2010年5月19日水曜日

レビュー|「森村泰昌・なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術-」

展覧会名|「森村泰昌・なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術-」
会期|2010年3月11日(木)-5月9日(日)
会場|東京都写真美術館

執筆者|小金沢 智


Fig.1 森村泰昌 映像作品 《海の幸・戦場の頂上の旗》 2010 年より 画像提供:東京都写真美術館

「なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術-」とはなんといかめしいタイトルか。「レクイエム」も、「戦場」も、「頂上」も、「芸術」も、すべてが重苦しさを伴っている。それゆえ、本展はいかにも真面目に、森村泰昌が過去の偉人に扮して彼らを鎮魂しようとしているように見える。しかし、細部に目を凝らせば必ずしもそうではないことに気づくだろう。そう、はじめに結論めいたことを言うならば、「レクイエム」とは固有の過去の偉人だけに向けられたものではない。では、「なにものか」とは誰か?

「なにものかへのレクイエム」シリーズの始まりであり、今回会場外の吹き抜けに展示された映像作品《烈火の季節/なにものかへのレクイエム(MISHIMA)》(2006)から見てみよう。森村は、三島由紀夫が割腹自殺した、その直前の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説を模倣した出で立ちで演説を行なっている。今の芸術は駄目だ、だから俺とともに立ち上がれ、俺の話を聞けと大声で語りかける。内容はいかにも立派で、昨今の芸術への焦燥感に満ちている。だが、三島に扮しながら、三島が演説を行なったときとはある一点で状況がまったく違うということが、最後に明らかになる。演説が終わり、カメラは三島に扮する森村が立つバルコニーからその下を見下ろす。すると、その場には誰一人として演説を聴いている人間がいないのだ。実に閑散としているではないか。

ここでつい笑ってしまうくらいが健全である。あたかも大事件かのごとく自説を捲し立てる人に対しては、少し離れた場所でその行為や言葉の正当性を考える必要がある。このシリーズにはささやかな「笑い」の要素が所々挿入されていて、それこそが作品を読み解く重要なポイントになっている。

日本人ではなく白人に扮したポートレイトがわかりやすい。たとえばアインシュタインやチェ・ゲバラ、ヒトラーに扮した森村の、とってつけたという言葉がふさわしい人工鼻やカツラ、髭。おそらくもう少し丁寧に変装の後処理をすることもできたのではないか。森村が、彼らに「なりきる」ことで鎮魂を行なおうとしているのであれば、ディテールが甘すぎるのである。


Fig.2 森村泰昌 《なにものかへのレクイエム(遠い夢/チェ)》2007 年 画像提供:東京都写真美術館

したがって、私はここにこそ森村の意図があると考えたい。森村は、なりきろうとしつつも(実際にとても似ている)、最後の最後で完全な同一化を拒んでいる。それは完全な同一化の技術的不可能性ゆえではない。なぜなら森村は、「芸術家」になろうとするもの、「独裁者」になろうとするもの、「革命家」になろうとするもの、そうした「なにものか」になろうとすることの滑稽さをこのシリーズを通して言おうとしているからである。

展覧会の最後に展示されている映像作品《海の幸・戦場の頂上の旗》(2010)は、マリリン・モンローに扮する森村が登場するものの、主役は「アメリカのセックスシンボル」として有名な偉人としての彼女ではなく、「無名の男性軍人」に扮した森村である。なぜ、それまで錚々たる世界の偉人たちが登場してきたにもかかわらず、誰だかわからない「無名」の人が主役の作品で終わる必要があったのか。

物語はこうだ。冒頭で男はカンバスやトルソー、花々、楽器などいずれも「芸術」を連想させるものを自転車で一人運んでいる。海岸の波打ち際である。途中でマリリン・モンローに出会うが、彼女は白いドレスを脱ぐと消えてしまい、服はたちまち血に染まる。男は血に染まったドレスを海で洗い、ドレスは最終的に血痕が嘘のようにまっ白になる。この時点でドレスはなぜか、「旗」のような四角い布切れになっている。男はその布切れを手に再び波打ち際を進むが、「敵」らしき部隊に遭遇する。彼らは男に銃を向ける。だが、男は布切れを掲げることで死を免れる。降参の意思表明として、「白旗」として布切れは使われている。彼らはなぜか男と道を供にし、海の見える小高い丘でこの旗を再び揚げる。

ここで森村が旗を、「一枚の薄っぺらな画用紙」、「平々凡々たるカンバス」に見立てていることに注目したい。そして森村は、「あなたなら どんな形の どんな色の どんな模様の 旗を揚げますか」と問いかける。つまり、「過去の偉大ななにものか」になりきってきた森村が最終的に到達したのは、「なにものか」になろうとする必要などなく、あなた自身でありなさい、ということではなかったか。ともすれば無責任な承認のようにも感じられる。が、ゴッホになった自画像を発表以来数々の美術史の「名画」に闖入し、歴史的「偉人」になりきってきた森村の真意がそこにあったのであれば、実に興味深くはないか。「なにものかへのレクイエム」とは、「なにものかになりたいと欲望するあなたへのレクイエム」であり、対象の偉人に限らないのである。だから私はこの境地に至ってしまった森村の今後の展開が気になってならない。なぜなら森村こそ、「芸術家」や「偉人」という「なにものか」になろうとし続けてきた張本人に他ならないからである。

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