会期|2010年4月12日(月)~24日(土)
会場|ギャラリー現
執筆者|宮田 徹也
会場に入ると中央に黒い鉄で造られた四つの平台が置かれている。その長方形が隙間なく並べられることによって、人体ほどの正方形を作る。成人が直立して肘を曲げ無理なく掌を置ける高さだ。中には白い紙にピンクの極細ペンで描かれたドローイングが隅から隅まで渦巻いている。四枚は連続しているように見えるが連なってはいない。筆力も速度も一定に保たれた線は、この黒い箱の中で沈黙している。
左を見ると、一枚あたり50×80cm程の両手で抱えられるほどの写真が、4×2枚で横長の長方形を形成している。サイズ上での平台との関わりは薄い。平台の表面に映り込む効果もない。黒いフレームに囲まれた写真はそれぞれ、シャッターが閉まり、外光が零れない窓に囲まれた暗い倉庫の前で、人体または人体の影が一人、佇んでいる状況を描いている。
視線を右の壁にずらしていくと、膝より若干下の高さに、掌サイズの小さなモニターの中で一つの瞳が瞬きを繰り返す。
更に視線を右に向けると、奥まった壁面の顔と同じ高さに、片手で持てる大きさの30×50cm程の、写真が展示されている。黒いフレームに囲まれ、その右辺下部に、滞ったオレンジの液体が入っている試験管が設置されている。人体の後頭部の写真を見詰め続けると、正面を向いた顔の写真が浮かび上がる。即ち、二重写しになっている。
この作品から視線を右に移すと、50×30cm程の、皮膚の写真が展示されている。同じく黒いフレームに囲まれ、同位置に白乳の液体が入る試験管が設置されている。
勝又豊子(1949~)によるとこの5つの作品がsurfaceを成し、ピンクに見える極細ペンの色は赤であり、血とか、体のなかの色を象徴しているという。
この空間に身を置くと、「見る/見られる」、「内部/外部」、「皮膚/内臓」、「肉体/精神」「現実/幻想」「作品/鑑賞」といった、二項対立を全く感じない。かといって、いわゆる「インスタレーション」という、空間を異化する作品であるとも言えない。その原理を更に推し進めた「サイト・スペシフィック」でないことも前提となる。それはそれぞれの作品のサイズと位置に、厳密な約束事を感じないからだ。
するとこの作品群をどのように解釈すべきだろうかという問題よりも、個々の作品が本当にペンで描かれたものなのか、写真で撮られたものなのかといった根源的な疑問が生まれてくる。
勝又の作品は「鉄という素材と人体とを原理的に峻別し、むしろ両者の対比を意図する」(谷川渥(『勝又豊子作品集』1、スタジオK、2003年))、「「自然と女性」の概念的な関係性を表出」(コレット・チャタパァタイ(同))、「私と同時に他者の身体のひろがりの直感」(高木修(同))、「彼女が身体とは正反対のような素材を用いてきたのは、人の身体の直接性や生なましさにある種の枠をはめるためだった」(千葉成夫(同))という観点で評価されてきた。
ここにある眼差しは「人体と鉄」といった二項対立と、写真を「皮膚を撮る為の手段」という認識だ。それを「触視的(谷川渥(同))」、「体感」(千葉成夫(同))、「眼で触れる」(平野到(同))といった観点で考察する。
私はこのような認識をSurface=表面、うわべと解釈する。皮膚の写真を皮膚の写真と見ないこと、鉄を鉄と見ないこと、紙のドローイングを紙のドローイングと見ないこと、このような視点を課して、もう一度作品と向き合ってみる。
ドローングに行為の痕跡は残されていない。写真の人体は認識できない。小さな瞳は何も見ていない。人体の頭部は前後二重写しであるからこそ、どちらでもない。皮膚の写真に、生命感が宿っていない。両作品の試験管に入っているものは物質である。するとここには、人間がいないことになる。
我々は人間が写っているにも関わらず、人間のいない空間で、人間を「探そう」としている。
それでも勝又は人間を描こうとしている。その査証となるのは、人間が死滅した世界、物質化された人体、文明/科学批判、思想運動、人間の営みを忌み嫌う要素が全く見られないためだ。
つまりここには人間が溢れていることになる。それを探そうとすればするほど見つからない。ではどのようにすれば人間を感じられるのか、その人間とはどのような人間なのか。
それは単純に、美術史にある「視覚論」を拭い去ればいいだけの話だ。遠くに人がいる、後ろに人がいる、あの建物に人がいると意識もせずに感じ取ることは日常の中でのありきたりの出来事である。それがどのような人格を持ち、どのように自己に関わっていたのか、いるのか、くるのかなど、その時々に考えることがあるだろうか。すれば「触覚」や「動作」なども必要なくなる。
私たちは人間に囲まれて生きている。それに歴史性があろうと、秘められた物語があろうと、権力者にコントロールされようと、そこから逃れることができない。そのような単純なことを、勝又の作品が教えてくれるのではないだろうか。
この世界でどのように生きるのか。それこそそれは見る者に託されている。あらゆる美術作品が発する問いと同じく。

Fig.1 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子

Fig.2 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子

Fig.3 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子

Fig.4 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子

Fig.5 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:勝又豊子
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