立芸術大学大学院美術研究課博士課程展

展覧会名|京都市立芸術大学大学院美術研究課博士課程展
会期|2010年12月14日(土)〜2011年1月30日(日)
会場|@KCUA (京都)

執筆者|樋口 ヒロユキ

★上原徹さんの作品について
年度末が近づいてきて卒業展のシーズンとなり、どこでも盛んに卒展が開かれています。京都芸大のサテライトギャラリー「@KCUA」でも、先だって博士課程の有志による展覧会が開催され、さっそく行って見てきました。どれも力作揃いだったのですが、ここでは上原徹さんと、柳澤顕さんの作品についてご紹介したいと思います。


Fig.1 上原徹作品展示風景 画像提供:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA


Fig.2 上原徹作品展示風景 画像提供:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA


Fig.3 上原徹作品展示風景 画像提供:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA

まずは上原徹さんなのですが、私は最初、ふつうの抽象画なのかな、と勘違いして見ていました。具象が流行のこの時代に、えらくミニマルな抽象画だな、と。画面を四角いグリッドで仕切ってあるのですが、質感は金属質なのに、妙に障子の桟を連想させて、どことなくオリエンタルな感じがある。しかも色合いは微妙に陰影があり、単なる無機質な図形とも言えない。一体これは、なんだろう? という印象です。

ところがこれ、よく見ると写真なんですね。どれも建築物のファサードを撮ったものらしい。なるほど、微妙な色合いは実物の建築を取っていたからなのか、と納得するわけですが、ここで「なんだ写真か」と思うなかれ。こういう直線的なものをきちんと直線的に撮るのは、恐ろしく手間のかかる作業なんです。

カメラのレンズは歪んでいますから、建築物をそのまま撮ると、水平垂直は必ず歪む。大きな建物だと上の方が狭まって写る上に、どうしても画面中央が膨れて写る。ところが上原さんの作品は、非常に厳密に補正をして、水平垂直の歪みを正している。画面が大きくなればなるほど、水平垂直をきちんと守るのは難しくなるのですが、上原さんの作品は、1メートルを超える大きなもの。これはすごい職人芸だ、と思いました。

そしてもう一つ、上原さんの作品から気づかされるのは、私たちが普段何気なく見ている日本の現代建築の、予想以上のオリエンタルさです。上原さんが撮るのはどれもハイテックな印象の建築なのですが、こうしてファサードだけ切り離してみると、どこか障子や襖の佇まいを連想させるんですね。おそらくは建築家当人も意識していない、隔世遺伝的な「日本性」みたいなものが浮かび上がってくる。これは面白いと私は思いました。

★柳澤顕さんの作品について


Fig.4 柳澤顕作品展示風景 画像提供:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA


Fig.5 柳澤顕作品展示風景 画像提供:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA


Fig.6 柳澤顕作品展示風景 画像提供:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA

もうお一人は柳澤顕さん。この方の作品は、ちょっと見た目には何か書家が抽象表現をやったかのような、あるいは「草体」で描かれた襖絵のような、非常に有機的なリズム感を持っています。ところが実際には手描きの部分はほとんどなく、描画ソフトの「イラストレーター」の「ベジェ曲線」と言われる機能を使って描かれているのです。

ベジェ曲線とは通常、地図やチャートなどを作図する際に使われるものですが、柳澤さんはこれを使って、図鑑などから既存の形態をトレースし、適宜変形を加えていく。こうしてできた図形を「カッティングマシン」という機械で出力して、壁面に貼り付けて画面を作り出しているわけですね。いっぽうカンヴァスに描かれた部分も、まずはカッティングシートによる線描部分を貼り込んで、塗り絵の要領で絵の具を流し込んでいく、という方法で描かれている。つまりいずれも「手の痕跡」がほとんどないわけです。

柳澤さんはこのように「手の痕跡」を消し去ったような平面作品を作っているわけですが、面白いことに彼の理想は「半自動的に絵画を生成すること」なんですね。実際には柳澤さん自身がソフトを操作して描画した作品なので「マウスを介した手の痕跡」は残っているし、構図自体も柳澤さん自身が考えだしたものなので、半自動的に生成された絵画とはいえないかもしれない。けれども、そうした「自動生成への憧れ」が読み取れるという意味で、柳澤さんの作品はとても同時代的だと思うのです。

というのも、このように作品から自分の意思をできるだけ排除したいと考える作家が、近年非常に多いんですね。自分の意思や情念をそのままカンヴァスにぶつけるのでなく、いったん独自のルールを設定して、それに従って描く。私の知る範囲内でも、そうした作家は片手に余るほどいて、しかも相互に影響関係なく、そうした試みを続けている。こうした現象が一体何を意味しているのか、いまの私にはきちんと評価することができませんが、とりあえずこうした傾向を私は「ルール主義」と名付けて注目しています。

★再び平面は抽象へ向かうか?
そういうわけで、今回私が注目したのは、たまたまですが非常にミニマルで抽象度の高い作品でした。昨年に国立国際で開催された展覧会「絵画の庭」でも印象的に示された通り、ここ10年ほどのアートの中心を形作ってきたのは、非常に具象的な絵画だったのですが、ここへ来てちょっと流れが変わりつつあるのかな、という印象も持ちました(わずか2人だけの作家を取り上げて云々するのも何なのですが)。

さらにもう一つ面白いのは、お二方とも「手」の問題をどう考えるか、というところが一種のフックになっている点です。いずれも「手の痕跡」のようなものをできるだけ感じさせないようにしていながら、その実は非常に手の込んだことをしている。このあたりの倒錯した手つきのようなものが、これからの新しい抽象の、何かのヒントになるのかもしれない。そんなことを考えさせられる展示でした。