2010年10月6日水曜日

レビュー|三瀬夏之介「肘折幻想」

展覧会名|三瀬夏之介「肘折幻想」
会期|2010年10月2日(土)〜10月23日(土)
会場|イムラアートギャラリー京都

執筆者|樋口 ヒロユキ

★「やっと会えたね」
今回、会場となったイムラアートギャラリー(京都)で、私の姿を認めた三瀬夏之介さんは、私にこう言ったものでした。「やっとお会いできましたね」、と。
ミポリンと初めて出会った辻仁成さんの言葉を彷彿とさせますが、これにはちょっとしたわけがあります。私は三瀬さんのことを2年以上も前から気になっていながら、実際にお会いしたことはなく、ネット経由のおつきあいを続けていたからです。
私が三瀬さんの作品を初めて見たのは、2008年のことでした。このgallery neutron(京都)で開催された展覧会「三瀬夏之介展『ぼくの神さま』」で展示された作品というのが、とにかく無茶苦茶に面白かった。それは幅10メートルほどはあろうかという、巨大な「洛中洛外図」だったのです。
いわゆる近代的な遠近法を無視して、どうやら奈良や滋賀までを一望のもとに収めたと思しき洛中洛外図。しかも過去と現代とが入り乱れ、仏像も顔を出せば電車も走るという混沌とした大画面は、なんど見ても視覚的な迷宮に迷い込むようで、いつまで経っても全体像がつかめない。まったく不思議な作品でした。
私はずいぶん長いこと、そう、小1時間ほどは作品の前で、じっとしていたのではないかと思います。いくら面白い作品であっても、1時間も同じ作品を見ている人はそういません。おそらくギャラリーの方は私のことを、不審者のように思われたでしょう (笑)。
その後、三瀬さんは東北芸術工科大に職を得て山形へ。それ以降「東北画は可能か?」という問いかけを掲げての三瀬さんのご活躍は、多くの方が知るところでしょう。逆に、関西以外の場所へほとんど出向くことのない私は、三瀬さんと結局お会いする機会のないまま、今日に至ってしまったのです。
のちにneutronに出没した「不審者情報」は、どうやらギャラリー経由でご本人にも伝わったらしく、今年に入ってツイッターで三瀬さんが私をフォローしてくださるという出来事がありました。三瀬さんが山形へ行かれて以降、その活動を遠目に見て共感しつつも、もはや半ばご縁はないものと諦めていた私にとって、これは大変嬉しい出来事でした。そして今回、イムラアートギャラリーでの展覧会「肘折幻想」で、ついにお目にかかることができたわけです。


Fig.1 イムラアートギャラリー京都でのトークを終えて、《肘折幻想》を前に、三瀬夏之介(左)、小吹隆文(右)

★温泉地、肘折での滞在制作
今回展示された《肘折幻想》(2009)は、なんと十曲一隻からなる大作の屏風絵で、果てしなく巨大な山塊が描かれています。画面に向かって左側には、煙を吐き上げている火口らしきものが描かれている。どうやらこの絵全体が、巨大な外輪山のようなのです。
十曲一隻の屏風に描かれた外輪山の中にいると、自分自身が外輪山の山塊に囲まれ、圧倒されるような気分になります。しかも画面の隅々には、小さな村の家々のほか、磨崖仏や産業遺跡、さらには大小無数の花火が、小さく点々と描き込まれています。まあとにかく、ものすごいド迫力の作品です。
三瀬さんが語るところによると、これは山形にある「肘折(ひじおり)」という温泉地の風景なのだそうです。肘折は山形市内からクルマで1時間、2万年前の火山の大爆発でできた温泉で、外輪山と内輪山、二重の山脈に囲まれている。その温泉ができあがるもととなった火山の大爆発を、巨大な屏風絵に仕立てたのがこの作品。無数に描き込まれた花火の群れは、この天地開闢にも似た大爆発を、祝福するものなのだそうです。
現在あちこちに見られる観光化されたオシャレな温泉地とは違い、肘折は周辺の農家の方が長期滞在して体を癒す、伝統的な湯治場です。このため農家の高齢化とともに、湯治客は年々減少している。地元ではこうした状況に対して『肘折版現代湯治』という取り組みを続けており、そこから生まれたのがこの巨大な作品だったのです。
この『肘折版現代湯治』とは、アーティスト・イン・レジデンスと湯治を組み合せ、地域の活性化をめざそうというもの。2009年度には6人のアーティストが肘折に招待され、この地方特有の温泉文化に触発された作品を制作したといいます。もちろん《肘折幻想》もその一つで、制作にあたって三瀬さんは、かなりの時間を肘折で過ごされたようです。


Fig.2 《肘折幻想》(2009) 「肘折版現代湯治2009」展示風景 撮影:瀬野広美

★東北画は可能か?
このように近年の三瀬さんの作品の多くは、山形という具体的な土地や人との出会いから生まれています。いっぽうで三瀬さんは東北芸術工科大の学生たちとともに、土地の古老から聞き取りした話を灯籠絵に描くプロジェクトも進めるなど、多数の個人制作や共同制作のプロジェクトを通じて「東北画は可能か?」という問いかけを行っています。
三瀬さんは大学時代に日本画を専攻された人で、いまもいわゆる「日本画」の材料、技法を使って制作を続けていますが、こうした「日本画」というジャンルはもともと、明治以降に生み出されたものです。それ以前には狩野派があり円山派があり四条派があり、南画があり大和絵があり大津絵があり、さらには浮世絵がありといった具合で、「日本画」というジャンルは存在しなかったのです。
油絵の具を使った「洋画」が日本に流入し、それが絵画におけるデファクトス・タンダードを形成していく中で、対抗的に組織されたのが「日本画」です。そこからは明治以前の「日本絵画」にあったはずの、多様で豊かな対立や差異が、いっさい消去されています。「日本画」はいっけん日本独自のネイティブな美術のあり方のように見えながら、実は明治以降の近代化、西欧化、中央集権化の産物なのだといえます。
けれども三瀬さんはこうした「日本画」に対抗して、「東北画を立ち上げよう!」というアジテーションを行っているわけではありません。もし「東北画」が可能であるとしても、それがアンチ中央の政治的な対抗軸になるなら、そこでは東北というきわめて広いエリアに存在するはずの多様性や差異が、再び消去されてしまうでしょう。それでは単に「日本画」の縮小再生産にしかなりません。いま彼がやろうとしているのは、あくまで「東北画は可能か?」という、疑問形で終わる問いかけなのです。


Fig.3 「東北画は可能か?」(アートスペース羅針盤)展示風景

★ふたたび《肘折幻想》について
今回展示された《肘折幻想》は、火山の大爆発というカタストロフィックな光景を描いたものです。描きようによっては流れ出す溶岩や、炎上する家々や、逃げ惑う人々を描いた悲惨なものになったかもしれません。けれども三瀬さんはそうした絵にはしなかった。肘折の人々が完成したこの絵を見たとき、悲惨な絵だったらどう思うか。その逡巡やとまどいが、破滅的な表現を押しとどめたのです。
人によっては三瀬さんのこの決断を「地元の感情に配慮し過ぎの日和見だ」と、批判するかもしれません。でも、最終的に悲惨な絵にするか、それとも無数の花火のあがる祝祭的光景にするかは、二次的な問題に過ぎません。重要なのは彼が肘折のおじいちゃんやおばあちゃん、温泉に野菜を売りにくる朝市の人々、地元で肘折温泉再興に賭ける人々といった、個別具体的な人々との出会いを結実させる形で、この作品を描いたという事実です。
彼自身の制作を中心としながら、学生や地元の人々も巻き込んだ形で、「東北画は可能か?」というプロジェクトは続いています。そこで模索されているのは「東北」という広大なエリアの、抽象的、理念的な表現ではありません。全く逆に、無数の個別具体的な人々との出会いを丁寧に結実させていく、地道でミクロな試みなのです。
こうしたミクロな出会いを重ねた果てに、果たして東北画は可能なのでしょうか。その答えは誰にもわかりませんし、むしろ三瀬さんはそうした未決状態の問いかけのなかに、あえて踏みとどまり続けようとしています。この未決状態の問いにこそ、このプロジェクトのもっとも豊かで大きな可能性があります。三瀬夏之介さんの大作《肘折幻想》は、そうした煮えたぎるかのような可能性を孕みながら、私たちの前に立ちはだかっているのです。

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