2011年10月7日金曜日

レビュー|「横須賀・三浦半島の作家たちⅠ 原口典之・若江漢字」

展覧会名|「横須賀・三浦半島の作家たちⅠ 原口典之・若江漢字」
会期|2011年2月11日(金)~4月10日(日)
会場|横須賀美術館

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 展示室1 右・若江漢字《枝》、左・原口典之《Air Pipe》 画像提供:横須賀美術館

若江漢字(1944-、横須賀生まれ)と原口典之(1946-、横須賀生まれ)、出身と年齢が近似している以外、作風も活動もまったく一致しない二者であると私は思い込んでいたが、会場を後にして、その発想を転換した。

幾らベテランと言っても60代半ばの二人にとって回顧展は早すぎる。しかしながら、デビュー時から現在に至るまでの作品を共に押さえて出品した。


Fig.2 展示室2 若江漢字作品 画像提供:横須賀美術館


Fig.3 若江漢字《クリスタルナハト 9・11+11・9 連鎖》 画像提供:横須賀美術館

若江の作品は、若江自身と同様に饒舌だ。若江の作品ほど直観で理解できる美術はないであろう。《雷音》(1999年)に表れる木炭から原子力といった人類にとってのエネルギーの変遷、ボイス的社会との関わり、コンセプトの意味などを疑って作品に接すると、かえってその真意から外れてしまう。作品は若江の意図を明確に語っていくのだ。しかしその作品が説明的にならず作品として収まるのは、若江の卓越した造形力というよりもその思想が支えていると言ったほうが正確であろう。若江が写真からインスタレーションへ展開していく過程は、ボイスとの出会いというよりも時代の変遷に等しいということができる。若江は美術を「変容」させていこうと考えているのだ。当然、時代背景に合わせたり揺れ動かされていたりするのではないため「グローバル」ではない。飽くまで若江の世界観である。その上で重要な観点は、若江がビデオなどの映像に一切頼らず、徹底的に「モノ」であることだ。若江にとって写真、絵画すらも「モノ」である。すると、若江はこれからどのように展開していくのだろうか。


Fig.4 展示室2 原口典之作品 画像提供:横須賀美術館


Fig.5 展示室3 原口典之 work on canvas 画像提供:横須賀美術館

原口の作品もまた、原口同様に寡黙である。今回出品した作品群は、壁面のみを覆う。巨大な立体作品がなくても、全て原口の作品であることが理解できる。なぜか。作品のテクスチャがそうさせるのであろう。原口の作品を立体か平面かで認識すべきではない。そのどちらでもないのである。原口は、レディ・メイドを用いることで注目されてきた。しかし原口は工業用品を美術に持ち込むのではなく、いかなる素材であっても美術作品に「変容」させる力を持ち合わせているのである。そのため難解に思える作品を、見る者が様々な概念を捨て去って触れればその美しさが浮き彫りになる。《Tsumu 147》(1966年)と、《Tsumu 147-3》(2010年)を見比べるとよい。そこには造形や視覚に対する格闘よりも、イメージのテクスチャ化に重点が置かれているはずだ。その上で考えると、原口の作品には常に重力がある。重力があるというよりも、人間がいるといったほうが適切なのかもしれない。原口は、その人間をこれからどのように考察していくのであろうか。

このように発想すると、二者の「変容」と二者が歩んできた時代性の「変容」の共通項を見つけようとしたくなる。同世代の美術家も同じように「変容」を主題としてきたのか。その様なはずは無い。作家は個々の洞察から発想を導き出し、制作という過程を経て作品を完成させる。ここに共時的な素材をもって読み解くことは全く意味がない。それほどまでに、美術史という発想は貧しいのだ。

若江、原口といった、海外でも評価の高い立体を制作できる作家ですら、丁寧な研究はなされていない。80年代に批評家は消滅し、90年代には全国の公立美術館が揃い、今日に至るまで学芸員による精緻な調査研究も成されている。しかし、日本の現代美術の70年代は依然モノ派であり、80年代はインスタレーションである。この時期の作品を常設で見ることができる美術館も、皆無に等しい。個々の作品を捉え直す作業は、まだ始まってもいないのだ。この状況で今回、横須賀美術館で作品を見られることは何よりであった。このような展示がこれから増すことを私は期待している。

2011年9月9日金曜日

レビュー|朝弘佳央理「Line」

レビュー|朝弘佳央理「Line」
会期|2011年1月18日(火)~1月23日(日)
会場|247photography Roonee


執筆者|宮田 徹也


Fig.1 朝弘佳央理展示風景 撮影:朝弘佳央理


Fig.2 マスナリジュン展示風景 撮影:朝弘佳央理

この展覧会は本来、朝弘佳央理+マスナリジュン「Line」である。マスナリは5人のポートレートと5人の顔のないからだだけのポートレートを5枚、朝弘は正面のポートレート・横顔のポートレート・風景の3枚セットを3点と、足・手・目・背中の4枚セット2点を展示したが、ここでは特に朝弘の人物を撮影した《無題》について言及したい。


Fig.3 朝弘佳央理《無題》


Fig.4 朝弘佳央理《無題》


Fig.5 朝弘佳央理《無題》

朝弘佳央理(Kaori ASAHIRO)は2004年よりダンサーとしてLa Dance Contrasteeに所属。2007年より中村恩恵に師事。AAPAには、2008年3月の『PAPERGATE』よりダンサーとして参加。以降、AAPAの新作作品(『Migrate』、『COVERS』、『STAND』)に継続的に出演している。ダンス公演以外に演劇やオペラにも出演しており、2008年新国立劇場でおこなわれたオペラ『トゥーランドット』にダンサーとして出演。ソロ活動では、主に画家や彫刻家、音楽家など他分野のアーティストと共演する形でダンスを踊っている。また近年、写真家としても活動を始め、ギャラリーでの展示を行っている。

《無題》の作品群を見て驚愕したのは、ここに朝弘が一切存在しないことである。美術者が詩を書いたり、ダンサーがセルフ・ポートレートを撮ったりすることは多々ある。しかしここまで自らの体を客観視し、一人の人物が同じものを創作したとは思えない例ははじめてだ。朝弘は自己と友人のダンサーを撮影しているのだが、その区別さえもつかない。それは朝弘がファインダーを覗き込んでシャッターを押したのではなく、ファインダーが自動的に朝弘を写したことに等しい。即ち、ここには視線も個人も存在しないのである。

それが機械的な作業によって行なわれるといった、脱近代的要素は一つもない。カメラのファインダーではなく、ある特定の「視線」を見つけ出すことは容易なことである。なぜなら、ここには「視線」だけが存在しているのだ。しかしその「視線」は、何かを見詰めてはいない。何かをとらえようともしていない。「視線」だけが浮遊する。撮影している被写体の外からファインダーを覗いている、つまり、画面の外にピントがあっているような錯覚に見舞われる。

内側と外側は安易に反転することが可能だ。しかし朝弘の作品は、みればみるほど遠ざかり、近づいてくる。それを一元論と言っても過言ではないだろう。不二一元論という思想がある。私しか存在しない。神しか存在しない。この思想が頭によぎったのであるが、遥か彼方へ消えてしまった。

しかしこの作品を見てから再度朝弘のダンスに目を投じると、同じように朝弘はフォルムをなくし、自己をなくし、客体のみが漂う舞台であるということも出来るのかも知れない。重要なことは、朝弘のダンスと作品が分裂していることではなく、それぞれで存在していることなのだ。この考察は、現代におけるダンスと写真の意義を再認識する機運が隠されているのかも知れない。ダンスとは何か、写真とは何か。踊ることとは、撮ることとは。時間と空間が交錯するのは現象なのか、思想なのか。未だ未だ考えなければならない課題が山積みとなっていく。


アマヤドリ(朝弘佳央理ブログ)

2011年8月28日日曜日

レビュー|上條明吉展

展覧会名|上條明吉展
会期|2011年1月12日(水)~29日(土)
会場|ギャルリーヴェルジュ

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ

上條明吉が、七年ぶりの個展を果たした。上條は1934年松本市生まれ、1957年日大芸術学部美術家卒、個展・グループ展開催多数、2004年12月、脳梗塞で倒れ、右側マヒ言語障害。2006年12月、前立腺ガンの為入院し、2007年12月に直腸ガン手術を受けた。一時期は利き手ではない左手で描いていたと、噂で聞いた。

上條の展覧会について、美談で終らせてはならない。その作品の今日的意義を問わなければならないのだ。上條は巨大な画面を七枚描いた。何れの画面も、裸体の人物が犇めき合っている。ある者は墜落し、ある者は浮遊し、ある者は祈り、ある者は蹲り、ある者たちは連なり、またある者達は祝福をあげ、そしてある者たちは土に還り、天空からの迎えがやってくる。


Fig.2 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ


Fig.3 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ


Fig.4 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ


Fig.5 森本利通展 画像提供:ギャルリーヴェルジュ

ここに描かれている人物に、性も年齢も人種もない。唯、剥き出しの生きた人間が受難している。期を待っていると言ってもいいのかも知れない。このような人間像は、これまで西洋の美術史を振り返ればレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画《最後の審判》を、日本の美術史を手繰れば敗戦後間もない1948年の福沢一郎《群像》、果ては1943年の藤田嗣治《アッツ島玉砕》を想い起こす可能性も否定できない。

しかしこれらの作品と上條のそれには、徹底的な違いがある。それは時間概念であろう。福沢と藤田は「その時」を描いた。凍結された世界、正に「記録画」だ。レオナルドは果たしない未来を描いた。上條は、自己が生きた時間を描いている。ここに圧倒的な差異が生まれている。そのため上條の作品は、時代も場所も特定できない。翻って福沢と藤田、上條の単なる人物像を比較すると、何と近似していることか。

これは上條が、自ら生まれた時代から2011年に至るまで、全く変化していないことを描いているのだ。当然、上條が変化していないのではない。上條を取り巻くこの国の時間が止まっていることを示しているのだ。ここにこそ、上條の作品の現代的な意義が象徴されている。上條は現状のみを提示し、自らの希望や夢を塗り込めない。ここに「現象」は存在せず、「事実」のみが展開する。そこに美しさが花開いていくのだ。

そして上條の作品に描かれている人物のもう一つの特徴、期を待つことにも注目すべきだ。「期待」とは「期を待つ」ことである。「希望」とは「希少な事物を望む」ことである。字面のみを追うと「期待」とは他力本願的で、受動的な感覚を受けるが、語源を確かめると実に能動的な思考だ。「他力本願」もまた、自己という狭い世界から抜け出し、他者と触れ合うことで解脱を目指す能動的な発想である。

陰惨な時代を生きる私達は、上條が教えてくれるように、この時代に耐え、乗り越える機運を待つ=生み出す力を育まなければならない。


today[新春企画 上條 明吉 展]
Galerie VERGER

2011年8月5日金曜日

レビュー|森本利通展

展覧会名|森本利通展
会期|2010年11月23日(水)~30日(火)
会場|ギャルリーパリ

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 森本利通 作品部分 撮影:宮田徹也

森本利通は1944年埼玉に生まれ、美術大学を通過せず植村鷹千代、福沢一郎に絵画を学んだ。1973年第7回国際青年美術展、75年シェル美術賞展第二賞、77年第13回現代日本美術展、78年第1回15人の平面展、同年と翌年に村松画廊で個展を開催し、31年の沈黙を破りプロモ・アルテプロジェクトギャラリー(2010年11月18日(木)-23日(火))とギャルリーパリで同内容の個展を開催した。

出展リスト

《心象1》91×200cm/ケント紙にアクリル/2010  
《心象2》91×200cm/ケント紙にアクリル/2009  
《心象3》91×200cm/ケント紙にアクリル/2006  
《心象4》91×200cm/ケント紙にアクリル/2004  



Fig.2 森本利通展展示風景(ギャルリーパリ) 撮影:宮田徹也

一枚を描くのに少なくとも3年はかかるという。いずれの作品も水面に菱形金網状の白い影が映り、その上を円若しくは球体が弧を描いて並んでいる。数は《1》が8個で縁が強く出ているが立体感はない。《2》は7個、縁は弱く透明感が溢れ立体的である。《3》は7個で縁が強くレンズのような印象を与える。《4》は9個で《3》と同様、レンズ的だ。


Fig.3 森本利通展展示風景(ギャルリーパリ) 撮影:宮田徹也


Fig.4 森本利通展展示風景(ギャルリーパリ) 撮影:宮田徹也

重要なのは、その影である。よく見ると各作品の下部に円と同数の影が描かれている。その影は菱形金網状の白い影の上に、しかし水面の下に位置している。この影が球体と対応しながらも角度が付けられて展開している為、球体の「動作」を象徴するのだ。そのため画面が果てしなく横へ横へ広がっていくイメージを与える。これはパノラマ写真のように、果てしない「視線」の先を指し示しているのだ。


Fig.5 森本利通展展示風景(ギャルリーパリ) 撮影:宮田徹也

この四重という重層的な森本の作品は、実物を写真ではなく絵画として存在させるスーパーリアリズムと区別される。このような技法を用いた作家がこれまでいたであろうか。森本を「古い」とみるのであればそれはその人物の視線が綻びているだけなのである。

森本に制作の話を聞いた。暫くアクリル絵具の特性を生かす実験に明け暮れていた。ケント紙にジェッソを大きな刷毛で塗り、そこに出来た水たまりに研究したアクリル絵具を沈殿させて乾かしては重ねていく。森本によると球が静で波が動と作用している。

独自のアクリル絵具をジェッソの海に「沈める」。つまり画面は四重どころか下図の段階で更に深みを増しているのだ。球体と水面に対する森本と私の見解は全く反対であるのだが「動いている」という点では一致しているため、気にしない。何故森本の作品自体を見ることによって動作が生じるのかと言えば、下図の段階から水と光を含んでいるからだ。ここにある複雑な要素に森本は更に図を加えることによって、多元的なイメージを生み出していく。


Fig.6 森本利通展展示風景(ギャルリーパリ) 撮影:宮田徹也

この飽きなき探究こそ、「現代絵画」と呼ぶに相応しいのではないだろうか。これからの森本の作品に期待が高まる。同時に、既に発表された作品であっても水と光を含んでいるのだから、他の場所での展示も楽しみにしたい。これ以前の作品にも興味が集まるだろう。


プロモ・アルテプロジェクトギャラリー
「絵筆に情熱込め、タクシー運転手が30年ぶり個展/横浜」(『カナロコ』)

2011年7月13日水曜日

レビュー|関直美個展「解放へ」  

展覧会名|関直美個展「解放へ」  
会期|2010年11月9日(火)~21日(日)
会場|GALLERY KINGYO

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景

これまでも様々な素材を用いた彫刻を制作している関の展覧会が開かれた。それは関が持つ彫刻の可能性と探求を示している。今回はハンノキとシリコンである。出品リストを掲載する。

出展リスト

1F
no.1 64w×143d×73h cm (凹型)
no.2 70×64×70
no.3 74×64 ×74
no.4 70×70×74
no.5 70×70×74
no.6 72×20×64
no.7 66×20×67 (以上でひとつ)

no.8 35×12×190 (丸太半栽)
no.9  35×12×190 (丸太半栽)
no.10 10×10×190×4本 (丸太半栽の4等分)

no.11 23×20×100

—総ての素材はハンノキ・シリコン、制作年度は2010年

2F
no.12 230×200×200 (ポリエチレン他)

2F小品
no.1 15w×3d×20h cm (レリーフ) 20,000
no.2 13×3×13
no.3 10×3×10
no.4 10×3×10
no.5 10×3×10
no.6 10×10×14 (立体)
no.7 11×10×11
no.8 12×10×9
no.9 10×12×9
no.10 10×9×8
no.11 8×10×9
no.12 7×8×9
no.13 8×7×9
no.14 10×7×10

—no.1はシリコン、no.14はシリコン他、その他は1Fと同じ

大型の作品から小品まで形、大きさは様々だが、ハンノキとシリコンを使用している点で同様だ。木から食み出すシリコンが、異様な雰囲気を醸し出しているにも関わらず、造形の美しさを感じるのは何故だろう。関に制作方法を聞いた。

「今回は、ハンノキを使いました。長野県大町市海の口の知り合いが持つ森に5月6月、通いました。森の中にある山小屋を拠点に、ある程度の大きさに木材をカット(乾燥させるため)、細かいカットやシリコン剤の作業はアトリエで仕事しました。細長く切ったものはアイナンバーをつけて、元通りにシリコンで接着する、といったことを試みました。白いニュルンとしたものは、建築材料のひとつで、シリコン剤です。よくビルのガラスとコンクリートとの境目などに使われています。色は、黒、グレイ、透明、白などが一般的です。木材を縦に、チェーンソーでカット、その間を12ミリの間隔をあけてシリコン剤で接着、飛び出ている丸いニュルンは改めてゲージを作りました。ゲージは12ミリの空間がある5×100センチの細長い箱を作り、離型の養生をしてケーキにホイップクリームを盛りつける要領で注入します。それら出来たものを張り合わせて板状にし、コノ字型にしました。樹木の半栽の2点はそれらの元の考え方を提示しました」。

通常食み出したシリコンは、切り落とされ磨かれる。関の場合はそれが主役となった。ある作品は樹木の間にシリコンが挟まれゼブラと化し、またある作品の樹木ははコの字型に整えられ満遍なく並べられている。それらが人間の手によって加工され、切り刻まれて変形したものになっていないのは、関の持つ自然との対話の威力がそうさせているのであろう。


Fig.2 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景


Fig.3 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景


Fig.4 関直美個展「解放へ」展示風景(GALLERY KINGYO)展示風景

これまでの関の作品にあった皮膚感も、充分に生かされている。今回特に備わったのは、シリコンの動作を固定した点であろう。風にそよぐわけでもないのに、作品に動作が盛り込まれている。それは人の動作が瞬時に凍結したというよりも、固定されることによって作品が動き出す事例を示している。

人体を想起させながらも、関の作品は切断され、再度接着されている。それにも関わらず、残忍なイメージが全く生じない。また、関の彫刻に台座は必要ない。古代から現代まで、彫刻は台座から逃れることが儘為らなかった。では関の彫刻は彫刻ではないのか。

私はここまで「シリコンが食み出している」と書いてきた。しかし、ここではシリコンが媒体としてハンノキを繋いでいるのではなく、シリコンとハンノキはその量の差があったとしても、関にとっては同等の役割を果たしていると解釈すると、作品への眼差しは全く別のものとなる。

クレス・オルデンバーグ(1929-)は、「柔らかい彫刻」を用いて台座の問題と共に彫刻が持つ課題と闘ってきた。関もまた「柔らかい」素材を用いることがあるが、オルデンバーグと全く異なる素質を持つ。関の小作品を手に持つと、不思議と人体や小動物と言った有機的な感触を受ける。そして、形は違えどもまるで仏像のような「御神体」を自らの掌が包んでいる錯覚を覚えるのである。

近代以後、宗教から自律した美術は宗教に立ち返ることを絶対的に拒んでいた一方、芸術至上主義に対する抵抗を他方で行なってきた。関の作品が先祖帰りをしているというわけではない。重要なのは、関の彫刻が彫刻を意識することを留めた時、彫刻が彫刻であるべき姿にとても似ている点なのだ。

今回の関の作品は衝撃的であり、まだ考察は終っていない。私は関の彫刻を、これからも更に洞察していく。

2011年6月18日土曜日

レビュー|「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」/高島芳幸個展

展覧会名|「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」/高島芳幸個展 
会期|2010年9月25日(土)~10月11日(月)/2010年11月1日(月)~13日(土)
会場|ギャラリー四門/ギャラリー現

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」(ギャラリー四門)展示風景
画像提供:高島芳幸


Fig.2 高島芳幸個展(ギャラリー現)展示風景

高島芳幸が横浜と東京で、連続して展覧会を行った。共に正方形のキャンバスが木枠によって留められ、周辺に僅かな着色をも施している作品、A4サイズの紙を縦にして上部を正方形になるように折りその正方形をキャンバスに見立ててペンによる僅かなドローイングを施し下部には詩篇のような言葉を埋め込み縦の状態のまま複数を整然と並べて展示する作品、額に入ったペンによるドローイングの作品という三種類を両展に出品してはいるのだが、個々が全く異なる作品であり、そのため空間も別のものとなっていた。

ここでは特にA4サイズのドローイングについて言及する。高島はこの作品をA4クリアファイルに入れて保管している。四門のファイルに記されている事項を引用する。


Fig.3 「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」(ギャラリー四門)展示風景
画像提供:高島芳幸

「用意されている絵画―記録/The appointed Picture-record(Fu.2010.7.5. 9:03-2010.7.7. 18:24)/高島芳幸/データー/記録日…2010年7月5日9:03-2010年7月7日18:24/素材…紙・インク/この作品は1枚の紙面に対し、そこから生まれる感覚と意識と時間と共に、線と言葉で記録したものです。」Ⅰは7月5日9:03-9:29までの8枚、Ⅱは同日17:52-18:30までの6枚、Ⅲは同月6日16:50-17:27までの7枚、Ⅳは7日18:24-18:35までの4枚、計25枚である。

現のファイルに記されている事項を引用する。


Fig.4 高島芳幸個展(ギャラリー現)展示風景

「用意されている絵画―記録/The appointed Picture-record(Fu.2010.10.19. 17:34-2010.10.20. 18:24)/高島芳幸/データー/記録日…2010年10月19日17:34-2010年10月20日18:35/素材…紙・インク・鉛筆/この作品は1枚の紙面に対し、そこから生まれる感覚と意識と時間と共に、線と言葉で記録したものです。」区分はなく、35枚である。

何れの作品を見てもシュルレアリスムにある自動書記、河原温のようなコンセプチュアルな要素は見当たらない。一枚一枚が、そこにあって通り過ぎていく。つまり高島の作品は「用意されている」絵画ではあるのだが、描かれていても見られることを想定していないのである。

見られることを想定しないとは何か。まずディスクリプションが成立しない。何がどうあるからこうだという作品の記述と解釈を拒否しているのだ。次に高島の作品は概念的要素が強いので、これまでも多くの語り手が観念を用いて対抗してきた。しかし高島の作品は概念を中心に添えて理論を展開していくタイプではない。そして素材だけを提示する所謂「もの派」ではない。もの派は決して「インスタレーション」ではないのだ。それ以前の「エンバイラメント=環境芸術」の影を引き摺っている。引き摺っているからこそ、それが当時新しかったのだ。高島の絵画はもっと、透明感もなく押し寄せては引いていく。時間が誰にでも同じように進んでいくように。


Fig.5 「用意されている絵画 -イメージすること/イメージされること-」(ギャラリー四門)展示風景
画像提供:高島芳幸


Fig.6 高島芳幸個展(ギャラリー現)展示風景

そのため高島の作品は触る絵画なのだ。指先でも、視線でもいい。紙であれ、キャンバスであれ、立体であれ、見るものは自らの触覚を確認するのだ。素材を確認するのではなく自らの触覚を再認識するのだから、時間と気分を感じる。描かないものであっても、まっさらな紙やキャンバスを見詰めたり撫でたりすれば、きっと何かを描きたい、自己で果たせなくとも誰かに果たして貰いたい、そのような感覚に襲われるのではないだろうか。

その想いを、高島は誰に頼まれたのではなく自らに課すのでもなく、淡々と果たし続けているのではないだろうか。二つの展覧会の間をさ迷い、私はそのようなことを夢想した。


ギャラリー四門
ギャラリー現

2011年5月23日月曜日

レビュー|赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」

展覧会名|赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」
会期|2010年10月22日(金)~11月7日(日)
会場|横浜市民ギャラリーあざみ野

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景

この展覧会は、毎日新聞に4年間連載された《散歩の言い訳》が一冊の本『散歩の収獲』(日本カメラ社、2010年)として出版されたことを記念して行われ、54点の写真とインタビュー映像が展示された。同時開催の「横浜市所蔵カメラ・写真コレクション展」にも赤瀬川は積極的に関わり、ステレオ裸眼視の実践教室なども行った。


Fig.2 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景

横浜市民ギャラリーあざみ野のHPに赤瀬川の言葉があるので引く。「散歩とカメラ/カメラは散歩の導火線だ。何か撮りたい、何か見つかるかもしれない、という小さな火に導かれて町を歩く。ウォーキングは脚の筋肉だけの話になるが、カメラがあると目が加わり、感受性がスイッチされる。/赤瀬川原平」

広い会場にゆとりを持って写真が展示されている。吹き抜けの部分には「この世は偶然に満ちている。だから人間は人工管理の街を造った。でも街はいずれ老朽化し、その隙間から、追い出された偶然がまた顔をのぞかせる。カメラにはそれが美味しい。」と大きく記されている。


Fig.3 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景


Fig.4 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景


Fig.5 赤瀬川原平写真展「散歩の収獲」展示風景

赤瀬川の言葉にもあるようにその写真の特徴は、日常目にしながらも何処か奇妙な異空間の瞬間をとらえ、タイトルがその諧謔性を強調するものだ。老朽化といっても古美術のような懐古主義ではなく、かといって廃墟のような朽ち果てた段階でもなく、飽くまでも日常の「隙間」を見逃さず撮影しているのである。

私は赤瀬川の画業について、納得していない面が多かった。60年代の読売アンデパンダン展に出品した《ヴァギナのシーツ》など人体を変形させた作品から千円札模造に至り、裁判に負け、『桜画報』を通じて『超芸術トマソン』、『路上観察』に至りつく。あそこまで克明な描写作品を他者の手によって剥奪された後、何故戦わないのか。私にとって「無用の代物」である『超芸術トマソン』は、国宝の仏像にしか見えなかった。加えてペンネーム「尾辻克彦」としての芥川賞受賞は、日展の入賞にしか感じられなかったのだ。岡本太郎や秋山祐徳太子のような前衛と社会を繋ぐ役割を果たすのではなく、自らの追求に熱を注いでいるようにしか見えなかったのである。

しかし今回の展示で赤瀬川の作品を目の前にして、その発想は覆った。赤瀬川の写真はカメラを持つと全体を見渡すが、しかし同時にモチーフはフレームから食み出していくのである。この現象はペンを持つと細部に目がいく千円札模造の作品と寸分も異なるところがないのだ。つまり赤瀬川にとって重要なのは立体なり絵画なり写真なりという種別なのではなく、自らが「見る」というモチーフなのである。そのため赤瀬川は「何かを撮りたい」と思い続けるのだ。

このように発想すると、赤瀬川の作品は「見ること=見詰めること」で一貫している。小説も「見た」ことを詳細に描いていると解釈することができる。赤瀬川は外部と戦うことよりも自らの視覚と対決することに熱を注いでいる。

このような赤瀬川の作品がその発生当初から現在に至るまでどのような変遷を辿っているのか、それが時代に左右されていないことを立証し、探ることが、私のこれからの課題となった。

2011年5月4日水曜日

レビュー|「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」

展覧会名|「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」
会期|2010年9/30(木)~10/19(火)
会場|横浜市民ギャラリー

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」展示風景(赤羽史亮)


Fig.2 「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」展示風景(石山朔)

この展覧会は現代にある様々に展開する美術様式の中から絵画に注目し、「なぜ作家は描き、見るものは絵画を楽しむのか。執拗なまでに描き、特異な作品を生み出してきた対照的な二人の作家をとりあげ、その答えに迫」る(チラシ)ことを主眼とする。アーティストは1984年生まれの赤羽史亮と、1921年生まれの石山朔である。赤羽は16点、石山は13点出品した。赤羽は10号から200号の作品であったが石山が主に300号ということもあり、小さくさえ見える。

第一室は二人の作品が交互に展示され、次の部屋は石山、二階は赤羽であった。内へ内へと焦点に向かって巻き込んでいくような赤羽と、たった一つの動機から宇宙にまで広がっていく石山といった作品はまさに対照的である。年齢も対照的ではあるのだが、年齢というよりも背負う時代のスタンスの相違をここでは感じられた。石山は60年代から活動を始めていたとしても20年あまり沈黙し、2000年を越えた近年、作品の発表を続けているので、二人は「現代の作家」であるということができる。


Fig.3 自作前で語る赤羽史亮


Fig.4 自作前で歌う石山朔

赤羽の盛り上げる絵具にアンフォルメルを想い起こす。しかし描かれている主題と目的にそれを符合しない。ジャン・デビュッフェのようなアール・ブリュットから派生するアウトサイダー・アート的な着想ではなく、ここに出現するキャラクターが持つユーモアには風刺ほどの痛烈な当たりは存在しないが、闇の中で蠢く恐怖を振り払う闇独特の楽しさに満ち溢れている。それでも気になるのは筆跡である。その速度、強弱という問題に関わらず印象的な線は、やはり50年代の美術を想起させるのである。それを辿るのが赤羽の手なのだ。


Fig.5 「ニューアート展2010 描く―手と眼の快」展示風景(石山朔)

翻って石山の明るい色彩は岡本太郎を想い起こしたとしても、70年代ではなく現代の街の光景を呼び起こしてくる。そして巨大な画面に対してのジェスト的な筆致よりも、その構成力に眼を奪われる。石山の巨大な画面を写真にして限りなく縮小したとしても、そこに宿っている生命の迫力に変化は見られないだろう。それは、これ以上にどこまででも巨大な画面になったとしても同様の観点が存在することに等しい。それでも、実際のサイズが最も相応しい。即ち、石山の絵画は既に描かれている絵画を眼で探っている感覚がするのだ。

この感覚を互いに入れ替えても成立する。赤羽の手=線を眼で辿る、石山の眼=構成を手で追想する。何れにしても私たち人間から生まれる感覚なのだ。これは飽くまでも感覚の問題で、三次元を二次元とする絵画が持つ創造の力と対等なことを示している。そして、絵画の魅力とは未だ計り知れない力を持っていることを、この展覧会は教えてくれたのであった。

ニューアート展2010 描く - 手と眼の快
island: Artists/ 赤羽史亮 Fumiaki Akahane
ABSTRACT★SAKU 石山朔(イシヤマ サク)ホームページ

2011年4月30日土曜日

レビュー|浜田知明の世界展

展覧会名|浜田知明の世界展  
会期|2010年7月10日(土)~9月5日(日)
会場|神奈川県立近代美術館 葉山

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山

この展覧会の開催趣旨は「版画173点、彫刻73点、油彩画4点のほか、デッサンやスケッチ、資料など約80点、総計約330点による浜田知明の世界を展観するもの」であるとチラシに記されている。同展カタログ「あいさつ」によると、この展覧会は浜田知明氏から2008年度に受けた128点版画寄贈に対する記念の意味も込められているという。

同「あいさつ」から、更に引用する。「版画家、彫刻家として、92歳になる今もなお活躍する浜田知明の展覧会を開催します。浜田知明は、1917(大正6)年、熊本県上益城郡高木村(現・御船町高木)で生まれ、青春時代に戦争を体験した世代です。中国に出征した浜田は、軍隊体験をもとに戦後制作した〈初年兵哀歌〉シリーズ(1950-54)によって高い評価を受けました。そのシリーズに終止符を打ったのちも50年以上、戦争をテーマにした作品を描き続ける一方で、多岐にわたるテーマの版画も多く描き出してきました。また、彫刻家としての制作も、すでに20年以上になります。この5年間に制作された未発表の彫刻の新作もまた、今回の展覧会で紹介します。(後略)」

カタログによると浜田が初めて版画を制作したのは1938年、彫刻は1983年ということになる。広大な葉山の展示空間に、隈なく版画と彫刻が広がっていく様は圧巻だ。一点一点丁寧に見ても飽きることがない。版画と彫刻はほぼ対価に展示され、優越をつけない点も素晴らしい。


Fig.2 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山


Fig.3 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山


Fig.4 「浜田知明の世界」展展示風景 画像提供:神奈川県立近代美術館 葉山

版画、彫刻共に大胆でありながらもその形は恐ろしいまでの繊細な手業が支えている。全体を見て細部を凝視すればこの事実に驚嘆するのであるが、細部から全体に眼を移すと浜田が生み出す形というものに最早抽象も具象も関係がないまでに感じてくる。ものの形を空中から掴み、作品とするのは浜田の手業の技術だけが裏打ちしているのではない。その視線が作品を生み出しているのだ。

特に新作の彫刻は、見えるように見えることを追求している。《霊界を覗く人》は小さな窓が空いた壁際を間にして髑髏と人物が向き合うようにいる。人物のほうから窓を覗き見ると髑髏は見えないのだが、髑髏のほうから覗くと人物の顔が丸見えなのである。しかし浜田は彫刻の特性を生かしたり、版画を立体化させたりしているのではない。浜田の「一貫」した作品群がそれを示している。

何故浜田はこれほどまでに「一貫」しているのか。カタログ中、山梨俊夫は浜田の言葉を引用している。「近代絵画は主題を捨てた。だが主題があるから、芸術の価値が減少することは断じてない。人間は社会的な存在だ。だから、私は社会生活の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対話したいと思う。」

浜田に何故版画と彫刻を選択したのかと問う意義は全くない。「版画」や「彫刻」とは創られた概念であり、浜田の言う「造形」とは全く関係ないのだ。そのように考えると、「作品」や「美術」も「造形」とは関わりがなくなってくる。それほどまでに、浜田の「造形」を一般概念である「美術」に押し込めることが不可能なのだ。

浜田の作品を通覧すると、浜田の主張はやはり「社会の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対話」することなのではないかと思う。ここには時代を生きる「人間」が必要なのだ。「美術」家である意味を持たないのである。確かに浜田が描き始めた時期から時代は流れた。しかし「人間」に変化はない。浜田は戦争体験、批判をリアリズムとして直接的に、風刺として間接的に様々な手法を用いて描いてきた。それは「主張」ではなく「対話」を求めているのである。そのため浜田の造形に向き合うとすれば、浜田の語り掛けに対して見る者が応える、即ちそこに対話がなければならないのだ。

翻って「美術」の動向に眼を向ければ、時代と先進国の潮流に乗り遅れないように作品を制作する者、発表の機会を与え援助する者に満ち溢れている。そこに金銭が関わるかはここでは問題ではない。世界的に評価されれば発表の場が与えられ、過去の主張=対話は時代と共に忘れられる。この根底にある「社会」に変化があったのだろうか。現在でも数多くの平和展は開催され、美術館や画廊も展示することによって20世紀の悲惨な状況に戻らないことを助長する。私はそのような行動に対して非難するつもりは全くない。しかし「美術」に留まる限り、外部からの圧力が加えられると展覧会は中止され、「美術」という枠を剥奪されると非常事態に対して無力と化すのだ。それは帝国主義の「美術」という範疇から逃れられないことを示しているというよりも、この概念から解放される術を見出していないと言い換えることができる。

近代絵画に捨てられた主題の価値。この問題とも向き合って、我々は再び浜田の造形と―それ以上に「美術」そのものと―対話することが何かを問わなければならないだろう。

2011年4月23日土曜日

レビュー|ガロン 第1回展

展覧会名|ガロン 第1回展
会期|2010年6月11日(金)~13日(日)、18日(金)~20日(日)
会場|瑞聖寺ZAPギャラリー

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 金子朋樹《Axis/世界軸-万象は何を支軸に自転し、そして公転するのか-》 撮影:島村美紀

ガロン成立について、メンバーの小金沢智「「ガロン 第1回展」を終えて」(『ガロン 第1回展』リーフレット(ガロン実行委員会発行、2010.8)から引用する。

「ガロンというグループを構成する7人のうち、作家でないのは私だけだ。そのため、私がキュレーターだと思われることもしばしばだが、私はキュレーターではない。グループの発起人は金子朋樹であり、金子と松永龍太郎の二人が中心になって、他の4名の作家―市川裕司、大浦雅臣、佐藤裕一郎、西川芳孝―が選出されたからだ。私はすべての作家が集まった段階で金子から声をかけられ、アドバイザーのような形でこのグループに加わった。2008年秋のことだ。その段階でグループ名や展覧会の会期・会場は決まっておらず、私がガロンという名称はどうかと提案したのは同じ年の暮れだった。」

メンバーは20代後半から30代前半までの若い層である。金子と松永は活発に活動しており、その磁場に他の5人が引き寄せられた形となる。小金沢を除いた6人は日本画出身だが、ガロン展の何処にも「日本画」という語彙は存在しない。この点について小金沢が前出の文献で記しているので引用する。

「ただ、この時の私は、グループ展といえども最終的な評価は個々の作品に帰結する以外ありえないと考えていたから、それぞれが希望する場所で最高のパフォーマンスができればそれでよいと考えていた。その根底には日本美術史上の「日本画」を巡る諸問題が関係していて、私はもはや「日本画」という言葉を軸にした上で展開される、「日本画」の滅亡や、新しい「日本画」といった、実は内輪内の動向の堂々巡りに辟易していた。そこに横たわっているのは、歴史は進歩すべきであるという発展史観にほかならず、それは私には、日本画出身者にかけられた〈呪い〉のようにも思えた。したがって、日本画のグループとしてのコンセプトを打ち出さないということは、そのような輪の中に私たちは入らないということの、したたかな意思表明でもあった。」

「日本画の呪い」を断ち切ることができたか。出品作品を以下に記す。

出展リスト
1階
金子朋樹《Axis/世界軸-万象は何を支軸に自転し、そして公転するのか-》ラウンドパネル/富山五箇山悠久紙・八女肌裏紙・新聞紙/正麩糊・三千本膠・天然蜜蝋/墨・染料・箔、258×515cm、2010
佐藤裕一郎《ice fog 108》和紙/岩絵具・顔料、262×455cm、2010
大浦雅臣《創世機》225×300cm、紙/樹脂膠/岩絵具・箔・泥・墨、2010

2階
松永龍太郎《Vector X》二曲一隻屏風/和紙/岩絵具・水干・墨・アクリル・箔・金泥・膠、172×186cm、2010
市川裕司《genetic trans 10-2》ポリカーボネート/方解末・ジェッソ・樹脂膠・アルミ箔・典具帖紙・墨、2010
市川裕司《eschaton 10-5,106》ポリカーボネート/樹脂膠/アルミ箔、130×10,000cm、2010
西川芳孝《天川図》新鳥の子紙/墨・墨汁、329×485cm、2010

それぞれの作品が異化することもなく調和することもなく、確実に佇んでいた。上記の理由で「日本画」を避けた展示ではあるのだが、皮肉にもこれほど明確に「現代の日本画」を示した展覧会はこれまでどのようなコンペティションでも美術館でも在りえなかった。


Fig.2 佐藤裕一郎《ice fog 108》 撮影:島村美紀


Fig.3 大浦雅臣《創世機》 撮影:島村美紀

思えば1990年代に端を発した「日本画」論争には、言葉の定義、素材の問題よりも抽象画の介入が根底にあったと私は思えてならない。日本画の定義を巡って山種美術館が主催する山種美術賞が97年に終焉し、「現場」研究会が主催した日本画シンポジウム(2003年3月/神奈川県民ホール大会議室)によって一応の収まりがついた感があった。2003年の第一回日経日本画大賞展の大賞作品である浅野均《雲涌深処》は具象と言えど繰り返すモチーフは抽象性に溢れ、第二回(04年)の大賞菅原健彦《雲水峡》も同様、第三回(06年)の奥村美佳《かなたⅦ》では一気に具象作品となり、第四回(08年)の岡村桂三郎《獅子08-1》でも具象性が強調されている。

ガロン第1回展に並んだ作品には共通点がある。それは具象性でも抽象性でもなく、「オールオーヴァー」である。「オールオーヴァー」の意味を端的に示すと以下のようになる。「「全面を覆う」という意味の言葉。転じて、絵画空間の中に一定の中心を持たせないで、全体性や単一性、均質性を保ちながら、絵画からイリュージョンを廃して、平面性を重視する構造の作品を指すようになった」(参照:weblio 美術用語辞典)。


Fig.4 市川裕司《genetic trans 10-2》、《eschaton 10-5,106》 撮影:島村美紀


Fig.5 松永龍太郎《Vector X》 撮影:島村美紀


Fig.6 西川芳孝《天川図》 撮影:島村美紀

このように引用すると、私の考察が一歩進められる。何故かというと、ガロン1回展出品作品の共通項は、「全体を覆」いながら、その画面の皮膜の中に「イリュージョン」を持たせているからだ。それは作者の意図と反しているのかもしれないが、私にはそう見えた。「イリュージョン」をもたせているのであれば、「オールオーヴァー」とは言えなくなる。その新しさが、ここに揃った6人の共通項だと私は思っている。

重要なのは、画面の皮膜の奥にあるイリュージョンである。それが一体何を示しているのかが、全く見えてこない。もしかしたら皮膜を突き破ったその先には、何もないのかも知れない。それが新しさであるのか曖昧であるのかは、今後のガロンの活動にかかっている。

2011年4月21日木曜日

レビュー|Dance Perfomance "MAREBITO"

展覧会名|Dance Perfomance "MAREBITO"
会期|2010年5月29日(土)・30日(日)
会場|Living Gallery&Space MAREBITO

執筆者|宮田 徹也


Fig.1 MAEWBITO Duo 撮影:平河綾

当日に配布されたパンフレットによるとこの公演はダンサーが企画したように見えるが、ここでは一つの写真展と解釈する。先ずはパンフレットに記されている四人のプロフィールを引く。

プロフィール
原裕子(Yuko Hara)
18才モダンダンスに出会う。結成当初よりRoussewaltzに参加。内田香、中村恩恵をはじめ国内外多数の公演に出演。2008年初ソロパフォーマンス「frozen time」を発表。以後、独自の感性で作品に切り込み、エネルギッシュかつ存在感のある踊りで空間を満たす。今回、DanceSangaで出会った二人の世界が…Costume、Photoとともマレビトの空間に広がってゆく。

江角由加 (Yuka Esumi)
6才からクラシックバレエを始める。日本大学芸術学部演劇学科卒業後、同期により結成されたShoppin'gocartメンバーとして活動。07年より中村恩恵に師事、DanceSanga研修生。その一方、笠井叡・笠井瑞丈・上村なおか作品や、宮下恵美子仮想ダンスカンパニー・アトリエムメンバー、ホナガヨウコ企画メンバー 等として、様々な振付家作品にダンサーとして参加。6月には、アコーディオン奏者のcoba×「カンパニーデラシネラ」の小野寺修二、コラボレーション公演に出演。型にはまらない独自の表現方法を大切にしながら、ソロ作品や即興にも意欲的に取り組んでいる。

平沢みゆき (Miyuki Hirasawa)
長野県生まれ 【SOCIAL ACTIVITY】2008年8月 日暮里 HIGURE17-15cas。ソラキカク企画「サイボウダンス」衣装担当。2008年10月 女子美術大学女子美祭ソラキカク企画「サイボウダンス」衣装担当。

平河綾(Aya Hirakawa)
趣味で気ままに写真を撮る。『カメラピープルみんなのまち』2枚入選。『女子カメラ』Vol.12,14写真掲載。『カメラつれてこ』Vol.2,3冊子に写真掲載。CP+2010カメラつれてこ写真展 2枚写真採用。他。
http://fotologue.jp/#colors-in-my-heart

ダンス、衣装、写真が関わっている。会場は古びたマンションの一角であり、鍵、瓶、小物入れといった古道具が並び、自然光を取り入れながらも温かい光のライトがオブジェを照らしている。これは会場の「MAREBITO」が販売しているものである。ルー・リードの落ち着いた曲が流れる。江角が無表情で無音の中、立ち尽くす。グレン・グールドの《ゴールドベルク組曲》が流れ、原は壁に凭れて座り、ゆっくりと立ち、椅子に座る。再び立ち上がり、滅びるように頭を抱え、ふと振り向いて壁に貼られたDMの一枚を剥がし、手に持ち、会場を後にする。フラッシュとシャッター音が三回焚かれては響き渡り、カメラによる場面の変更が演出される。原は背を向け、右手のみを伸ばして肩を震わせ、爪先で歩み椅子に座る。指先を頬や他方の手に這わせ、緩急をつけた手足の動きを織り交ぜつつ、膝を抱えて沈黙する。床で大きく展開し、蝉の声が断片的に聞こえたかと思うと退場する。二人が舞台に上がると、柔らかい電子音が響き渡る。椅子に座る、思わず立ち止まるなど個々の物語を静謐に身体で語り、モチーフである手の動きが一度だけ同調したかと思うと離別していく。原が僅かに震えると公演は終了する。各15分、Duo5分程であった。


Fig.2 MAEWBITO 江角由加 撮影:平河綾


Fig.3 MAREBITO 原裕子 撮影:平河綾

光、音、雰囲気が回顧、追憶といった記憶を擽る。二人の透徹した皮膚感は平沢による柔らかい衣装が生み出した。最も印象的であったのは、平河が写したDMのイメージから二人が零れ落ちたことである。椅子に座る二人、壁際に佇む二人の姿を納めた写真の雰囲気が、そのままパフォーマンスとして実現したように錯覚する。それは「我が国の古代には、人間の来客の来ることを知らず、唯、神としてのまれびとの来る事のみを知っていた」(折口信夫「国文学の発生(第三稿)」1929年)ことと同様に、DMが総てを予知していたのであった。


Fig.4 Dance Perfomance "MAREBITO" DM(表)


Fig.5 Dance Perfomance "MAREBITO" DM(裏)

このようなDMの機能は、ダンスでは稀有な事例である。【MAREBITO】に再会したい思いと同時に、平河の写真展にも期待が高まる。