会期|2010年1月16日(土)-1月24日(日)
会場|新宿眼科画廊
執筆者|小金沢 智

Fig.1 大和由佳個展「湿原の杖」(新宿眼科画廊)展示風景 撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳
大和由佳(1978-)にとって水が重要な意味を持っていることは、作品の多くが水を使用していることからも明らかだ。昨年の作品だけ振り返っても、個展「存在の満ち欠け」(neutron tokyo)では一階の空間にプールを作り出し(《たいらさをめぐる-落影》)、中之条ビエンナーレでは地面を鳥のかたちに彫り、その内に水を溜めた(《彼方の捕獲/訪れの器》)。どちらでも水は作品を成立させるためのきわめて重要な素材として扱われている。ただ一方で、《たいらさをめぐる-落影》(ブロンズ・水・砂・紙など、サイズ可変、2009)では乾燥によってプールの水量が著しく減ることがあり、作品に重大な影響があったことも思い出される。作家としては天井から紐で吊り下げたブロンズ製のオブジェを水面ぎりぎりのところに接触しないよう設置していたのだが、乾燥は水量の減少に加え紐の収縮ももたらし、オブジェが水中に浸ることもあれば、離れすぎてしまうこともあったのである。
ではなぜ大和はかくもコントロールが難しい水を積極的に作品に使っているのか。それは個展タイトルにも端的にあらわれているように、大和が「存在の満ち欠け」に強い関心を抱いているからだろう。ある存在が満ちているということ、欠けているということを作品化するために有効な素材として水を用いている。《たいらさをめぐる-落影》は水とオブジェを寸でのところで交じらせないことでその中間を可視化しようとしたものである。彼岸と此岸の間に三途の川が流れているように、水が生と死のどちらも内包していることも理由の一つかもしれない。《彼方の捕獲/訪れの器》の鳥は水が満ちていなければ明確な姿を現さない。転じて満ちている状態は生を、欠けている状態は死を連想させる。大和の作品の根底にあるのは生と死のダイナミズムである。

Fig.2 大和由佳《湿原の杖》(ガラス瓶・筆・インク・アクリル絵具・水、サイズ可変、2010)部分
撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳

Fig.3 大和由佳《土地/湿原の杖に依って》(石粉粘土・パネル・インク・アクリル絵具・他、210×142×5cm、2010)
撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳
約1年ぶりの個展「湿原の杖」(新宿眼科画廊)で発表された新作は、内容としては旧作を引き継ぎつつ、しかし使われている色彩が豊かであるという点でそれらとは一線を画している。ギャラリーに入りまず展示されていたのが《湿原の杖》(ガラス瓶・筆・インク・アクリル絵具・水、サイズ可変、2010)である。インク、アクリル絵具で染まった色水が底に溜まり、中に筆が立てかけられたガラス瓶が30点ほど台座の上に乗っている。まっ白の壁面と白木の床からなる空間に鮮やかな色が映え、見るものをその先に導く。次ぐ展示室に掛けられていたのが《土地/湿原の杖に依って》(石粉粘土・パネル・インク・アクリル絵具・他、210×142×5cm、2010)である。六角形の立体は《湿原の杖》同様鮮やかな色をその身に有し、表面には凹凸がある。凹みは多角形、球体といった図形もあれば、葉、鎖、タイヤなどの形もあり様々だ。これらの凹みはボルト、ネジ、葉などを柔らかい状態の石粉粘土に押しつけることでできており、色はその後固まった状態の石粉粘土の上に絵具を流すようにしてつけられたものである。偶然の要素を取り入れながらもそのヴィジュアルは美しく、作品の完成度はきわめて高い。
制作に水を用いていることに加え、表面の凹凸は大和の関心が変わらず「存在の満ち欠け」にあることを示しているが、それは物質的なレベルでの「満ち欠け」だけを意味しない。《土地/湿原の杖に依って》の表面にある凹凸が連想させるのは、永遠のような時間の集積によってその痕跡をとどめた生物の遺骸=化石、つまり現象としての「時間」にほかならないからである。水量を変化しかねない《湿原の杖》が時間の流れに抗すことができないのとは対照的に、《土地/湿原の杖に依って》は押しつけられた物体と流れた絵具の痕跡を半永久的にとどめ、そのかたちを変えない。これらの作品は視覚的にはもちろん、意味的には前者が生者を、後者が死者を思わせるという点でお互いを補完し合う関係にある。

Fig.4 大和由佳《土地/湿原の杖に依って》(石粉粘土・パネル・インク・アクリル絵具・他、210×142×5cm、2010)
撮影:大和由佳 画像提供:大和由佳

Fig.5 大和由佳個展「湿原の杖」(新宿眼科画廊)展示風景
撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳
作品を作ることが事物をなんらかのかたちに半ば暴力的に定着させることと言えるなら、制作とはある存在の「時間を止める」こと、すなわちある存在を「殺す」ことでもあるということも作家は引き受けなければならない。今回に至るまで大和の作品に色の要素が希薄だったのは、作品化することでその時を止めてしまう「死者」を弔い、喪に服そうとする意識があらわれていたのではないか。
だが、死者を弔うために必要なのは喪だけではないことは言うまでもなく、一方だけに傾いては世界のありようは一部を欠いたかたちでしか見えてこない。その点今回の個展で大和は明らかに新しい地点に到達することに成功しているが、それでもこのイメージだけに固着せず、満ちては欠ける不断の運動の中にその身を置いて欲しいと願う。険しくもあれ、そこにこそ大和の作品の核があると思うからである。
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