2010年10月7日木曜日

レビュー|「奥村雄樹 くうそうかいぼうがく・落語編」

展覧会名|「奥村雄樹 くうそうかいぼうがく・落語編」
会期|2010年8月22日(日)-9月19日(日)
会場|Misako & Rosen

執筆者|小金沢 智


Fig.1 「くうそうかいぼうがく 善兵衛の目玉 」 Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

ギャラリーに入ると、入った客から見ると下りの階段がある。その正面に緑色の座布団が敷かれた高座が設えてある。さらに右奥には同じく緑色の暖簾が見える。ただ暖簾に近づいてみても、隣接する台座に額装された写真が一点平置きにされているのと、近い壁にドローイングが貼られている以外には、暖簾をくぐってさらに奥まで進むなどができるわけではない。誰も座っていない空の高座と同様、その暖簾も不在の象徴としてあるように見える。
一方、壁面には映像が流れている[fig.1]。投影箇所はというと、客が高座に向かい合った場合の左側面である。流れているのは落語家・笑福亭里光による落語で、オープニングの8月22日にまさしくその場で行なわれたものだ[fig.2][fig.3]。映像中に流れていた里光氏の言うことには、話は奥村雄樹からのオファーを受けて作ったもので、奥村が「子供のころ「まんが日本昔ばなし」で見て衝撃を受け」(註1)たという「善兵衛ばなし」をベースにした創作である。


Fig.2 創作落語「善兵衛の目玉」 落語家 笑福亭里光、着想:奥村雄樹
オープニングレセプション公開録画の様子


Fig.3 創作落語「善兵衛の目玉」 落語家 笑福亭里光、着想:奥村雄樹
オープニングレセプション公開録画の様子

内容をかいつまんで説明しよう。善兵衛なる男が歩いていると人垣に出くわすのだが、人が多すぎ何が行われているのかまるで見えない。そこで善兵衛は、自ら両の目玉をくりぬき、自身の傘を高く掲げ、広げた傘の部分に目玉を置くことで、その様子を見下ろそうとするのである。不思議なことに善兵衛はそれで牛が戦っている場面を実見することができ、満足するのだが、そうこうしているうちにカラスが目玉を咥えて飛んで行ってしまうという不運に見舞われる。結局カラスが落とした自分の目玉を手にした善兵衛はその後、「目玉を眼窩から取り外してもその目玉が変わらず機能する」という特技(?)を活かし、今でいう胃カメラよろしく糸をつけた自分の目玉を患者の体内に入れて患部を見る医者となるのだが…。
映像には、落語家が身振り手振りを交えてこの話を語る姿が収められている。登場人物は善兵衛だけではなく、その妻や患者と善兵衛との掛け合いを里光氏は一人で演じている。その様子はパフォーマンスとして実に面白く、引き込まれる、笑わせられた。もっとも、この映像がただ落語の面白さを伝えることが目的ではないことは、度々映し出される客席や、里光氏のからだや高座の一部のクローズアップなどからも窺い知れる。第一この作品が映像による落語の忠実な再現であるのなら、設えている高座に当の映像が重なるよう、階段向かいの壁にそれこそ実物大の映像を映せばよいのである。けれども奥村はそうしない。それは結果として、落語家のいない空の高座と、映像としての落語家が客の視界に同時にしかし別に入るというギャップを生み、奇妙な欠落感を芽生えさせる。里光氏のパフォーマンスが高度なものであればあるほど、展示の空虚さが引き立つというパラドクスがある。

私は奥村の作品を過去に一度しか見たことがないのだが、その《エコーズ—リナとサヨのために(A)》と《エコーズ—リナとサヨのために(B)》(ともに2007年制作)という二つで一つの映像作品を比較対象として挙げてみたい。 (A)の映像には、室内でトランペットを吹く男性の姿が映し出されている[fig.4]。(B)の映像には、ある一軒家を訪れた子供たちが、なぜか壁にぽかりと空いた穴から聞こえるトランペットの音に耳をすませる(というか夢中になる)姿が映し出されている[fig.5]。私が作品を見た際の展示では(「個の世界とのつながりかた TOUCH THE WORLD」、ボーダレスアートミュージアムNO-MA、2009年10月24日—2010年3月7日)、(A)は二階建ての展示空間の階段の壁面に直接、(B)はその階段を上がった先の展示室の小さなモニターに映し出されていた。(A)と(B)でまさしく同じ時間が流れており、しばらくして随伴の女性に促され別の部屋—トランペットを吹いている男性がいる—へと向かう子供たちが迎える種明かしの瞬間は(トランペットを吹く男性は同じ家の中にいたのである)、(A)と(B)の世界が「つながる」実に感動的な場面であった。
《エコーズ—リナとサヨのために》と今回の作品は、どちらも「穴」が重要なファクターになっているという点で共通している。目玉、というよりは眼窩といった方がこの場合適切なのだが、つまり目玉が嵌っているそれも一種の穴と見なすことができる。はたまた、善兵衛の目玉がするすると入っていく患者の食道も、口という穴から出発していると言えるだろう。《エコーズ—リナとサヨのために》で子供たちが壁の穴に耳を近づける場面と、落語の場面は、「穴」を媒介にしてなにかとなにかが繋がっているという点で、非常に近しいものがある。


Fig.4 Echoes - a small concert for Lina and Sayo, 2007
2-channel video installation 08'50" each color/sound film still courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN


Fig.5 Echoes - a small concert for Lina and Sayo, 2007
2-channel video installation 08'50" each color/sound film still courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

しかし、その実大きく異なるのは、《エコーズ—リナとサヨのために》の映像と映像が「同時」であるように見せていたのとは対照的に、本展で奥村は映像と展示という別のメディアを併置することで「時差」を生じさせている。落語のオチで、紐の切れた善兵衛の目玉が患者のからだから引き上げられずに収まってしまい、善兵衛の意思とは遠いところで肛門から突然排出されたように、ここでの他者と他者との「つながりかた」は一方的である。だが、この齟齬ないし欠落感のようなものが、私たちは自分たちのからだのことをわかっているようで実は全然よくわかっていないということを示唆しているようで、改めて今こうしてなにかを考えようとしている自分とこのからだとの(非)整合性に思いを馳せさせる。そう、奥村の「くうそうかいぼうがく」は、私たちのからだを切り刻むことなく、その内部を明らかにするというよりはそのわからなさを実感させる、「解剖学」とは似て非なる新しい体系なのではあるまいか。

註1.本展プレスリリースより引用

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