2010年11月21日日曜日

レビュー|「『その他』のチカラ。 -森村泰昌の小宇宙-」

展覧会名|「『その他』のチカラ。 -森村泰昌の小宇宙-」
会期|2010年11月20日(土)〜2011年3月13日(日)
会場|兵庫県立美術館

執筆者|樋口 ヒロユキ

★常設展なのに回顧展みたい!
兵庫県立美術館で開催されている、森村泰昌さんの展覧会「『その他』のチカラ」に行ってきました。

この展覧会は森村さんの個展ではありますが、すべてを同館で所蔵しているコレクション品で構成した、いわば常設展の一部。展示されているのは80点、ちょっとした特別展並みのボリュームがあって、是非ともご覧頂きたい展覧会になっています。


Fig.1 「『その他』のチカラ」展示作業風景

この展覧会は奈良県在住のコレクター、Oさんから寄贈された森村作品72点を中心としたものですが、Oさんのコレクションの何がスゴいかというと、森村さんのごく初期のものから、代表作を一通り網羅してるんですね。

たとえばギャラリー16(京都)で開催された、もっとも初期の伝説的なグループ展「ラデカルな意思のスマイル」の出品作なんかが、今回のコレクションには収まっている。これは森村さんが初めて絵画に化けた、とても貴重な初期作品。森村さんの原点なんです。

もちろんあの有名な「名画シリーズ」や、マイケル・ジャクソンやマドンナに扮した「サイコボーグシリーズ」、さらにはビビアン・リーをはじめとする映画女優に扮した「女優シリーズ」など、節目節目の代表作が、きちんと揃っているんですね。あくまで館蔵品だけなのに、ちょっとした回顧展を見ているようなんです。


Fig.2 「名画シリーズ」展示風景


Fig.3 「サイコボーグシリーズ」展示風景


Fig.4 「女優シリーズ」展示風景

★ふだんは見られない珍品の数々!
これだけでも見る値打ちは充分にあるわけですが、もう一つ面白いのは、Oさんというマニアックなコレクターであればこそ集められた、珍品の数々です。たとえば下のポートフォリオなどは、逆にこれまで美術館などでは、なかなか目にできなかったものです。


Fig.5 《ポートフォリオ「足」ASHI》(1995)

これがポートフォリオって、どういうこと? と思われるでしょう。新人作家にとってポートフォリオと言えば、自作のプレゼンをするための簡単なファイルで、市販のクリアファイルなんかにカラーコピーを挟んで作ったりします。

これが人気作家になると、このポートフォリオ自体に値段がついて、立派なコレクター向け商品になる。で、革張りのファイルやボックスなんかで、部数限定のポートフォリオを作るわけですね。森村さんのこの作品も、基本的にはそうしたコレクター向けアイテムとして作られたものなんです。

ところが、そこは凝り性の森村さんのこと、フツーのポートフォリオでは満足しない。カセットテープやらオルゴールやら、盛りだくさんのオマケを付けて、ついでに立体作品まで同梱して、豪華ボックスセットにしてしまったわけです。

もう一つだけ、珍品を紹介しましょう。森村さんの「書」の作品です。


Fig.6 《温新知故》(1995)

これ、妙な字でしょう? 実は森村さんが「作った」字なんです。こんな漢字、世界のどこを探してもありません。読みは「おんしんちこ」、つまり「温新知故」。温故知新をもじってオリジナルの漢字を作って、それを掛け軸にしたんですね。

★館蔵品だからこそ面白い!
このほかにも本展では、貼り混ぜ屏風あり焼き物あり、ビデオありオブジェありと、いわば一種の「裏モリムラ」的世界が広がりますが、正史から逸脱した裏面史であればこそ、森村さんの個性がかえってよく見える。こうした展示ができたのも、Oさんというコレクター、そしてそのコレクションを一括収蔵した、兵庫県立の大英断があればこそです。

常設展示って地味ですが、実はその館が「自前で持とう!」と決断して入れた作品で構成するもので、そのぶん美術館の底力が出るものなんですね。だいいち見てください、本展担当の江上ゆか学芸員が、汗びっしょりで設営するこの姿! これは見に行かなきゃ!


Fig.7 「『その他』のチカラ」展示作業風景

ちなみに兵庫県立では年間3回のコレクション展をやっていて、本展はその3期目のうちの一部分をなす「小企画」。同時開催は「描かれた人々-女と男」と題した館蔵品点なのですが、こちらも面白い展示です。たくさん面白い作品が出てるのですが、私が好きな作品を独断と偏見で、一点だけご紹介しておきましょう。


Fig.8 本多錦吉郎《羽衣天女》(1890)展示風景

上は明治の頃に描かれた「歴史画」というジャンルの作品で、私はこういう歴史画ってすごく好きなんですよね。歴史画は比較的短い期間で廃れて忘れられた、始祖鳥みたいなジャンルの絵画なんですが、和洋折衷の独特な面白さがあるんです。

ちなみに大阪市中央公会堂には、松岡壽という画家の描いた《天地開闢》という天井画があって、これも大正期の歴史画なんですが、この絵は森村さんの新作の中に、借景として取り込まれてるんですね。この新作は2010年1月に同館で始まる展覧会「森村泰昌 何ものかへのレクイエム -戦場の頂上の芸術」でも展示されるので、是非比べてご覧になってください。同じ歴史画つながりで平仄をあわせた、心憎い展示だと思います。

2010年10月7日木曜日

レビュー|「奥村雄樹 くうそうかいぼうがく・落語編」

展覧会名|「奥村雄樹 くうそうかいぼうがく・落語編」
会期|2010年8月22日(日)-9月19日(日)
会場|Misako & Rosen

執筆者|小金沢 智


Fig.1 「くうそうかいぼうがく 善兵衛の目玉 」 Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

ギャラリーに入ると、入った客から見ると下りの階段がある。その正面に緑色の座布団が敷かれた高座が設えてある。さらに右奥には同じく緑色の暖簾が見える。ただ暖簾に近づいてみても、隣接する台座に額装された写真が一点平置きにされているのと、近い壁にドローイングが貼られている以外には、暖簾をくぐってさらに奥まで進むなどができるわけではない。誰も座っていない空の高座と同様、その暖簾も不在の象徴としてあるように見える。
一方、壁面には映像が流れている[fig.1]。投影箇所はというと、客が高座に向かい合った場合の左側面である。流れているのは落語家・笑福亭里光による落語で、オープニングの8月22日にまさしくその場で行なわれたものだ[fig.2][fig.3]。映像中に流れていた里光氏の言うことには、話は奥村雄樹からのオファーを受けて作ったもので、奥村が「子供のころ「まんが日本昔ばなし」で見て衝撃を受け」(註1)たという「善兵衛ばなし」をベースにした創作である。


Fig.2 創作落語「善兵衛の目玉」 落語家 笑福亭里光、着想:奥村雄樹
オープニングレセプション公開録画の様子


Fig.3 創作落語「善兵衛の目玉」 落語家 笑福亭里光、着想:奥村雄樹
オープニングレセプション公開録画の様子

内容をかいつまんで説明しよう。善兵衛なる男が歩いていると人垣に出くわすのだが、人が多すぎ何が行われているのかまるで見えない。そこで善兵衛は、自ら両の目玉をくりぬき、自身の傘を高く掲げ、広げた傘の部分に目玉を置くことで、その様子を見下ろそうとするのである。不思議なことに善兵衛はそれで牛が戦っている場面を実見することができ、満足するのだが、そうこうしているうちにカラスが目玉を咥えて飛んで行ってしまうという不運に見舞われる。結局カラスが落とした自分の目玉を手にした善兵衛はその後、「目玉を眼窩から取り外してもその目玉が変わらず機能する」という特技(?)を活かし、今でいう胃カメラよろしく糸をつけた自分の目玉を患者の体内に入れて患部を見る医者となるのだが…。
映像には、落語家が身振り手振りを交えてこの話を語る姿が収められている。登場人物は善兵衛だけではなく、その妻や患者と善兵衛との掛け合いを里光氏は一人で演じている。その様子はパフォーマンスとして実に面白く、引き込まれる、笑わせられた。もっとも、この映像がただ落語の面白さを伝えることが目的ではないことは、度々映し出される客席や、里光氏のからだや高座の一部のクローズアップなどからも窺い知れる。第一この作品が映像による落語の忠実な再現であるのなら、設えている高座に当の映像が重なるよう、階段向かいの壁にそれこそ実物大の映像を映せばよいのである。けれども奥村はそうしない。それは結果として、落語家のいない空の高座と、映像としての落語家が客の視界に同時にしかし別に入るというギャップを生み、奇妙な欠落感を芽生えさせる。里光氏のパフォーマンスが高度なものであればあるほど、展示の空虚さが引き立つというパラドクスがある。

私は奥村の作品を過去に一度しか見たことがないのだが、その《エコーズ—リナとサヨのために(A)》と《エコーズ—リナとサヨのために(B)》(ともに2007年制作)という二つで一つの映像作品を比較対象として挙げてみたい。 (A)の映像には、室内でトランペットを吹く男性の姿が映し出されている[fig.4]。(B)の映像には、ある一軒家を訪れた子供たちが、なぜか壁にぽかりと空いた穴から聞こえるトランペットの音に耳をすませる(というか夢中になる)姿が映し出されている[fig.5]。私が作品を見た際の展示では(「個の世界とのつながりかた TOUCH THE WORLD」、ボーダレスアートミュージアムNO-MA、2009年10月24日—2010年3月7日)、(A)は二階建ての展示空間の階段の壁面に直接、(B)はその階段を上がった先の展示室の小さなモニターに映し出されていた。(A)と(B)でまさしく同じ時間が流れており、しばらくして随伴の女性に促され別の部屋—トランペットを吹いている男性がいる—へと向かう子供たちが迎える種明かしの瞬間は(トランペットを吹く男性は同じ家の中にいたのである)、(A)と(B)の世界が「つながる」実に感動的な場面であった。
《エコーズ—リナとサヨのために》と今回の作品は、どちらも「穴」が重要なファクターになっているという点で共通している。目玉、というよりは眼窩といった方がこの場合適切なのだが、つまり目玉が嵌っているそれも一種の穴と見なすことができる。はたまた、善兵衛の目玉がするすると入っていく患者の食道も、口という穴から出発していると言えるだろう。《エコーズ—リナとサヨのために》で子供たちが壁の穴に耳を近づける場面と、落語の場面は、「穴」を媒介にしてなにかとなにかが繋がっているという点で、非常に近しいものがある。


Fig.4 Echoes - a small concert for Lina and Sayo, 2007
2-channel video installation 08'50" each color/sound film still courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN


Fig.5 Echoes - a small concert for Lina and Sayo, 2007
2-channel video installation 08'50" each color/sound film still courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN

しかし、その実大きく異なるのは、《エコーズ—リナとサヨのために》の映像と映像が「同時」であるように見せていたのとは対照的に、本展で奥村は映像と展示という別のメディアを併置することで「時差」を生じさせている。落語のオチで、紐の切れた善兵衛の目玉が患者のからだから引き上げられずに収まってしまい、善兵衛の意思とは遠いところで肛門から突然排出されたように、ここでの他者と他者との「つながりかた」は一方的である。だが、この齟齬ないし欠落感のようなものが、私たちは自分たちのからだのことをわかっているようで実は全然よくわかっていないということを示唆しているようで、改めて今こうしてなにかを考えようとしている自分とこのからだとの(非)整合性に思いを馳せさせる。そう、奥村の「くうそうかいぼうがく」は、私たちのからだを切り刻むことなく、その内部を明らかにするというよりはそのわからなさを実感させる、「解剖学」とは似て非なる新しい体系なのではあるまいか。

註1.本展プレスリリースより引用

2010年10月6日水曜日

レビュー|三瀬夏之介「肘折幻想」

展覧会名|三瀬夏之介「肘折幻想」
会期|2010年10月2日(土)〜10月23日(土)
会場|イムラアートギャラリー京都

執筆者|樋口 ヒロユキ

★「やっと会えたね」
今回、会場となったイムラアートギャラリー(京都)で、私の姿を認めた三瀬夏之介さんは、私にこう言ったものでした。「やっとお会いできましたね」、と。
ミポリンと初めて出会った辻仁成さんの言葉を彷彿とさせますが、これにはちょっとしたわけがあります。私は三瀬さんのことを2年以上も前から気になっていながら、実際にお会いしたことはなく、ネット経由のおつきあいを続けていたからです。
私が三瀬さんの作品を初めて見たのは、2008年のことでした。このgallery neutron(京都)で開催された展覧会「三瀬夏之介展『ぼくの神さま』」で展示された作品というのが、とにかく無茶苦茶に面白かった。それは幅10メートルほどはあろうかという、巨大な「洛中洛外図」だったのです。
いわゆる近代的な遠近法を無視して、どうやら奈良や滋賀までを一望のもとに収めたと思しき洛中洛外図。しかも過去と現代とが入り乱れ、仏像も顔を出せば電車も走るという混沌とした大画面は、なんど見ても視覚的な迷宮に迷い込むようで、いつまで経っても全体像がつかめない。まったく不思議な作品でした。
私はずいぶん長いこと、そう、小1時間ほどは作品の前で、じっとしていたのではないかと思います。いくら面白い作品であっても、1時間も同じ作品を見ている人はそういません。おそらくギャラリーの方は私のことを、不審者のように思われたでしょう (笑)。
その後、三瀬さんは東北芸術工科大に職を得て山形へ。それ以降「東北画は可能か?」という問いかけを掲げての三瀬さんのご活躍は、多くの方が知るところでしょう。逆に、関西以外の場所へほとんど出向くことのない私は、三瀬さんと結局お会いする機会のないまま、今日に至ってしまったのです。
のちにneutronに出没した「不審者情報」は、どうやらギャラリー経由でご本人にも伝わったらしく、今年に入ってツイッターで三瀬さんが私をフォローしてくださるという出来事がありました。三瀬さんが山形へ行かれて以降、その活動を遠目に見て共感しつつも、もはや半ばご縁はないものと諦めていた私にとって、これは大変嬉しい出来事でした。そして今回、イムラアートギャラリーでの展覧会「肘折幻想」で、ついにお目にかかることができたわけです。


Fig.1 イムラアートギャラリー京都でのトークを終えて、《肘折幻想》を前に、三瀬夏之介(左)、小吹隆文(右)

★温泉地、肘折での滞在制作
今回展示された《肘折幻想》(2009)は、なんと十曲一隻からなる大作の屏風絵で、果てしなく巨大な山塊が描かれています。画面に向かって左側には、煙を吐き上げている火口らしきものが描かれている。どうやらこの絵全体が、巨大な外輪山のようなのです。
十曲一隻の屏風に描かれた外輪山の中にいると、自分自身が外輪山の山塊に囲まれ、圧倒されるような気分になります。しかも画面の隅々には、小さな村の家々のほか、磨崖仏や産業遺跡、さらには大小無数の花火が、小さく点々と描き込まれています。まあとにかく、ものすごいド迫力の作品です。
三瀬さんが語るところによると、これは山形にある「肘折(ひじおり)」という温泉地の風景なのだそうです。肘折は山形市内からクルマで1時間、2万年前の火山の大爆発でできた温泉で、外輪山と内輪山、二重の山脈に囲まれている。その温泉ができあがるもととなった火山の大爆発を、巨大な屏風絵に仕立てたのがこの作品。無数に描き込まれた花火の群れは、この天地開闢にも似た大爆発を、祝福するものなのだそうです。
現在あちこちに見られる観光化されたオシャレな温泉地とは違い、肘折は周辺の農家の方が長期滞在して体を癒す、伝統的な湯治場です。このため農家の高齢化とともに、湯治客は年々減少している。地元ではこうした状況に対して『肘折版現代湯治』という取り組みを続けており、そこから生まれたのがこの巨大な作品だったのです。
この『肘折版現代湯治』とは、アーティスト・イン・レジデンスと湯治を組み合せ、地域の活性化をめざそうというもの。2009年度には6人のアーティストが肘折に招待され、この地方特有の温泉文化に触発された作品を制作したといいます。もちろん《肘折幻想》もその一つで、制作にあたって三瀬さんは、かなりの時間を肘折で過ごされたようです。


Fig.2 《肘折幻想》(2009) 「肘折版現代湯治2009」展示風景 撮影:瀬野広美

★東北画は可能か?
このように近年の三瀬さんの作品の多くは、山形という具体的な土地や人との出会いから生まれています。いっぽうで三瀬さんは東北芸術工科大の学生たちとともに、土地の古老から聞き取りした話を灯籠絵に描くプロジェクトも進めるなど、多数の個人制作や共同制作のプロジェクトを通じて「東北画は可能か?」という問いかけを行っています。
三瀬さんは大学時代に日本画を専攻された人で、いまもいわゆる「日本画」の材料、技法を使って制作を続けていますが、こうした「日本画」というジャンルはもともと、明治以降に生み出されたものです。それ以前には狩野派があり円山派があり四条派があり、南画があり大和絵があり大津絵があり、さらには浮世絵がありといった具合で、「日本画」というジャンルは存在しなかったのです。
油絵の具を使った「洋画」が日本に流入し、それが絵画におけるデファクトス・タンダードを形成していく中で、対抗的に組織されたのが「日本画」です。そこからは明治以前の「日本絵画」にあったはずの、多様で豊かな対立や差異が、いっさい消去されています。「日本画」はいっけん日本独自のネイティブな美術のあり方のように見えながら、実は明治以降の近代化、西欧化、中央集権化の産物なのだといえます。
けれども三瀬さんはこうした「日本画」に対抗して、「東北画を立ち上げよう!」というアジテーションを行っているわけではありません。もし「東北画」が可能であるとしても、それがアンチ中央の政治的な対抗軸になるなら、そこでは東北というきわめて広いエリアに存在するはずの多様性や差異が、再び消去されてしまうでしょう。それでは単に「日本画」の縮小再生産にしかなりません。いま彼がやろうとしているのは、あくまで「東北画は可能か?」という、疑問形で終わる問いかけなのです。


Fig.3 「東北画は可能か?」(アートスペース羅針盤)展示風景

★ふたたび《肘折幻想》について
今回展示された《肘折幻想》は、火山の大爆発というカタストロフィックな光景を描いたものです。描きようによっては流れ出す溶岩や、炎上する家々や、逃げ惑う人々を描いた悲惨なものになったかもしれません。けれども三瀬さんはそうした絵にはしなかった。肘折の人々が完成したこの絵を見たとき、悲惨な絵だったらどう思うか。その逡巡やとまどいが、破滅的な表現を押しとどめたのです。
人によっては三瀬さんのこの決断を「地元の感情に配慮し過ぎの日和見だ」と、批判するかもしれません。でも、最終的に悲惨な絵にするか、それとも無数の花火のあがる祝祭的光景にするかは、二次的な問題に過ぎません。重要なのは彼が肘折のおじいちゃんやおばあちゃん、温泉に野菜を売りにくる朝市の人々、地元で肘折温泉再興に賭ける人々といった、個別具体的な人々との出会いを結実させる形で、この作品を描いたという事実です。
彼自身の制作を中心としながら、学生や地元の人々も巻き込んだ形で、「東北画は可能か?」というプロジェクトは続いています。そこで模索されているのは「東北」という広大なエリアの、抽象的、理念的な表現ではありません。全く逆に、無数の個別具体的な人々との出会いを丁寧に結実させていく、地道でミクロな試みなのです。
こうしたミクロな出会いを重ねた果てに、果たして東北画は可能なのでしょうか。その答えは誰にもわかりませんし、むしろ三瀬さんはそうした未決状態の問いかけのなかに、あえて踏みとどまり続けようとしています。この未決状態の問いにこそ、このプロジェクトのもっとも豊かで大きな可能性があります。三瀬夏之介さんの大作《肘折幻想》は、そうした煮えたぎるかのような可能性を孕みながら、私たちの前に立ちはだかっているのです。

2010年10月3日日曜日

レビュー|1floor2010「質朴/技術」

展覧会名|1floor2010「質朴/技術」
会期|2010年8月28日(土)-9月20日(月・祝)
会場|神戸アートビレッジセンター

執筆者|小金沢 智




Fig.1 中村裕太《郊外住居工芸》2010 写真提供:神戸アートビレッジセンター 撮影:表 恒匡

中村裕太が近年タイルを使用した作品を制作しているということを知らないかぎり、床に敷かれたタイルが作家の設えによるものであることに気づくまで、しばらくの時間がかかるかもしれない。二人展である本展では、壁面に柴田精一の切り絵を複数枚重ねることで作られた、彩りの鮮やかな作品「紋切重」シリーズが飾られているから、なおのこと鑑賞者の視線は壁に向くに違いない。
ともあれ、それは責められるべきことではない。なぜなら、床面を使用して作品を展開する作家は珍しくないが、それらの作品の多くが装飾的ないし華やかさを志向しているように感じられるのに対し、中村は作品にそのような視覚効果を求めているわけではないからである。タイルの淡く、つつましやかな色彩は、特別注意をそそがなければ展示室に自然に溶け込んでしまい、鑑賞者が歩を進めるたびにカタカタとその独特の音を鳴らすのみなのだ。



Fig.2 中村裕太《郊外住居工芸》2010 写真提供:神戸アートビレッジセンター 撮影:表 恒匡


Fig.3 中村裕太《郊外住居工芸》2010 写真提供:神戸アートビレッジセンター 撮影:表 恒匡


Fig.4 中村裕太《郊外住居工芸》2010 写真提供:神戸アートビレッジセンター 撮影:表 恒匡

だが、目線を落としてひとたび床の設えが通常とは異なることに気づいたなら、途端にタイルはただの建築資材ではなく、まさしく「建築」として見るものの中で立ち上がるだろう。まず、ところどころタイルの色が違うことに気がつけば、それがある建築物の原寸大の間取りをあらわしていることに思い至るのに、そう時間はかかるまい。なぜなら、中村は丁寧にも、玄関、廊下、脱衣室、浴室、等々、そこがどういう機能を持つ場所か、文字でもってタイルの上に書き示しているのである。玄関や部屋ごとのドアはもちろん、壁も、階段も、バスタブも、家具も、何一つないタイルだけが敷かれている展示室が、否応なく建築としての構造全体を想像させるのは、間取りに加え、文字によるところも少なくない。
タイルが敷かれた展示室の向かいに展示されていた資料[註1]から、この作品は、中村がかつて実在した建築—平和記念東京博覧会(上野公園、1922年)での私設陳列室「タイル館」—の間取りを類推して作り上げたものであることもわかる。陶を専門とする作家であり、近代日本におけるタイル受容史の研究者でもある中村は、自ら図面を引き、資料にあるとおり「用途ニ依リ種々ナル異形及特種製品ノ華麗ナル「タイル」ヲ以テ」[註2]、曰く《郊外住居工芸》(タイル・資料他、2010年)をここに「建てた」のである。タイルだけの《郊外住居工芸》は、言うならば木を見て森を想像させる力がある。

加えて、制作の起点に今は失われた建築物があるというのは、神戸という町ではとりわけ示唆的である。そう、《郊外住居工芸》はにわかに1995年の阪神淡路大震災を連想させるのだ。会場である神戸アートビレッジセンター自体が、震災前から構想され、震災によって開館の延期を余儀なくされ、1996年にオープンした施設でもある。構造をまったく伴わないタイルだけの《郊外住居工芸》の展示風景は、さながらグランド・ゼロの光景のようでもある。
阪神淡路大震災にかぎらず、日本の建築は震災や戦災によって崩落と誕生を繰り返している。中村の《郊外住居工芸》が種々のタイルによるわずか数十ミリの厚みにより、建築が内包せざるをえないそのどちらの時間をも同時に表現しているということはここに書き記しておく必要がある。《郊外住居工芸》の、静謐な佇まいのうちに建築の苛烈な宿痾が見える。

[註1]中村は、「タイル館」外観が掲載されていた資料(高橋由太郎編輯『平和記念東京博覧会画帖』洪洋社、1922年6月)と、以下の文言を参考に作品を制作した。
「木造平屋建建坪十一坪五合三勺、中央塔身アリ内部ハ玄関、広間、化粧室、廊下浴室、脱衣室、便所ヲ設ケ外部壁、天井及壁面一部漆喰塗ヲ除キタル総テハ化粧煉瓦貼付トシ舘ノ内外、室ノ性質及壁面、床等ノ用途ニ依リ種々ナル異形及特種製品ノ華麗ナル「タイル」ヲ以テ貼付ケタ」
(東京府庁『平和記念東京博覧会事務報告』、1923年)
[註2]同註1



2010年9月28日火曜日

レビュー|サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」

展覧会名|サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」
会期|2010年9月17日(金)-9月26日(日)
会場|新宿眼科画廊

執筆者|小金沢 智


Fig.1 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊

サイトウケイスケの個展「やさしいジュンカン」は、サイトウが第三者に請われて制作したものと、自らの意思で制作したものが、展示会場のほぼ半分ずつを分け合うように展示されていた。前者は、音楽関係のフライヤーやジャケットなどの原画、複製が多くを占め、壁面をめいっぱい使っていささか乱雑に展示されている。山形をライブで訪れるバンドのために、サプライズで作ったというウェルカムボードもあるなど、サイトウの音楽への傾倒を示す作品が多い。そして、これらは描かれているモチーフにかかわらずなんらかの目的(宣伝、装画など)を伴うものであるのだが、後者はそのような目的からではなく、サイトウの表現欲求に端を発しているようだ。わかりやすく言ってしまうならば、デザインと美術というジャンルの違いによって展示が分かれている。



Fig.2 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊


Fig.3 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景  画像提供:新宿眼科画廊


Fig.4 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊


Fig.5 サイトウケイスケ個展「やさしいジュンカン」(新宿眼科画廊)展示風景 画像提供:新宿眼科画廊

1982年山形に生まれ、2007年に東北芸術工科大学大学院ヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン領域を修了したサイトウケイスケは、フリーランスのイラストレーター・デザイナーを経て、現在は同大の美術科で副手を務めている。サイトウのキャリアはデザインから始まっており、今回もそれらの作品の方が多いのはキャリアの長短の差である。本人から話を聞くと、これからはデザイナーやイラストレーターではなく「作家」として生きていきたいという意思が強いのだが、サイトウの絵が、デザインの仕事を通して培われたように見えるという点は指摘しておく必要がある。
たとえばフライヤーに描かれているサイトウの絵は、かわいらしくもあり、毒々しくもあり、その両極を行き来しているのだが、美しいものもそうでないものもあらゆるものが分け隔てなく、同じ水の中に漂っているような透明感がある。画面に頻繁に登場する子どもたちは、私たちの側を見ているものは少なく、その視線の先は宙を彷徨っている。彼らは一様にふわふわとした雰囲気をまとい、この世界を私たちとは違うように見ているのではないかと思わせる佇まいをしている。また、頻出する穴(これはサイトウによると自販機などのコインの投入口が題材である)やナイフのようなモチーフは、私たちの「ここ」とどこか遠くを繋ぐ穴であり、「今」を打開し未来へと向かうためのナイフであるように見える。サイトウの絵には一貫して、このような「今」「ここ」に対するささやかな抵抗が見て取れる。窮屈な場所から、広い、それこそ宇宙のような無限に向かうための想像力の飛躍がある。

一方、イラストレーター・デザイナーではなく作家としての作品も、基本的にそれらの作品があったからこそ生まれていると言え、たとえばモチーフや色使いの類似はすぐに気づかされるところである。しかし、ではまったく同じかと言うとそうではない。大きく異なるのが素材である。サイトウの場合にかぎらず、フライヤーやジャケットの完成形は基本的に紙(ほとんどが一枚)だが、美術作品はそうである必要はない。サイトウの作品もまた、画面に複数枚の印刷物をコラージュしたものもあれば、パラボナアンテナに直接描いたものもあるなど、様々な画材・素材を使って作品を制作している。また、サイトウの特徴である細かな描画は、デザインのための場合は周囲に文字情報が入るため全体として雑然とするが、そうではなく、余白が十分にとられた場合はそこはかとない印象をもたらして興味をそそられる。はたまた、手の指先や足先を使って描いたという抽象的な作品もある。
これらの作品からはサイトウがデザインではできなかったことをしようとしていることがよくわかるが、本人がどういう思いであれ、デザインの経験があるからこその作品であり、その意味でサイトウにとってのデザインと美術の仕事はゆるやかに循環している。今回の個展は様々な要素の曲を詰め込んだアルバムのようなもので、今後はアルバムごとのコンセプト沿った曲の制作も求められるのかもしれないが、今のサイトウが整合性を気にかけようやく手に入れつつある自由を手放す道理もないだろう。誰がなにを言おうとやりたいことをやりきるという意思が、作品の血となり肉となることをサイトウの作品は確かに示していて清々しいのである。

2010年8月17日火曜日

レビュー|「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」

展覧会名|「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」
会期|2010年6月4日(金)-7月6日(火)
会場|INAXギャラリー ガレリアセラミカ

執筆者|小金沢 智


Fig.1 「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」(INAXギャラリー ガレリアセラミカ)展示風景
画像提供:金理有

天井から吊り下げられた引き戸、襖。床には畳が敷かれ、その上に作品が展示されている。これらと一点ずつ作品が置かれている台は、陶芸家・金理有が現在住んでいる100年近い築年数の古民家から持ち込んだものである[Fig.1]。古物を展示に取り込むことはともすればただの懐古趣味に見られる危険もあるが、「new exoticism」とあるとおり、全体としてそのような雰囲気はなく、現在を射程に捉えた内容になっている。




Fig.2 金理有《醜鶩発起》 画像提供:金理有

作品は他に類例を見ない。三畳分の畳の上に鎮座している(と言うにふさわしい)《醜鶩発起》(陶、H110cm W90cm D90cm、2010)[Fig.2]があらわしているのは、明らかに男性器—陰茎と二つの睾丸—であり、日本だけではなく世界的に見られる男根信仰におけるご神体を連想させる。だが、黒光りしている素材感、全体に施されている青銅器で見られる饕餮文から着想を得たという文様[Fig.3]、睾丸部にそれぞれついているぎょろりとした目玉(いずれも左目)は、ご神体としての男根には見られない鬱屈した禍々しさと呼ぶべきなにかがある。金が設えた三畳という狭さと、引き戸や襖がもたらす鑑賞者の視界の制限も、作品の印象をそのようなものにしている要因かもしれない。喩えがわかりづらいことをご容赦いただきたいが、《醜鶩発起》は、一人鬱々と部屋に閉じこもる思春期の少年を思わせる。その前の台座に展示されていた《破脳奮小鬼》(陶、H23cm W18cm D18cm、2010)は金属的な仕上がりの質感が《醜鶩発起》と対照をなすが、《醜鶩発起》はこの一つ目小僧の心情というか情念の塊のようだ[Fig.4]。生であり性への問いを引き金に爆発する衝動のようなものが籠められているように見える。


Fig.3 金理有《醜鶩発起》部分 画像提供:金理有


Fig.4 「金 理有 展 -ceramics as new exoticism-」(INAXギャラリー ガレリアセラミカ)展示風景
手前:《破脳奮小鬼》 中:《醜鶩発起》 奥:《千里眼》 画像提供:金理有

ただ、もともと《醜鶩発起》は《破脳奮小鬼》のような質感の仕上がりを狙っていたという。今回金は陶作品を平面に置き換えた作品も《醜鶩発起》の後ろ壁面に展示したが(《千里眼》[ワトソン紙・顔料・石墨、H40cm W90cm D3cm 、2010])、基本的にその制作手段は陶芸であり、作品を最終的に完成させるのは自身ではなく火である。したがって、できあがったものが当初狙っていたとおりに仕上がっているとはかぎらない。《醜鶩発起》は満足のいく形の展示ができたということだが、金がただあるビジョンを造形物として正確に形作りたいのであれば、陶芸は必ずしも適当な手段ではないのである。それこそFRPでも使えば、今より格段に作品をコントロールすることができるだろう。色が想定と大きく異なることもなければ、制作した作品が最後の焼成で割れてしまうことも、完成後に強度の問題で壊れることもない。それゆえ「なぜ陶芸なのか」と問いたくなるが、金は素材をコントロールできるか否か以上にその質感と工程そのものにも惹かれているから、他の素材では意味がないのだろう。金は、制作の衝動を造形に籠めつつ、コントロールし難い大きなものにも身を委ね、うすっぺらいものではなく重厚なものを志向し、その上で作品としての質の向上を試みる。できあがるのは今回のようなおよそ陶芸らしくない造形物かもしれないが、「陶芸でなにが可能か」を真摯に追求している金の動向から私は目が離せない。




2010年8月12日木曜日

レビュー|「デヴィッド・リンチ“DARKENED ROOM”展」

展覧会名|「デヴィッド・リンチ“DARKENED ROOM”展」
会期|2010年8月7日(金)〜10月9日(日)
会場|コム・デ・ギャルソン Six

執筆者|樋口 ヒロユキ

★映画を内包した絵画の空間
近年、美術の分野にも映像作品が増えてきましたが、ふつう美術展の映像作品は、壁面に掛けられたディスプレイなどで、まるで絵画のように展示されるのが一般的です。しかもそうした映像作品は、まるで絵画のようにディスプレイされ、好きな順番で好きな時間だけ眺められるようになっています。これに対して映画では、制作者が決めた順序で一本の映像を眺めるのが普通で、同時に二つとか三つの映像を、一望にすることもありません。
このように同じ映像作品といっても、美術分野における絵画的な映像作品は、映画とは大きく異なります。そこには本質的に異なる時間の体験があり、時間を積分したような美術分野の映像作品と、線形的な時間軸を持つ映画とでは、まったく異なる時間の構造、時間の体験を持っているのです。
それでは今日、映画と絵画は、再び手を結ぶことができるのでしょうか。今回の「デヴィッド・リンチ“DARKENED ROOM”展」は、そうした映画と絵画の接点を考えなおす上で、非常に刺激的な展覧会となっています。というのも今回の展示では、リンチの新作絵画計7点にくわえ、計12本、2時間半もの映像が上映されているからです。
会場の壁面には絵画が展示されているものの、その絵画に取り囲まれるように、会場には仮設のミニ映画館がしつらえられている。しかも、そこでは全作品が連続して上映され、観客は鑑賞の順序を選べないのです(途中入場、途中退席は可能ですが、順番そのものは入れ替えることができません)。いうまでもなくこの展示方法は、美術展での映像展示というよりも、映画の上映に似ています。
たとえば「Industrial Soundscape」という映像作品では、得体の知れない機械類が、まったく同じ動作を10分間も繰り返す光景が描かれます。まさに風景画のようにスタティックな作品ですが、今回の展示ではあえてこうした作品も、映画のような上映形式にして、ギャラリー内の映画館に封じ込めてあるのです。


Fig.1 “Industrial Soundscape” © David Lynch

★映画と絵画のミッシング・リンク
ご存知の通り、リンチは映画「イレイザーヘッド」や「エレファント・マン」のほか、TV番組「ツインピークス」などで知られる映画監督ですが、もともとワシントン美術大学や、ボストン美術館付属美術学校に通い、オスカー・ココシュカに師事しようとしたこともあった人だそうです。現在も映画監督を務める傍ら、ドローイングや立体などの制作を、プライベートで連綿と続けていることで知られ、2007年にはカルティエ現代美術財団で、個展「The Air Is On Fire」を開催したほどです。
残念ながら、これまで私はリンチの絵画を見たことがなく、フランシス・ベーコンに影響を受けたと言われる彼の絵画がどのようなものか、そして彼の中で映像と絵画がどう結びついているのかについては、私の中で謎のままでした。今回の彼の展覧会は、そうした彼の映像と絵画の間のミッシング・リンクを、見事に物語るものだったと言えます。
今回上映された彼の初期作品、たとえば”Six Men Getting Sick”を見てみると、彼が映画を「時間的に連続した絵画」として考えていたことがよくわかります。そこでは彼のドローイングが、次々に描き足され、塗り重ねられ、切り貼りされて、結果的に「アニメーション」と呼ばれるものになっていく様が映し出されているからです。
また、プロデビュー直前の1970年に製作された短編映画”The Grandmother”を見てみると、生きた俳優の動きまでが、一コマずつコマ撮りされ、コマ撮りアニメとして制作されているのが目に入ります。リンチにとって映像とは、まさに「Motion Picture」であり、絵画を内包するものだったのです。


Fig.2 “The Alphabet” (1968) © David Lynch

★絵画を体験することと「夢」
もう一つ、リンチ映画と絵画の相似性を述べておきましょう。絵画は画家が何時間も、あるいは何百時間、何千時間もかけて制作するものですが、私たちはまったく一瞥のもとに、それを眺めることができます。さらに私たちは複数の絵画を、まったく一瞬の時間で眺め、実際に製作されたのとは全く別の時系列で見ながら、展覧会場を通り過ぎることができます。絵画を見るとき、私たちは実はきわめて複雑で膨大な時間の重なりを、前後の脈絡もなく体験しているのです。絵画を見るという体験は、実はまるで夢を見ているかのような、無時間的で因果律を無視した体験なのです。
「ツインピークス」などのリンチ作品をご覧になった方なら誰もがおわかりになると思いますが、リンチ映画の中では時間が実に複雑に流れ、しかも登場人物の見る夢が、非常に重要な役割を果たしています。通常の映画はまさに「Motion Picture」であって、絵画を線形的な時間に並べたものなのですが、リンチ作品はそうした通常の映画とは違って、この映画に特有な、時間の線形構造が壊れているのです。その体験はまさに、私たちが絵画を見るとき、無意識のうちに経験していることと相似形なのだと言えます。
ただし、絵画と映画の間には、大きな隔絶が存在します。映画はその誕生以来、銀幕の上に踊る光と影を本質としてきました。このことは映像の支持体が液晶やプラズマになった現在でも、基本的に変わらない事実です。ところが絵画は常に手で触れられるマチエールとして存在し、その質感、量感を私たちに伝えてきます。デュシャン以後、アウラの消滅が幾度となく叫ばれたあとの現在も、絵画が生き残っている秘密はそこにあります。そして今回展示された、リンチの新作絵画7点は、実に生々しい、手が汚れるのではないかと思われるほどのマチエールの感触を、私たちに伝えるものばかりなのです。


Fig.3 “BLUE BALLS”(2009) Robert Wedemeyer © David Lynch

★リンチの見せる曖昧な迷宮世界
このように今回の展覧会は、わずか絵画作品7点、あとは映写ブースがあるだけという、きわめてコンパクトな展示でありながら、映画と絵画の間を巡る、実に様々なリンケージを示した、複雑で多層的な展示になっています。そこには映画と絵画の間の相似性と相違点が複雑に絡み合い、まさにリンチ映画に描かれる夢のような、絵画と映画の曖昧な迷宮が広がっているのです。
この展覧会から私が感じ取ったことは、実を言えばもっと複雑なもので、残念ながらすべてをここに書き記すことはできません。あとの残りは10月末に刊行予定の『TH』44号(アトリエサード刊)に書こうと思っていますので、ご興味をお持ちになられた方は、同誌を是非お手に取ってみてください。
なお、本展は東京へは巡回しないとのことですので、お近くにお立ち寄りの際は、是非ともご覧になってください。会期は10月9日まで、繰り返しますが最低でも2時間半は鑑賞にかかりますのでご注意を。それでは今回はこのへんで、ごきげんよう。

2010年7月21日水曜日

レビュー|アートフェア「ART OSAKA 2010」

展覧会名|「ART OSAKA 2010」
会期|2010年7月9日(金)-7月11日(日)
会場|堂島ホテル

執筆者|樋口 ヒロユキ


こんにちは、はじめまして。今回からこの「批評の庭」でお世話になる、樋口ヒロユキと申します。福岡県生まれの芦屋市在住。在野で美術評論を書いています。
もともと広告業界にいた私は、余技としてアニメやマンガ、演劇といったサブカルチャーの紹介をするうち、美術評論に転じたという経緯があり、このため「サブカルチャー/美術評論家」と名乗っています。両刀使いのようなものですね。
そうしたわけで、表通りのアカデミックな美術評論の皆さんから見れば、ちょっとヘンテコな物書きではあるのですが、なるべく肩の凝らないスタイルで書いていきたいと思っていますので、どうぞお気軽に読み飛ばしていただければ幸いです。

さて、閑話休題。先日私は「 ART OSAKA 2010」という催しに行ってきたのですが、このイベントは大阪や京都のギャラリーが一堂に集って即売会を行う、いわゆるアートフェア・イベントで、いわば非常に高級な「アートのフリマ」と思えば間違いありません。
なにせアート版のフリマですから、場所もちょっと凝っています。JR大阪駅から徒歩数分のホテルを、都合4フロアも借り切って行われます。2002年から続いているので、もはや夏の恒例行事。会期中はエアコンが効いているはずのホテルが、人いきれでムンムンするほどの賑わいを見せます。
今回は約半数のギャラリーが、個展形式で出展を行っていましたが、やっぱり個展形式だと頭も整理されて見やすいな、というのが第一印象でした。なかにはいくつか強く印象に残るギャラリーがあったので、ここにご紹介しておきたいと思います。

★桑島秀樹の「Eupholia」
まずはギャラリー「ラディウム—レントゲンヴェルケ」から出展した、桑島秀樹さんの作品です。桑島さんの作品は、お祭りの山車のようにも、巨大なミノ虫型ロボットのようにも見えるのですが、実はこれ、プラスチック製の安価なオモチャを積み重ねたもの。子どもだったら「あ、なんとかレンジャーの剣だ!」などと、ズバズバ指摘できるかもしれません。子どもにとってはまさに夢のような作品と言えるでしょう。


Fig.1 桑島秀樹「Eupholia」シリーズ(2010) 「ART OSAKA 2010」(堂島ホテル)展示風景 撮影:筆者

桑島さんはこの一連の作品を「Eupholia」シリーズと名付けています。Eupholiaというのは「多幸症」と訳されますが、睡眠薬などの副作用による、ちょっと病的なハッピーさを指す言葉です。確かにそう言われてみれば、子どもにとっては夢のようなオモチャの集積も、これだけ集まるとどこか毒々しく、化学製品特有の刺激的な色彩であふれていて、まさに多幸症的という感じがします。
実はこうしたカラフルなオモチャ、生産しているのはその多くがアジアの新興国で、なかにはもっと労賃の安い、低開発国で生産されているものもあります。かつては日本国内で生産されていたはずなのに、もはや国内で生産しても、コスト的に引き合わなくなっているんですね。言い換えるなら、こうした安価なオモチャの製造は、一つの国が低開発国から新興国へと成長して行く過程で、必ず経験するステップなのです。
桑島さんによれば、こうした段階にある国では必ずと言っていいほど、化学物質による環境汚染や公害が蔓延しているのだそうです。ちょうどかつての我が国が、未曾有の経済成長を謳歌しながら、同時に水俣病やイタイイタイ病などで苦しめられていたのと、ちょうどパラレルの関係だと言えます。
急激な経済発展の過程にある国が経験する、病的な狂躁状態の生み出したもの。それがこの「Eupholia」シリーズです。そう思うとこのド派手な作品、どこか不気味に思えてくるから不思議です。

★現代美術二等兵の「SALE」
美術作家というのは展覧会に行けば、きわめて低料金、もしくはタダで作品を見せてくれるのですが、その替わり誰かに作品を買ってもらって、その代金で生活しています。その「作品を売る」機能を持つのが商業ギャラリーであり、こうしたアートフェアなわけですね。従って美術作品は、人に何か物事を感じさせ、考えさせる芸術作品の面と同時に、商品としての側面を持っています。
ところが、ここに問題があります。どんな商売でもそうですが、高級品というのは「売らんかな」の態度で接客しては売れませんし、ましてゲージュツならなおさらです。「なんぼでっか、まかりまへんか」的なやりとりなどもってのほかで、会場ではもっぱらコーショーな芸術論や作品論が交わされます。
実際には「商品と作品」という二つの顔を持つ、双面神ヤヌスのような存在がアートなのに、片方の面はまるで存在しないかのように、誰もが振る舞っている。それがアートの世界なんですね。
こうしたアートの二面性を、巧みにおちょくった展示として目立っていたのが「松尾惠+ヴォイスギャラリーpfs/w」から出品した、現代美術二等兵でした。彼らの展示は見ての通りで、会場の至る所に「SALE」とか「大特価」といった垂れ幕が張られ、正札には赤線が引かれて値引きされ、蛍光マーカーで書かれたポップが踊っています。ほとんどスーパーの安売りセールですね。


Fig.2 現代美術二等兵 「ART OSAKA 2010」(堂島ホテル)展示風景 撮影:筆者

現代美術二等兵は、籠谷シェーン、ふじわらかつひとの二人からなる美術ユニット。美術にも駄菓子ならぬ「駄美術」があっていいはずとの思いから、誰でも楽しめるバカバカしい作品を発表し続けてきた二人組です。マガジンハウスから単行本『駄美術ギャラリー』も刊行されているので、ご覧になった方も多いかもしれません。
今回は「ホテルでのアートフェア」という、いかにも高級そうな演出の凝らされた、そのくせ「売り売り」の展示会という、アートの持つ二律背反性が露骨に出た展示会だったのですが、そのことを逆手に取って表現に結びつけた例は、私の見る限りこの現代美術二等兵だけのようでした。
環境の持つ意味を最大限に活かした展示という意味で、彼らの展示はきわめてサイトスペシフィックなものだったと言えるでしょう。冗談めかして二等兵などと名乗っていますが、なかなかどうして、都市ゲリラ戦にも結構強い、クセもの古参兵であるようです。
 
★井桁裕子と山路智生
このほか、ギャラリー「ときの忘れもの」から出品した井桁裕子さん、「乙画廊」でのグループ展形式の会場に出品した山路智生さんが、私にとっては興味深い作家でした。
井桁さんの作品は、いわゆる球体関節人形ですが、具体的なモデルを象って制作されているのがその特徴。モデルの歩んだ人生を、綿密で全人的な付き合いを通じ、丹念に聴き取って作られています。


Fig.3 井桁裕子《Makiko doll》(2009) 「ART OSAKA 2010」(堂島ホテル)展示風景 撮影:井桁裕子

ここに掲げた作品の場合、片脚を失った女性がそのモデル。人形の片足が奇妙な形の義足になっているのはそのためです。これを見て「単にグロい人形」と思ったか、足早に立ち去る人が多かったのは実に残念。わからないもの、いやなものほど作家にその思いを聞いて、じっくり考え、見て欲しいと思います。

もうお一方の山路智生さんは、自作の完全変形オブジェを出品した新人作家。下の写真にある右と左の二点は、実は全く同じもので、ビス留めされた部分を回転させると、このように変形します。


Fig.4 山路智生《h010101》(2009) 「ART OSAKA 2010」(堂島ホテル)展示風景 撮影:筆者

山路さんはもともと理系の技術職から、この世界に転進してきた変わり種。CADで自ら設計し、本来は工業製品の試作に使う「3Dプロッタ」という工作機械を使って、このオブジェを完成させたのだとか。「とにかくこんなもの作っちゃったから売ってくれないか」と、ギャラリーに持ち込んできたというツワモノです。
しゃちょこばった美術史とは何の関係もない、技術オリエンテッドなその作品は、美大、芸大卒の常識的な作品とは対極にあるもの。作品数がまだ少ないため、今回はグループ展での参加でしたが、今後どういう展開を遂げて行くのか、個展を是非見てみたい作家です。

……というわけで、自分の気になる展示をピックアップしてみたのですが、いずれもある種の「チープさ」や、人形などのオモチャ、玩具と、なんらかの関係があるものばかりを選んでしまったのは、我ながら奇妙な思いがします。ただ、これは単に自分のなかにそうした志向性があるというだけでなく、今の美術の中にある、なんらかの潮流を物語っているのかもしれませんね。
さて、初回からあれやらこれやら詰め込んでしまいましたが、あまり飛ばしすぎて息切れするとなんですので、今回はこのへんでお別れしましょう。それでは、また次の機会まで、ごきげんよう。

2010年6月24日木曜日

レビュー|ドミニック・エザール「移す」

展覧会名|ドミニック・エザール「移す」
会期|2010年4月13日(月)-4月27日(火)
会場|Gallery FURUYA

執筆者|宮田 徹也

ドミニック・エザール(Dominique He´zard)は1951年パリに生まれ、1978年ブレスト美術学校卒業、 1978~80年渡米、サンフランシスコで絵画と東洋文化を学び、1980~81年に日本滞在、書道を学び、1985~87年には文部省の奨学生として東京学芸大学で書道を専攻、以後、東京に在住するアーティストである。

日本で何度の引越しをしているのかは定かでないが、今回の展示は実際にドミニックが引っ越した際に廃材と化した素材を用いて空間を構成した。引き払う前に自宅で行ったインスタレーションが、そのモチーフになっているとドミニックは語る。

ギャラリー内には天井から幅1メートルはあろうか大きな雁皮紙が2枚張り巡らされ、庭にあった樹というが墨と筆で描かれている。三枚の畳にも雁皮紙が張られ、残りの三枚を含めた六枚の畳が壁、床に恣意的に配置されている。床にはアスファルトが転がり、畳がその上に載せられていたり、アスファルトが畳に載っていたりする箇所もある。白く塗装されているアスファルトもある。壁には人体ほどの木片も立てかけられている。その木を雁皮紙にフロッタージュした絵画作品が二枚、離れて壁に貼られている。訪れたものは畳に座ることが許されている。

ドミニックに話を聞くと、エスキースは一切描かず、閃いた素材を持ち込んで、画廊で配置を決めたという。その割には空間がびっしりと凝縮している感があった。サイトスペシフィックという特定の空間のために考察された案であっても、インスタレーションをこの場に持ち込んだ違和感はない。ドミニックという思想が中心にあり、それがここで一杯に広がっていったような空間である。

ドミニックは長い作家生活の中ではじめてビデオを使用し、モチーフを30分の映像として収め、この空間の壁面に投影した。晴れた日の和室、畳、障子、襖、床の間、縁側で風に揺れる和紙が接写で録画されている。この映像を見て、谷崎潤一郎の『陰影礼讃』を思い起こした。

「…けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろいろの関係があるのであろう。たとえば煉瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。(中略)われわれは、それでなくとも太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠ざける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。われわれは、この力のない、わびしい、果敢ない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。(中略)我等に取ってはこの壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装飾にも優るのであり、しみじみと見飽きがしないのである。」(初出・1933年12月号、34年1月号「経済往来」、ここでは2000年中央文庫版から引用した。)

谷崎は建築の機能よりも「美」に添ったこと、この美とは「陰翳」であること、「ほのぐらさ」こそが装飾であることをここで述べている。ドミニックの展示にこれを当て嵌めるとどうであろう。機能よりも美を選択した点は当て嵌まる。映像には「ほのぐらさ」が残るとしても、展示全体を見渡すと、ここには「陰翳」という曖昧さは存在せず、「光と影」が、明確に分類されている。暗くした画廊に映像を投影することが、それを証明している。映像に映し出される「過去」と「現在」行われている展示は想像力の中で繋がれていても、「現実」では二分化されているのだ。

そして面白いことに、この映像によって空間に「影」は生まれないのだ。岡倉覚三が推奨した近代の「日本画」以前から、日本画に影が描かれることは滅多に無かった。西洋画では、中世から現代に至るまで「影」はくっきりと描かれている。SFを含めた現代の娯楽映画にさえも浮遊物の影を外すことは決してないのだ。

光もない、影もない、陰翳もない。これが今回の展示の最大の特徴である。これからドミニックがどのような作品を創り出していくのか。それは期待でも刺激でも在り得るのだ。


Fig.1 ドミニック・エザール「移す」(Gallery FURUYA)展示風景 Photo by 田中みどり
Courtesy of the artist and Gallery FURUYA


Fig.2 ドミニック・エザール「移す」(Gallery FURUYA)展示風景 Photo by 田中みどり
Courtesy of the artist and Gallery FURUYA


Fig.3 ドミニック・エザール「移す」(Gallery FURUYA)展示風景 Photo by 田中みどり
Courtesy of the artist and Gallery FURUYA


Fig.4 ドミニック・エザール「移す」(Gallery FURUYA)展示風景 Photo by 田中みどり
Courtesy of the artist and Gallery FURUYA


Fig.5 ドミニック・エザール「移す」(Gallery FURUYA)展示風景 Photo by 田中みどり
Courtesy of the artist and Gallery FURUYA

【ドミニック・エザール略歴】(Gallery FURUYA webより転載)
個展
2010 「移す」Gallery FURUYA/東京
「剥―復」ギャラリー・オンブル・エ・ルミエール開廊20周年記念/シャトー・ド・ラ・ブリアン/サンマロ・フランス (予定) マリ・セガラン(ダンス), 吉野弘志(ウッドベース), ヒグマ春夫(映像), 木村破山(書家), エリック・ブロー(絵画)とのコラボレーション
2008 「ズレ」 Gallery FURUYA/東京
「雨戸」 ポラリス・ジ・アートステージ/鎌倉・神奈川 マリ・セガラン(ダンス), 吉野弘志(ウッドベース), ヒグマ春夫(映像)とのコラボレーション
2006 ギャラリー・オンブル・エ・ルミエール/サンマロ ・ フランス マリ・セガラン(ダンス)とのコラボレーション
2005 ギャラリー・オンブル・エ・ルミエール/サンマロ ・ フランス
2004 ギャラリーGALA/東京
2003 西本ビル再生プロジェクト1/和歌山
2000,02 ギャラリー・セガラン/サンマロ ・ フランス 
2000 双ギャラリー/東京
1998 「ハイブリット・アジア」ギヤラリー上田/東京トウキョウ
「ドミニック・エザールと四人の文人」堀田善衛, 中村 真一郎, 大岡信, 高橋治/ギヤラリー上田/東京
1997 ギャラリー・イコン/レンヌ・ フランス
1995 エスパス・ジャポン/パリ ・ フランス 
アレニコル アートスペース/ブレスト ・ フランス 
1993 ギヤラリー上田デコール/東京
1992 アートスペース モーブ/神戸  
1991, 93, 97, 05 ギャラリー・オンブル・エ・ルミエール/レンヌ ・ フランス
1989, 90, 92 アートスペース モーブ/神戸
1989 「榊臭山とドミニック・エザール」ギヤラリー上田/東京
1988 トリアングル カルチヤーセンター/レンヌ ・ フランス
1987 ギヤラリー上田ウェアハウス/東京
1983 グラン・コルデ カルチャーセンター/レンヌ ・ フランス
1981 日辰画廊/東京

グループ展
2008 現代美術作家5人の表現 "人と空気の変容展" 臨済宗大本山 円覚寺境内/神奈川・鎌倉
2000 アトリエ・デスティエヌ/ポンスコールフ ・ フランス
1998 FIAC SAGA (ギャルリ・ゴチエ)/パリ ・ フランス 
1997 ギャラリー・アールテム/カンペール ・ フランス
1989 フランス革命200周年記念 アレニコール “青、白、赤(動く)"/ ブレスト ・ フランス
1983 アート プロウィゾワール/ル・マン ・ フランス
1982 アート プロスペクト “広告塔に14人”/レンヌ ・フランス

2010年6月15日火曜日

レビュー|内倉ひとみ個展「Lumière」

展覧会名|内倉ひとみ個展「Lumière」
会期|2010年4月7日(水)-19日(月)
会場|麻布十番ギャラリー

執筆者|宮田 徹也

1980年代から活躍し、国内外で多くの実績を誇る内倉ひとみが個展を開催した。出品した作品タイトル別に《Lumière》(紙、エンボス、切り抜き、クリアコーティング)が14点、《Émerveillé》(紙、プリント、切り抜き,アクリルミラー)が4点、《輝く細胞》(凹レンズ、FRP、革、鏡)が3点、合計21点である。《Lumière》は2010年制作の各114x200cmの四枚組1点と 35x35cmが4点、2009年制作の各114x200cmの3枚組が1点と68x90cmが1点、52.5x90cmが2点、30x52cmが2点、34x25cmが3点である。《Émerveillé》と《輝く細胞》は総て2010年制作である。前者は皆27x20cmのシートサイズと同じサイズで展開しているが、後者は14x15x16cm、15x15x14cm、20x22x20.5cmとサイズがそれぞれ異なる。

同一のタイトル作品が並ぶことが示すとおり、内倉はインスタレーション的展示を目論んでいると言える。天井の高い麻布十番ギャラリーは、《Lumière》で満たされていた。入り口向かって右の壁面は新作の四枚組が天井から吊るされ、左の壁面の横に伸びる柱の上部には2009年の三枚組が並んでいる。下部には《Émerveillé》が床置きされている。空間を充実させた展示方法と言える。一階事務所前、階段壁面、二階展示室にも作品が散りばめられている。どこに身を置いても眩い白が眼に飛び込んでくる。白というよりも切り抜かれている為か、透過する作品にも見える。透明であるにも関わらず、有機的な印象を受けるのは素材が紙=植物=生き物という、我々に近い存在を最小限の手順で作品と化したせいなのか。私が訪れたのは昼間であったため、外光が画廊一杯に差込み、《輝く細胞》がその光を反射していた。夜に訪れたのであれば、四枚組、三枚組の作品の足元に設置されている蛍光灯が光を放ち、また違った表情を浮かべたのであろう。

《Lumière》の制作方法は、一枚の紙に掌に収まる様々なサイズの円で浮彫加工し、円の隙間を切り抜いてクリアコーティングを施しているのではないかと憶測することが出来る。新作の《Émerveillé》は、この作品の裏にアクリルミラーをこちらに向けて配置したものだ。それにより、更に輝きを増している。立体の《輝く細胞》は僅かであっても光を乱反射し、内倉によると「加工された光」であり「光の小さな粒が私たちに降り注ぐ、と同時に私たちの体内にも光が宿っているのではなかろうか。」という(内倉ひとみweb http://www.k4.dion.ne.jp/~hitomi_u/index.html)。

《Lumière》、若しくは《Émerveillé》に表れる円を、内倉が《輝く細胞》で語るような「光」と見ることも、泡や雫といった水のイメージ、シャボン玉や雲といった空気のイメージと捉えることも可能であろう。

内倉はこの展覧会に際して、以下のようなコメントを残している(同web)。「作品Lumièreの光と人の体内に潜む光の粒が呼応する。人の光は輝きを取り戻し、活性する。体内の光を呼びおこす=生(=一瞬)が輝く」。

《Lumière》、若しくは《Émerveillé》をぼんやりと見詰めていると、円が盛り上がっていると思い込んでいたところが突如、窪んで見える。窪んでいると思えば盛り上がって見える。この視覚を繰り返していくと、最早盛り上がっているのか窪んでいるのかが認識不可能になる。この視覚の変化もまた、内倉の言う「呼応」なのかも知れない。

内倉のコメントにある「光」を「闇」に置き換えても、この視覚は成立するであろう。ここでいう「闇」とは、モノが生み出す「影」や人間の内面に存在する「翳」という消極的な印象のものではない。光が当たらない場所の「陰」である「闇」を指す。《Lumière》はモノであるから、光が当たり、影が生まれる。これを反転させる意味でもない。内倉はあくまで白い作品を「光」であると譬えている。

闇と体内に潜む闇の粒が呼応し、活性する。このような見解が可能なのは、それだけ内倉の作品が一元的だからだ。内倉の「光」には「闇」を含んでいない。「闇」とすれば「光」を含まないように。一元論的作品であるにも関わらず見る者が窒息しないのは、一元論すらも含んでいない、絶対な存在に成り得るからかもしれない。否、「絶対」という原理すらも超えている、或いは初めから持ち合わせていないのかも知れない。

それでも私が闇にこだわる理由は、この一元論に「匿名性」を感じるからだ。作品の特質、タイトル、展示方法、総てが《Lumière》という名の下にある匿名だ。この匿名性が、近代美術が抱える天才主義に対する答えであると言い切ることが出来ない。内倉が過ごしてきた80年代から現代までの美術の動向には、近代を超克する挑戦が大きく渦巻いていたのである。

そのような動向の中で内倉が現代に何故このような作品を制作し、インスタレーション的な展示方法を選んでいるのか。そのように考えると、内倉の展示方法は「インスタレーション」ではないのかも知れない。「絶対」や「匿名性」を感じるのは、見る此方側の現代的な問題だ。作品と見る者が持つ彼岸と此岸の関係は、常に莫大な時間と思考を要する。この問題に対する思索を怠らないようにすれば、「インスタレーション」とは何か、何だったのかという問題に立ち返り、そこから現代の内倉の作品に向かい合うことも可能になる筈だ。


Fig.1 《瞬く細胞》(凹レンズ・FRP・革・鏡、14x15x16cm、2010) 撮影:内倉ひとみ


Fig.2 内倉ひとみ個展「Lumière」(麻布十番ギャラリー)展示風景 撮影:内倉ひとみ


Fig.3 《Lumière 3枚組》(紙・エンボス・切り抜き・クリアコーティング、各114x200cm、2009)
撮影:内倉ひとみ


Fig.4 《Lumière 4枚組》(紙・エンボス・切り抜き・クリアコーティング、各114x200cm、2010)
撮影:内倉ひとみ


FIg.5 《Émerveillé》(紙・プリント・切り抜き・アクリルミラー、27x20cm[シートサイズ]、2010) 
撮影:内倉ひとみ

【内倉ひとみ略歴】(「内倉ひとみweb」より転載)
1956 鹿児島県に生まれる
1980 多摩美術大学絵画科日本画専攻卒業
1982 多摩美術大学大学院芸術研究科修了
現在 栃木県那須町在住

受賞 設置
1985 渋谷丸井本店壁画制作、東京
1988 第1回「サンバースト空間アート大賞展」準大賞、日の丸自動車学校、東京
2000 「Angel Dew-天使のみずのみ」設置、霧島アートの森、鹿児島
2003-2004 文化庁新進芸術家派遣海外研修制度によりフランスに派遣される
2003-2004 シテ・インターナショナル・デ・ザールに滞在
2005 「光の花」設置、エレガーノ神戸、兵庫
2006 シテ・インターナショナル・デ・ザールに滞在
2007 ふじみ野駅前広場モニュメントコンペ準大賞、埼玉

個展
1982 スタジオ4F、東京
1983 ギャラリー・パレルゴン、東京
1984 銀座絵画館、東京
1985 スタジオ4F、東京
1986 鎌倉画廊、東京
1988 真木画廊、東京
    お茶の水画廊、東京 
鹿児島県文化センター、鹿児島
ギャラリーバー・ハイネケン、東京
社団法人日本外国特派員協会、東京
1989 アトリエ・アリス、神奈川
お茶の水画廊、東京
1990 ファインアート柊木、鹿児島
ゆとりギャラリー、横浜
1991 アートギャラリーK2、東京
ファインアート柊木、鹿児島
1992 ジーン・コンテンポラリー・アートスペース、埼玉
ギャラリー古川、東京
1994 日本画廊、東京
1995 真木田村画廊、東京
4℃、東京
アートスペース・ジーン、埼玉
1996 ギャラリー川野、鹿児島
お茶の水画廊、東京
「真昼の星空」 タケダエキジビットハウス、神奈川
1997 日本画廊、東京
1999 「HIKARI-大切な記憶」アートギャラリー閑々居、東京
「HIKARI-こどもの心にもどって・・・。」香染美術、東京
「HIKARI-湧きあがる記憶」アンテーヌ、神奈川
2001 「輝く細胞」TEPCO銀座館プラスマイナスギャラリー、東京 
「湧きあがる記憶」アンテーヌ、神奈川
2003 「光MAMIRE」アートギャラリー閑々居、東京
2004 「Numbers」シテ・インターナショナル・デ・ザール、パリ、フランス
2005 「内倉ひとみのアトリエ」アートギャラリー閑々居、東京
2006 「光の未発に」アートギャラリー閑々居、東京
「Lumiére」スペース・ベルタンポアレ、パリ、フランス
「Lumiére」ギャラリー・ブレーマー、ベルリン、ドイツ
「光のチャペル」ムゼカラカラ、神奈川
2008 「幻の影」マキイマサルファインアーツ、東京
2009 「踊る光」 Exhibit Live & Moris gallery、東京
「光・みつめる」 プラザギャラリー、東京

グループ展
1981 「表現の多様性展Ⅱ」、多摩美術大学大学院、東京
1982 4人展(久保裕、タナカケンジ、渡辺薫と)、Studio4F、東京
1983 「饗宴・第2回-巨大な絵画による」名古屋市博物館、愛知
1984 2人展(奥野穂と)、銀座美術倶楽部、東京 
「身辺からの飛翔-芸術おもちゃ+図工少女+地球上の光景」名古屋造形芸術短期大学Dギャラリー、愛知
第1回「Tama Vivant '84 戯れなる表面」多摩美術大学八王子キャンパス、 東京
第1回「Tama Vivant '84 戯れなる表面」西武百貨店八王子店7階特設会場、東京
1985 3人展(海老塚耕一、戸谷成雄と)、Soo Gallery、大邸、韓国
第5回「ハラアニュアル」原美術館、東京
「身辺からの飛翔-芸術おもちゃ+図工少女+地球上の光景」NEWS、東京
「さまざまな眼」4(菅野由美子、吉澤美香と)、かわさきIBM市民文化ギャラリー、神奈川
1986 「明日への造形-九州 第6回色彩の豊饒」福岡市美術館、福岡
「正しい発音」NEWS、東京
1987 8人による小品展、スペース遊、東京
8人による連続2人展、スペース遊、東京
1988 「Spiral Take Art Collection 1988」スパイラルガーデン、東京
山口の現代美術Ⅴ「ニュー・ジャパニーズ・スタイル・ペインティング」山口県立美術館
Artist Works、ルナミ画廊、東京
1989 「アートエキスポ・ニューヨーク」ジェイコブ・ジャヴィッツ・コンベンションセンター、ニューヨーク、アメリカ
「Reflection Part 3-階段展」新宿文化センター、東京 
Japanese Contemporary Art in 80's「90年代へのプロローグ」ハイネケンヴィレッジ、東京
第1回「風の芸術展」南溟館、鹿児島
「現代のヒミコたち-新しい造形を求めて」イムズ、福岡
「16人の女性アーティストによる新・造形展」ニッケ・コルトンプラザ、千葉
「Spiral Take Art Collection 1989」スパイラルガーデン、東京
1990 「A Little Presence Ⅰ」アトリエMIU、神奈川
「MM21ストリート・ギャラリー」みなとみらい21地区、神奈川
1991 「神奈川アートアニュアル'91」神奈川県民ホールギャラリー
1992 「A Little PresenceⅡ-立ちあがるかたち」お茶の水画廊、東京
「九州現代彫刻展'92in みぞべ」鹿児島空港及びその周辺
「Heart E アートTシャツ展」ダズゲニー・デザインオフィス、東京
1993 「アートライブ'93」鹿児島市立美術館
1994 「アートライブ'94」鹿児島市立美術館
「最も気持ちよい”色”と”形”のためのフレーム展-making Folklore」スペース・リンク、東京
1995 「アートライブ'95」鹿児島市立美術館
「ハーモニーウィーク-女性たちのアートスペース」旧鹿児島地方気象台
第4回「風の芸術展-まくらざきビエンナーレ」南溟館、鹿児島
第16回「インパクトアートフェスティバル'95、京都市美術館、京都
1996 「アートライブ'96」鹿児島市立美術館
1997 「早春の会」アートギャラリー閑々居、東京
「メッセージ'97」都城市立美術館、宮崎
2000 第1回「ボックス美術館ストリート展」SK画廊他、杉並区界隈、東京
「メビウスの卵展2000」千曲川ハイウェイミュージアム他、長野
2001 「Reflection 13-とうきょう21展」ギャラリー・サカ、東京
「Buzz Club - News from Japan」P.S.1 コンテンポラリー・アートセンター、ニューヨーク、アメリカ
「メビウスの卵展」O美術館、東京、他
「Box美術館ストリート展」杉並区役所他、杉並区界隈、東京
「箱イリ美術」刈谷市美術館、愛知
「アート!新スタイル-かごしまの作家-かかわりの世界観」鹿児島市立美術館 
2003 「メビウスの卵展」せんだいメディアテーク、宮城
2004 グループ展、シテ・インターナショナル・デ・ザール、パリ、フランス
「造形作家たちの週末」パリ4区役所、パリ、フランス
2005 多摩美術大学校友会「小品展2005」文房堂ギャラリー、東京
2006 多摩美術大学校友会「小品展2006」文房堂ギャラリー、東京
2007 多摩美術大学校友会「小品展2007」文房堂ギャラリー、東京
2008 「Tama Vivant Ⅱ-イメージの種子」 多摩美術大学八王子キャンパス、東京
「Tama Vivant Ⅱ-イメージの種子」みなとみらい駅地下3階コンコース、神奈川
アート農園「表層の冒険者たち2008 パート1」ギャラリーいしだ、東京
觀海庵落成記念コレクション展「まなざしはときをこえて」ハラミュージアムアーク、群馬
2009 アート農園「表層の冒険者たち2008」エキジビット・ライブ・アンド・モリス画廊、東京
「THE LIBRARY」 静岡アートギャラリー、静岡

コンサート・インスタレーション
2007 IIDA音楽と美術シリーズ-サロンコンサート、ハシモトハウス、茨城
2008 「より深く より心豊かに」浴風園多目的コミュニティホール、東京 (創る:内倉ひとみ、歌う:渡辺早織、語る:金山秋男)
「イザナギあるいはオルフォイス-動きと空間のためのパフォーマンス」 早稲田大学小野記念講堂、東京(レクチャー:クリスチーネ・イヴァノヴィッチ、作曲・打楽器:久保摩耶子、 ハープ:平野花子、舞:中川真澄、インスタレーション:内倉ひとみ)
2009 「イザナギあるいはオルフォイス-音を見る・絵を聞く-久保摩耶子の音楽をとおして」クルトゥワハウス ミッテ、ベルリン、ドイツ (作曲・打楽器:久保摩耶子 ハープ:カタリナ ハンステッド ダンス:カセキ ユウコ インスタレーション:内倉ひとみ)

ワークショップ
1985 「素材との出会い展-紙と造形」Part1、こどもの城造形スタジオ、東京
2005 「ペヌエル?光の探検隊」烏山聖マリア幼稚園、栃木
2006 「みんなあつまれ!県美の夏祭り お化け屋敷」栃木県立美術館
第15回「わたしの企画、応援します!」アートワンダーランド、カスミつくばセンター、茨城

パブリックコレクション
都城市立美術館
霧島アートの森
原美術館
ワコールアートセンター

2010年6月10日木曜日

レビュー|勝又豊子「surface―」

展覧会名|勝又豊子「surface」
会期|2010年4月12日(月)~24日(土)
会場|ギャラリー現

執筆者|宮田 徹也

会場に入ると中央に黒い鉄で造られた四つの平台が置かれている。その長方形が隙間なく並べられることによって、人体ほどの正方形を作る。成人が直立して肘を曲げ無理なく掌を置ける高さだ。中には白い紙にピンクの極細ペンで描かれたドローイングが隅から隅まで渦巻いている。四枚は連続しているように見えるが連なってはいない。筆力も速度も一定に保たれた線は、この黒い箱の中で沈黙している。

左を見ると、一枚あたり50×80cm程の両手で抱えられるほどの写真が、4×2枚で横長の長方形を形成している。サイズ上での平台との関わりは薄い。平台の表面に映り込む効果もない。黒いフレームに囲まれた写真はそれぞれ、シャッターが閉まり、外光が零れない窓に囲まれた暗い倉庫の前で、人体または人体の影が一人、佇んでいる状況を描いている。

視線を右の壁にずらしていくと、膝より若干下の高さに、掌サイズの小さなモニターの中で一つの瞳が瞬きを繰り返す。

更に視線を右に向けると、奥まった壁面の顔と同じ高さに、片手で持てる大きさの30×50cm程の、写真が展示されている。黒いフレームに囲まれ、その右辺下部に、滞ったオレンジの液体が入っている試験管が設置されている。人体の後頭部の写真を見詰め続けると、正面を向いた顔の写真が浮かび上がる。即ち、二重写しになっている。

この作品から視線を右に移すと、50×30cm程の、皮膚の写真が展示されている。同じく黒いフレームに囲まれ、同位置に白乳の液体が入る試験管が設置されている。

勝又豊子(1949~)によるとこの5つの作品がsurfaceを成し、ピンクに見える極細ペンの色は赤であり、血とか、体のなかの色を象徴しているという。

この空間に身を置くと、「見る/見られる」、「内部/外部」、「皮膚/内臓」、「肉体/精神」「現実/幻想」「作品/鑑賞」といった、二項対立を全く感じない。かといって、いわゆる「インスタレーション」という、空間を異化する作品であるとも言えない。その原理を更に推し進めた「サイト・スペシフィック」でないことも前提となる。それはそれぞれの作品のサイズと位置に、厳密な約束事を感じないからだ。

するとこの作品群をどのように解釈すべきだろうかという問題よりも、個々の作品が本当にペンで描かれたものなのか、写真で撮られたものなのかといった根源的な疑問が生まれてくる。

勝又の作品は「鉄という素材と人体とを原理的に峻別し、むしろ両者の対比を意図する」(谷川渥(『勝又豊子作品集』1、スタジオK、2003年))、「「自然と女性」の概念的な関係性を表出」(コレット・チャタパァタイ(同))、「私と同時に他者の身体のひろがりの直感」(高木修(同))、「彼女が身体とは正反対のような素材を用いてきたのは、人の身体の直接性や生なましさにある種の枠をはめるためだった」(千葉成夫(同))という観点で評価されてきた。

ここにある眼差しは「人体と鉄」といった二項対立と、写真を「皮膚を撮る為の手段」という認識だ。それを「触視的(谷川渥(同))」、「体感」(千葉成夫(同))、「眼で触れる」(平野到(同))といった観点で考察する。

私はこのような認識をSurface=表面、うわべと解釈する。皮膚の写真を皮膚の写真と見ないこと、鉄を鉄と見ないこと、紙のドローイングを紙のドローイングと見ないこと、このような視点を課して、もう一度作品と向き合ってみる。

ドローングに行為の痕跡は残されていない。写真の人体は認識できない。小さな瞳は何も見ていない。人体の頭部は前後二重写しであるからこそ、どちらでもない。皮膚の写真に、生命感が宿っていない。両作品の試験管に入っているものは物質である。するとここには、人間がいないことになる。

我々は人間が写っているにも関わらず、人間のいない空間で、人間を「探そう」としている。

それでも勝又は人間を描こうとしている。その査証となるのは、人間が死滅した世界、物質化された人体、文明/科学批判、思想運動、人間の営みを忌み嫌う要素が全く見られないためだ。

つまりここには人間が溢れていることになる。それを探そうとすればするほど見つからない。ではどのようにすれば人間を感じられるのか、その人間とはどのような人間なのか。

それは単純に、美術史にある「視覚論」を拭い去ればいいだけの話だ。遠くに人がいる、後ろに人がいる、あの建物に人がいると意識もせずに感じ取ることは日常の中でのありきたりの出来事である。それがどのような人格を持ち、どのように自己に関わっていたのか、いるのか、くるのかなど、その時々に考えることがあるだろうか。すれば「触覚」や「動作」なども必要なくなる。

私たちは人間に囲まれて生きている。それに歴史性があろうと、秘められた物語があろうと、権力者にコントロールされようと、そこから逃れることができない。そのような単純なことを、勝又の作品が教えてくれるのではないだろうか。

この世界でどのように生きるのか。それこそそれは見る者に託されている。あらゆる美術作品が発する問いと同じく。


Fig.1 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子


Fig.2 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子


Fig.3 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子


Fig.4 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:宮田絢子


Fig.5 勝又豊子「surface」(ギャラリー現)展示風景 撮影:勝又豊子

*2010年6月24日改訂