2010年8月17日火曜日

レビュー|「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」

展覧会名|「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」
会期|2010年6月4日(金)-7月6日(火)
会場|INAXギャラリー ガレリアセラミカ

執筆者|小金沢 智


Fig.1 「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」(INAXギャラリー ガレリアセラミカ)展示風景
画像提供:金理有

天井から吊り下げられた引き戸、襖。床には畳が敷かれ、その上に作品が展示されている。これらと一点ずつ作品が置かれている台は、陶芸家・金理有が現在住んでいる100年近い築年数の古民家から持ち込んだものである[Fig.1]。古物を展示に取り込むことはともすればただの懐古趣味に見られる危険もあるが、「new exoticism」とあるとおり、全体としてそのような雰囲気はなく、現在を射程に捉えた内容になっている。




Fig.2 金理有《醜鶩発起》 画像提供:金理有

作品は他に類例を見ない。三畳分の畳の上に鎮座している(と言うにふさわしい)《醜鶩発起》(陶、H110cm W90cm D90cm、2010)[Fig.2]があらわしているのは、明らかに男性器—陰茎と二つの睾丸—であり、日本だけではなく世界的に見られる男根信仰におけるご神体を連想させる。だが、黒光りしている素材感、全体に施されている青銅器で見られる饕餮文から着想を得たという文様[Fig.3]、睾丸部にそれぞれついているぎょろりとした目玉(いずれも左目)は、ご神体としての男根には見られない鬱屈した禍々しさと呼ぶべきなにかがある。金が設えた三畳という狭さと、引き戸や襖がもたらす鑑賞者の視界の制限も、作品の印象をそのようなものにしている要因かもしれない。喩えがわかりづらいことをご容赦いただきたいが、《醜鶩発起》は、一人鬱々と部屋に閉じこもる思春期の少年を思わせる。その前の台座に展示されていた《破脳奮小鬼》(陶、H23cm W18cm D18cm、2010)は金属的な仕上がりの質感が《醜鶩発起》と対照をなすが、《醜鶩発起》はこの一つ目小僧の心情というか情念の塊のようだ[Fig.4]。生であり性への問いを引き金に爆発する衝動のようなものが籠められているように見える。


Fig.3 金理有《醜鶩発起》部分 画像提供:金理有


Fig.4 「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」(INAXギャラリー ガレリアセラミカ)展示風景
手前:《破脳奮小鬼》 中:《醜鶩発起》 奥:《千里眼》 画像提供:金理有

ただ、もともと《醜鶩発起》は《破脳奮小鬼》のような質感の仕上がりを狙っていたという。今回金は陶作品を平面に置き換えた作品も《醜鶩発起》の後ろ壁面に展示したが(《千里眼》[ワトソン紙・顔料・石墨、H40cm W90cm D3cm 、2010])、基本的にその制作手段は陶芸であり、作品を最終的に完成させるのは自身ではなく火である。したがって、できあがったものが当初狙っていたとおりに仕上がっているとはかぎらない。《醜鶩発起》は満足のいく形の展示ができたということだが、金がただあるビジョンを造形物として正確に形作りたいのであれば、陶芸は必ずしも適当な手段ではないのである。それこそFRPでも使えば、今より格段に作品をコントロールすることができるだろう。色が想定と大きく異なることもなければ、制作した作品が最後の焼成で割れてしまうことも、完成後に強度の問題で壊れることもない。それゆえ「なぜ陶芸なのか」と問いたくなるが、金は素材をコントロールできるか否か以上にその質感と工程そのものにも惹かれているから、他の素材では意味がないのだろう。金は、制作の衝動を造形に籠めつつ、コントロールし難い大きなものにも身を委ね、うすっぺらいものではなく重厚なものを志向し、その上で作品としての質の向上を試みる。できあがるのは今回のようなおよそ陶芸らしくない造形物かもしれないが、「陶芸でなにが可能か」を真摯に追求している金の動向から私は目が離せない。




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