2010年5月23日日曜日

レビュー|内海信彦展「innerscape series 2010」

展覧会名|内海信彦展「innerscape series 2010」
会期|2010年4月5日(月)-4月17日(土)
会場|gallery K

執筆者|宮田 徹也

1974年から作家活動を開始した内海信彦は、1988年の個展(ぎやらりいセンターポイント)から「Innerscape」という造語を使用し、現在に至っている。作品一つ一つに題名を付けずに、展覧会の総体を「Innerscape」とする。今回展示された八曲一双の屏風、2m×1mを超す3枚の巨大絵画、17点の小型絵画も同様である。

「Innerscape」を端的に記しているのは、1989年のヒルサイドギャラリーにおける個展のカタログに掲載されているマニフェストであろう。「ゆらぎの内につつみこまれている形態は、/あたかも既視感の光景が姿をあらわすのにも似て、/ある日、忽然と顕現してくる。/私が画面のなかに目撃するそれらの光景は、/おそらく、ミクロの宇宙からマクロの宇宙を突き通し、/過去と未来をつつみこんでいる永劫の自然のシステムが、等身大の画面のうちに顕現させる/可視のすがたの一端に他ならないだろう。/自然のシステムが内蔵している/形態形成力によってあらわれたその形態は、/私の知覚振動に深く共鳴した時、/私の内に潜勢している太古からの記憶を蘇生させ、/未来への既知感を触発する。/私は、この自然のシステムに限りない憧憬と畏怖を深く感じている。/そして始原なるものの原姿に溯及することに、/想いをよせている。」

ミクロからマクロへの宇宙という空間と、過去から未来へという時間を包み込んでいる自然のシステムが自己の知覚と深く共鳴した時に形態が顕現してくる。内海のこの思想は、ペルー国立博物館(1997、99年)、ポーランド国立ヴロツワフ美術館(2000年)の個展を経て「20世紀へのレクイエム」と、多元化する宇宙をテーマにした「Multiverse」シリーズに至りついた。「20世紀へのレクイエム」のうち、アウシュヴィッツを主題とする作品群を着想し始めた時期はこの頃だろう。

今回の展示も2009年のgallery Kの個展に引き続き、今回も小品は「Multiverse」シリーズ、屏風と巨大絵画はアウシュヴィッツを主題としている。このアウシュヴィッツを主題としている作品に焦点を絞ろう。

2009年のカタログで三田晴夫は以下のように書いている。「…ところで予期しなかった今回の驚きというのは、新作の画面にかつてなかった黒い人物像が出現していたことであった。絵の具を浴びたモデルによる人拓だそうだが、ホロコーストの聖地で人体像とくれば、お定まりの鎮魂図絵になりかねないことは内海も百も承知だったはずである。/それをそうさせなかったのも、あの自他に開かれた第三の主体だったのではなかろうか。自由自在な主体であればこそ、それが放つイメージは聖地の表層を突き抜け、深い根源の彼方に思考の錘を着地させたのである。/というのも私は、不毛の砂地のような色彩世界をたよりなげに転がっていく黒い姿態を前にして、はるか渺渺たる世界のなかで人間が負ったであろう存在不安の傷を目の当たりにしているような錯覚に襲われたからだ。…」。今回の作品群との本質的な違いは何か。

その前に、二点注記しておこう。内海が人拓を用いるライブ・ペインティングを行なったのは、ペルー国立博物館が刊行したカタログ(1999年)と内海のwebsite(http://utsumix.com/)を見る限り、遅くとも同博物館で1999年である。その意図は定かではないが、少なくとも同年のナスカ・シティプラザにおいてのそれは、webに「ナスカ地上絵研究家マリア・ライヒ女史追悼のためのライブペインティングを行なう」とあるので、アウシュヴィッツを表しているものではない。また、国内の内海の作品を隈なく見ている三田がはじめてみたと記しているのだから、ライブペインティング=人体=アウシュヴィッツという図式は、2009年から現れたのかも知れない。しかし内海は「20世紀へのレクイエム」と題して、世界中でライブペインティングを行なっている。屏風という様式も、前出1989年のカタログに《INNERSCAPE 1989:MORPHOGENESIS/》(pair of four-fold screens, 500×250mm, each)が掲載されているので、内海が初期の頃から使用していることが伺える。

今回の作品は真黒な人拓ではなく、赤、白、金が交じり合っている。背景の色も2009年のそれに比べ、複雑化している。色が多ければ画面の密度が上がるわけでは決してない。しかし今回の作品を私は目の当たりにして、内海はアウシュヴィッツも絵画も越えてしまったと感じた。三田が「深い根源の彼方に思考の錘を着地させた」というのであれば、私は「根源も思考も届かない地点に浮遊させた」とするだろう。内海もモデルの中島春矢も、アウシュヴィッツを経験していない。しかしそれでもこの人類が生み出してしまった悲劇に届いている。ここが三田の言う「着地」だ。これを今回は内海と中島というパーソナルと2010年という時間も日本という空間も引き剥がして、「絵画」という場所に浮遊させたのだ。完全にパーソナルと切り放たれて作品が浮遊する。このような例は、近代では難波田龍起、マーク・ロスコなどの一部の画家にしか見当たらない。

内海は1989年のマニフェストで「私は、この自然のシステムに限りない憧憬と畏怖を深く感じている」と記している。その想いに変化は無いのだろうが、「自然のシステム」にこの若さで到達したのではないだろうか。内海の絵画は、これから始まるのである。


Fig.1 内海信彦展「innerscape series 2010」展示風景(gallery K) 撮影:宮田 絢子


Fig.2 内海信彦展「innerscape series 2010」展示風景(gallery K) 撮影:宮田 絢子


Fig.3 内海信彦展「innerscape series 2010」展示風景(gallery K) 撮影:宮田 絢子


Fig.4 内海信彦展「innerscape series 2010」展示風景(gallery K) 撮影:宮田 絢子


Fig.5 内海信彦展「innerscape series 2010」展示風景(gallery K) 撮影:宮田 絢子

【内海信彦略歴】
(ギャラリーなつかのweb http://homepage2.nifty.com/gallery-natsuka/natsuka/2007/utsumi_nobuhiko07.html を引用・宮田が編纂した)

1953 東京都生まれ
1974 慶應義塾大学法学部中退
1975 美学校油彩画工房終了
1981 多摩美術大学絵画科卒業
ペルー国立美術学校名誉教授/ペルー国立教育大学客員教授/美学校講師/河合塾コスモ講師/駿台予備学校論文科講師/桑沢デザイン学校講師/千葉商科大学講師

個展
1985~ 斎藤記念川口現代美術館/新潟市美術館/ヒルサイドギャラリー/愛宕山画廊/gallery K/ギャラリーなつか/ぎゃらりいセンターポイント/スカイドア・アートプレイス青山/キリンプラザ大阪/早稲田大学/東京造形大学など国内外で60回以上の個展開催。
1992 ハーヴァード大学客員芸術家としてカーペンターセンター・フォー・ザ・ビジュアルアーツで個展開催。
1996 ヴァーモント・スタジオセンター、カトマンズシビックセンター、カトマンズロシアンセンターで個展開催。
1997 イェール大学客員芸術家として、ヘンリー・R・ルース・ホール、トランブル・ カレッジで講義と滞在制作による個展開催。
同年ペルー政府より招待され、ペルー国立博物館、ペルー日本文化センターで滞在制作による個展開催。客員芸術家として国立美術学校、カトリック大学で講義。
1999 ペルー政府により招待され、ペルー国立博物館、ペルー日本文化センターで滞在制作による個展開催。韓国ジョクサン・インターナショナル・アートフェスティバルでライブペインティング。ペルー国立美術学校付属美術館、ペルー国立教育大学で個展開催。ペルー国立美術学校、リカルド・パルマ大学で講義と公開制作、ライブペインティング。韓国国立ソウルアートセンターでの舞踏家・金梅子公演の舞台美術。 
2000 ポーランド・アウシュヴィッツ強制収容所跡でのライブペインティング。ポーランド国立ヴロツワフ美術館での公開制作。ポーランド国立美術アカデミーでの講義。マイダネク強制収容所跡でのマイダネク・アート・トリエンナーレ初日のオープニングセレモニーでのライブペインティング。ワルシャワ、聖スタニスワフ・コストカ教会で聖人ポピューシコ神父追悼のライブペインティング。「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ」における「内海信彦サマーセッション」でのレクチャーとライブペインティング。ポーランド国立ヴロツワフ美術館での個展とライブペインティング。 
2004 「内海信彦コズミックスパイラル」でのライブペインティングと講義。
2005 東京芸術大学での講義とコラボレーション。
2006 東京大学先端科学技術センターでの講演(‘05)
2007 個展/ギャラリーなつか

パブリックコレクション
板橋区立美術館(東京)/斎藤記念川口現代美術館(埼玉)/真言宗吉祥寺(愛媛)/世田谷美術館(東京)/駐日ペルー共和国大使館(東京)/新潟市美術館(新潟)/ふくやま美術館(広島) /U.S.A ハーヴァード大学フォッグ美術館(マサチューセッツ)/イェール大学ヘンリー・R・ルース・ホール(コネチカット)/イェール大学トランブル・カレッジ(コネチカット)/イタリア・日本文化アカデミア(スペッロ)/ネパール・ナショナルギャラリー(カトマンズ)/ペルー国立博物館(リマ)/ペルー日本文化会館(リマ)/ペルー大統領府(リマ)/ペルー共和国外務省(リマ)/ペルー共和国教育省(リマ)/ペルー共和国国会議事堂(リマ)/駐ペルー日本国大使館(リマ)/ペルー日系人協会(リマ)/ペルー・カトリック大学美術館(リマ)ペルー国立美術大学(リマ)/ペルー国立美術大学付属美術館(リマ)ペルー国立教育大学(リマ)/リマ市立美術館(リマ)/リカルド・パルマ大学(リマ)/マリア・ライヘ博物館(ナスカ)/ナスカ市庁(ナスカ)/ラァウフィング・ストーン・ダンスカンパニー(ジョクサン)/オシフィエンチム・アウシュヴィッツ国際青年交流センター(オシフィエンチム)/アウシュヴィッツ強制収容所跡国立博物館(オシフィエンチム)/マイダネク強制収容所跡国立博物館(ルブリン)/ワルシャワ聖スタニスワフ・コストカ教会(ワルシャワ)/ポーランド国立ヴロツワフ美術館(ヴロツワフ)

2010年5月19日水曜日

レビュー|「森村泰昌・なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術-」

展覧会名|「森村泰昌・なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術-」
会期|2010年3月11日(木)-5月9日(日)
会場|東京都写真美術館

執筆者|小金沢 智


Fig.1 森村泰昌 映像作品 《海の幸・戦場の頂上の旗》 2010 年より 画像提供:東京都写真美術館

「なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術-」とはなんといかめしいタイトルか。「レクイエム」も、「戦場」も、「頂上」も、「芸術」も、すべてが重苦しさを伴っている。それゆえ、本展はいかにも真面目に、森村泰昌が過去の偉人に扮して彼らを鎮魂しようとしているように見える。しかし、細部に目を凝らせば必ずしもそうではないことに気づくだろう。そう、はじめに結論めいたことを言うならば、「レクイエム」とは固有の過去の偉人だけに向けられたものではない。では、「なにものか」とは誰か?

「なにものかへのレクイエム」シリーズの始まりであり、今回会場外の吹き抜けに展示された映像作品《烈火の季節/なにものかへのレクイエム(MISHIMA)》(2006)から見てみよう。森村は、三島由紀夫が割腹自殺した、その直前の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説を模倣した出で立ちで演説を行なっている。今の芸術は駄目だ、だから俺とともに立ち上がれ、俺の話を聞けと大声で語りかける。内容はいかにも立派で、昨今の芸術への焦燥感に満ちている。だが、三島に扮しながら、三島が演説を行なったときとはある一点で状況がまったく違うということが、最後に明らかになる。演説が終わり、カメラは三島に扮する森村が立つバルコニーからその下を見下ろす。すると、その場には誰一人として演説を聴いている人間がいないのだ。実に閑散としているではないか。

ここでつい笑ってしまうくらいが健全である。あたかも大事件かのごとく自説を捲し立てる人に対しては、少し離れた場所でその行為や言葉の正当性を考える必要がある。このシリーズにはささやかな「笑い」の要素が所々挿入されていて、それこそが作品を読み解く重要なポイントになっている。

日本人ではなく白人に扮したポートレイトがわかりやすい。たとえばアインシュタインやチェ・ゲバラ、ヒトラーに扮した森村の、とってつけたという言葉がふさわしい人工鼻やカツラ、髭。おそらくもう少し丁寧に変装の後処理をすることもできたのではないか。森村が、彼らに「なりきる」ことで鎮魂を行なおうとしているのであれば、ディテールが甘すぎるのである。


Fig.2 森村泰昌 《なにものかへのレクイエム(遠い夢/チェ)》2007 年 画像提供:東京都写真美術館

したがって、私はここにこそ森村の意図があると考えたい。森村は、なりきろうとしつつも(実際にとても似ている)、最後の最後で完全な同一化を拒んでいる。それは完全な同一化の技術的不可能性ゆえではない。なぜなら森村は、「芸術家」になろうとするもの、「独裁者」になろうとするもの、「革命家」になろうとするもの、そうした「なにものか」になろうとすることの滑稽さをこのシリーズを通して言おうとしているからである。

展覧会の最後に展示されている映像作品《海の幸・戦場の頂上の旗》(2010)は、マリリン・モンローに扮する森村が登場するものの、主役は「アメリカのセックスシンボル」として有名な偉人としての彼女ではなく、「無名の男性軍人」に扮した森村である。なぜ、それまで錚々たる世界の偉人たちが登場してきたにもかかわらず、誰だかわからない「無名」の人が主役の作品で終わる必要があったのか。

物語はこうだ。冒頭で男はカンバスやトルソー、花々、楽器などいずれも「芸術」を連想させるものを自転車で一人運んでいる。海岸の波打ち際である。途中でマリリン・モンローに出会うが、彼女は白いドレスを脱ぐと消えてしまい、服はたちまち血に染まる。男は血に染まったドレスを海で洗い、ドレスは最終的に血痕が嘘のようにまっ白になる。この時点でドレスはなぜか、「旗」のような四角い布切れになっている。男はその布切れを手に再び波打ち際を進むが、「敵」らしき部隊に遭遇する。彼らは男に銃を向ける。だが、男は布切れを掲げることで死を免れる。降参の意思表明として、「白旗」として布切れは使われている。彼らはなぜか男と道を供にし、海の見える小高い丘でこの旗を再び揚げる。

ここで森村が旗を、「一枚の薄っぺらな画用紙」、「平々凡々たるカンバス」に見立てていることに注目したい。そして森村は、「あなたなら どんな形の どんな色の どんな模様の 旗を揚げますか」と問いかける。つまり、「過去の偉大ななにものか」になりきってきた森村が最終的に到達したのは、「なにものか」になろうとする必要などなく、あなた自身でありなさい、ということではなかったか。ともすれば無責任な承認のようにも感じられる。が、ゴッホになった自画像を発表以来数々の美術史の「名画」に闖入し、歴史的「偉人」になりきってきた森村の真意がそこにあったのであれば、実に興味深くはないか。「なにものかへのレクイエム」とは、「なにものかになりたいと欲望するあなたへのレクイエム」であり、対象の偉人に限らないのである。だから私はこの境地に至ってしまった森村の今後の展開が気になってならない。なぜなら森村こそ、「芸術家」や「偉人」という「なにものか」になろうとし続けてきた張本人に他ならないからである。

2010年5月8日土曜日

レビュー|大和由佳個展「湿原の杖」

展覧会名|大和由佳個展「湿原の杖」
会期|2010年1月16日(土)-1月24日(日)
会場|新宿眼科画廊

執筆者|小金沢 智


Fig.1 大和由佳個展「湿原の杖」(新宿眼科画廊)展示風景 撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳

大和由佳(1978-)にとって水が重要な意味を持っていることは、作品の多くが水を使用していることからも明らかだ。昨年の作品だけ振り返っても、個展「存在の満ち欠け」(neutron tokyo)では一階の空間にプールを作り出し(《たいらさをめぐる-落影》)、中之条ビエンナーレでは地面を鳥のかたちに彫り、その内に水を溜めた(《彼方の捕獲/訪れの器》)。どちらでも水は作品を成立させるためのきわめて重要な素材として扱われている。ただ一方で、《たいらさをめぐる-落影》(ブロンズ・水・砂・紙など、サイズ可変、2009)では乾燥によってプールの水量が著しく減ることがあり、作品に重大な影響があったことも思い出される。作家としては天井から紐で吊り下げたブロンズ製のオブジェを水面ぎりぎりのところに接触しないよう設置していたのだが、乾燥は水量の減少に加え紐の収縮ももたらし、オブジェが水中に浸ることもあれば、離れすぎてしまうこともあったのである。
ではなぜ大和はかくもコントロールが難しい水を積極的に作品に使っているのか。それは個展タイトルにも端的にあらわれているように、大和が「存在の満ち欠け」に強い関心を抱いているからだろう。ある存在が満ちているということ、欠けているということを作品化するために有効な素材として水を用いている。《たいらさをめぐる-落影》は水とオブジェを寸でのところで交じらせないことでその中間を可視化しようとしたものである。彼岸と此岸の間に三途の川が流れているように、水が生と死のどちらも内包していることも理由の一つかもしれない。《彼方の捕獲/訪れの器》の鳥は水が満ちていなければ明確な姿を現さない。転じて満ちている状態は生を、欠けている状態は死を連想させる。大和の作品の根底にあるのは生と死のダイナミズムである。




Fig.2 大和由佳《湿原の杖》(ガラス瓶・筆・インク・アクリル絵具・水、サイズ可変、2010)部分
撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳


Fig.3 大和由佳《土地/湿原の杖に依って》(石粉粘土・パネル・インク・アクリル絵具・他、210×142×5cm、2010)
撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳

約1年ぶりの個展「湿原の杖」(新宿眼科画廊)で発表された新作は、内容としては旧作を引き継ぎつつ、しかし使われている色彩が豊かであるという点でそれらとは一線を画している。ギャラリーに入りまず展示されていたのが《湿原の杖》(ガラス瓶・筆・インク・アクリル絵具・水、サイズ可変、2010)である。インク、アクリル絵具で染まった色水が底に溜まり、中に筆が立てかけられたガラス瓶が30点ほど台座の上に乗っている。まっ白の壁面と白木の床からなる空間に鮮やかな色が映え、見るものをその先に導く。次ぐ展示室に掛けられていたのが《土地/湿原の杖に依って》(石粉粘土・パネル・インク・アクリル絵具・他、210×142×5cm、2010)である。六角形の立体は《湿原の杖》同様鮮やかな色をその身に有し、表面には凹凸がある。凹みは多角形、球体といった図形もあれば、葉、鎖、タイヤなどの形もあり様々だ。これらの凹みはボルト、ネジ、葉などを柔らかい状態の石粉粘土に押しつけることでできており、色はその後固まった状態の石粉粘土の上に絵具を流すようにしてつけられたものである。偶然の要素を取り入れながらもそのヴィジュアルは美しく、作品の完成度はきわめて高い。
制作に水を用いていることに加え、表面の凹凸は大和の関心が変わらず「存在の満ち欠け」にあることを示しているが、それは物質的なレベルでの「満ち欠け」だけを意味しない。《土地/湿原の杖に依って》の表面にある凹凸が連想させるのは、永遠のような時間の集積によってその痕跡をとどめた生物の遺骸=化石、つまり現象としての「時間」にほかならないからである。水量を変化しかねない《湿原の杖》が時間の流れに抗すことができないのとは対照的に、《土地/湿原の杖に依って》は押しつけられた物体と流れた絵具の痕跡を半永久的にとどめ、そのかたちを変えない。これらの作品は視覚的にはもちろん、意味的には前者が生者を、後者が死者を思わせるという点でお互いを補完し合う関係にある。


Fig.4 大和由佳《土地/湿原の杖に依って》(石粉粘土・パネル・インク・アクリル絵具・他、210×142×5cm、2010)
撮影:大和由佳 画像提供:大和由佳


Fig.5 大和由佳個展「湿原の杖」(新宿眼科画廊)展示風景
撮影:柳場 大 画像提供:大和由佳

作品を作ることが事物をなんらかのかたちに半ば暴力的に定着させることと言えるなら、制作とはある存在の「時間を止める」こと、すなわちある存在を「殺す」ことでもあるということも作家は引き受けなければならない。今回に至るまで大和の作品に色の要素が希薄だったのは、作品化することでその時を止めてしまう「死者」を弔い、喪に服そうとする意識があらわれていたのではないか。
だが、死者を弔うために必要なのは喪だけではないことは言うまでもなく、一方だけに傾いては世界のありようは一部を欠いたかたちでしか見えてこない。その点今回の個展で大和は明らかに新しい地点に到達することに成功しているが、それでもこのイメージだけに固着せず、満ちては欠ける不断の運動の中にその身を置いて欲しいと願う。険しくもあれ、そこにこそ大和の作品の核があると思うからである。

2010年5月3日月曜日

レビュー|村林由貴個展「溢れ出て止まない世界。」

展覧会名|村林由貴個展「溢れ出て止まない世界。」
会期|2010年4月10日(土)-4月25日(日)
会場|京都造形芸術大学 GALLERY RAKU

執筆者|小金沢 智


Fig.1 村林由貴個展「溢れ出て止まない世界。」(GALLERY RAKU)展示風景 4月22日 撮影:筆者

およそ2年前、京都造形芸術大学情報デザイン学科先端アートコース在学中の村林由貴(1986-)を訪れ、アトリエで初めてまとまった数の作品を目にした時点で、村林のペインティングは女性を主人公にしたものがほとんどを占めていた。必要以上にも思える線が描き込まれ、その上にアクリルガッシュの鮮やかな色がのる。少女漫画のようなきらきらとした巨大な瞳を持つ女性たちは、動物や魚、虫などの生きものに囲まれ、笑い、泣き、怒り、叫んでいた。それぞれに物語がある、と村林は言い、一つ一つの作品はお伽噺のようにも見えた。

今回の個展「溢れ出して止まない世界。」は新作を中心にしているが、当時の作品も2点展示されていた。「AMUSE ART JAM 2008 in KYOTO」でグランプリを受賞した際の、複数の目玉と唇が宇宙のようなただ中を飛び回り、中心で女性が四つん這いになり咆哮している《この魂全てが、永久に君の名を叫ぶ》(キャンバスにアクリルグァッシュ・ペン、1170×2709mm、2008)。卒業制作の、それこそ特定のお伽噺を彷彿とさせる少女も紛れ込み、ドリーミーな世界で思い思いに生きる乙女たちが描かれている《やさしい夢に生きる乙女たち》(キャンバスにアクリルグァッシュ・ペン、800×8000mm、2009)。後者は、色の塗られていない線描のみの箇所があるという点でそれまでの作品と一線を画すが、女性を重要なモチーフにしているという点では変わらない。


Fig.2 村林由貴個展「溢れ出て止まない世界。」(GALLERY RAKU)展示風景 撮影:筆者
左:《やさしい夢に生きる乙女たち》
右上:《世界はいつだってキラキラしてやまない》(840×1350mm、2010)
右中:《静かに心に染みゆく》(1145×2030mm、2010)
右下:《会いたかったんだ》(515×1215mm、2010)

しかし、2009年4月に京都造形芸術大学院修士課程芸術表現専攻情報デザイン領域に進んだ村林は、一転して鉛筆によるドローイングを基調にした作品へと方向をシフトしていく。20枚のキャンバスからなる《浮遊して逃れて、でもまだそれでも生き足りない》(キャンバスにアクリルグァッシュ・ペン、2884×4550mm、2009)では女性はまったく姿を消し、虫や植物など人間以外の自然界に生きるものたちが重要な位置を担っている。そうかと思えば、今回の個展では以上の作品に加えストロークの強い抽象的なペインティングも多数展示され、また、公開制作で作られ、完成後天井からギャラリーを包むように展示された《宙に咲く花》(紙にアクリル・インク、4,000×7,020mm、2010)は葉牡丹をモチーフにしたドローイングである。GALLERY RAKUの床面は半分以上が公開制作のためのスペースとして使用され、周囲の壁面だけではなく天井も使い2008年から2010年までの作品が30数点展示され、夥しい線と色が交錯した。ただ、約3年の間に同一の作家が制作した作品とはにわかに考えにくいほどのヴァリエーションがあるため、一つの展覧会としての統一感は乏しく、個々の作品の完成度も一定ではない。


Fig.3 村林由貴《海底に潜む静けさ》(紙にペンキ、2,250×6,000mm、2010)部分 撮影:筆者


では、村林は今回の個展で鑑賞者に何を見せようとしていたのだろうか。ギャラリーの奥に設けられた小部屋《マイ・スイート・ルーム》がそのヒントになる。そこには完成しているのか定かではないペインティングやドローイングの数々があり、制作には一見無関係に思われる私物も置かれ、展覧会の進行予定が書かれたメモ書きまでもが壁に貼られている。《マイ・スイート・ルーム》は、ここに展示している絵を描いている村林由貴がどのような人間か、部分的であれ訪れる人に知ってもらいたいという気持ちがあらわれているように思われる。村林は個展を通して変化の途上にある現在進行形の自分を見せようとしたのではないか。


Fig.4 村林由貴《マイ・スイート・ルーム》 撮影:筆者

本展は村林のアトリエに足を踏み入れているような印象が強い。公開制作もいわゆるライブペインティングに期待するパフォーマンス性の強いものではなく、基本的に村林は床面に座り込み、細い筆を手に淡々と描き進めている。時折訪れた人たちと会話を交わす以外は、村林は黙々と描いている。その様子はともすれば外部に向かって閉じている印象を与えかねないが、《宙に咲く花》が葉牡丹から着想を得たものであることからも明らかなように、村林の作品は作家の興味をそそってやまない世界との絶え間ない交信の結晶としてある。


Fig.5 村林由貴個展「溢れ出て止まない世界。」(GALLERY RAKU)展示風景 4月25日 画像提供:村林由貴

おそらくかつての女性をモチーフにした作品は、村林の内面からまず出てきたものではなかったか。それは外部に向けられた喜怒哀楽綯い交ぜとなった村林の感情が女性という形を通して結晶化したものだ。しかし、今、村林は自ら世界に飛び込んでいる。この世界に存在するありとあらゆるものがその制作の手がかりになる。私は「溢れ出て止まない世界。」を、村林由貴の作家としての決意表明として見る。若い作家の今後に期待したい。