2010年9月28日火曜日

レビュー|サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」

展覧会名|サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」
会期|2010年9月17日(金)-9月26日(日)
会場|新宿眼科画廊

執筆者|小金沢 智


Fig.1 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊

サイトウケイスケの個展「やさしいジュンカン」は、サイトウが第三者に請われて制作したものと、自らの意思で制作したものが、展示会場のほぼ半分ずつを分け合うように展示されていた。前者は、音楽関係のフライヤーやジャケットなどの原画、複製が多くを占め、壁面をめいっぱい使っていささか乱雑に展示されている。山形をライブで訪れるバンドのために、サプライズで作ったというウェルカムボードもあるなど、サイトウの音楽への傾倒を示す作品が多い。そして、これらは描かれているモチーフにかかわらずなんらかの目的(宣伝、装画など)を伴うものであるのだが、後者はそのような目的からではなく、サイトウの表現欲求に端を発しているようだ。わかりやすく言ってしまうならば、デザインと美術というジャンルの違いによって展示が分かれている。



Fig.2 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊


Fig.3 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景  画像提供:新宿眼科画廊


Fig.4 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊


Fig.5 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊

1982年山形に生まれ、2007年に東北芸術工科大学大学院ヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン領域を修了したサイトウケイスケは、フリーランスのイラストレーター・デザイナーを経て、現在は同大の美術科で副手を務めている。サイトウのキャリアはデザインから始まっており、今回もそれらの作品の方が多いのはキャリアの長短の差である。本人から話を聞くと、これからはデザイナーやイラストレーターではなく「作家」として生きていきたいという意思が強いのだが、サイトウの絵が、デザインの仕事を通して培われたように見えるという点は指摘しておく必要がある。
たとえばフライヤーに描かれているサイトウの絵は、かわいらしくもあり、毒々しくもあり、その両極を行き来しているのだが、美しいものもそうでないものもあらゆるものが分け隔てなく、同じ水の中に漂っているような透明感がある。画面に頻繁に登場する子どもたちは、私たちの側を見ているものは少なく、その視線の先は宙を彷徨っている。彼らは一様にふわふわとした雰囲気をまとい、この世界を私たちとは違うように見ているのではないかと思わせる佇まいをしている。また、頻出する穴(これはサイトウによると自販機などのコインの投入口が題材である)やナイフのようなモチーフは、私たちの「ここ」とどこか遠くを繋ぐ穴であり、「今」を打開し未来へと向かうためのナイフであるように見える。サイトウの絵には一貫して、このような「今」「ここ」に対するささやかな抵抗が見て取れる。窮屈な場所から、広い、それこそ宇宙のような無限に向かうための想像力の飛躍がある。

一方、イラストレーター・デザイナーではなく作家としての作品も、基本的にそれらの作品があったからこそ生まれていると言え、たとえばモチーフや色使いの類似はすぐに気づかされるところである。しかし、ではまったく同じかと言うとそうではない。大きく異なるのが素材である。サイトウの場合にかぎらず、フライヤーやジャケットの完成形は基本的に紙(ほとんどが一枚)だが、美術作品はそうである必要はない。サイトウの作品もまた、画面に複数枚の印刷物をコラージュしたものもあれば、パラボナアンテナに直接描いたものもあるなど、様々な画材・素材を使って作品を制作している。また、サイトウの特徴である細かな描画は、デザインのための場合は周囲に文字情報が入るため全体として雑然とするが、そうではなく、余白が十分にとられた場合はそこはかとない印象をもたらして興味をそそられる。はたまた、手の指先や足先を使って描いたという抽象的な作品もある。
これらの作品からはサイトウがデザインではできなかったことをしようとしていることがよくわかるが、本人がどういう思いであれ、デザインの経験があるからこその作品であり、その意味でサイトウにとってのデザインと美術の仕事はゆるやかに循環している。今回の個展は様々な要素の曲を詰め込んだアルバムのようなもので、今後はアルバムごとのコンセプト沿った曲の制作も求められるのかもしれないが、今のサイトウが整合性を気にかけようやく手に入れつつある自由を手放す道理もないだろう。誰がなにを言おうとやりたいことをやりきるという意思が、作品の血となり肉となることをサイトウの作品は確かに示していて清々しいのである。